<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


No.40336の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~ 【第三部】[月桂](2014/08/15 00:02)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(二)[月桂](2014/08/15 23:44)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(三)[月桂](2014/08/21 22:47)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(四)[月桂](2014/08/25 23:54)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(一)[月桂](2014/09/03 21:36)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(二)[月桂](2014/09/06 22:10)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(三)[月桂](2014/09/11 20:07)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(四)[月桂](2014/09/16 22:28)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(一)[月桂](2014/09/19 20:57)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(二)[月桂](2014/09/23 20:30)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(三)[月桂](2014/09/28 17:53)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(四)[月桂](2014/10/04 22:49)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2014/10/12 02:27)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(五) [月桂](2014/10/12 02:23)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(六)[月桂](2014/10/17 02:32)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(七)[月桂](2014/10/17 02:31)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(八)[月桂](2014/10/20 22:30)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2014/10/23 23:40)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(一)[月桂](2018/06/22 18:29)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(二)[月桂](2018/07/04 18:40)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/09/16 22:28

 昼夜兼行した三雲賢春が、上杉主従が幽閉されていた廃寺までたどり着いたのは夜が明けて間もない頃であった。
 早朝の澄んだ空気の中、朝日に照らされて青々と映える山並みは、人界の騒擾など知らぬといいたげな森厳さに満ちている。聞こえてくるのは野鳥の声と、朝風にそよぐ草木の音。時折、落ち葉が小さな音をたてるのは小動物がその上を駆け抜けたせいだろう。
 穏やかな光景だった。
 何の目的もない旅路であれば、賢春は気楽な散策を楽しんだかもしれない。蒲生家に降りかかる危難を思い、気の休まる暇のなかった賢春にとって、山林の爽やかな空気は一服の清涼剤となりえたから。
 むろん、実際には鶴姫から託された任務の途中であるため、のんびり散策している時間はない。人の形をした猛威に晒されている今は、なおのことそうであった。




 木々の狭間から降り注ぐ陽光が、迫り来る刀身に反射して賢春の視界を眩く染める。
 すでに小刀を抜き放っていた賢春はこれを受け流そうと動きかけたが、寸前、うなじのあたりに灼かれるような熱を感じ、ほとんど反射的にその場から飛びすさった。
 直後、眼前を通り過ぎた袈裟懸けの斬撃を目の当たりにして、賢春は自分が髪の毛一筋もないわずかな差で死の顎を逃れたことを悟る。先の一刀など比較にもならぬ、速く、鋭い剛撃。うかつに刃をあわせていれば、砕かれるか、弾かれるか、いずれにせよ一刀の下に斬り落とされていたに違いない。
 目の前にいる女性――丸目長恵と名乗った人物の、おそらくは本気の一太刀であった。


 会心の一刀をかわされた長恵であったが、そのまま体勢を崩すような無様を晒すことはない。それどころか、その剣先は魔法のように翻り、再度賢春に向けて襲いかかってきた。
 逆袈裟の返し刃を、賢春は今度も避ける。
 並の相手なら小刀ひとつでいかようにもいなせる自信がある賢春だが、この相手にその戦い方は通じないだろう。
 彼我の力量の差をさしているのではない。「いなす」などという中途半端な対応をとれば、相手の気迫に遅れをとってしまう、という意味である。
 戦うにせよ、退くにせよ、それこそ全身全霊を傾ける覚悟で行わねば、この相手とまともにやりあうことはできない。それが賢春の判断だった。


 先の言動から察するに、おそらく長恵は上杉家の家臣か、それに近しい者だろう。少なくとも三雲成持や六角義治の息がかかった者ではない。
 賢春の側には相手と話し合う余地が残っている。しかし、相手にその気がないことは今の攻撃で十二分に理解させられた。話を聞かせろという物言いであったが、どうみても本気で斬りにきている。
 人を斬りたいがために目的を忘れる人物なのか。
 それとも、本気でかからねば賢春を取り押さえることはできないと判断してのことなのか。
 賢春にも忍びとしての矜持がある。先の短いやりとりで自分の実力を見透かされたとは思いたくないのだが……



 そうしている間にも、三度、斬撃が賢春を襲う。
 今度はかわしきれなかった。相手の剣先に捉えられた髪が一房、宙を舞う。山裾を吹き降ろす朝風が己の髪を微塵に散らした瞬間、賢春の意識がすっと冷えた。
 ――変化といえば、ただそれだけ。外面は一瞬前の賢春と何一つかわらない。
 それでも長恵が何かを感じ取るには十分であったらしい。
 前に、前にと出ていた長恵の足がぴたりと止まり、反対に賢春の足がはじめて前に出る。


 賢春が握っている小刀は長恵の刀と比べて刀身が短く、そのぶん切れ味も劣る。この小刀で相手の死命を制しようとするならば、長恵よりも深く踏み込み、長恵よりも鋭く刀を振り抜かなければならない。
 狭い室内の戦いでもないかぎり賢春の不利は明白であった。そして、ここは山の中。木立を利して立ち回ることは可能だが、そのためには一度相手と距離を置かねばならない。長恵の踏み込みの速さ、鋭さはさきほど目の当たりにしたばかり。安易に後退すれば、その瞬間、ばっさりと斬り落とされることは明白であった。
 ゆえに、賢春は前に出た。
 流れるような連撃の狭間、長恵の呼気が途切れるその瞬間をねらって。


 力強い踏み込みの音はしなかった。その必要もなく、賢春の細い身体は長恵の懐深くにはいりこんでいる。
 唸りをあげて刃が振るわれたわけではなかった。その必要もなく、賢春の小刀は長恵の喉を切り裂くことができる。
 長恵の斬撃が烈風ならば、賢春のそれは微風に等しく、その攻撃に特徴があるとすれば、そらおそろしいまでに正確であったこと。あまりに正確すぎて、長恵はぱっくりと喉を切り裂かれた数瞬後の自分の姿を幻視した。


 刀を戻している時間はない、そう判断した長恵は先刻の賢春と同じように後方へ飛びすさる。が、一度接近した有利を簡単に手放すほど賢春も甘くなかった。というより、ここで再び距離を置かれては元の木阿弥である。長恵ほどの手練相手に距離を詰められる機会はそうそう来ない。冷徹な斬撃を繰り出しながら、賢春も必死であったのだ。
 後から思えば、相手の後退にあわせて自分も退いて距離をとり、木立に隠れて仕切りなおすという手段もあった。いちど身を隠した後、相手にこちらの事情を説明することもできただろう。
 しかし、この時の賢春は忍びとして眼前の脅威の排除を最優先に考えていた。そうしなければ、たちまち相手に斬り倒されてしまう。そのことが嫌というほど理解できていたからである。



 朝靄けぶる山中に、刀身と刀身がぶつかりあう鈍い金属音が木霊する。
 するすると、蛇のように喉もとに迫る刃を長恵が弾き返した音だ。しかし、無理な体勢で繰り出した刃は賢春の攻勢を止めるには至らず、短い刀身が再び長恵を襲う。
 激しさなどない、いっそ穏やかと表現したくなるような柔の斬撃。しかし、その一つ一つは確実に長恵の急所を狙っており、長恵は攻めよりも守りに注力することを余儀なくされる。
 相手の攻撃の合間に反撃を繰り出してはいるものの、距離を狭められた今、長い刀はかえって威力を発揮できない。しばしの間、あたりには剣戟の音と二人の短い呼気、そして先ほどよりも激しさを増した足捌きの音だけが響いていた。




 根くらべの様相を呈しはじめたかに思われるせめぎ合い、はじめに焦れたのは長恵の方であった。
 斬れども斬れども一向に当たらず、払えども払えども戯れるようにまとわりついてくる相手の戦い方は、長恵を心底うんざりさせていたのだ。
 まるで霞(かすみ)を相手にしているようで、これほどなよなよとした(と長恵は感じた)攻撃ははじめてだが、この手の戦い方をする相手には覚えがある。
「これだから忍びは好きになれません!」
 相手の攻撃がかつてないほど間近に迫る。長恵はほんのわずかに首を傾け、相手に空を斬らせた。刀身と皮膚の間には薄紙一枚も入らなかっただろう、それほど危険な見切りであった。
 長恵の右の前髪が一房、ばっさりと切り落とされる。委細かまわず長恵は一喝と共に反撃を繰り出した。得意の袈裟斬りではなく、上半身をひねるようにして右から左へ振るった、横一文字のなぎ払い。
 決着を狙ったというより、まとわりつく相手を引き剥がすための一刀であった。


 この長恵の狙いは功を奏する。
 よけきれないと判断した賢春はやむなく後方へ下がり、両者は再び距離を置いて向かい合った。
 無言で対峙する二人。遠くから聞こえてくる野鳥の声を間奏として、両者は再度の激突に備えて得物を構える。
 先に動こうとしたのは長恵であった。距離を置けば、有利になるのは長い得物を持つ方である。それでなくとも忍び相手に時間と余裕を与えれば何をしてくるかわかったものではない。
 一方、賢春は賢春で長恵に対して似たようなことを感じており、相手に主導権を与えてはならじと、こちらも前に進み出る。




 そうして、二人がそれぞれに押し出ようとした、その時だった。
「双方、そこまで」
 低く静かな声音が二人の動きを縫いとめる。声の主は二人が対峙しているすぐ近く、木立の合間から姿を見せた。
 長恵と同様、刀を腰に差したその女性は、腰まで届く長い黒髪の持ち主だった。激しい動きをした際、髪が乱れるのを嫌ってか、髪の先端を白絹で簡単に束ねている。
 その姿を見た長恵の顔に「あら」という表情が浮かびあがった。
 対する賢春は表情こそ動かさなかったものの、内心では驚きを隠せずにいた。先に長恵の気配に気づかなかった時、二人の間にはそれなりに距離が開いていた。しかし、この相手は長恵の時よりもずっと近い場所にあらわれた。
 一足一刀の間合いとまではいかないが、長恵の初撃を鑑みれば、相手にとってそれに近い距離だろうと推測できる。


 その推測は戦慄を伴って賢春の胸に響いた。
 長恵との戦闘に意識を傾けていたのは確かだが、武器を持った相手にこれほど近づかれるとは不覚以外の何物でもない。
 しかも、長恵の表情を見るかぎり、どうやら向こうの新手であるらしい。長恵一人の相手さえ難儀している状況で、長恵と同じか、それ以上の力量の持ち主を相手にするのは、いかに賢春でも不可能であった。
 自分に出来ることと出来ないことを徹底的に峻別することは、忍びにとって最低限の心得である。
 ここは逃げる以外にない、と賢春は即断した。


 が、新たにあらわれた女性は、ここでも賢春の機先を制した。
「逃げようとすれば斬ります」
 気負いのない言葉は、それを可能とする確かな実力に裏打ちされたものだった。相手の視線、構えから否応なしにそのことを悟らされた賢春は、一瞬の半分にも満たない葛藤の末、小刀の構えを解く。
 諦めたわけではない。向こうの目的が賢春の命にあるのなら、有無を云わせず斬りかかって来るだけで良い。そうしないということは、話を訊きたいという意思のあらわれだろう。それは賢春にとっても望むところであった。


 そんな賢春の挙動を見た長恵は、こちらはまだ警戒を残しつつも、かすかに肩の力を抜いて息を吐く。そして、少しばかり不服げに口を開いた。
「お師様、美味しいところだけを持っていくのはいただけません」
「たやすい相手ではないことは、あなたの方が良くわかっているでしょう、長恵。血気に逸る今のあなたでは返り討ちにあっても不思議ではない。見物しているわけにはいかなかったのです」
 思いのほか厳しい語調で返され、長恵は虚をつかれた様子で口を噤んだ。
「……血気に逸っていた、でしょうか? そんなつもりはなかったのですが」
「筑前どのに重任を託され、勇んで来てみれば目的の方は行方知れず。このままでは何の顔(かんばせ)あって筑前どののもとへ帰れようか――そう考えているのではありませんか」
「むぐ……」



 何やら言葉を交し合う二人の様子を、賢春は興味深げに観察する。
 今の短い会話で分かることなどたかが知れているが、この状況ではわずかでもいいので情報が欲しい。
 新たに現れた女性と長恵が師弟の関係にあること。
 長恵が好戦的に見えた理由のひとつは、主命を果たせない焦りにあったらしいこと。
 その主命はおそらく上杉家主従の解放であること。
 長恵にその命令を下したのが「筑前どの」と呼ばれる人物であること。
 そういったことを賢春は脳裏に刻んでいく。
 上杉謙信、丸目長恵、筑前どの、そしておそらくは長恵以上の腕前を持つ、剣聖級の女性剣士。
 鍵となる言葉を連ねていった賢春は、奇妙にひっかかるものを覚えた。


 江南の地で生まれ育った賢春であるが、鶴姫の腹心として諸国の動静には常に気を配っている。
 当然、上杉謙信の名は知っていた。丸目長恵という名も、あらためて記憶をさぐってみれば思い至るのはそう難しいことではない。
 もし、今しがた刃を交えた人物が本当にあの丸目長恵であるなら、その師にあたる人物も賢春は知っている。
 であれば、筑前どのというのは――


 賢春の思考を中断させたのは、件の女性の名乗りであった。
「遅ればせながら。私は越後上杉家家臣 上泉秀綱といいます。我が主君と朋輩が六角家の虜囚となりしことを聞きつけ、この地に馳せつけた次第。不躾で申し訳ないが、あなたの知る限りのことを話していただきたい」
 そういって賢春の目をじっと見つめる秀綱に、賢春を威迫する意図は感じられない。それでも賢春は、相手の眼差しを真っ向から受け止めるために全身の力を振り絞らなければならなかった。
 長恵を諌めた秀綱が、その実、長恵と同じ程度に焦慮をおぼえていることを賢春は悟る。


 焦りは隙になる。それはどんな剣術の達人であれ変わらない。
 付け入るべきだ、という考えは当然のように思い浮かんだ。話をするにしても、主導権を相手に握られている状態と、そうでない状態ではその後の両者の関係に少なからぬ影響を及ぼす。
 鶴姫が上杉主従を助けるのは蒲生家を江南の雄たらしめるためであって、上杉家に臣従したいわけではない。賢春が不覚を晒せば、上杉主従は蒲生家を低く見るようになるかもしれない。蒲生家が上杉家の頤使に甘んじるつもりだ、などと勘違いされるわけにはいかないのである。


 そう思う一方で、賢春の中には異なる考えも存在した。ここで自分が相手の隙に乗じるようなまねをすれば、それはそれで両家の関係に禍根を残すことになるかもしれない、と。
 侮らず、侮られず、というのは存外難しい。
 そんなことを頭の隅で考えつつ、賢春はゆっくりと口を開いた。




◆◆◆




 南近江 観音寺城


 六角家の先代当主 義賢は、嫡子の義治に家督を譲った際、剃髪して承禎と号した。
 承禎は三好家との争いでは政戦両面にわたって押され気味であったが、都を追放された足利義輝の帰京を成功させるなど功績も多い。弓馬の達人でもあり、それぞれに一流を継ぎ、あるいは興すほどの技量を有していた。
 浅井家との間で起きた野良田の戦いで敗れた後、衰えつつある家運の挽回を義治に託して身を退いたが、楽隠居を決め込めるほど江南の情勢は穏やかではなく、特に義治が重臣である後藤賢豊、進藤賢盛の両者を討ってからというもの、承禎の眉間に刻まれた深いしわが消えることはなかった。


「三好が瀬田の橋を渡ったか。厄介なことになったのう、義治」
 禿頭の赤ら顔を渋面で歪めた承禎が重い声を発した。その視線は向かい合う息子の目をしっかと見据えている。
「どうするつもりだ、これから?」
 応じる義治の顔には奇妙な落ち着きがあった。
「確かに理想的な展開とは申せませぬ。したが父上、こたびの瀬田の敗戦、それほど気にかける必要はありますまい」


 承禎は眉をひそめた。
「どういうことか。七千の軍が、わずか三千の敵に打ち破られた。瀬田城も落とされ、敵はなおも領内深く攻め入ろうとしておる。これに手立てなしでは済まされぬぞ」
「瀬田で敗れた兵の大半は両藤のともがら。表では六角家に忠義を誓っていても、裏にまわれば自家の利益しか考えない者どもです。彼奴らが幾百、幾千討たれようと、我が家にとっては痛くもかゆくもございません」
 その言葉を聞き、承禎は深いため息を吐いた。
「国人衆が自家の利益を第一とするのは当然のこと。それをわきまえた上で利を、あるいは理を示して彼らを巧みに使いこなす。それこそ当主の役割ではないのか」
「父上、率直に申し上げますが、お古い。そのように生温い手法で、生き馬の目を抜く乱世にどうして家を保てましょうや。隣国の京極、土岐の末路を想起してくださいますよう」


 江北の京極家、美濃の土岐家、いずれも下層から隆起した勢力に取って代わられた家である。
 彼らの轍を踏まないためにも、有力な国人衆は早めに潰しておかねばならない。自らの手で――時には敵の手を使ってでも。
 その義治の考えに理がないわけではない、と承禎は思う。承禎とて意にそわない国人衆を取り潰した経験はあるのだ。ゆえに息子の考えを全否定するつもりはないが、それをふまえても義治の手法は性急にすぎる。
 承禎としては危惧を口に出さざるをえなかった。


「自らに従う家のみを残し、他を切り捨てるか。したが、切り捨てられた者たちは地に溶けて消えるわけではないぞ。彼らは主家に切り捨てられたとわかれば、三好なり浅井なりについて反攻してくるであろう。求めて敵をつくることの愚かさ、理解できぬそなたではあるまいが」
「だからといって、いつまでも家臣どもの機嫌をとっていては、どのみち六角家は行き詰まります」
 そこまでいって義治は立ち上がった。このまま父と言葉を交わしていても堂々巡りになるだけで、なんら建設的な答えは出てこない。そう判断したのである。


「待て、義治。まだ話は終わっておらん」
「父上、すでに賽は投げられたのです。繰り言を重ねても時は戻りますまい。それに――」
「それに、なんじゃ?」
「このような時だからこそ、敵味方の区別がつきやすくもあるのです。先日、日野の蒲生が嫡子を人質に寄越して参りました。それを聞きつけて、三雲と山中も人質を差し出してきたのです。その他にも同様の動きを見せている者は少なくありません。それがしは彼らを束ね、新しい、強い六角家をつくりあげましょうぞ。どうか安堵なさって、それがしの進む様をご覧くださいますよう」
 そう云うと、義治は父の返答を待たずに一礼して踵を返す、
 承禎は口を開きかけたが、何を云うべきかがわからず、結局、無言で息子の背を見送るしかなかった。






 自室へ戻る途中、義治は小声で呟く。
「――いちいち父上をなだめるのは手間だが、私が父上を無視して事を進めていると思われるのも厄介だからな。誰ぞ父上によからぬ言を吐く者が出てくる恐れもある。面倒でも続けていくしかないだろう」
 そういって自分を納得させる義治の顔には、わずかながら「貴重な時間を浪費した」という焦りが見てとれた。
 現在の義治は、承禎と相対していた時に装っていたほど余裕に満ちているわけではない。
 計算外の最たるものは三好家の侵攻であった。


 三好家からの共闘の申し出に応じたとはいえ、義治はこの相手と永遠の友誼を望んでいたわけではない。すでに義治自身が向こうの出した条件を無視し、上杉主従を密かに討つべく動いているのだから、早晩、関係が破綻することは目に見えていた。
 手切れは避けられぬし、避けようとも思わない。義治は六角家にとって都合が良い機を見計らって三好家と断交しようと考えていたのである。
 逆にいえば、家中がある程度の落ち着きを取り戻すまでは三好家との繋がりを保ちたい、と考えていたことになる。
 まさか共闘を申し出てきた相手がここまで素早く手のひらを返すとは、さすがに義治も予測できなかった。


 共闘の申し出はこちらを油断させる策略であったのか。
 あるいは、義治の側に共闘するつもりなどないことを見抜かれ、方針を転換させたのかもしれない。
 いずれにせよ義治がこけにされたことは疑いなく、はらわたが煮えくり返る思いであった。
 承禎に言明したように、瀬田に布陣していた軍勢は義治にとって失って惜しいものではなかったが、敗戦の影響は無視できるものではない。六角軍が半数の敵に破られた事実は瞬く間に広がるであろうし、それを聞いた者たちは大きく心を揺らすだろう。本来であれば義治に従っていた者でさえ敵方にはしってしまうかもしれない。はじめから義治に敵意を抱いている者であればなおのこと、六角義治怖れるに足らずとの印象を深め、より活発に動き出すに違いなかった。



 この流れをせき止める最良の策は、義治が侵攻してきた三好軍を打ち破ることであろう。瀬田城を落とした三好軍が青地城に向かったという報告はすでに届いている。
 そうしてやろうか、と義治の若い血が騒いだことは事実である。今の段階で観音寺城を空ければ、本拠地を敵に渡すことになりかねないが、たとえそうなったとしても義治には報復の手だてが残っている。
 南に逃れ、甲賀の山川に隠れ潜んで反攻の機をうかがうのだ。これは窮地にたった六角家の当主にとって切り札ともいえる策であった。


 しかし、義治はすぐにこの考えを振り払う。何も初手から切り札覚悟で出陣する必要はない。
 それに甲賀の諸勢力は必ずしも一心同体というわけではない。三雲家や山中家、望月家のように義治に近しい家がある一方で、疎遠な家も当然ある。先に約定を反故にした和田家などは敵意さえ抱いているだろう。
 いざとなれば父を担いでなだめれば済む話だが、それは本当に最後の手段である。今は彼らに頼ることなく事態を切り抜ける道を模索するべきだった。




 そうやって義治が事態の対応に腐心していたとき、あらわれたのが蒲生家の鶴姫である。
 この蒲生家の対応は義治を喜ばせた。
 蒲生賢秀の妻は観音寺騒動において命を失った後藤賢豊の妹である。その蒲生賢秀が十になったばかりのわが子を義治に差し出した事実は、復仇にわきたつ後藤家の家臣たちに冷水を浴びせるだろう。
 さらに、様子見をしている他家の当主たちにも少なからぬ影響を及ぼすはずだ。もちろん、義治にとって望ましい方向に、である。


 当然、賢秀はそれらを承知した上で嫡子を差し出してきたのだろう。その証拠に鶴姫は幾つかの要望を携えていた。
 上機嫌の義治は鶴姫を丁重に扱うよう家臣たちに命じ、蒲生家が申し出てきた案件の多くに諾を与えた。ただひとつ、「混乱をこれ以上長引かせないために両藤の名跡が立ち行くようとりはからっていただきたい」という願いには即答を与えなかったが、義治の許可が出る前に兵を出した蒲生定秀の行いに目を瞑る程度は何でもないことであった。




「――殿」
「どうした?」
 側近に声をかけられ、義治は我に返った。
 気がつけば、すでに自分の部屋の前にいた。側近は義治が承禎のもとから戻るのを待っていたらしい。
「蒲生家の鶴姫より、願いの儀があるとのことで……」
「ああ、青地城への援兵の件か。健気なことだな」
 さして深い意味もなく――ということはつまり、言葉どおりの意味で義治はそう云った。
 敵の猛攻に晒されているのは実の叔父。その叔父を救うべく、祖父がわずかな手勢を率いて向かったとなれば、鶴姫もじっとしてはいられまい。観音寺城に来てからというもの、訴えは毎日のように為されていた。


「すでに周辺の諸城には青地救援を命じる使者を出したと云ったのだがな。まだ納得できない様子か?」
 実のところ、これは偽りである。対三好戦における義治の戦略は、敵軍を領内深く引きこんで消耗を強い、観音寺近くの野戦で一気にしとめるというもの。道々の城砦は敵の兵力をすり減らす捨て駒としてみている。青地城のみを例外にする気はなかった。


 そんな義治の戦略を読んだわけでもないだろうが、鶴姫は援兵派遣を願ってやまないのである。
 義治の問いに、側近がやや困惑した顔でうなずいた。
「は。願わくば殿じきじきのご出陣を、と涙ながらに訴えておられます」
「蒲生の鶴といえば、賢豊などは鳳の雛と絶賛していたが、やはりまだまだ童よな。今、私が観音寺を離れるわけにはいかないことなど察しようもないか」
 しかたないことだがな、と義治は肩をすくめた。
 その声に苛立ちはなく、むしろ、わずかながら申し訳なさのようなものが感じられ、側近は驚いたように目を瞠る。
 観音寺騒動以降、とみに攻撃的な言動が目立つ義治であったが、さすがに十歳児に対して苛立ちをぶつけるほど思慮を失ってはいない。蒲生家に救われた、という思いもあるのだろうが、鶴姫に対する義治の態度は優しく穏やかなものであった。




 一方、側近の方は今回の蒲生家の動きに引っかかるものを覚えていた。
「……しかし、殿。蒲生家の思惑が少々気にかかります」
「蒲生の思惑?」
「はい」
 怪訝そうに眉根を寄せた義治に対し、側近は声をひそめて先を続けた。
「蒲生賢秀どのは殿に人質を差し出す一方、両藤を存続させるためのとりなしも行っております。これはこたびの一件がどのように転がろうと、結果として蒲生家の発言力が高まるように、との思慮にもとづいた行動でございましょう。三好の侵攻に際しても、殿の許しを得るより先に兵を動かしております。これから先、蒲生家はまことに殿のお指図に従う気があるのでしょうか? 賢秀どのは賢豊の義理の弟、あるいはこたびの混乱を奇貨として両藤にとってかわる心算があるのではないか、と案じられてなりません」
「ふむ」
 義治はかすかに目を細めて側近を見やり、しかる後に考え込む。


 側近の言葉は確たる証拠があっての疑念ではない。そういう考え方もある、という程度のもので、義治にとっては新鮮味の感じられない提言であった。
 ただその言葉を聞いている最中、義治の脳裏をよぎったのは先ほど承禎が口にした言葉である。
『国人衆が自家の利益を第一とするのは当然のこと』
 確かに、義理の兄を殺されたにしては蒲生賢秀の反応は従順すぎる。賢秀の実直な為人は義治も知っており、だからこそ当面の間は与力にしようと考えていたのだが、賢秀とて乱世に一家をあずかる当主である。甘いだけの人物であるはずがない。


 その点、義治が勝とうと、両藤を筆頭とした反義治派が勝とうと、蒲生家が立ち行くように行動しているのではないか、という側近の推測は的を射ているかもしれない。
 だが、それはそれでかまわない、と義治は思う。要は自分が勝てば良い。そうすれば蒲生家は今後とも義治に従うのだから。
 問題なのは、賢秀がそれ以上のものを望んでいた場合である。賢秀が悪心を持っていれば、義治が勝利した途端に蒲生家が牙を剥く、という展開も考えられる。側近の懸念にはこれも含まれているのだろう。



 義治はかぶりを振って側近の懸念を退けた。
「案ずる必要はない」
「しかし――!」
「賢秀が私を上回る権勢を望んでいるなら、兵の消耗を極力おさえようとするはずだ。となれば、青地城の救援も理由をつけてとりやめるだろう。その時は、蒲生の当主が野心のために父と弟を見捨てたと喧伝してやれば良い」
「賢秀どのが城に入ればいかがなさいます?」
「さすれば三好三人衆と派手にかみあい、兵力を大きく損ずるのは必至。事が終わった後、蒲生家を排除するのが楽になるというものだ。いずれに転がっても私の損にはならない」
 蒲生賢秀に悪心があろうがなかろうが、どの道、蒲生家ほどの大家を放ってはおけない。
 いずれ排除する家であり、そのための手だても考えてある。ゆえに、その動向に過度に怯える必要はない。それが義治の考えであった。


「おお、そこまでお考えでしたか。申し訳ございません。愚にもつかぬ懸念でお耳汚しをいたしました」
 側近が感服したように頭を垂れる。
 鷹揚にうなずきながら、義治は側近に釘をさした。
「蒲生への懸念は腹におさめておけよ。いずれ除くべき家ではあるが、それは後日のこと。今は手駒として利用すべきなのだ」
「かしこまりました」




 かしずく部下を見やりながら、義治は小声で呟く。
「……賢秀が娘ともども蒲生家を差し出してくるようなら、また話はかわってくるのだがな」
 今回、鶴姫を観音寺城に差し向けたことにその含みがあるのだとすれば、蒲生家を相応に遇してやってもかまわない。義治はそうも考えていた。
 義治の理想は六角家による領民、領土の直接統治。言葉をかえれば、国人衆を介することのない支配体制の確立である。
 とはいえ、義治ひとりで広大な領地すべてを支配することはかなわないので、手足となる家臣はどうしても必要になる。蒲生家がその手足となることを受け容れるなら、あえて蒲生家を排除する必要はなくなるわけだ。


 なんなら鶴姫を閨房に迎え入れても良い。
 義治は鶴姫と対面した時のことを思い出す。今は無理でも、あと二、三年もすれば子供を生めるようになるだろう。見目かたちも申し分なく、幼いながら礼儀もわきまえていた。
 あるいは、この件を打診すれば蒲生家の本心を確かめることができるかもしれぬ――


 あらぬ方向にそれかけた義治の思考を戻したのは、部下の怪訝そうな声だった。
「殿、何か仰せになりましたか?」
「いや、なんでもない――む?」
 こちらに近づいてくる慌しい足音に気づき、義治の顔に警戒がよぎる。城内の警備は厳重にしてあるが、すべての刺客を防げるわけではない。特に今の義治は、常に暗殺を警戒せねばならない立場であった。


 幸いというべきか、廊下の角から姿を見せたのは曲者ではなく義治の側近であった。
 蒲生家への懸念をもらしたのは望月吉棟(もちづき よしむね)、いま姿を見せた者は山中長俊(やまなか ながとし)という。いずれも甲賀の名門の出で、義治の信頼が厚い。吉棟は主に相談役として、長俊は右筆として、義治に侍ることが多かった。
 息せき切ってあらわれた長俊が、声に緊張を込めて報告した。
「殿、青地城より急使です! 三好政康率いる敵軍およそ二千、城攻めを開始したとのこと! なお後詰として岩成友通、これもおよそ二千を率いて城への距離を詰めつつあるとのことです」
 予想されていた報告である。しかし瀬田城を落として数日しか経っていない。三好軍の進撃は電光石火と評しうる早さであった。


 義治の口から苦い賛辞がこぼれおちる。
「さすが、というべきか。敵勢はあわせて四千。瀬田を渡る以前、三好は三千ほどだったはずだが……新たに兵を募ったにしても多い。城を空にして出てきたのか?」
 独り言じみた主君の呟きに、長俊は律儀に反応した。
「おそれながら、この状況で三好軍が後背を空にするとは考えにくうございます。唐橋夜戦の後、三人衆のもとへ走った裏切り者もおりますし、都から援兵が参ったやもしれません。少なくとも五百か千ほどは瀬田城に詰めておりましょう」
 長俊の推測を聞いた吉棟が厳しい表情で口を開いた。
「殿、青地城の茂綱どの直属の兵は五百あまり。蒲生定秀どのが間に合ったか否かはわかりませぬが、仮に間に合ったとしても精々六、七百。これでは城を奪われるのは時間の問題かと」
「わかっている。賢秀の部隊が間に合えば城内の兵と挟撃できるが、政康めは援軍が来る前に城を落とすつもりであろう。厳しいな」
 短期間で瀬田城を落とした敵軍の手並みを思えば、青地城が敵の攻勢に耐えられると判断する理由は薄い。


 青地城は失陥するだろう、そう考える義治の表情に狼狽はない。青地城が落ちるのは想定の内にある。
 問題なのは城の陥落よりも、打ち続く敗戦が味方の士気をそいでしまうことであった。
 敵兵をすりつぶすための城砦が敵軍に降ってしまっては元も子もない。観音寺城へ至る道筋にある永原城、長光寺城といった各城の将兵の気を引き締めておかねばなるまい。
(そのためにも、茂綱には粉骨砕身の戦いぶりを期待したいところだな)
 できるだけ多くの敵兵を殺すために。できるだけ多くの時を稼ぐために。
 そんなことを考えながら、六角義治は二人の側近を引き連れて軍議の間へ向かった。




◆◆




「……うう、思ってたよりずいぶん早い。じじ様と青地のおじ様、大丈夫かなあ」
 観音寺城の一室。
 三好軍の動きを知った蒲生鶴は心配そうに呟いた。戦地にある人たちのことを思って柳眉を曇らせる。
 名目上は人質扱いである鶴姫であったが、実際には城内で賓客同然の厚遇を受けている。さすがに自由な行動は許されていないが、鶴姫が望めば大抵のことはかなえられた。
 明るく人懐っこい鶴姫は侍女たちにも好かれており、彼女らはこの幼い姫に不自由を感じさせないよう諸事に気を配ってくれている。それは主君である義治の命令に従ってのことであったが、見る者が見れば、侍女たちの表情の内に命令に拠らない真摯さがあることを見抜いたであろう。


 侍女たちは鶴姫が青地城救援を願っていることを知っている。
 義治や側近たちに援軍を頼み込む姿を何度も目撃しているからだ。まだ幼い少女が、一族を助けるために懸命になっている姿を見れば、誰しも同情を抱かずにはいられない。
 侍女の中には六角家の有力な武将の娘や孫もおり、また城中で噂話を拾うこともある。大小さまざまな情報を集めていけば、すくなくとも観音寺城の六角軍に動く気配がないことを察することはできた。
 むろん、そんなことを面と向かって鶴姫に伝える者はいない。だが、侍女の口が重ければ重いで、その硬質な雰囲気の原因が奈辺になるのか、と考えることで状況を推測することができる。何より、鶴姫にじぃっと見つめられて「本当のことを教えてください」と頼まれれば、大抵の者が迷いながらも口を開いた。



 三好軍の襲来を知った鶴姫は、顔色こそ変えなかったものの不安を覚えずにはいられなかった。
 何かと悪評の多い三好三人衆であるが、三好家が畿内を制する過程において多くの武功をあげた事実に偽りはない。
 その三人衆を相手にした篭城戦である。いかに智勇胆略を備えた鶴姫であっても泰然と構えてはいられない。
 義治たちに青地城への援軍を願い出ていたのは、周囲の同情や共感を誘う演技ではなかった。その成分が皆無であったとはいわないが、真剣に考えた末の本気の行動だったのである。




 幼い鶴姫にとって、最大の弱点は戦を知らぬこと。
 もちろん兵法書の類は暗謡できるほどに目を通している。父や賢春を相手に戦を模した遊戯盤で勝利したこともある。今後、蒲生家がとるべき道を考えたとき、軍略は欠かせぬ要因であったから、それに関する知識も蓄えていた。
 だが、人間と人間が命をかけて殺しあう戦場に足を運んだことがない鶴姫には、本当の意味での『戦』がわからない。今日まで蓄えてきた知識はすべて机上のものか、そうでなければ他者から聞きかじった伝聞に過ぎない。そんな自分が、実際に殺し合いの場に臨む人たちにさかしらに意見を述べていいはずがない――鶴姫はそう考えており、実際、蒲生家の今後の方針に関しては様々に発言したものの、実戦における作戦指揮については父や祖父にすべて任せていた。二人の采配を信じることしか自分にはできない、と鶴姫はわきまえていたのである。


「はやくわたしも元服したいな……」
 いま口にしても詮無いことだとわかっていたが、云わずにいられなかった。
 一度や二度、戦場に行ったからとて、ただちに一人前になれるわけではない。自分の指揮が父たちに優るとうぬぼれているわけでもない。
 それでも、それでも鶴姫は早く元服したかった。そうすれば、蒲生家の嫡子として堂々と戦場に出ることができる。城の奥深くで大勢の家臣に守られながら、ただ戦場に赴いた人たちを心配するのは辛すぎる。
 特に今回のように不利な戦であれば、なおのことそうであった。



 鶴姫は現在の戦況を何度も分析した。
 観音寺の城兵が動く気配はない。
 義治は周辺の国人衆に救援を命じたと云っていたが、観音寺の兵を動かさないということは、おそらく三好軍を領内に引きずり込み、消耗を強いてから決戦を挑むつもりなのだろう。
 であれば、青地城は敵の戦力を消耗させる駒として扱われるに違いない。


 もしこの戦いで定秀や茂綱を失えば、江南はもちろん蒲生家そのものも大きく混乱する。さらに賢秀まで討たれることがあれば、それこそ滅亡の危機に瀕することになりかねない。蒲生家を江南の中心に据えるどころの話ではなかった。
 鶴姫は頭を抱えたい衝動にかられた。
「大言を吐いたつもりはなかったんだけど……ああん、もう! 三好軍が動くのも、お味方が負けるのも早すぎるよ! もうちょっと余裕があると思ってたのにッ」
 室外の侍女に気づかれないよう、声を低めて怒声をあげる、という器用なまねをする鶴姫。
 三好軍が瀬田を狙って動くことは予測していたが、こうもあっさりと突破してくるとは思っていなかった。
 自分が考えていた以上に観音寺騒動は将兵の士気を損ねていたのだろう。そう考えた鶴姫は、やはり今の自分ではどうしても軍事に支障をきたす、と苦く認識した。
 賢春は三雲城に派遣しているから頼れないし、それに彼女は陰働きにこそ長じていたが、武将として戦いに長けているわけではない。こと作戦指揮に関しては大きな力になりえないだろう。
 賢春と同じくらい信頼できて、かつ自分の不備をおぎなってくれるような人物はいないものか。


 ふと、そんなことを考えた鶴姫は、すぐに顔をうつむかせた。
「……いないよね、そんな人」
 賢春と同じくらい信頼できる、というだけで条件としては十分に厳しい。これにくわえて戦場の経験に長け、将兵の機微に通じ、机上の知識でも自分に優る人となると、どこをどう探せば出会えるのか。
 なにより、自分のように十になるやならずの小娘の言葉を真剣に聞いて、命令に従ってくれる人でなければならない――ここまでくると、もう雲を掴む方がよっぽど簡単に思えてくる。


 鶴姫は自分の頬に手をやり、むにっと強くつまんで気合を入れた。
 今はどこにいるかもわからない『誰か』を夢想するよりも、この城で自分にできることを精一杯やるべき時。そして、戦場で戦っている家族の無事を祈る時であった。
 頬をつまんでいた手を胸の前で組みなおした鶴姫は、囁くように祈りを紡ぐ。
「とと様、じじ様、おじ様。どうかご無事でいてください。秀郷卿、御身の子孫に武運を授けたまわんことを……」
 遠い戦場にいる大事な人たちの無事を祈って、鶴姫は静かに、真摯に、祈り続けた。
 身動ぎ一つせずに、ずっと、ずっと。



 ……ちりん、と。
 どこか遠くで鈴が鳴った気がした。
 




◆◆





 同時刻


 青地城の南方に位置する鶏冠山の麓。
 先夜から降り続く雨のせいで、木々も、動物たちも鳴りを潜めている山中を、無言で進み続ける一団の姿があった。
 全身を濡れ鼠にした彼らは、疲労のためだろう、全員がうつむきがちになっている。
 その中のひとり、先頭近くを歩いていた天城颯馬はふと顔をあげた。
 何か――否、『誰か』の声が聞こえた気がしたのだ。
 だが、周囲にいる者たちが口を開いた様子はなく、雲雨で灰色に染まった山の景色にも変化はない。


 気のせいか。
 そう判断した天城はさして気に留める様子もなく再び歩き出す。
 向かう方角は北。
 目的地はもうすぐそこであった。
  


前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.022640943527222