<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


No.40336の一覧
[0] 聖将記 ~戦極姫~ 【第三部】[月桂](2014/08/15 00:02)
[1] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(二)[月桂](2014/08/15 23:44)
[2] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(三)[月桂](2014/08/21 22:47)
[3] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 京嵐(四)[月桂](2014/08/25 23:54)
[4] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(一)[月桂](2014/09/03 21:36)
[5] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(二)[月桂](2014/09/06 22:10)
[6] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(三)[月桂](2014/09/11 20:07)
[7] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 瑞鶴(四)[月桂](2014/09/16 22:28)
[8] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(一)[月桂](2014/09/19 20:57)
[9] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(二)[月桂](2014/09/23 20:30)
[10] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(三)[月桂](2014/09/28 17:53)
[11] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(四)[月桂](2014/10/04 22:49)
[12] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2014/10/12 02:27)
[13] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(五) [月桂](2014/10/12 02:23)
[14] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(六)[月桂](2014/10/17 02:32)
[15] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(七)[月桂](2014/10/17 02:31)
[16] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(八)[月桂](2014/10/20 22:30)
[17] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間[月桂](2014/10/23 23:40)
[18] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(一)[月桂](2018/06/22 18:29)
[19] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 黎明(二)[月桂](2018/07/04 18:40)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[40336] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 雨月(五) 
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/10/12 02:23

 南近江 観音寺城


 夜半、それまですぅすぅと健やかな寝息をたてていた鶴姫は、不意にぱちりと目を開けた。
 その口から囁き声が発される。
「……佐助?」
「はい、姫さま」
 枕元にわだかまる暗闇から聞きなれた声が返ってくる。
 名目はどうあれ、実質的に蒲生家からの人質である鶴姫の部屋には常に見張りの目が光っているのだが、そのことをまったく気にかけていない穏やかな声音であった。


 鶴姫は夜着をただしながら身を起こす。
 再び発された声には、すでに一片の眠気も宿っていなかった。
「あんまり良い報せではないみたいだね?」
「残念ながら。お伝えしなければならないことは二つございます。まず、上杉家は蒲生家の助力を拒みました。自力で三雲家の囲みを破り、いずこかへ離脱したようで、その後の行方は判明しておりません」
 佐助――三雲佐助賢春は、自身の配下が上杉の忍びに一網打尽にされた顛末を語り、不首尾を恥じるように頭を下げた。


「申し訳ございません、姫さま」
「ん、こればっかりは仕方ないよ。佐助には十分な時間も資金も人手もあげられなかったからね。それより、みんなは? 無事だったの?」
「はい。幸いに、とは申し上げたくありませんが、実力に開きがあったことが、かえってよかったようで」
「ああ、手加減されちゃったんだ。それはちょっと、うん、複雑だね……」
 配下が討たれずに済んだのはよかったが、それはつまり「討つまでもない」と相手に判断されたことを意味する。
 賢春にとっては手塩にかけて育ててきた者たちであり、鶴姫にとっては大切な直属の部下である。その彼らが他家の忍びに子供扱いされたとわかれば、胸中がざわついてしまうのは仕方ないことであろう。


 しかし、今はそこに拘泥している場合ではない。
 鶴姫は気持ちを切り替えるように軽く頬を叩いた。
「それで、捕まった人たちから、こちらの意図が向こうに伝わったってこと?」
「はい。どうやらあちらも、私たちが六角家の意向とは異なる動きをしていることはわかっていたらしく、所属と目的を問われたそうです」
 常であれば口にするはずもないが、相手が上杉の忍びとわかれば、あえて口を噤む必要もない。
 こうして上杉家は蒲生家の意図を知るにいたり、その上で蒲生家の忍びを追い放ち、彼ら自身の手で幽閉の身から脱してのけた。上杉家が蒲生家の助力を拒んだ、と賢春が判断した理由はここにあり、これは鶴姫も同感であった。


 鶴姫は難しい顔で考え込む。
「こちらに野心ありって見られちゃったのかな。それとも、私たちを主家と対立させまいとした? 江南に戦火を広げないために――うん、伝え聞く謙信公の為人なら、もしかして」
 推測はできるものの答えは確かめようがない。上杉家一行の真意がどこにあるにせよ、彼女らが虜囚の身から脱することができたのは事実である。
 今はそれで十分、と鶴姫は割り切ることにした。



「それで佐助、もう一つは?」
 はじめに賢春は伝えねばならないことが二つあると云った。一つは上杉家の顛末として、もう一つは何なのか。
 問われた賢春の声が、はじめてかすかな緊張を宿す。
「先に江北、美濃に潜入させていた配下より、彼の地に動きありとの報せが参りました。間もなく国境に織田と浅井の兵が姿を見せるものと思われます」
「……やっぱり来るよねぇ。この好機を見逃すわけないもん」
 鶴姫は力なくうなだれた。
 日野城にいた頃から、鶴姫は遠からず三好、浅井、織田の三家が動くことを予測していた。当然、それぞれの領内に配下を送り込んでいる。彼らの急報が日野城にもたらされ、それを三雲の地から戻った賢春が聞き、賢春によって今鶴姫に伝えられた。それぞれに要した時間を考えると、すでに国境に敵の先手が姿を見せていたとしても不思議ではない。


 鶴姫が決断に要した時間は、砂時計の砂粒が二、三落ちる程度であった。
「逃げよっか」
「はい」
 当主の義治が三好討伐に向かった今、観音寺城に出戦するだけの余力はない。織田、浅井の両軍を前にして、各地の支城が援軍なしでどれだけ保てるかと考えれば心もとないかぎりである。
 観音寺城が敵軍に囲まれてからでは逃げることもままならない。逃げるのならば、敵がまだ姿を見せていない今しかない。


 鶴姫がこの段階で脱出を決心した理由はもう一つある。
 このまま戦況が進めば、六角軍は三好軍と対峙した状況で、背後に織田、浅井の軍勢を迎えることになる。
 この時、義治はどのように動くのか。おそらく観音寺城に戻ろうとする――これは間違いないのだが、問題は相対している三好軍にどのように対処するのか、である。
 まさか全軍がそろって馬首を転じるはずもなく、誰かをしんがりに残すだろう。そのしんがりが蒲生軍になる可能性があるのだ。それもかなり高い確率で。


 彼我の戦力を鑑みれば、これは決して不当な人選とはいえないのだが、ただでさえ青地城の攻防で消耗している蒲生軍が、ここで更なる打撃をうけてしまえば、蒲生家は累卵の危うきに立たされる。鶴姫の望みも水泡に帰すことになる。
 すでにこの戦の『先』を見据えている蒲生一族には、ここで六角義治に殉じる意志はないが、鶴姫が観音寺城にある以上、祖父も父も義治の命令にうなずかざるをえない。父たちの枷になるのを避けるためにも、鶴姫は今のうちに城から脱出しなければならないのである。




 ただ、一度は観音寺城に身をあずけた鶴姫が、その観音寺城から抜け出すということは、蒲生家がこれ以上六角家に従う意思がないことを公然と表明するに等しく、脱出が早すぎても父たちに迷惑をかけてしまうことになる。いや、迷惑で済めば良い方で、最悪、陣中で首を斬られる恐れすらあった。
 早すぎてはならず、遅すぎてもならず。最善の機は、義治が三好軍の前から退却して観音寺城に帰り着くまでの間、ということになろうが、正確にその機をはかることの難しさは言をまたない。
 主の表情に憂いの陰を見て取った賢春は優しい声で告げた。
「父君とご隠居さまには配下を遣わしました。お二方ならば、多少のずれが起きようと柔軟に対処してくださるでしょう」
「ん、そうだね。むしろ、とと様たちの方がやきもきしてるかもね。私がちゃんと逃げ出せるのかって」
 くすりと賢春は微笑んだ。
「そうかもしれません。では、お二方の心痛の源を取り除くためにも、姫さまにはきちんと脱出していただかねばなりませんね」



 国境からの報せが来れば、観音寺城は大きな騒ぎに包まれるだろう。承禎は義治のもとへ急使を差し向けるはずだ。
 そして、報せを受け取った義治はすぐにも兵を返す。
 となれば――


 これから起こるであろう状況を推測した鶴姫は、自分の考えを口にした。
「抜け出すのは殿様への使者が出たすぐ後、かな。問題は、その時に私が佐助についていけるかだね」
 賢春の技量には絶対の信頼をおいている鶴姫であったが、自分自身に関しては甚だこころもとない。
 一方、賢春は静かな自信をもって断言した。
「お任せください。混乱に紛れることに関して忍びの右に出る者はおりません。必ずや姫さまを城の外にお連れいたしましょう」
 と、ここで賢春は悪戯っぽく微笑んだ。
「それに、ですね。云いそびれておりましたが、奇妙な助っ人も連れてきておりますので、万一見つかったとしても心配はいらないと心得ます。どうかお心安く」


 思わぬ賢春の言葉に鶴姫は目を瞬かせた。
「助っ人? 今の私たちに……あ、佐助の知り合い?」
「いえ、知っていたのは名前だけで、三雲の地で出会うまで言葉を交わしたことはおろか、顔を見たこともありませんでした。姫さまもご存知の方だと思います」
「三雲ではじめて会って、私も名前を知ってて、今の私たちを手助けしてくれる人? そ、それは確かに奇妙としか云いようがないと思うけど、誰?」
「では正解への手がかりをひとつ――私、三雲で危うく死にかけました」


 思わず大声を出しかけた鶴姫は、慌てて両手で口許をおさえた。
 そして、できるかぎり小さな声で賢春に云う。
「さらりと怖いこと云わないでよ!? ますますわかんなくなった! いや、すっごく強い人なんだろうなっていうのはわかったけど!」
「では、答えは無事に城を抜け出した時の楽しみとしておきましょう。どうかご準備を怠りなく。国境からの報せが来るのは、それほど先のことではありません」
「う、うん、準備はしておくけど、佐助、絶対にもったいぶって楽しんでるよね?」
「あら、なんのことでしょう?」
 おとがいに手をあて、おっとり微笑む賢春を見て、鶴姫はぶすっと膨れてみせた。
 もちろん、これが賢春なりにこちらの心を解きほぐそうとする心遣いだとわかった上での反応であった。





 同時刻


 観音寺の城下町の一画では、丸目長恵と上泉秀綱の二人が、巡視の六角兵に見咎められないように注意しつつ、月明かりに浮かびあがる山頂の城郭を眺めていた。
 六角家は先々代 定頼の時代から家臣団に城割(家臣を居城に集めるために城を破却する政策)を命じるなどして観音寺城に軍事力を集中させてきた。また、いわゆる楽市令を出して商人を招く等、商業を盛んにする政策も併せて行われており、観音寺の城下町は六角家の権勢の源泉となっているといっても過言ではない。


 あいにくと昨今の混乱で繁栄には翳りが見えているが、秀綱の目から見ると春日山城で行われている政策と似通っている部分が随所に見られ、なかなかに興味深いものがある。
 むろん、六角家の方が数十年も前から着手しているのだから、彼らが上杉を真似たことはありえない。真似たのだとすれば、それは上杉の側である。
 こんな時でなければ仔細に見学していきたいものだ、と秀綱は考えていた。



 一方の長恵は、秀綱と違って春日山城を見たことがないため、二つの城の共通性は感じ取れない。
 城下町の様子には珍しげな視線を向けていたが、それもわずかな間のことで、今の長恵の注意はもっぱら城の方角に注がれていた。三雲賢春の侵入が察知されれば必ず動きが出る。その意味で今なお城の様子が静かなのは良いことなのだが、ここは長恵たちにとって敵地も同様であり、いつ何が起こるかわかったものではない。
 夜の帳に包まれた山城を見やりながら、長恵はこれからのことについて思案をめぐらせた。
「賢春がいまさら裏切るとは思えません。あれだけの腕の持ち主なのですから、放っておいても上手くやってのけるでしょう。問題はこの後、どうやって師兄たちと合流するかですね」


 天城颯馬から主君 謙信の救出を任された長恵たちは、本来であれば三雲の地から何処かへ去った謙信たちを追いかけるべきであった。
 しかし、東西南北、いずれへ向かったのかも定かではない者たちの行方を追うのは困難を極める。長恵はもちろん、秀綱にしても甲賀の地に土地勘はなく、その二人があてどもなくさまよったところで、目指す人たちを偶然探し当てられるとは思えない。


 くわえて、謙信たちが包囲を斬り破った状況を聞くかぎり、謙信と政景、それに軒猿その他の配下が行動を共にしていることはまず間違いないと思われた。
 松永久秀は謙信が幽閉されているとは云ったが、どのような状況で幽閉されているかについては言及しなかった。天城は――そして秀綱もだが、謙信らが別々の場所に幽閉されている、あるいはすでに襲撃を受けて大半の手勢が討ち取られている、という状況をもっとも憂慮していたのだが、その可能性は今回の件でほぼ消失したといえる。
 となれば、謙信たちが虜囚の身から脱した――何よりも重要なその一事を携えて天城たちと合流するべきであった、のだが。



 長恵は思案顔で首をひねる。
「六角家につく師兄と、六角家に敵対する私たちが連絡を取り合うわけにもいきませんでしたからね」
 長恵たちは定時、緊急時、いずれの連絡手段も用意していなかった。こうなってみると、少なくとも緊急時に連絡をとる手段は考えておくべきだったとも思えるが、まあ今さら云っても詮無いこと、と長恵は割り切った。あの時はすぐにも動かねばならず、入念な準備をしている時間などまったくなかったのである。


 ともあれ、ここは考えを切り替えるべきだ、と長恵は判断した。上杉一行が自力で自由を得た上は、自分たちがあえて六角家に敵対する必要はない。
 そういったことを考慮した末、長恵は三雲賢春と同道することにした。
 謙信が蒲生家との関わりを避けたことを考えれば最善の一手とは云いがたいが、三好三人衆を討つべく動いている天城たちのことを思うと、ここで出来た蒲生家との手づるを断ち切るのはもったいない。
 上杉一行を救うこと、三好家を討つこと、この二点に関して天城たちと蒲生家の利害は一致している。また、おそらくは天城が何らかの形で関与しているであろう青地城攻防戦に、六角家にくみする形で加わる機会を得ることもできる。
 賢春にしても名高き剣聖の助力を得られることは願ってもないことであり、さらに手づるという意味では、蒲生家にとっては長恵らも上杉家への手づるとなりえる。
 こうして両者は一時的な共闘関係を結ぶにいたったのである。




 ――ふと視線を感じた長恵が目をあげると、秀綱がなにやらしげしげとこちらを見つめている。
 長恵は不思議に思って首をかしげた。
「あの、お師様。なにか?」
「いえ。特に何かあったわけではないのですが……いえ、やはりあったのでしょうか」
「むむ? 謎かけですか?」
 わけがわからないと云いたげに目を瞬かせる弟子を見て、師は微笑ましそうに口許を綻ばせた。
「はじめて会った時、我にかなう者やあらんと押し通ってきた娘が、ずいぶんと思慮深くなったもの、とそう思ったのです。これも筑前どのの薫陶の賜物ですか」


 くすくすと微笑む秀綱を見て、長恵は驚いたように目を見張った。まったく思いがけない指摘で、思わず腕を組んで考え込んでしまう。
「む、云われてみれば、たしかに……ふうむ、師兄と長らく行動を共にしていた影響がこんなところにも。びっくりです」
 なにやら感慨深げにうなずく長恵。それを見て再び口を開きかけた秀綱は、ふと口を噤んで耳を澄ませた。


 彼方から轟く馬蹄の音が、夜のしじまを裂いて秀綱たちの耳朶を揺らす。
 市井の民が夜間に馬を走らせるはずもない。間違いなく急報を携えた早馬であると思われた。




◆◆◆




 南近江 瀬田城城外 六角軍本陣


 六角義治率いる五千の援軍の到着。それは青地城をめぐる三好、六角両軍の戦いを決定付けるに十分すぎる要素となった。
 六角軍は退却にかかる三好軍を追撃し、これに大きな打撃を与えることに成功する。三好軍を率いる三好政康は奮戦するも、数と勢いにまさる六角軍をおしとどめることはかなわず、六角軍は数日を経ずして瀬田城を望む地まで進出するにいたる。
 ここにおいて三好三人衆の命運はついに尽きたかと思われた。


 しかし、ここで三人衆のひとりである岩成友通が六角軍の攻撃に待ったをかける。


 三好政康が敗残兵を率いて瀬田城に帰還した後、城に攻めかかろうとした六角軍の後背を脅かしたのが友通率いる一千の三好軍であった。




 どうしてこのタイミングで友通が姿を見せたのか。
 三好政康が兵を退く以前、堅田衆の襲来を知った友通は二千の軍を二つに分け、一千を青地城を攻める三好政康のもとに向かわせた。
 その後、残りの手勢を率いて瀬田城に入ると思われた友通は、急遽進路を変更して草津へ急行。軍事力をもって町を制圧すると、港に並ぶ船を接収して堅田衆の本拠地である堅田の町を狙う動きを見せる。
 本拠地の危機を知らされた堅田海賊は慌てて瀬田城への攻撃をとりやめ、船団を戻して急ぎ堅田の町へと帰還する。これによって琵琶湖側からの危険を排除した友通は、瀬田城には戻らず、かといって青地城へ赴くこともせず、そのまま草津に留まって情勢をうかがっていたのである。



 友通の手勢はおよそ一千。六角軍にしてみれば自軍の六分の一にも満たない小勢であり、正面から戦えば苦も無く蹴散らすことができる。
 しかし、草津を拠点とする岩成勢を討とうとすれば、どうしたところで町にも被害が出てしまう。草津は六角家にとって重要な収入源であり、これを焼き払うようなまねは断じて避けなければならなかった。
 もちろん、岩成勢を放っておくこともできない。岩成勢を自由にさせれば、今後も後背を脅かされ続けることになるからだ。


 そこで六角義治は草津の手前に蒲生勢を配して岩成勢を牽制することにした。
 蒲生賢秀率いる主力部隊が到着した今の蒲生軍は総数およそ千五百あまり。数の上では十分に岩成勢と渡り合える。
 一方、蒲生勢が抜けても義治の本隊は五千を越えているため、城に立てこもった三好長逸、三好政康らの手勢一千を相手にしてもひけをとることはまずないだろう。義治の計算はしごく妥当なものであった。


 もともと瀬田城には長逸の四百が残っていただけなので、政康に付き従って城に戻った将兵の数は六百弱という計算になる。
 当初、政康が率いていた兵はおよそ二千。これにくわえて友通が後詰として遣わした一千を足した三千が青地攻めの全兵力であった。それがいまや六百まで討ち減らされている。
 むろん、城に戻らなかった兵士すべてが戦死したわけではなく、逃亡した者、降伏した者も多いが、それでも三好政康の部隊が壊滅した事実は動かない。
 当然、逃げ帰った将兵の士気が高かろうはずはなく、さらなる裏切り、降伏も期待できる。義治をはじめとした六角軍の諸将は自分たちの勝利を確信していた。


 ――織田、浅井両軍の侵攻の報が届けられる、その時までは。




◆◆




 瀬田城を望む六角軍の本陣で、六角義治は握り締めた拳をわなわなと震わせながら、眼前で平伏する三人の後頭部を睨みつけていた。
 ひとりは側近である望月吉棟。
 ひとりは戦地には似つかわしくない巫女装束をまとった女性。吉棟と同じ望月の一族で、名を千代女(ちよめ)という。
 最後のひとり、藍染めの着物をまとった少女は、今回の出征に際して滝川家から送られてきた援軍を率いる武将であった。名を滝川一益(たきがわ かずます)。滝川家は甲賀五十三家のひとつである大原家の流れを汲む家柄であるが、勢力としてはごく小さく、率いる兵は百に満たない。
 義治から見れば家臣である大原氏の家臣、つまり陪臣に過ぎず、一益の顔にも名前にも興味を示さなかった。



 義治は平伏する吉棟に問いを向ける。震える声音は、義治が内心で押し殺している怒りの深さを物語っていた。
「いま申したこと、まことなのか、吉棟」
「は! こちらに控えております千代女と一益の働きにより、蒲生の忍びを捕らえて判明したことにございます。織田、浅井の両軍が間もなく江南に侵入してくる由。これにあわせ、観音寺城の鶴姫も城外に脱する心算であるとのことでございます」
「御家危うしと見るや、私に何のうかがいもたてず、すぐさま嫡子を逃がす算段かッ」
「殿、やはり蒲生家は二心を……」
「わかっている! 所詮、賢秀も面従腹背の狗であったということだなッ」


 そう吐き捨てた後、義治はガッと地面を蹴りつけた。それですべての怒りが発散できたわけではないだろうが、それでも心を落ち着ける一助にはなったらしい。義治は深く息を吐いた。
「……まあよい。狗は狗らしく始末してやるとしよう」
 次に口を開いたのは望月千代女である。恐縮する吉棟とは対照的に、巫女姿の千代女はさして畏まる風もなく、どこかおっとりとした声で告げた。
「すでに蒲生の忍びは始末しておりますれば、この報せが賢秀どのの陣に伝わることはございません」
「当然の措置だな」
 義治はそう云い捨てると、冷然と吉棟たちを見下ろした。
「吉棟、千代女もだ。我がもとに諸国の情報をもたらすのは、五十三家の筆頭たるそなたら望月家の役割であろう。そのための資金も十分に与えているはずだ。しかるに、浅井と織田の侵攻を掴むのが蒲生より遅いとはどういうことか!?」


 刃物のように鋭く尖った義治の詰問に対し、千代女は緊張を感じさせない態度で応じた。
「そのことに関してはまことに申し訳なく思っております。しかし、殿。以前にも申し上げましたが、わたくしども『歩き巫女』は定まった社に所属せずに国々を渡り歩く者。その性質上、一箇所に長く留まるには向きませぬ」
「だから急場には対応できぬと申すか。必要な時に必要な情報を得られぬ忍びに何の価値がある? 御家の危機に働けぬ者が、どの面さげて我が禄を貪っているのだ!?」
「まことに汗顔のいたり、返す言葉もございません」


 そう云って千代女もまた深々と頭を垂れた。
 いかにも恐れ入ったという仕草なのだが、それでも心から恐縮しているように見えないのは、つかみどころのない柔らかな声音のせいであろうか。
 義治としては正面から放った突きをふわりといなされたようなもので、気組みを外された感がある。
 舌打ちした義治は再び怒声を放とうと口を開きかけたが、すぐに思い直して千代女から視線をそらした。


 今は配下の失態を責めたてている場合ではない。このままでは瀬田城を落としても、代わりに観音寺城を失うことになりかねない。だからといって、ここで安易に退却に移れば三好軍に異常を悟られ、追撃を受けてしまうだろう。
 義治は考えに沈んだが、幸いなことに打つ手はすぐに見つかった。
 口許に薄く笑みを浮かべたまま、次々に指示を出していく。
「……賢秀に使者を出せ。殿軍は蒲生軍だ。娘がいまだ観音寺城にいると思っている以上、承知せざるをえまい。あわせて、草津と瀬田に忍びを放て。織田と浅井の侵攻を三好に教えてやるのだ」


 義治の意図を察した吉棟がすばやくうなずいた。
「御意。三好の手を借りて蒲生を葬るのですな」
「うむ。今の三好勢はあわせて二千程度だが、孤立した蒲生を潰す程度のことはできるだろう。くわえて、蒲生を潰せば三好の側も少なからず兵を損ずるはず。向後、三好を気にかける必要はなくなろう」
「早急に手配いたしまする!」
「急げ。云うまでもないが、観音寺の父上にも急使を出して事の次第をお伝えせよ。賢秀の娘がまだ城内にいるようならば、牢に放り込んで――」
 そこまで口にしかけた義治は、ここで小さくかぶりを振った。
「いや、城内の一室に閉じ込めておくよう命じるのだ。死なれても厄介ゆえな。わかったか?」
「はは!」
「千代女。そなたは配下をつかって織田と浅井の動向を一刻も早く明らかにせよ」
「早速、そのように。ところで殿、蒲生の姫君が城を抜け出していれば、向かう先は日野城か一族のところであると心得ます。適当な地に網を張ってこれを捕らえようと思うのですが、お許しをいただけましょうか?」
「云うにや及ぶ。そちらもすぐにとりかかれ」
「かしこまりました。こちらに控える滝川一益は、此度、巧妙に伏していた蒲生の忍びを見出した功労者です。この一益に指揮を執らせましょう」
「好きにいたせ」


 そう答えた義治は、ここではじめて一益に声をかけた。
「一益とやら、よく蒲生の手の者を捕らえた。これは褒美だ」
 平伏する一益の頭のすぐ脇に何かが落ちる音がした。義治が懐に入れていた銀判を投げて寄越したのである。
「蒲生の娘を捕らえることができれば、これに十倍する銀をくれてやろう。励めよ」
「お任せくださいませ」
 その一益の言葉が終わらないうちに、すでに義治は踵を返している。
 遠ざかる足音でそのことを察した一益は、おもむろに顔をあげると、転がっていた銀判を手に取って大切そうに懐にしまいこんだ。


 嬉しげに微笑んだ一益の視界に陣幕を出る義治の後ろ姿が映しだされる。寸前までのそれとは質の違う笑みを浮かべた一益は、傍らの千代女に気づかれないよう内心でひとりごちた。
(情報の価値と褒美がつりあっていないんだけど、ま、いいか。どーせ六角家は長くない。主家への義理は果たしたし、足りない分はこちらで勝手に頂戴するといたしましょう)
 父の急死により、望まずして滝川家の当主となった博打好きの少女は、両の眼に不逞の光を浮かべながら、間もなく来るであろう嵐の到来に心を浮き立たせていた。





◆◆◆





 南近江 草津郊外 蒲生軍本陣


「申し上げます! 草津にこもりし岩成勢に出戦の気配あり! 間もなくこちらに向けて押し出してくるものと思われますッ!」
「ご報告! ご報告! 瀬田城より突出した三好政康の軍勢、およそ一千が青地城に続く街道を塞ぎつつあり! このままでは退路を断たれるのも時間の問題ですッ!!」
「申し上げます、敵の先手とおぼしき兵が降伏を呼びかけております! 兵の中に動揺が……!」
 入れかわり立ちかわりもたらさる報告、そのすべては蒲生勢が窮地に立たされていることを告げるものであった。
 先日まで確かに保持していたはずの優勢は塵のごとく吹き飛んで、今やどこにも見当たらない。
 青地城にて一度は覆った戦の形勢が、再び覆されようとしていた。




「くそ、大殿はぼくたちに死ねと仰せになるかッ!」
 陣幕に響き渡った若々しい怒号の主は横山喜内という。
 近江日野村出身の若武者で、年齢は十五になったばかりという若輩だが、その武勇は結解十郎兵衛や種村伝左衛門といった歴戦の勇士たちにも一目置かれるほどのものである。
 今回の戦でも望んで先陣に身を置き、結解らと共に青地城へと馳せつけており、喜内がまとう紅威(べにおどし)の甲冑は、喜内の武勇と気性を愛した賢秀が先年に贈ったものであった。欣喜雀躍してこれを拝領した喜内は、いまだ折に触れてこのことを自慢している。


 喜内から見れば、今回の義治の指図は蒲生家を捨石としたようにしか見えない。だからこそ憤懣の叫びを発したわけだが、常であればそんな喜内をたしなめる結解や種村といった先達も、眉間に深いしわを刻んだまま口を引き結んで動かない。喜内だけではなく、戦慣れした彼らから見ても、六角家の意図は他に考えようがなかったのであろう。
 当然のように蒲生定秀、賢秀の親子もそのことに思い至っている。そして、二人はその原因についても心当たりがないわけではなかった。


「父上、これは……」
「ふむ、どこかからもれ聞こえたかのう? したが、来援なさった若殿に、我らを目の仇になさっている様子はうかがえなかった。我らが草津に向かってから何かあったと見るべきか。こうなると鶴のことも気がかりであるが……今はまず眼前の危地をしのぐことに注力するべきであろう」
 蒲生家の心底が明らかになったのだとすれば、観音寺城に出向いた鶴姫の身も危ぶまれる。しかし、戦場からでは手のほどこしようがない。この場にいる将兵に対する責任を果たすためにも、今は鶴姫のことを放念するしかなかった。


「は、かしこまりました。それでは――」
 賢秀が口を開きかけたとき、陣幕の外から兵の声が聞こえてきた。
 草津の町を偵察に出ていた岡左内が帰還したという報せであり、それを聞いた賢秀はそのまま左内を陣幕の中に招き入れる。
 左内は蒲生家に仕えているわけではなかったが、この場にいる者たちは青地城の攻防で左内の武勇と智略を目の当たりにしている。賢秀が、いわば客将として左内を遇していることに関して反対を唱える者は誰もいなかった。


 外の騒ぎでおおよそのことをすでに察していたのだろう、供をひとり連れて陣幕に入ってきた左内は前置きもなく口を開いた。
「何やら尋常ならざることが起きたようじゃの、各々方。察するに浅井か織田あたりに後背をつかれましたかの?」
「まさしくそのとおり、と云いたいところであるが、さらに悪い。いずれか一つではなく、両家が同時に押し出してきたということだ」
 それを聞いた左内は、納得したと云いたげに二、三度うなずいた。
「ふむ、なるほど。それで草津にいすわる者どもがああも沸き立っておったのか。ちと伝わるのが早すぎる気もするが……それはともかく賢秀どの。陣内の将兵の焦りを見るに、それだけとも思えませぬが?」
「それもまたしかり。瀬田を攻めていた殿よりの命令で我らがしんがりを務めることとあいなった。それは良いのだが、どうやら殿は陣を引き払った後で我らに使者を差し向けたらしくてな。はや瀬田城の三好政康めに後背を塞がれつつあるのだ」


 賢秀は特に隠し立てをせずに状況を説明した。
 それを聞いた左内は呆れたようにかぶりを振ると、賢秀に意味ありげな視線を送る。
「義治公は、蒲生家に対してなにやら思うところがおありのようじゃの?」
「そのようだ。そなたにしてみれば巻き込まれたようなものであろう。陣を離れるというなら止めはせぬ」
 逃げても良い、といわれた左内はわざとらしく腕を組んで考え込んだ。
「ふむ……青地の城でも申し上げたが、こなたの狙いは三人衆の首級での。あれらが江南にいると身どもの財が食い荒らされる。案の定、友通めは草津に兵をいれおった。もし蒲生軍がまだ彼奴らと戦う気概を持っているのであれば、力になる方法がないわけでもないのじゃが」


 その言葉を聞いて、賢秀のみならず、蒲生軍のすべての武将が身を乗り出した。
 この戦況を覆す策がある、と左内は云ったのである。
「その方法とは?」
「それを云う前にもう一つ確かめさせてもらいたい。賢秀どの、貴殿、主命に殉じるおつもりかや? もし貴殿がこの地でしんがりをつとめ、主家のために果てる覚悟なのであれば、身どもの策は無用のものと成り果てる。なにせこの策は、まずこの陣を引き払うことから始めねばならぬゆえ」
「……臣下として、主家の命には従わねばならぬだろう。したが、一家の当主として、理のない命令に盲従し、配下を無駄死にさせるつもりは毛頭ない。左内どのの策に協力し、三人衆を討つことがかなえば、それは結果として『三人衆をふせげ』という殿の命令を果たしたことになるであろう」
 最悪の場合、主命を放棄したとして、観音寺城の鶴姫が義治の命令で斬られてしまうことも考えられた。だが、娘大事の一念で将兵を死地に追いやるわけにはいかない。先に定秀と短い会話で確認しあったとおり、今の時点で賢秀は娘のことを放念していた。



 その賢秀の顔をじっと見つめた左内は、やがて満足したようにうなずくと、では、と云って胸中の策を披露する。
「といっても、別段、難しいことをするわけではないのだがの。賢秀どの、それに蒲生のお歴々。貴殿らは今すぐ陣を引き払い、三人衆らが包囲を完成させるその前に、全軍をもって後背を固める三好政康の陣を貫くがよい。完成しておらぬ包囲陣など兵力を無駄に散らばらせておるだけじゃ。兵力にまさる蒲生軍であれば、駆け抜けるのはたやすかろう」
 賢秀が怪訝そうな顔をする。
「我が軍が陣を引き払えば、草津の岩成勢がすぐにも出てこよう。結局のところ、我らは背後をつかれることになるが?」
「そこで次じゃ。これも別に難しいことではない。ご隠居どのでもよいのだが……うん、やはり当主である賢秀どのの方がよろしかろう。賢秀どのに頼みがある」
「頼みとは、金なり兵なりを貸してほしいということか?」
 左内の云わんとすることが読み取れない賢秀は首をかしげて訊ねる。
 その賢秀に対し、左内はにやりと笑って云った。


「身どもの手にかかって死んでくれい」




前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.026037931442261