百円玉は旅をする。
荷物は何も持ってない。
使って使われ巡り巡って、人から人へ旅をする。
行き先なんて分からない。
次は誰を訪ねるのだろう。
「やっほー、こーくん元気ー?」
川原かな子は高校一年生。毎日のように学校近くのコンビニに寄る。
特に理由がある訳でもなし。ただクラスメイトがバイトしているから会いに来ているだけだった。
「おう、またプリンか。太るぞ」
「売上貢献してるのになにその言いぐさ」
「いや、売上あがっても俺のバイト代あがらないし」
「うるさーい。バイトの態度が悪いって店長にクレームいれるぞー」
「おいばかやめろ」
安達幸一16歳。かな子とは同じ高校のクラスメイトで、小学校も中学校も一緒だった。
同じ地区に住んでいるけど、漫画でよくある「家が隣同士の幼馴染」ではない。それでもそこそこ気が合うし、なんだかんだで仲もよく、腐れ縁は今も続いている。
「はい、98円になります」
コンビニスイーツも今は結構おいしい。だからかな子は結構な頻度で買っていく。買う日にいつも幸一のシフトなのは、きっと偶然だろう。
だいたい幸一は悪友といった感じで、クラスメイトで仲の良い男女なのに、色っぽい空気なんて欠片もない。
でも女として意識されないのはなんとなく悔しいので、渡す百円玉に少し悪戯。
財布を出すふり背を向けて、百円硬貨に軽く口付け、素知らぬふりして幸一に手渡す。
昭和55年の硬貨。ゾロ目は何か特別な気がした。
「あれ、かな子顔赤くね?」
「え!? き、気のせいじゃない!?」
思った以上に恥ずかしいし、なんだかすごく馬鹿みたいだ。
顔を赤くして大慌て、逃げるようにかな子はコンビニを出る。
女の子の成長は男の子より少しだけ早い。だから幸一よりほんのちょっとだけ早く、かな子の想いには名前がついた。
そうして百円玉は、コンビニのレジの中に入った。
◆
「おさき上がりまーす」
谷崎達也は大学一年生。コンビニバイトの経験は長い。
幸一に軽く言葉を残し、今日の仕事はこれで終わり。
財布を取り出し、小銭がなくなっていたことに気付き千円札をレジにいるバイト仲間へ。
「安達、悪い。両替させて」
「あ、はーい」
五百円玉一枚と、百円玉五枚。相手は先輩だ、幸一も笑顔で従う。
じゃらじゃらと小銭を手渡せば、ぎゅっと握って「助かった」と一言、コンビニを後にする。五枚の百円玉の中には、かな子のいたずらも紛れていた
わざわざ両替、勿論理由がある。300円を握り締め、残りは財布の中に入れ、さっさと歩いて行く先には「いーしやーきいもー」とおじさんの声。
「すんませーん、一本下さい」
「あいよっ、兄ちゃんよく来てくれるねぇ。よし、今日はサービス、このでかいのだ」
「お、ありがとうございます」
買い物するときはちょうどのお金を払うのが気持ちいい。レジとかでもたもたするのが達也は嫌いだった。
300円を払って受け取った大きめの焼き芋、あたたかくて、いい匂い。寒い冬の日にはこれがいい。
せっかく買ったら冷めないうちに、公園まで小走り。あの娘が待っているから、早くいなかないといけない。
「あ、にーちゃん! 迎えに来てくれたの!?」
あの娘と言っても色っぽい関係じゃない。
塾の帰りの妹は、私立中学の受験に向けて毎日勉強を頑張っている。夜遅いのにご苦労様、片手を上げて笑顔でお迎え。
「ああ、由美。お帰り」
「うん、ただいま! あれ、なんかいい匂いー」
「そこで偶然焼き芋屋見つけてさ、つい買っちまった」
頑張っている妹に、たまにはご褒美を。大好きな焼き芋、晩御飯が食べれなくなるから兄妹ではんぶんこ。
公園のベンチに肩を寄せ合って座って、空なんて見上げちゃって焼き芋を頬張る。
「かあさんにはないしょな?」
「はーい!」
元気よく答えて一齧り。おいしい! と笑う由美の頭を撫でる。
冬の日は公園で焼き芋。
由美に大切な思い出が出来ました。
◆
京極善三は焼き芋屋歴20年。つまらない仕事かもしれないが、そこそこ飯が食えればそれで十分。
随分前に嫁とは別れた、子供にも会えない。
帰りにワンカップの日本酒を買うのが唯一の楽しみだった。
自販機に百円コインを投入、がたんと音立て出てきた酒をその場で空けて一気に煽る。
「かぁっ、うめえ」
安酒でも働いた後の格別、五臓六腑に染みわたる。
ふと横目で見る人の流れ、楽しそうに笑う家族も見えた。
失くしたものだ、今更未練もない。ただ少しだけ冬の寒さが身に染みる。
帰りはのんびり歩き、見上げた空には月一つ。
冬の空気は透き通ってる。
なんだか月が綺麗に見えた。
◆
間島ケンジは素行が悪い。
高校卒業後大学にもいかず就職もせず、フリーターとして四年が経った。
高校時代からの女と別れた。就職決まったかつての恋人、「フリーターなんて恥ずかしい」、その一言が決め手になった。
苛立ち募って夜を歩く。見つけた自販機が邪魔臭く見えて、思わずけりをぶち込んだ。
ちょっと強く蹴り過ぎたらしい。壊れた自販機からじゃらじゃらと小銭が出てくる。
だけどやっぱりケンジは素行が悪い。
悪びれもせず、落ちてきた金をポケットに詰め込んだ。五百円玉、百円玉小銭ばかりで味気はないが、何かを食うには十分だ。
もともとが雑な性格だ。
入れたつもりの百円玉のいくつかは零れ落ち、それにケンジは気付かなかった。
◆
ころころ転がる百円玉。
偶然拾った小学生。交番になんて届けない、駄菓子屋に行ってお菓子を買った。
あまりはやらない駄菓子屋だ、百円玉もしばらくお休み。
ちょっとここでは長かった。しばらくゆっくり眠ってた。
「ありがとな、上村。勉強見てくれて。おかげでテストどうにかなりそうだよ」
「ううん、いつも安達君には助けて貰ってるから」
高校は夏休み前の期末テスト。今日はテスト最終日、午前中で終わり。達成感と気だるさを同時に感じながら、うだるような炎天の下を二人は歩いていた。
安達幸一17歳。
同じクラスの女の子と雑談を交わしながら、家まで送ろうといつもと違う道を行く。
その途中見つけた懐かしい雰囲気の駄菓子屋に、思わず足を止めてしまう。学校帰りには大抵コンビニ、だけど偶にはいいかもしれない。隣にいる女の子へ、ちょっと寄ってもいい? と聞いてみた。
「うん、偶にはいいかもしれないね」
女の子は長い黒髪、清楚な印象が素敵だった。
彼女の名前は上村いずみ。高1の頃に知り合って、2年に上がって同じクラス。二年連続一緒に図書委員、今年もよろしくねと二人で笑った。
「あ、昔よく食べた」
「水あめかー、俺これが好きなんだよな」
「よっちゃんイカ? 男の子の定番だね」
懐かしさに目を奪われて、わいわい駄菓子屋で騒いでしまう。
迷惑かなと、店番のお婆ちゃんを見れば、優しく微笑んでいてくれた。
結局二人で買ったのは、水あめとよっちゃんイカ。後は瓶入りラムネ。やっぱり暑い日にはラムネが欠かせない。
大した金額じゃないけれど、ここは男が払わねば。
五百円玉、お釣りは百円。いつかのいたずら百円玉。
「あーうまっ」
「ほんと、懐かしいねぇ。昔ラムネよく飲んだのに」
「俺も。いつの間にかあんまり飲まなくなったんだよなぁ、なんでだろ」
コンビニ、自販機、ペットボトルに缶ジュース。
瓶入りなんて流行じゃないし、いろいろ選べるんだから、ラムネばかりを飲む訳がない。毎月のように新製品が出るのだ、ラムネを飲む機会は減っていった。
でも心にしみわたる味はあると思う。
喉を通る炭酸の刺激、遠く見上げれば飛行機雲。
暑い暑い夏の日に、並んで飲んだラムネの味はきっと忘れないだろう。
横目でいずみを眺めれば、はたと目が合いくすぐったそうに笑う。
男の子の成長は女の子より少しだけ遅い。だからかな子よりほんのちょっとだけ遅く、幸一の想いに名前がついた。
咽かえるような夏の匂い。
青春は冷たいラムネの味をしていた。
◆
川原かな子は上村いずみと殆ど面識がない。
違う中学の出身で、かな子は体を動かすのが好きで、いずみは本を読むのが好きで、趣味や嗜好が随分と違った。
だから接点は殆どなくて、でも顔を見ることはよくあった。
小学校の頃は、中学校の頃は、高校も一年まではずっと幸一と一緒にいた。
なのに二年に上がってからは、幸一の隣にいずみを見つけることが多くなった。
反面違うクラスになってしまったかな子は、幸一と話す機会が少なくなった。
「お、かな子、ひさしぶりー」
「こーくんじゃん。どしたの」
校内で偶然会い軽い挨拶。
何気ない会話にちくりと胸が痛む。
幸一に久しぶりと言われたのが、ちょっとだけ辛かった。
「なんか妙に眠くてさ。コーヒー買いに」
「なんだ一緒? 私も昨日あんまり眠れなくて」
幸一は握っていた百円玉を自販機にいれる。口内の自販機はどれも百円、有難いよなと笑っていた。
選んだのは無糖のコーヒー。プルトップを開けて一口、それくらいじゃ眠気は覚めないのか、まだ欠伸をしている。
そんな彼を笑いながら、かな子も無糖のコーヒーを選んだ。他意はないが銘柄まで同じだった。
「幸一くん、次移動教室だよ」
「おっとそうだったな」
よく知らない女の子に呼ばれ、幸一は一気にコーヒーを飲み干す。
飲み終わって缶をゴミ箱に入れるまで、五秒もかからなかった。
「んじゃな、かな子」
「あ、うん」
「よっしゃ、いずみ。行こうぜ」
軽く手を上げかな子に背を向け、いずみと肩を並べて幸一は言ってしまった。
見送った背中に声なんてかけられなくて。
「……ちぇ」
一人残されて缶に口をつける。
青春は苦いコーヒーの味をしていた。
その少し後に友達から聞いた。
「安達くん、上村さんと付き合ってるんだって!」
女の子はコイバナが好き。だから聞きたくないことが耳に入ってくる。
初恋は叶わないって本当のことなんだ、かな子はぼーっとそんなことを考えていた。
いつか名前がついた想いは、伝わらないまま何処かに行った。
◆
百円玉は旅をする。
荷物は何も持ってない。
自販機にいれた百円玉、お釣りで出てきて今度はコンビニ。
素行の悪いバイトもいる。ちょっと拝借財布に入って、巡って巡って次の場所へ。
いろんなところへ行ってきた。
そうして流れて歳月過ぎて、今日もまた次の誰かを訪ねる。
「三日後だったけ? うー、緊張するなぁ」
谷崎由美は中学三年生。
好物は焼き芋、いつか公園でお兄ちゃんと一緒に食べた。あの暖かさを今でも覚えていたりする。
「なんでお前が緊張するんだよ」
「だってお兄ちゃんが公務員になれるかどうかでしょ? 緊張するに決まってるよ!」
「お前は自分の高校受験だけ気にしておきなさい」
「大丈夫、私は優等生だから!」
「こいつ……」
冬の日歩く兄妹。公務員採用試験まであと三日、緊張をほぐしてあげようと由美の方から散歩に誘った。
ついでにスーパーによって見て、ある一角が目に留まる。
最近のスーパーは何でも売っている。まさか焼き芋まで討っているとは思っても見なかった。
「お兄ちゃん、ちょっと待ってて!」
「んお?」
返事は聞かずに傍を離れて、由美は焼き芋を一本購入。百円玉2枚と五十円、焼き芋屋さんより安い値段だ。
あの時お兄ちゃんが勝ってくれた焼き芋見みたくいい匂いはないし、あんまりおいしそうでもなかった。
「なんだ、焼き芋か? お前本当に好きだな」
「いいじゃん、別に。はいっ!」
冬の日歩く兄妹二人。そろそろ帰ろうと家路をたどる。
買った焼き芋半分に割って、お兄ちゃんに手渡した。
「晩御飯食べれなくなると困るからはんぶんこね」
「おー、なんかすげー久しぶりな感じ」
歩きながら二人で食べる。
所詮スーパーの焼き芋だ。たいして甘くはないし、皮は少し乾燥している。
いつかの焼き芋の方が全然美味しい、だけどこれはこれであったかかった。
そんな暖かい冬の日に、達也は懐かしい顔を見た。
前から歩いてきたカップル。まだ大学に入りたてだろうか、初々しく腕なんか組んで歩いている。
「あれ、安達?」
「あ、先輩じゃないっすか」
安達幸一、大学一年生。
以前のバイト先の後輩は、多分彼女とデート中だ。
バイト先によく来ていた女の子ではなかったけど、それを指摘するのは野暮だろう。
「なんだよ、デート中か」
「あはは、まあそうっす」
幸一ははにかんで笑い、彼女は顔を赤くして恥ずかしそうに俯いた。
彼女は“上村いずみ”というらしい。高校時代からの恋人で、今は同じ大学に通っているそうだ。
仲良さげに歩く二人を見送って、瀬長を眺めてぽつりと一言。
「羨ましいねぇ」
「お兄ちゃんだって私とデート中でしょ」
ぷー、と頬を膨らませる。
可愛い妹に随分と救われた気分だった。
◆
田村まりはサラリーマンの奥さん。専業主婦で毎日夫の為にご飯を作る。
バツイチの自分を受け入れて、連れ子にも優しくしてくれる夫には心から感謝していた。
スーパーで買い物、一角に焼き芋を見つけて意識的に逸らす。
寒い冬の日は思い出す。あの人は今も焼き芋屋さんだろうか。
昔は昔、今は今。長く生きれば割り切ることも必要になってくる。
それよりも大事なのは今晩のおかず、夫の好きなロールキャベツだ。
手早く買い物を済ませ、支払いを済ませ、財布に入る百円玉。
帰りに見つけたケーキ屋さんで、食後のデザートも買っておく。
すぐさま出てくる百円玉、気忙しいことこの上ない。
シュークリームを四つ買って、まりはそそくさと家路をたどる。
さて、ご飯の準備をしなきゃ。
毎日は忙しいけれど、それでも楽しいと思える日々だ。
途中で見かけた二人の男女、歩いて焼き芋を食べている。
やっぱり寒い冬の日には、思い出すこともある。
昔、あの人と並んで食べた焼き芋。あの味に迫るものは、終ぞ出会うことはなかった。
◆
「私エクレア、エクレアねー」
「おう、分かった。あれ、でも、そんなにエクレア好きだっけ?」
「……あのね、エクレアってイナズマって意味なんだよ? 凄い強そうじゃない?」
「まったく意味が分からないんですけど」
百円玉は旅をする。
ケーキ屋さんにしばらくいたけど、男の子の財布に入った。
今度は電車賃として消えて行って、次の人の懐に。人を巡り、年月を巡り、また新しい誰かを訪ねていく。
「ふう、よかったぜ?」
間島ケンジは素行が悪い。
根付くとなかなか抜け出せず、結局今でもフリーター。ガタイが良くてそれなりに顔もいい。行きずりの相手には苦労していなかった。
今日抱いた女は合コンの相手。ドタキャンの数合わせでは行った女だ、どうやら乗り気ではなかった模様。
そういう女こそ面白い。柔和な笑顔で近付いて、酒で酔わせてお持ち帰り。
気付いた時にはもう遅い、女は既に腕の中。そうなればもうこっちのもの、表情は溶けて喘いでくれた。
写真を撮る必要もなさそうだ。途中からは向こうの方から求めていた。それでも保険は必要だ、念のために撮っておいた。
全てが終わって、女は泣いた。
そんなことケンジには関係ない。番号メルアド手に入れて、会計せずにラブホテルから出る。具合のいい女だった、程無くしてまた呼び出そう。
「……あ、ごめん。ちょっと用事ができちゃった。今度埋め合わせするか、今日はもう行くね?」
「ん、そっか」
彼氏と話している途中、呼び出されて女は走る。
服装は以前より派手になり、ほんの少し露出が増えた。下着の好みも少し変わった。教えてくれた男は彼氏ではなかった。
「おうおう、走ってきて。そんなに俺に会いたかったのか?」
「そんなんじゃ……」
もう慣れたケンジの家。最近は彼氏の家よりも頻繁にくる。
言い訳なんて気にもしない、シャワーも浴びずにベットへ雪崩れ込む。
肌を重ねる度にケンジへの嫌悪は薄れ、獣のように求められるのは、女としての自尊心を満たしたてくれた。
口付けはタバコの味がする。舌を絡ませ唾液は糸引く。
獣の交尾は二時間かかり、終わった頃には随分と喉が渇いていた。
「ほれ」
「ありがとう」
買っておいた缶ビールは冷蔵庫で冷やしておいた。使った硬貨は百円玉。昭和55年、ゾロ目の硬貨。感慨なんてある訳もない。
差し出された缶ビールはキンキンに冷えていて、喉を通る炭酸が心地好い。
そうして疲れのせいからか、女はケンジに体を預ける。
多分ビールに慣れたせいだろう、ラムネの味は忘れてしまった。
◆
「す、好きです! 付き合ってくだひゃい!」
高校二年生。
彼女の告白から付き合い始めた。幸一もいずみが好きだった。照れくさくて顔を赤くして、二人は恋人同士になった。
「……ある、番号ある! 俺の見間違いじゃないよな!?」
「うん、うんっ! やったね、こう君!」
高校三年生。
二人で一緒に勉強した。同じ大学に行きたいから、幸一は必死になって机に向かって。
発表の時、あまりの嬉しさに泣いてしまった。一緒になっていずみが泣いてくれたことを、今でも覚えている。
「幸一君こっちこっち!」
「おーい、あんまり走るなよ」
大学一年生。
大学生になって行動範囲が広がった。彼女と一緒に旅行なんて、今迄では考えられなかった。
楽しそうに笑う彼女。「いつまでもこんな風にいられたらいいね」
ああ、そうだな。俺も笑顔で返した。
「お、いずみ」
「あ、幸一君。最近一緒の授業減ったねー」
大学二年生。
いずみは大学院に行きたいらしい。俺は教職課程を取りたい。
進路が違うからとる授業も変わってくる。一緒に授業は受けられなくなったけど、お互い目指すもののため。頑張ろうと気合を入れた。
「昨日の用事てって結局なんだったんだ」
「んー、ゼミの女の子に呼ばれて」
大学三年生。
いずみの服の趣味が目に見えて変わった。手料理を時々食べるけど、味付けは少し濃くなった。
その理由。分かっていたけど言い出せなかった。
それでも好きでいたかった。
だけど、腕を組んで歩くいずみとケンジを見た時、二人がホテル街に消えていくのを見た時、心の中でなにかがぽきりと折れた。
翌日に会った時、いずみは幸一に言った。
「私、幸一君のこと好きだよ?」
甘えるような仕草、浮気したことなんて微塵も感じさせない。
彼女の素直なところが好きだった。もう好きだった彼女はいないのだと、ようやく理解した。
次第に彼女の笑顔が辛くなって、別れの言葉もないままに二人は終わった。
「いらっしゃいませー」
安達幸一、高校教師。
そうして社会人になり、念願の教師になったけど、どこか毎日は空回りで。
彼女と別れて、退屈を紛らわすために覚えたタバコは、今もやめられないままだ。
今日は休み、切らしたタバコを仕入れに寄ったコンビニ。五百円出して、お釣りは百円。昭和55年のゾロ目。だからって、いいことなんてある訳もなく、溜息と共に百円を財布に入れようとした。
「おっと」
思わず舌打ち。財布に上手く入らず、ころころ転がる百円玉。
ほんと、何もかもうまくいかない。
億劫な気分で転がる百円玉を追う。
百円玉は女の人の足元で止まった。その人は楚々とした仕種で拾い、はいどうぞと笑顔で渡してくれた。
「あ、どうもすんません……え?」
「お気になさら……ええ!?」
顔を合わせて二人して驚愕。
だって随分と懐かしい。
ああ、そういえば彼女とはよくコンビニで顔を合わせた。バイトをしている時、いつも彼女は来てくれた。
「かな、子?」
「こーくん?」
こうして二人は再会した。
店内に差し込む光を受けて、百円玉がきらりと光った。
◆
百円玉は旅をする。
荷物は何も持ってない。
使って使われ巡り巡って、人から人へ旅をする。
行き先なんて分からない。
次は誰を訪ねるのだろう。
安達かな子は教師の奥さん。夫婦仲は睦まじい。今日は授業参観の帰り、息子と一緒に家路をたどる。
夫の勤め先はかつて母校。高校近くにあるコンビニ、昔はよく訪れた。
郷愁にかられて思わず入る。レジのバイトは女の子、当たり前だけどあの人はいない。
寄ったはいいけど、買い物はない。ふと止まったコンビニのプリン。昔は98円だったのに、今では132円。これも時代の流れかなんて、かな子は思わず苦笑を零した。
「母さん、腹減った。早く帰ろうぜー」
息子の名前は友之。旦那によく似た可愛い一人息子だ。
女の子にモテたいけれど、女の長い買い物には耐えられない模様。だからモテないのよとかな子が言えば、うるさいわ! と大声で返した。
懐かしい気持ちに、なったせいだろう。取り敢えずプリンを三つ買う。
五百円出してお釣りは百と四円。百円玉は昭和55年のゾロ目。
ゾロ目は何か特別な気がする。
そう言えば、あの時選んだ百円玉は、そんな単純な理由だっけ。
「あん、どうかした?」
「ううん、別に」
息子が心配そうにのぞき込み、大丈夫と笑顔で流す。
何かあった訳ではない、ただ懐かしい記憶が思い起こされただけ。
遠い昔、恋をした。
結局言葉には出来なかったけれど。温めてきた想いには、このコンビニで名前がついた。
そうして悪戯した百円玉。託した思いは届かなかったかもしれないけれど、私達を再び合わせてくれたのは百円玉だった。
だから財布に入れるふりして背を向けて、百円玉にちょっと悪戯、素知らぬふりしてレジ脇のコーヒーなんぞ買ってみる。
ちょうど百円。差し出すのは勿論、昭和55年、ゾロ目の百円玉。
そうして百円玉は、コンビニのレジの中に入った。
「なにしてんだよババア……」
一部始終を見ていた息子は呆れて溜息。そこにはあの人の面影があって、懐かしさにかな子は笑う。
「ちょっとした悪戯よ」
「ババアのキスなんて誰が喜ぶか」
「友之、晩御飯抜きね」
「いやあ、お母様は絶世の美女でございます!」
母親、息子で騒ぎながらコンビニを後にする。
今日は旦那の好きなすき焼きだ。気合を入れて準備しよう。
「でさ、さっきのあれなに?」
「んー、昔ね。あなたのお父さんにね、同じことをやったの、あのコンビニで。なんだか懐かしくて」
二人並んで家路を辿る。空に浮かべるのは過ぎ去った日々だ。
いつも一緒にいられると思っていた。
でも離れて、叶わなかった想いを、伝えられなかった言葉を沢山積み重ねてきた。
だけどて二人、もう一度出会って。
かつて好きだった“こーくん”は、あの頃と違う笑い方をするようになった。
だからかな子は思う。
私の初恋は叶った訳ではなく、あの人にもう一度恋をしたのだと。
「ふうん、なんつーか、信じられねえけど。母さんにも乙女な時期があったんだな」
「女の子はいつだって乙女なの」
「うへえ、女の子って歳かよ」
「そういうこと言うからあんたはモテないのよ」
それからの日々も色々あった。
泣いて、喧嘩して、大嫌いと言ったことだってある。
でもこうやって、好物のすき焼きを作って、穏やかにあの人の帰りを待とうと思える。
それだけで、今までは報われたような気がした。
「ま、安心しなさい。あんたにもいつか運命の人が現れるから」
「なんだ、それ。ちなみに母さんの運命の人って」
「勿論こーくん」
「ハイハイゴチソウサマー」
高校時代のいたずらは巡り巡って、今を作った。
だからかな子は百円玉にもう一度悪戯をした。
自分にはもう必要ないけれど。
あの百円玉が、今も恋に悩む誰かに届きますよう、小さな小さな祈りを込めて。
そうして百円玉は旅をする。
荷物は何も持ってない。
一つの恋が終わって、一つの恋が成就して。
そんなことは関係なく。
使って使われ巡り巡って、人から人へ旅をする。
行き先は誰にも分からない。
だから小さな祈りを込めた。
願わくは遠い何処か。
報われぬ想いを抱え泣いている誰かの下へ届きますように。
そんな願いをそっと乗せ、いつかの少女は振り返りもせず、息子と二人で家路を辿る。
想いを受け取り、素知らぬ顔で、百円玉は旅をする。
荷物は優しい想いだけ。
行き先は誰にも分からない。
巡り巡ってどこまでも、百円玉は旅をする。
かつて恋した私から。
いつかどこかの貴方へと。
連載中の文章がスランプ気味なのでので、自分の好きな題材で一つ。
お目汚し失礼しました。