日雨の祖国、秋津洲国の滅亡には幽霊国家ことカタ・コスモーン機構の思惑があり――その代行を担う者がいた。
叛乱勢力である苦鸞の教育と資金提供の仲介を請け負い、自身も破壊工作や要人暗殺を行っていた男。秋津洲国を転覆させた張本人と言っても良い。
そして、
――さすが稀代の女傑と謳われるだけはあるねぇ。落ちた首が眉一つ動いてやがらなかったよ。
日雨の母を処刑した男。
それが、羅虚虎だ。
「なぜ……貴様がここにいる!」
弓弦を張り詰めたような敵意をぶつけて、日雨が問いかける。
相手はまるで気負わず、緩んだ姿勢のまま答える。
「そいつぁこっちのセリフだぜ坊や。単なる暑気払いには遠出が過ぎるじゃねぇか?」
手応えが一切感じられない。こちらの気勢を流すように、ふらふらとした語り口だった。
「セイタンのお嬢ちゃんがいねぇな。――うまく目を盗んで、別の女を腕の中に、か。随分と見込みが出て来たじゃねぇか? えぇ坊や? 悪事を学ぶにゃ一時で余り有る、って言うがねぇ」
口の端を吊り上げて、卑しげになじってくる羅。
頭が煮えたように熱くなるが、辛うじてこれが挑発に過ぎないと理解できていた。
この老獪な男の意図を直接探るのは困難だ。今この時は、別の情報源がある。
「御前、この男は何故そなたを追う」
抱きついてきた金髪の少女に問いかける。
「あ……ええ、と」
しかし彼女は、憂いたような眼差しでうつむき、言葉を濁すだけだ。
語りたくない事らしい、が――このシチュエーションには覚えがある。少女の非現実的な美貌も、〝あの時〟のくららと同じものと感じた。
「そなた、機傀悪魔か」
一言端的に告げると、彼女は紫の瞳を見開いて驚愕した。
「え……どうして、キミ、知って」
「最近、少しばかり縁があっての……あの男とも」
羅の身体全体を視界に収めるように注意して――一度目を離したら何をやってくるか分からない男だ――、日雨は少女をやんわり押し退ける。
彼女を背後に置き、間に立ち塞がるようにして羅と対峙した。
「へぇ――戦る気かい坊や」
「次に会った時に斬り合う、と言ったのは貴様だ」
にべもない口調で言い放ち、日雨は腰の刀を抜いた。
羅がこの少女を追う理由は定かでないが、カタ・コスモーン機構の依頼を受けて活動するこの職業的テロリストの目的が穏健なものであるはずがない。応戦以外の選択肢は無かった。
何より――この男は、敵だ。
詞木島日雨が敵意を以て立ち向かう相手だ。
「ここで、貴様との決着をつけておく」
「江戸の敵を長崎で討つ、ってかい……ああ、こりゃあ秋津洲人には分からん諧謔だねぇ」
きしっ、と軋るような笑い声を上げて、羅は房飾りのついた腰の刀――大陸で打たれた太刀・苗刀を抜刀する。
「しかし、一端の口を利くにはちィと……早いんじゃないかねぇ――坊や」
「――確かめてみろッ! その身で!」
自分にもう一つの身体がある、とイメージする。架空の血管、空想の神経、幻の筋骨――精神の内に、己の移し身を構築する。
それがデモナイズの手順だ。
頭髪が青白い変色と共に伸び、爪が尖り、四肢に回路図のような文様が浮かぶ。手にした太刀が膨脹し、膨大な魔力で強化された筋力に見合う強度と重量に変質していく。
全力で相対する。羅は入神の域にある達人だ。かつて日雨は手も足も出ずに殺されかけた。
――しかし、
(余は、この男に一度勝っている!)
日雨はあの時失神しており、戦いの行く末を記憶している訳ではないが、状況を鑑みるに間違いない。かつて、羅と最初に戦った時、媒介者として覚醒しこの男を打倒したのだ。
悪魔の秘術は、神域の剣達にも通用する。
――路地裏の石畳を蹴って、一足飛びに羅へ飛び掛かる。担いだ剣を、落雷じみた速度で振り下ろした。
羅は、水の落ちるように身体を沈めた。
回避と攻撃の予備動作が一体となっている――沈墜勁。大地の反発を利用して剣力へと変換する大陸武術の身体操法。
内懐に潜り込まれた。そこからの斬り上げは、こちらの斬り下げよりも最短距離を走る。
羅の攻めが早く届くと判断して、日雨は咄嗟に身体を捻ろうとした。斬撃をすかして回り込み、反撃する意図。
――その目前に、凶刃の切っ先がある。
(……なっ!?)
腰を落とした羅。その手の内に握られているはずの刀は、彼の背を回り込んで右肩からこちらへ向けられていた。
姿勢を低くしたのは、手元を隠す為か――!
「相変わらず――初心な坊やだッ!」
羅は右手で刀身を直接握り込み、身体が泳いで身動きの取れない日雨の肩に突き刺した。
ぶちぶちと肉が裂ける悪寒。
「ぎッ……!」
肉食獣の牙に晒されたような激痛に、日雨はくぐもった悲鳴を上げた。
「カカッ!」
羅はそのまま肩口に突き刺さった太刀を捻り、肉を抉る。焼けるような激痛に、日雨の悲鳴は高くなった。痛感による反射で、自分の刀を取り落としてしまう。
「……離せッ!」
空いた右手で拳を作り、顎を撃ち抜くつもりで振り上げる。
紙一重で躱された。
その一瞬で、左肩の痛みがかすかに和らぐ――羅もまた、太刀から手を離していた。
「仰せのままに王子様、ってかァ!?」
羅は目の前に差し出された形の日雨の腕を、右手で手首、左手で肘を掴んだ。
(擒拿……!?)
逆技で、こちらの右腕をねじ折ろうと羅は力を込めてくる。
だが、デモナイズで強化した肉体ならば、いくら梃子の原理を用いても耐えられるはずだ。
それが道理だったが――直感が否定した。
膝で、右腕を捕縛する手を砕こうと蹴り上げる。
間一髪で羅は飛び退き、日雨は解放された。羅の手の内にはいつの間にか苗刀が拾い上げられている。
日雨も太刀を拾いつつ、肩の傷に霊子を通し治癒力を高め、どうにか両手で握る握力を取り戻す。右手もまた痺れていた――あの一瞬で掛かった負荷の為だ。
「ひゃはっ!」
喜悦を零しながら斬り込んでくる羅に、当てるように受ける。――斬撃が重い。
(やはり……力を強化している!)
デモナイズによる法外な筋力に対抗出来る程、強い霊子を身体に注ぎ込んでいる。
おかしい――最初の戦闘では、羅はここまで自分を強化していなかったはずだ。技術では比べるのも馬鹿らしい程に格差があるのだから、力で圧倒する以外に自分の勝ち口は無い。
それが、今は拮抗している。
その技術の格差が、目に見えて現れる程に。
「少しも技は向上してねぇな坊や! ガッカリさせてくれる!」
「くッ……!」
視野全域を縦横無尽に駆けるように、羅の斬撃が奔る。その全てに骨肉を断つ重みが乗っていた。なんたる多彩な技量か。
日雨は受け太刀で手一杯となる。
そこに、
「動きが固ぇんだよ!」
防御の為に踏ん張っていた足、その膝を蹴りつけられた。
腰が落ちる。その隙に頭上から迫る刀刃。
膝を地面に立て、太刀を横にして斬撃を受け止めた。
そして、がら空きの顎を蹴り上げられる。
「ぐぅッ!」
吹き飛ばされ、空中へ投げ出される。
(こ……このままでは勝てん!)
同じ動き、同じ次元での戦いをしている限り、技術の差が大きすぎる。
人の範疇にある限り。
(ならば、それを越えるまでだ!)
「かぁああああああああっ!!」
息吹と同じ呼吸法で、全身の霊子の循環を、より速く、強くする。青白い燐光が周囲に生じ、体温の高熱に周囲の大気が白く煙る。
滞空したまま、間近の建物の壁を蹴る。
狭隘な地形は日雨を利した。彼は目まぐるしい速度で両端の壁を行き来し、羅の視覚を幻惑する。
死角に占位し、突撃。
羅は軽い横飛びのみで斬撃を躱す。後ろに目でも付いているかのような動きだった。
日雨は舌打ちしつつも、そのままの勢いで飛び上がり、再び壁に取り付いた。
(なら……これはどうだ!)
内懐からスローイングダガーを取り出し、霊子を通して巨大化させ投げ飛ばす。
これも羅は身をひねって回避する。
その程度織り込み済みだ。
空中から釣瓶打ちに投剣を撃ち続ける。防御に専念させ、その隙に斬撃を当てる――
「なかなか……化物じみてきたじゃねぇか? 坊や」
挑発のつもりか、回避運動の最中に羅はそう告げてくる。
「ここの竜どもと比べても大差ねぇ。まぁ、〝上〟の連中よりかはカワイイモンだがな」
偶然にもこちらの苦悩を示唆する皮肉に、日雨の血が一段と熱を持つ。
立て続けに五本投剣する。残弾全てを使い切った攻撃。
その内の一本が――羅の握る苗刀を弾き飛ばした。
生じた勝機に、日雨は全力で壁を蹴り突貫する。
「それでも貴様には勝てるぞ、羅!」
太刀を振り上げ、降下の勢いを乗せて斬りつける――その最中。
神経に通した鬼道で強化された聴覚が、小さな呟きを聞いた。
――豎子。
羅は〝刃に直接手を触れた〟。一瞬にも満たない交錯で、それだけを把握する。
嵐に巻き込まれたかの如く、視界が急変する。
そしてその変化は、大地に叩き付けられる事で制止した。
「がはぁッ!?」
肺が収縮し、呼吸が全て吐き出される。突撃に費やした日雨自身の勁が全て受け流され、石畳を砕き大穴を穿っていた。
「教えてやるぜ、坊や。俺の専門はただの暗殺じゃねぇ――化物退治だ」
落とすように、言葉を述べる羅。
「お前さんみたいな力に奢った化物は、手頃な獲物なのさ」
ざりっ、と靴が地面をこする音がする。剣を拾い上げた羅が止めに近付いてきている。
(動け、動け、動け……!)
したたかに背中から叩き付けられ、脊椎が砕けていた。これを治癒しなければ逃げられない。恐怖に満ちた一瞬の中で、必死に回復へ霊子を回す。
「く……ぁ」
どうにか立ち上がり、羅を睨み据える。
(この程度の力では駄目だ。もっと――もっと!)
更に強く、自身の魔力を身体の強化に注ぐ為に意識を集中させる。
「ば――馬鹿! それ以上は!」
背後から、少女の声が聞こえた。それに加えて、
【警告メッセージ:フランケンシュタイン野のドーパミン濃度が許容値を逸脱。〝NODS〟の危険有。直ちに体内エーテルを基底状態へ遷移させて下さい】
視界の端に、緑色に発光する文字列が浮かび上がる。以前より度々日雨に何かを警告してきた謎の幻影である。
(構うか!)
無視して、力を励起させる――
ぐらり、と。
「……ぁ?」
不意に足が滑り、日雨は地面に転倒した。
足下を見れば――石畳が液状に溶けて、足首まで沈んでいた。
(まさか……幻術!?)
そんな手管まで持っていたのかと、羅を見上げる。しかし彼は、その疑惑を嘲弄するように口元を歪めて告げた。
「限界だな、坊や。〝魔力酔い〟だ」
「オーバー……ドーズ?」
「霊子操作の為のESPの過剰行使に起因する心的不全……秋津洲国じゃ、巫病と呼んでいた症状だ」
それは、秋津洲流の魔術――巫術を習う人間ならまず始めに教わる、術の行使に伴うリスクだ。
――巫覡の業の極意は、己が身魂を幽世に置く事である。
――しかし、常に〝半身は現世に留めよ〟。さもなくば、〝帰ってこれなくなる〟。
巫術の行使の為の瞑想には、心身のバランスを失調する危険がある。術の修得過程において、幻聴や幻視、妄想などの精神疾患を発して病床で暮らす羽目になる修行者は後を絶たない。
ここ数ヶ月――デモナイズの能力を得てからは、その制約を無視して力を使えていた。
(いや……)
思えば、アガルタで竜種の魔獣――魔竜と戦った時にも同じように喪心しかけた。限界が伸びただけで、消えたわけではなかったのだ。
初心者でも持っている心構えを怠り、無計画に連戦した挙げ句に自分の限界を超える力を引き出そうとした。
(なんたる間抜けか……!)
「理解したか、餓鬼め」
悔しさに奥歯を噛みしめる日雨に、冷酷な羅の声が降りかかる。
「お前は、自分の得た力の意味を考えもしなかった。偶然に拾った利器で自分が強くなったと勘違いした、愚かな餓鬼だ。お前は――無思慮な化物になっただけだ」
嘲笑うか、と日雨は屈辱に唸り、見下ろす男へ眼をくれる。
しかし、男の唇は真一文字に結ばれていた。
羅虚虎は、落胆していたのだ。
「……ッ!!」
屈辱を超えて、脳髄が発火したような激情に苛まれた。
喉を、血と骨の生臭さが下る。知らず、奥歯を噛み砕いていた。
この怒りが何に起因するか、日雨は正確には理解できなかった。
しかし、許せなかった。
断じて、このままにはしておけなかった。
(この男、だけは……ッ!)
ぞわり、と陽炎のように髪の毛が揺らめく。
羅と己の間に、取り落とした刀。
手足は全く動かない。
噛みついて、取り上げた。
「へぇ……まだやるってのかい、坊や」
羅の言葉に、殺意を視線に乗せて応じた。
「いいぜ――ここで、お前を終わりにしてやる」
心身の熱気が吐息を暖め、白く立ち上らせる。靄の掛かったような視界の中で、なお凶刃が濡れたように妖しく輝く。
決定的な一瞬が訪れる。
その直前に。
「待ちなよ、無號」
背後から、少女の声が制止した。
この土壇場で何の意味も無いと思えたその言葉は、果たして羅の足を留めた。
男の顔を見る――羅は、明らかに少女を警戒していた。
「……何だ」
「キミは、任務以外の殺しはやらないと思っていたんだけどね」
固い羅の応答に、余裕めかした口調で少女は返した。
続く羅の返事はいかにも不愉快そうだった。
「……別に、モラリストを気取ってるわけじゃねぇ。経済的じゃねぇ、ってだけだ」
「じゃあ、これは経済的だってのかにゃー?」
「やめろ、その口調……反吐が出るぜ。――この程度、小石を払うくらいの手間だ。社会に有害な血気に逸ったクソガキを始末する。ボランティアって奴だよ」
「はぁ? たった二行前のセリフを忘れましたかー? アルツハイマーの検査でもしといた方がいいんじゃねぇの、お・じ・さ・ま♡ 現在絶賛モラルハザード中と自認する極悪非道の殺人稼業・羅虚虎ちゃんが慈善の殺し? アレですか? 正義の心に目覚めちゃいましたかー?」
「……チ」
げらげらと下品な嘲笑と共に当てこすられた羅が、顔をしかめる。
「……何のつもりだ」
「あーあ、すっかりスレちゃったねぇ羅。おねーさんはしばらくぶりに会ったかーわうぃ坊やと楽しくお喋りしたいだけだってのに。警戒心バリバリ、深読みしたくて仕方ないのねぇ。あー哀し」
「喉元に刃を突きつけられねぇと、その戯言は止まらねぇのか」
苛立たしげに羅は吐き捨てる。
「あは――ほんと、可愛いね、キミは」
挑発めいた言葉に、羅虚虎の怒気が名前通り肉食獣じみて空気を浸透する。
それをはぐらかすようにして、少女は言う。
「取引、しよーぜ」
「……取引だと?」
「そ。――今回のキミの仕事を、やりやすいようにお膳立てしたげる」
「……あんたが?」
「うん。ボクが。おやすい御用だ。分かるでしょ?」
自信に満ちた発言に、羅は沈思黙考を始めた。
しかし、相手に冷静である事を許さないとばかりに、少女は立て続けに語りかける。
「キミが、ボクやこの子を害する経済的な理由はない。そして、手を出さない経済的な理由は今できた。これでどう? 見逃してくれる?」
「……まだ、俺の天秤は傾ききってねぇ。――あんたの思惑は俺には読めん。〝あんたが〟そこの小僧を庇う理由もだ」
「疑わしきは罰せよ、って考え方、コスパ悪くない? エコノミストの羅虚虎ちゃん。――それにさ」
彼女は音程を一段低くして、刺すように述べる。
「キミがボクへ抱く殺意も、計略の一部かも。……ボクが、〝そういう者〟だって、キミなら理解してくれてると思ってたけど」
雌の蛇が絡むような口調であった。
絡め取られた雄虎は、苦しむように唸ると一言「くそったれ」と吐き捨てる。屈服めいた響きだった。
「……あんたとそのガキ、二人の命分は仕事をしてもらうぞ」
置き捨てるように告げて、羅は路地裏から立ち去っていった。
あの男の気配が消えた途端、強烈な虚脱感に襲われた。顎からも力が抜け、くわえた太刀が落ちる。
「あーあ、ボロボロだねぇ、キミ」
背後に立っていた少女が日雨の眼前に回り込んでくる。しゃがんで、面白がるような笑顔をこちらに向けていた。
「御前、何者だ……」
あの揺るぎない殺し屋を自分の意図通りに操り、撤退させた。驚愕を滲ませて日雨は問いかける。
彼女は、答えた。
「エルザ。エルザ・フランケンシュタイン」
そして日雨の意識は喪失した。
微睡みの中で、自分は眠っていたのだと理解していた。かなりの時間が経っているとも、緩んだ筋肉の感触から知れる。
なのに、眠る前と同じくエルザ・フランケンシュタインの顔が間近にある。
むしろ近くなっている。
「お、起きた? おはよ」
「~~~っ!?」
日雨は転がるようにしてエルザの顔から身を離す。身体にかかっていた布団が吹き飛び、宙に舞った。
ベッドから転げ落ち、飛んだ布団が頭上に戻って来る。
被さった掛け布団の隙間から、起き上がってベッドに座り込んだ姿勢の金髪の少女が見える。
下着姿だった。
「な……え、あ?」
舌がもつれて言葉にならない。――下着という秋津洲国では馴染みのない衣類の意味を、日雨はこの間、くららから切々と説かれていたのだ。
白い精緻なレースの下着とそれに劣らない輝く肌を見ている内に、自然と脂汗が流れ、喉がからからと渇いてくる。美しいものを視界に収めているはずなのに、ストレスを感じられてならない。辺りを見渡しても、屋内の寝室らしき部屋の内装が見えるばかりで、この窮状の救いになるものはどこにもない。
「おやおや? なんで土下座すんの?」
気付けば日雨は白鳥の如き華麗なフォームで土下座を敢行していた。――彼は下着がどういうものか理解した時も、くらら相手に同じようにして詫びている。
「あっははははは……キミはホントに初心な子なんだね。なんか新鮮だよ」
からかうように告げるエルザに、日雨は自分の顔が熱くなるのを感じていた。
「うん、色んな意味で新鮮――キミは、完全にボクを女だと認識してるんだねぇ」
「えっ? 男なのかそなた」
「違うって。……察しの通り、機傀悪魔の応現体だよ、ボクは」
「うむ。……で、女子という事でよいのだな?」
「い、いやだから」
「そなたが男だと、余はかなり驚天動地である。人生観に大いに影響する大事なので、はっきりして欲しい」
「……ああ、うん、いいです。ボクはひゃくぱー女。性染色体はえっくすえっくす。一人称もキャラ作りの一環。納得したかコンチクショー」
「うむ。では余は布団を被って待っているので着替えるのだ。下着姿の女子と会話するなど、どうにも落ち着かんので」
そう告げて、日雨は返事も待たずに寄居虫のふりをする。
「はいはい、分かったよ……キミ、空気読めない子ってよく言われるでしょ」
「うむ。妹がよく言っておる。あやつの言う事は難しくてたいがいよく分からん。空気になんか書いてあるわけでもないし」
「妹さんの苛立ちが現在進行形で共感できる……」
どこか沈痛とした響きで言うと、もぞもぞと衣擦れの音がし始める。
「ほら、できたよ」
数十秒でそう告知してくるエルザ。
「早くないか?」
「着替え、得意なんだよねー。着るのも……脱ぐのも、ね」
「ふーん」
「リアクションが薄いよぅ……」
素直に感心したのになぜか不満らしいエルザを無視して、布団を剥いで立ち上がると、ベッドから降りた彼女の姿態が見えた。
白のブラウスに黒のリボンタイを合わせた、詩乃目くららの時代の女学生を思わせる装いである。その他、髪を短めのポニーテールにくくるリボンと、上着にしたベスト、下に穿くスカート、タイツ、ファー付のニーハイブーツなどの色合いはほぼ黒系でまとめている。
色彩としては地味で、最低限の動きやすさを意識しているのに、匂い立つようなコケティッシュさがある。自分の美観の質を十分理解した上での着こなしであった。
「おお~、確かに早い。すごいのー。一芸として通用しそうだのー」
「はいはいはい、女の子がおめかししたらまずルックスを褒めようね小僧っ子ー」
額に青筋立てて、しかしにこやかにするという妙な顔芸をしつつエルザは言う。
「む。それはすまん」
詫びを入れつつも、反論が口をついて出る。
「しかしお主は、容姿を褒められ慣れておるように見える」
「ま、ねー。でも礼儀として。や、そのセリフも婉曲的な表現としてはアリだけど? 女の子はもっと率直な物言いが欲しいの。分かる?」
などと言い立てつつ、詰め寄ってくる。かすかな香水の香りがした。
「よく分からんが……しかしお主、見目の割に……姉か母のような感じだのぅ」
「む」
エルザはなんとも複雑そうな顔をした。
「どうした?」
「んー……意図したのとは違うけど、むしろ意表を突かれたっていうか。今の、割とボクのツボだよ、キミ」
「そうなのか?」
「うんうん。普段ロリ系で攻めてるから、オトナの色気に溢れるお姉様とか、広大な包容力を誇る地母神様なんて言われるときゅんとくる」
「そこまでは言っておらんのだが……」
その図々しさは確かに姉か母っぽい。
「だから、ひとまずは許してあげよう」
偉そうな物言いと共に、子供っぽく笑顔を見せるエルザ。蠱惑的な容姿との格差に、軽く日雨の心臓が跳ねた。
この少女と、さっきまで同衾していたのかと思うと気恥ずかしかった。
「のぅ、なぜ余はそなたと共に寝ていたのだ?」
前に一度、モクレントレイの下宿でくららと一夜共にした事があるが、その時は家具を間仕切りに一応の体裁は整えたのだ。婦女子とここまで接近して眠った事は無い。
「う゛……なんか急に妙な罪悪感が」
くららの事を思い出すと、現状にやたら不安感が出てくる。由来の分からない違和感に、日雨が胸を押さえて唸っていると、
「〝NODS〟は視床下部や自律神経にもダメージが行くからね……ホメオスタシスに異常が出て、体温が下がり続けてたんだよキミ。で、ボクのアジトに匿って古式ゆかしいヒトハダ療法をしてさしあげたってワケ」
「……ノッズ?」
「羅も言ってた魔力酔いのコト。神経伝達物質の過剰分泌による疑似統合失調症……常駐ナノマシンにAR表示で警告されたでしょ?」
「え、エーアール? 神経……統合……?」
日雨が未知の語彙をまくしたてられて目を回していると、エルザは深くため息をついて口を尖らせた。
「初歩の初歩だよ? キミの機傀悪魔はそんな事も教えてくれないの?」
「いや……あやつは」
蔑むような口調に、反射的に反論が口をついて出る。だが、はっきりとした言葉にならなかった。
機傀悪魔セイタンの応現体である詩乃目くららの情報を、日雨は知らない。
彼女自身が知らないからだ。
セイタンとして活動していた時期の記憶を彼女は一切持っておらず、文明の再構成以前の女学生として生きてきた頃と今現在までの長い期間が、全くの空白なのである。
この旅は、それを探す為のものでもある。
(つまり……これは良い機会なのではないか?)
敵対し、ろくに会話もできなかったガラテイアやミラーヴの時と違い、コミュニケーションの取れるエルザからは、重要な情報が聞き出せるだろう。
機傀悪魔とは何か?
それを保有する幽霊国家、カタ・コスモーン機構とは?
「のぅお主、なんで羅虚虎に追われておったのだ?」
とっかかりにそう問いかけると、エルザはベッドに腰掛けて語り始めた。
「連合王国、第四帝国、無形なる国家……カタ・コスモーン機構の加盟国にボクは所属してないからねー。放置しておくには厄介な存在だもん」
「そういう機傀悪魔もいるのか?」
「そりゃそーでしょ。今挙げた三国がそれぞれマモン、ベルフェゴール、ベルゼビュートの三機の主機を保有してるんだから、それ以外の四機と、その眷属機は連中の支配下にないんだし……え、なに、その生まれたての子鹿みたいなつぶらな瞳は。まさかそこから知らないの?」
「うむ!」
「頭痛くなってきた……」
実際苦痛を堪えるようにしばし頭を抱えた後、エルザはおもむろに部屋から退出し、キャスター付の黒板をがらがらと引きずってきた。白衣を羽織り、眼鏡までかけている(この手の解説系女子の正装なのだろうか?)。
かっかっ、とチョークで文字とイラストを書いて説明を始める。
「いーい? 機傀悪魔のメインエンジンである〝クリフォト機関〟は、人類の感情を源泉にして稼働するの。人間の、つよーい感情をね」
「強い感情?」
「悪意だよ」
たった一言端的に、疑問を挟む余地無く彼女は告げた。
「で、クリフォト機関ってのは、その悪意を七つの型に分類して、それぞれ一つの感情をエネルギー源として抽出する仕様になってんの。だから機傀悪魔はそれに沿った系統分けがされてるんさ。暴食、強欲、怠惰、色欲、傲慢、嫉妬、憤怒」
かなり早い手さばきで、イラスト化された機兵が黒板の上に七体並ぶ。
「こいつらは〝開発した組織〟からして違うから、設計思想、建造時期、果ては投入された戦場まで異なるんだけど、共通してるのは、一つの系統に基づいて開発された機体の内、最も〝最初期の目的に近付いた一機〟を≪主機≫なる長機として、他の機体を≪眷属機≫って僚機として運用する事」
更にエルザは、七機の周囲に複数のロボットを書き足していく。
「この主機には、強欲のマモン、怠惰のベルフェゴール、暴食のベルゼビュートの他に、色欲のアスモデウス、傲慢のルシフェル、嫉妬のリヴァイアサン、憤怒のセイタンってのがいるの。て言っても、ルシフェル、リヴァイアサン、セイタンは既に喪失してるんだけどね」
「……セイタンも?」
「? なんでそこだけ食いつくの?」
「いいから」
「ま、いーけどさ……セイタンは他の二機とも違って、理由の分からない全くの〝消失〟……戦闘中行方不明だったって聞いてる。機構は星系全域にまで観測精霊を飛ばして捜索したのに、痕跡一つ見つからなかった」
エルザが黒板消しで、セイタンらしきイラストを一息に消し込むのを眺めつつ、日雨は考え込んだ。
(どういう事だ?)
消失したはずのセイタン――くららを、日雨は大陸東端付近の半島、その樹海で発見した。
確かに大陸人にとっては踏破の困難な秘境であったが、宇宙まで支配圏を伸ばす機構にとってそれ程捜索の難しい場所とは思えないのだが……
「続けていーい?」
「う、うむ」
上の空だったのが不服そうに、かつかつとチョークで黒板を叩くエルザに、先を促す。
「機構の支配下にない機傀悪魔は、四機の主機だけじゃなくて、その眷属機も含まれてる。つまり、半分以上が手の内にないワケ。だから連中は、機構に非所属の機傀悪魔を取り込むか、破壊するかしたがってんの」
「お主も、その一人という事か?」
「ん。そ。機構と敵対してるジラント皇国は絶好の隠れ蓑だかんねー。我ながら上手いコト潜伏できたと思ってたんだけど……」
「羅に見つかったと」
「うんうん。あの子とは、機構うんぬんよりも個人間で因縁浅からぬモンがあってねー。……ほんと、キミには助けられたよ。感謝してる」
エルザの柔らかい微笑みが、こちらへの偽りない感謝を意味していると分かる。
胸が、痛くなる。
「余は……何もできなかった」
デモナイズという法外な力を得てなお、手も足も出ず敗北した。最初の会敵で子供扱いされた挙げ句に心臓を抉られた時と、何ら変わらない。
(いや……)
――お前はただ、無思慮な化物になっただけだ。
失望と共に下された言葉が、逆鉤のついた銛のように胸に突き刺さって消えない。
「んー、そーでもないよ? キミが状況を引っかき回してくれなきゃ羅の心変わりを引き出す事は難しかったかんねー。ボクってば、あのやろーにゃ百回ブッ殺されてもおかしくないくらい恨まれてるし」
「一体何をやったのだお主……」
あののらりくらりとした男に、本気の殺意を抱かせる方法など日雨には想像もつかない。
「ふふーん。男と女のイ・ロ・イ・ロ♡」
あはーんっ、とかしなを作りつつのエルザの発言――日雨は慄然とした。
「まさかあの男……童女趣味なのか?」
「い、いやいやいや……ボクってこんな見た目だけど千年単位で生きてるし、あいつにも少年時代があったワケで。そりゃあ、今現在のビジュアルを基準にすると犯罪臭がハンパないけどさ……」
「おお、そうか……よかった……本当によかった……」
そういう意味での犯罪者を仇敵と呼ぶのは、嫌だ。
「まぁ、気を落とすコトはないよ」
エルザは慰めるように告げると、黒板に文字を書き連ねた。
〝There's more ways than one to skin a cat〟
「腕っぷしの強さは便利なステータスであっても万能の利器じゃあない。キミが羅より強かったとしても、それが最良の結果に繋がるとは限らないよ。……ま、つまり結果オーライってコト」
「しかし! それでは……!」
衝動的に、日雨は声を荒らげてしまう。拳を痛む程握り、レフ、リューリク、羅の三人に味わわされた敗北を噛みしめる。
「弱ければ、奪われるままだ……」
唇を噛んで、絞り出すように言葉を吐く。
「……ふぅん」
エルザは、猫のように挑発的な笑みを浮かべた。
「仲間を人質にされてサシチザーニイに出場する人間って、やっぱキミなんだね」
「……なぜ知っている?」
「あんまナメんなよ~? ボクってば旧世界から生きてる古強者だぜ。生存戦略是即ち情報収集。耳の早さは息の長さってね。自分のテリトリーにはきっちり情報網整備してるっての」
(うすい)胸を張り、自慢げに語るエルザに、日雨は真っ正直な感嘆を口にする。
「おー。それはすごい耳年増っぷりだのぅ」
「おいおいおーい、言葉の使い方をクッソ盛大に間違えてるよー小僧っ子ー。思わずエルザちゃんのイケない個人授業(不眠不休絶食・一〇〇時間耐久)を課業しちゃうトコだったぞー」
にこぉっ……という効果音で笑いかけてくるエルザ。手元を見ると、チョークを手の中で粉末になるまで握り潰している。
怖い。
「……こほん。――ま、近頃諸事情あってシヴィル・シーチは相当ゴタついてるから、牙の城の動静は常に伺ってたワケさ。サシチザーニイの戦利品に人間の女が登録されたと聞いて……しかも、一人は国の滅亡以来行方不明だった秋津洲国の第一王位継承権保持者、月天宮だってんだから、驚き桃の木山椒の木ってぇモンよ」
エルザが口にしたのは夜見の宮号。忌諱の習慣がある秋津洲国での王族の異称である。
東方の島国に過ぎない秋津洲国の王女について知悉している彼女は、確かに相当な情報網を持っているらしい。
「で、知り合いに裏取ってみたら、その子たちを賭けて人間の男の子がサシチザーニイに挑むって追加情報まで聞けてねぇ。……いやはや、久々に胸が熱くなったね。心躍る無謀っぷりだ」
「……他人事だと思って」
「ひひ。わりいわりい」
不満の声を日雨は上げるが、エルザは悪びれもしない。
まぁ、実際他人事である。
これは日雨自身が解決しなければならない事だ。
(奪われたものを、取り返す……その為には、)
必要な事を、しなければならない。
「そなた、羅虚虎と取引すると言っていたな」
エルザに問いかけると、彼女は頷いて、
「あいつの抱えてる仕事を援助するのが、助命の条件だしね。実はキミが寝てる間に、仕込みは済ませてる。後は直接会合して詰めるトコ」
「そうか」
日雨は、一つ息を吸い込んだ。
告げる。
「その場に、余も居合わせたい」
日の沈まない街では、空模様で時間帯を判断する事は難しかった。早朝であろうとは、今日雨が佇む広場の人通りの無さから推察できるが。
いや、もう一つ。
「そろそろ……かな」
エルザは手元の小さな円盤を見下ろし、そうつぶやく。ガラスで保護された盤面に二本の長さの異なる針がはめ込まれ、規則的に動いている。何かの機械のようだった。
日雨の知識では、方角の吉凶を占う遁甲盤に近いが。
「時辰儀か」
「お。分かる?」
「故国で、見た事がある。もっとも、余が見たのは持ち運びなどできん大きさのものだったが」
「懐中時計、っていうんだよ」
聞き慣れない名前を述べると、彼女はその懐中時計の蓋を閉じて懐にしまった。黒い帽子のずれを直し、コートの前を締めながら寒そうにする。竜が活動しないこの時間帯は、気温が本来の寒冷地のそれに近付くらしい。
主要な街路の合流するらしき広場は、物寂しい程に広く、冷えた石畳の冷気も足下から伝わってくる。
白い息を吐きながら、エルザは言った。心配そうな声音だった。
「もう一度念押ししとくけど、いきなり羅に喧嘩ふっかけたりしないでね。どうもキミも、あいつとは因縁があるようだけど……今度は見逃しちゃくれないよ」
「分かっている。そのつもりで来たわけではない」
そう答えたものの、彼女は不服そうだった。こちらの意図が未だ読めていないからだろう。日雨は羅との談合に同席する理由を彼女に明かさなかった。
言葉少なに、ただ立ち尽くしているだけだ。
――羅は、もう一度エルザが懐中時計を覗いた時にやってきた。長針が、次の数字を指し示す頃合いだった。
「よぉ」
真後ろ数メートルの位置に近付かれるまで、気付けもしなかった。日雨たちは広場の中心に立っていたというのに。
振り返り、対峙すれば虎の檻に放り込まれたような圧力を感じる。濃厚な暴力の気配を朧のように隠蔽する陰形の技巧は、魔技と呼ぶに相応しい。
「女を待たせるって、どういう了見だよ羅。おめかしでもしてきたかぁ?」
日雨の目からは、一切動揺していない風にエルザが煽り立てる。内心で冷や汗をかいていてもおかしくない――この男が今心変わりをすれば、日雨も彼女も首が胴から離れる。
はん、と嘲笑混じりに羅は応じた。
「ドブ浚いだよ。この見晴らしの良さだ。狙撃手でも潜り込ませてねぇかとな」
「にゃは。信用ねーなぁー」
肩をすくめて心外といったゼスチャーをするエルザに、牙をちらつかせるように羅は言った。
「十年ばかし前にあんたから喰った手だ」
「……過去の事は水に流して未来志向の友好関係を結ぶ事こそステークホルダー間のシナジーによるイノベーションを実現する為に緊要なビジョンであるとワタクシは愚考致します」
「急に何言ってるのか分からんようになったぞ」
動揺のあまり曖昧な政治家答弁になるエルザであった。
「チ……下らんお喋りが増えたな、あんたは」
「ふふ……常に女は変わるモンだぜ、坊や」
「……仕事の話をしろ」
苦いものを舐めたような顔をして、羅は言い捨てる。
「キミは変わらないね。相変わらずせっかちだ……そう睨むなよ。この件の〝協力者〟を呼びつけてる。そいつが来てから話をしようや」
「……ふん」
手玉に取られる感覚を覚えたのか、鼻を鳴らして顔をそむける羅。
――二人の間に、一歩日雨が進み出た。
「なら先に、こちらの用を済ませたい」
「……なんのつもり」
警戒するような顔のエルザを無視して、もう一歩羅に近付く。
「ハッ、早速昨夜の報復をしようってか。威勢がいいねぇ」
面白がるように羅は告げ、帯剣の柄頭を軽く叩く。
「羅虚虎」
日雨は、目前の男の名を呼んだ。自分もまた、腰の太刀の柄を握りながら。
「……」
この男の斬撃の間合いに、これほど長く留まるのは初めてだった。彼の眼光は卑しく、表情は常に他者を嘲弄するように歪んでいる。
外道である。
国の仇である。
母の仇である。
憎んでも憎み切れない相手である。
そして――最強の剣士である。
「……?」
恐る恐る両者を伺っていたエルザが、怪訝な眼差しを送る。
日雨は太刀を――納刀したまま留め具から引き出した。
石畳に膝を突き、剣を横に置いて両手を添える。
「――何のつもりだ、手前」
その所作の意味する所を羅は知っていた。その声には、かすかな強張りが聞き取れた。
日雨の取ったこの体勢からは決して相手を害せない。
秋津洲国の剣術諸流において、一般的な――弟子入りを請う時の作法である。
「そなたに師事したい」
頭を石畳につけ、嘆願する。
しばしの沈黙があった。どういう意味のものかは、顔色の見えない日雨には分からなかったが。
「……馬鹿じゃねぇのか」
「そなたがエルザに手を出さないのなら、戦う理由はない。余には喫緊に強くなる必要がある。その為には、そなたの剣技を学ぶのが一番だと思う」
合理的な理由を並べたつもりだったが、相手からは苛立たしげな反論が返ってきた。
「巫山戯た事言ってんじゃねぇよ。俺は、お前の……仇だろうが。もう恨みを忘れたとでも言うのかよ?」
忘れてなどいない。
この男に頭を垂れるだけで、屈辱に腸が煮える。柄にかけた手が震え、かちゃかちゃと音を立てている。
しかし、およそ半月程度で竜種と戦う力を得るには、これしか方法が無い。
「――伏してお頼み申す。羅虚虎殿」
平身低頭のまま、日雨は羅に希った。
「……」
更に長い沈黙が訪れた。
もう一度、舌打ちが漏れる。
「てめぇは――」
「おや? 取り込み中だったか?」
思わず日雨は顔を上げた。突然闖入してきた声は、聞き覚えのあるものだった。
「リューリク……!?」
広場に接続する街路の一つから悠然と歩いてきたのは、銀髪の巨漢、リューリク・ジランタウだった。
(この男が、なぜ……?)
「……どういう事だ」
見れば、日雨が抱いたのと同じような疑問の眼差しを羅はエルザに向けていた。
彼女はそれを受け流し、リューリクに声をかける。
「あーそーだねリューリク。せっかく面白いものを見れてたってのに、間が悪いぜ」
「俺にしちゃあ遅れずによく来れたと自分を褒めてやりてぇトコだが。ハハ、気まぐれに早起きして損したな」
ズボンのポケットに手を入れつつ、軽佻浮薄に返すリューリク。
「……そなたら、知り合いか?」
「旧いダチさ」
そう告げて、リューリクは羅虚虎にも手を挙げ、気さくに呼びかける。
「お前も、久しぶりだな。あれから半月か?」
「……知り合いか?」
もう一度同じ事を日雨が問いかけると、リューリクは剛気な笑顔を浮かべて答える。
「おう、深い仲だぜ。命のやり取りをする程にな」
その言葉の真意を問い糾す前に、羅がエルザに犬歯を見せて言い放つ。
「……確かに、狙撃手なんてチャチな罠じゃあ無かったな。恐れ入ったぜ」
肉食獣めいた獰猛な表情を浮かべると、羅は腰を落とす。臨戦態勢に入っている。
その威勢をくじくように、エルザは身振り手振りで言ってきた。
「早とちりすんなって。このリューリクおじちゃんが、今回の件の〝協力者〟なの」
「……この場に常識人は俺だけか? 親の仇に弟子入りしたがる馬鹿なガキだけでもウンザリだってのに――自分の暗殺に手を貸す蜥蜴野郎とはよ」
苛立たしげな羅の発言に驚愕する日雨に、エルザが説明してくる。
「今回、羅が依頼されたのはリューリク・ジランタウの暗殺ってワケ。長年機構に敵対してきたジラント皇国の重鎮、国父リューリク。その首の値打ちは計り知れないかんね」
「では……あの時襲ってきた機動甲冑も?」
問いかけると、リューリクは軽く頷いて答えた。
「そういうこった。――どうも、シヴィル・シーチに滞在してからやたら付け狙われるようになってな。あん時ゃこっちから打って出て、連中に誘いをかけたんだ」
「だから、釣りか……羅もその一派だと?」
「おう。一度襲われたがよ、軍隊よりもよっぽど面白ぇケンカが出来たぜ」
それが楽しくて仕方ないとばかりに、綻んだ顔をするリューリク。
改めて羅を見る――羅はこの竜の王と、互角にやりあったというのか。
即応の構えを解かない羅を、エルザが手で制した。リューリクに向けてにこやかに語りかける。
「そいつぁハッピーな事だねリューリク。ボクらみたいな長い時を生きるものにとっては、退屈が一番の絶望さ。……そのスリルを、もっと楽しんでみる気はないかい?」
「……何を言ってやがる」
彼女の意図を問い糾したのは羅だった。
エルザは羅とリューリクの間に立ち、裁定でもするように答える。
悪魔のような、笑みを浮かべていた。
「そこの子の代わりに、羅がサシチザーニイに出場する」
「……えっ?」
唖然とした日雨を差し置いて、彼女は説明を続ける。
「羅は試合中の事故って形で、暗殺の機会を得る。――リューリク、白昼堂々試合で羅の相手が出来るのは……キミにとっても、メリットのある提案でしょ?」
言い含めるような口調に、水を向けられたリューリクは、何かを天秤にかけるように日雨と羅を見比べた後に答えた。
「確かに……悪くねえな」
「キミも」
エルザは次に、日雨の方に語りかけた。いかにも優しげな表情だった。
「正直、キミが竜と戦うのは無謀だと思う。……人質にされたキミの仲間を救うには、これが一番効率が良い」
「……」
真綿でくるむように、納得を促す口調に日雨は沈黙する。
確かに、それが最良の方法ではある。
いかにも不可能な挑戦をせずに、可能性のある他者に身を委ねる。意地を張る意味はない。羅に弟子入りを願ったのと同じだ。プライドよりも仲間の命を優先するのが当然である。
正しい道、である。
「……分かっ、」
合意を、日雨は口にしかけた。
その瞬間に――顔面を羅に蹴りつけられる。
「づっ!? ……なッ、何を、」
「黙れ。そこから先を口にするんじゃねぇ」
冷徹に告げて、羅は蹴り倒した日雨を背にしたままエルザとリューリクに対峙する。
「てめぇらのペースに乗る気はねぇ」
「へぇ……あくまで自分の流儀に徹するかい兄ちゃん。――ま、ここでやり合うのも悪くないな」
「馬鹿が。誰がこんな不利な状況でてめぇみたいなバケモンと戦うかよ。――条件を吊り上げさせろ」
そう言って、羅は、親指を後ろの日雨に向けた。
「俺は、コイツと、タッグで出場する」
不可解な提案に、羅以外の三人ともが訝しんだ。それに構わず、彼はリューリクに卑しげな笑みを浮かべて言った。
「まさか、卑怯たぁ言わねぇよなァ? 元より人間二人分以上の超越種サマだ。これくらいハンデにもなりゃしねぇ」
「ちょ、ちょっと羅! 勝手に決めないでよ!」
「うるせぇ」
一言で切って捨てると、羅は日雨の方に近寄り、屈み込んだ。
胸ぐらをきつく掴みあげて、尖った声音で告げる。
「事情は掴めた。――俺が一人で勝つなら、戦利品も俺のモンだ。セイタンの嬢ちゃんは機構に売り渡す」
「……!」
「それが嫌なら、弾避けくらいにはなってみせろ」
見下すような言葉に、言い返す。
「……リューリクの暗殺に荷担するつもりはない」
「なら、〝俺にも勝ってみせろ〟。てめぇは俺みたいな卑しい暗殺者とは違う、王の子だってんだろうが。てめぇの力で、全てを掴み取ってみせやがれ」
挑発じみた文句に、冷えた血管が熱を持つような感触を覚えた。
日雨は掴む手を払って、自らの足で立ち上がる。
「望む所だ!」
叩き付けるように言い放つと、羅は、はん、と鼻を鳴らして引き下がった。
「ね、ねぇっ。少しはボクの話を、」
ぱぁんっ!
「――いいぜ」
右拳で左掌を打ち付ける事で盛大な音を立て、リューリクは言った。喜悦の感情で筋肉が膨脹し、先ほどより大きな威圧感を発散している。
「よほど面白い展開になってきたじゃねぇか。乗ったぜロゥ。そこの小僧とアレーナを駆け上ってきな。俺は、逃げも隠れもしねぇ」
「カカッ――さっすがお偉い元竜皇サマだ。気風がよろしくていらっしゃる。この卑しい下賤の者としちゃあ、その隙に出来るだけ〝欲張らせて〟頂きたいモンだ」
「いいぜ。獲れるならよ。ただし〝コイツ〟は、二千年以上生き延びたプレミア物だ。テメェの器が合わねぇなら、たっぷりツケを持っていくぜ」
自身の首に手刀を当てて、挑発的に告げるリューリク。
「うああああん……無骨なオスどもがボクの華麗な計略を全力でシカトして女人禁制の脳筋ワールドに入り浸ってるよぅ~……」
視界の端でめそめそと泣くエルザを、この場の誰も気にしていなかった。
――リューリクが立ち去った後、羅は地面に落ちた日雨の刀を拾い上げて、乱雑に放ってよこす。
「今のままじゃてめぇは弱すぎて使い物になりゃしねぇ。サシチザーニイ開催まで、多少は仕込んでやる。……俺の仕事の為だ」
「……ああ」
師弟の礼は必要無い、という事らしい。日雨としても、そちらの方が遥かに気が楽だ。
「明日までに手頃な場所を見つくろっておく。今日は傷を治して体力を取り戻すのに専念しろ」
そう告げると、陰形を使わずただ歩いて羅は街中へと去って行こうとする。
その足が、一度止まった。
「一つ、聞かせろ」
「……なんだ?」
「てめぇの流儀の話だ」
羅は振り返って、日雨を見据えながら問いかける。
男の口から出た言葉は、予想もしていなかったものだった。
「お前は……日向昴の弟子か?」