<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


No.40146の一覧
[0] 窓の中のみずいろ[午後12時の男](2014/07/05 11:18)
[1] あとがきのような[午後12時の男](2014/07/04 18:57)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[40146] 窓の中のみずいろ
Name: 午後12時の男◆6ff986fe ID:75ad1998 次を表示する
Date: 2014/07/05 11:18
 その日のうちに、彼女が嬉しそうに歌っていた歌の翻訳をしてみた。
 彼女の歌には、複雑な歌詞はない。
 同じような意味の言葉を、違う旋律、違うリズムで、繰り返し繰り返し歌い上げ、訴えるのが彼女の歌であるらしい。

 ――どうか、どうか、元気を出して。
 ――どうか、どうか、元気を出して。
 ――あなたは決して、一人じゃないから。
 ――私がいつも、一緒にいるから。
 ――だから、どうか、元気を出して。


#1

 一日の始まりは、いつものごとく最悪だった。
 もっとも、外界から隔絶され、外を見渡す窓ひとつないこの施設には朝も夜も、最早意味のない概念にすぎないのだが。
 生命維持装置の空調機能はとっくの昔にコントロールを受け付けなくなってしまっていて、館内温度は摂氏四度に固定されたまま動かない。非常用に残された安物の毛布では寒さを防ぎきれず、骨まで凍えて関節の痛みに彼は目を覚ます。それが彼にとっての「朝」であった。
 最早ごみ溜めと大差なくなった宿直室から抜け出し、ぎしぎしと軋む身体をこらえて衣服を脱ぎシャワーを浴びる。
 水は循環式だから節約の心配はない。水温が温まるまで待って、水勢ノブを最大までひねって頭からかぶる。
「……ふ」
 熱湯の豪雨に身を任せ、肌からじんわり熱が体の芯までいきわたる感覚に、呻きに似た喘ぎが漏れた。
 石鹸の類はもう二週間前に尽きてしまった。ボイラーもいつ壊れるかわからない。いつの間にかシャワーを浴びること自体を贅沢と感じてしまっている自分の環境には気が滅入るものがあるが、もう何を言っても今更だ。居る筈のない神に祈りを捧げたところで事態は好転などしない。
 それでも彼が絶望感に苛まれていないのは、ひとえに「彼女」がいるからだろう。
 何とか身体が温まりきったところでシャワーを終え、非常食料の山から固形食糧を鷲掴んでむさぼりつつ、髭を剃る。
 そんな自分の行いが不意におかしくなって、小さく笑う。
 前の交際相手には無精髭を咎められても直さなかったくせに。荒れきった生活の中でこれだけは止めるに止められなくなっていた。
 「彼女」の世界にとって、身だしなみにどれほどの意味があるか、知る由もないというのに。
 鏡に顔を寄せ、剃り残しがないのを確認してから、彼は宿直室を後にした。
 光を取り込む窓もなく、省電モードの非常灯によってのみ薄暗く照らされた廊下は深夜の病院を思わせるものがあるが、最早慣れたもので、不気味とも何とも思わない。
 シャワーを浴びて身体は温まり、とりあえずの腹ごしらえも済んだ。幾分軽やかになった気持ちで彼は薄暗い闇の中を歩いて行く。
 何も恐れることはない。闇の先には、「彼女」がいる。
 闇の中、ところどころ壊れて床に散乱した資材をかき分けるようにして進むこと約十分。
 「境界接続室」というプレートが埋め込まれた扉を開き、中に入る。
 そこには光があふれていた。
 場所としては本来何の変哲もないはずの、三メートル四方程度の小さな部屋である。
 しかし今、計器類が置かれただけの殺風景な部屋は、淡い青色に染まった光の揺らめきによって、奇妙に異世界めいた空間に染め上げていた。
 光を放っているのは、扉のちょうど反対側の部屋の壁に埋め込まれたディスプレイ。それがおそらく、この施設で現状、唯一外界へとつながっている「窓」である。
 もちろん、外界といっても単純な意味ではない。火星の衛星に建設されたこの施設に、こんな広大な「海」など存在するはずがない。
 そう、窓の向こうに移っているのは、海だった。
 どこまでも青くどこまでも深く、水面から落ちる幾筋もの光条が画面のなかで穏やかに揺らめいている。
 窓のそばに行き、コンコン、とノックをする。
 まるでその瞬間を待っていたかのように、窓の中に「彼女」が飛び出してきた。
『こんにちわ』
 くるりと器用に水の中で一回転した後、どこか照れくさそうに微笑みながら、彼女は指先を窓に押し当て、文字を綴る。
 相手に何の字を書いているのかわかるように、ゆっくり、ゆっくりと。
 だから彼も、それに倣って同じように綴っていく。
『こんにちわ』
 それが、二人のあいさつだ。
 彼が彼女に教えた、初めての「こちら側の言葉」である。
「こんにちわ」
 改めて口でそうつぶやき、彼は窓の中に浮かぶ彼女を見上げた。
 もし生物学者が彼女を見る機会があったなら、おそらく卒倒していただろう。
 彼女は、いよいよ終焉を迎えようとしている人類の歴史の中で、単なるおとぎ話の中の存在として科学の外側に追いやられていた、架空の生き物そのものの姿形をしていた。
 幼さを多分に残した可憐な顔立ち。緩やかな曲線を描く髪がふわふわと揺らめいているのは、彼女が水の中にいるためだ。
 肉付きの薄い胸元も、まろやかな曲線を描く腰のくびれも、上半身は恥ずかしげもなくさらけ出されている。
 艶っぽくも愛らしい人間の少女の形を示す上半身に対し、異質なのは、下半身。
 本来ヒトの身に備えられている筈の脚はそこになく、窓の奥と同じく青色にきらめく鱗と、その鱗に覆われた魚そのものの尾ひれが彼女の下肢には備わっていた。
 人魚。
 異形の美少女は、にこりと微笑みながら、これもまた彼に教わった言葉を窓に綴っていく。
『きょうも おはなし たくさん しよ』
「そうだね」
 いつも変わらず寒々しい生活を送る中で、しかし彼女はいつもと変わらぬ暖かい微笑みを向けてくれる。
 いつもささくれ立っている気持ちも、明日への焦りも、彼女とともにいる間だけは、彼は束の間だけ忘れることが出来た。

 ――約束された滅びの中で、彼が最後に出会った恋人は、決して触れ合えない窓の向こうにいた。

 #2

 <EM>と名付けられた人類にとって初めて遭遇した地球外知性体が、いかなる生態を持つ存在だったのかを、結局人類は知ることができなかった。
 太陽系外から飛んでくる微弱な重力波に乗せられたメッセージを意味のあるものとして気づき、解析し、何とか意思疎通を図ることができた矢先、「彼ら」――<EM>との関係が破綻したからである。
 人類を敵性存在として認識した彼らは、人類には抗い得ない方法でもって攻撃を開始した。
 言語を失う――思考能力を奪うという攻撃。
 じわじわと思考の中から言語が――単語や文法が失われ、意思疎通ができなくなる。
 ヒトの身どころかコンピューターネットワークにすらその効果は蔓延し、宣戦布告から一年経つ頃には、世界を情報で繫いでいたネットワークは壊滅し、特別に隔離されたものを除いて、世界のほぼすべてのコンピューターは簡単な計算機能すら出来ない役立たずの箱と化した。
 世界を支えるインフラは壊滅し、飢えと不安に駆られた人々は暴徒と化し、世界各所で暴動と略奪が繰り返された。
 人類には反撃する手だてもなく、僅かに残った理性的な人々は、破壊された知識の断片を頼りに、この不可解な攻撃から逃れるすべを模索した。
 地道なものから荒唐無稽なものまで――科学からオカルトまで、とにかく少しでも望みがあるなら打開策がひねり出され、そしてそのすべては失敗に終わった。
 火星の衛星の一つ、フォボスに建設されたこの研究コロニーで行われていた実験も、そんな荒唐無稽なものの中の一つである。
 彼とその同僚たちが模索したのは、敵性戦力となった<EM>とは別の地球外知性体の発見、および交信である。
 <EM>がいるのなら、この広大な宇宙である。ほかに第二第三の地球外知性体があってもおかしくないだろう、そして今のこの人類と交信可能な技術力を持っているのなら、現在のこの状況を打破する何かを持っていてもおかしくないのではないか――実験の発案者が考えていたのは、大まかに言うとそういうことだったらしい。
 当然世間からは顧みられることもなく一笑に付され、ほかの策と同様に結局は失敗に終わったが、どういう偶然が重なったのか、この実験は一定の成果をあげることに成功した。
 <EM>とは別の、地球外知性体の発見。そして交信。
 問題は、そうして交信の成功した新たな知性体には人類と同じ程度の知性しかなく、そしてもし彼らが現状の打開策を知り得ていたとしても、交信が可能になった時点で、すでに人類は回復不可能な状況に追い込まれていたことであった。
「できれば疎開先にでもさせてくれたらな……と思っていたんだがな」
 絶望的な結果を前にして、自棄のように冗談めかして同僚が言ったセリフが、今でも彼は忘れられない。
 それも、無理な話だろう。
 交信可能となった新たな地球外知性体が住む惑星に、陸地はなかった。
 海しかない星。そこに住まう人々。

 彼と同僚たちが出会った異邦人は、人魚だった。

 #3

 本来ならば世紀の大発見であったはずの新たな異邦人との出会いは、結局人類を救う手だてにはならないというその一点のみによって見放され、三百人いた研究者も彼を除いて地球へと出発した。三か月前のことである。
 最後の一瞬はせめて家族とともに――そう考えたのだろう。そんな彼らの望みも虚しく、観測記録によれば、計器に異常をきたした帰還船は大気圏突入に失敗し、燃え尽き、海の藻屑と化した。
 唯一帰還を拒否した彼とて、特に意味があっての行動ではない。地球に帰ったところで身寄りがいる訳でもなし、わざわざ暴動略奪で治安の悪化した騒がしい場所に居たくなかっただけのことである。
「うん。だいぶ普通に話せるようになってきた」
 ――だから、今こうしてディスプレイ越しに人魚の少女と対話を重ねているのも、ただの手慰みでしかない。
 言葉を教え、少女がどれだけの単語や文法を覚えたかを記録し、同時に彼女らが使う言語のサンプリングを行って解析を図る。
 双方の言語、そして同時に記録していた映像ファイルから、推察できる少女たちの生態や風俗の情報をまとめていく。
 すべては意味のない行動だ。
 こうして記録を取ったところで、数か月後にはその情報の半分も彼は読み取れなくなってしまっているだろう。記録を格納しているコンピューターだって、ほかのネットワークから隔離されているといってもいつまで持つか分からない。
 強いて言うなら、言葉を失い思考能力が低下する日々にあって、彼女と徐々に対話が成立してくるようになることに、現実逃避めいた慰めを見出していたのかもしれない。
 記録用のラップトップPCから視線をあげると、いつもの笑顔で彼女が彼を見つめてきている。
 ふわふわの海色の髪の毛。
 丸っこい童顔の、愛らしい少女。
 本来、小惑星帯探査機の管制用でしかなかったこの部屋のデータ出力ディスプレイに、どうしてこのような別の惑星の映像が映りこむようになったのか、結局それは分からずじまいとなってしまった。
 彼女の話では、「向こう側」からは海底に放置されていた金属の板に映像が映りこむ形で「こちら側」が見えているらしい。
『とおい むかし すてた ばしょ なにか しかけ あったのかも』とは彼女の弁だ。
 遺跡か何かに高度な通信装置があって、それが生きていた、といった意味だろうか。
 こんこん、と彼女はディスプレイをたたいて寄越した。
 何か特別に話したいことがあるとき、彼女はよくこんなことをする。もともとは、彼の仕草の模倣から始まったものなのだが。
 そして、透明な壁に指をあて、彼の母国の言葉を綴る。
『おにいさん も わたし の ことば はなして ほしい』
 そこで、ぷ、とすねた表情。
『わたしばかり おにいさんの ことば おぼえる ずるい』
「……うーん」
 懐かれているのだろうと思う。
 元から物怖じしない性格だったらしい彼女だが、最近になって特に生き生きした表情を見せてくれるようになってきた。
 今では、時にこんなわがままを言うようにもなってきている。
 こちらの基準でいえば間違いなく美少女な顔立ちである。悪い気はしない。できれば彼女の気分を害するようなことはしたくない。そうは思うが――
『ごめん できない』
『どうして?』
 一転、悲しそうな眼をして、しかしまっすぐ少女は彼を見つめてきた。
『ぼくには きみ みたいな こえ だせない』
 表情から察するに、理解はしてくれたらしい。
 しかしやはりどことなくじれったそうにしている。
 彼女自身、彼と対話が成立することに喜びを見出していた様子がある。だからこそ思ったのだろう――使いこなせていない不自由な「彼側」の言葉でなく、自分の言葉で気持ちを伝え合いたい、と。
 映像だけでなく音も通信出来ているようなので、言葉が通じれば音声での対話をすることも可能なのかもしれないが――しかしそれは無理な相談だ。
 海で生活をする彼女らの言語はヒトよりイルカのそれに近く、人には聞き取れない高い周波数域で会話をする。言語というより歌と言った方がいいだろう。母音や子音といったものはなく、音程と発声の長さがそれに対応しているらしかった。
 文字もかつてはあったらしいが、彼女の話ではとっくの昔に失われてしまったとのことだった。
 話す言葉は互いに聞き取れず、筆談に使える文字も彼女は持たない。
『だけど きみの こえ なにいってるか わかるよ』
 寂しそうな顔が、瞬時にぱっと明るくなった。
 本当にこの少女は見ていて飽きない。
 美人で、しかも肌も露わになっているのに、活発な表情が何より眩しくて、女の肌に久しく触れていない彼でも、情欲よりまず癒しのようなものを感じてしまう。
『ほんとに?』
『ほんと  すぐには わからない でも ききなおして わかるよ』
 正確には記録された彼女らの「歌」を翻訳して、だが。
 しかしどうやらそれで彼女は納得したらしかった。
 それから一日の終わりまで、ずっと彼女で上機嫌で海の中を泳ぎ回り、何かを歌っていた。
「……」
 ふ、と彼の口から、無意識に息が漏れた。
 やはり彼女は寂しかったのだろうと思う。
 つい先日、知ったことだが、彼が孤独であるように、彼女もまた、孤独であったようだ。
 天災により棲家を追われ、新天地へと向かう途中、彼女は怪我をして群れからはぐれてしまったのだそうだ。
 海底に沈んだ太古の遺跡に辛うじて身を隠し、傷を癒やし、自力で餌を探せるまでに回復した時には、しかし仲間の影はどこにも見当たらなかったという。
 とりあえず飢えることはないが、仲間がまた自分を探しに来てくれるとも限らない。
 孤独で押しつぶされそうになっていた時、たまたま遺跡の金属板の向こうに姿を現したのが、彼だったという。
 違う星の違う境遇で、互いに孤独同士。
 本質的に問題が解決したわけではない。
 絶望的な状況は相変わらず、何も彼らを守るものもなく、何かを成すことももう出来はしない。
 だがそれでも、彼は彼女と出会うことができた。
 彼女もまた、彼と出会うことができた。
 だから、いまは、それでいい。 

 #4

 言語とは、思考である。
 言語とは、記憶である。
 言語はヒトの脳に蓄積されるあいまいなイメージに形を与え、より強固で明確なものにする。
 そうすることで人はより詳細に力強く思考をまとめあげ、
 そうすることで人はより過去を確かにし自己を確立する。
 価値観も、記憶も、言語なしではあいまいに溶けてしまう。
 ――つまるところ。言語を失くすということは、自己を亡くすということだ。
「――ぅ」
 まどろみの中から意識がゆっくりと立ち上がっていく。
 かつては暖かく心地よく感じていたこの時間だが、最近は不安に押しつぶされそうになる事のほうが多くなっていた。
 零れ落ちる「自分」のかけらを必死に掬い上げて。かき集めて。
 何とかして、昨日と同じ「自分」を現実の中に引っ張り上げる。
 朝起きて。飯を食べて。シャワーを浴びて。そして「彼女」に会って。
 そんな毎日の行動を思い出して、ようやく自分が何者かを自覚する。
 ベッドの枕元に置いている辞書の半分はすでに意味が分からなくなっている。
 まともに言葉をつかって話すことが難しくなるのも、時間の問題のように思えた。
 そのとき、自分はどうなるのだろう。
 そのとき、自分は、彼女とどう接すればいいのだろう。
 ……あるいは、まともな生活もできなくなって彼が飢え死ぬのが先だろうか。
 シャワーはとうとう機能不全を起こして、使えなくなっていた。

 境界接続室に入れば、いつものあいさつ、いつもの笑顔が彼を迎えてくれた。
 青く彩られたディスプレイの向こう側に、相変わらず彼女以外の姿はない。
 まだ彼女の仲間は迎えに来ていないらしい。
 もう彼女のことを諦めてしまっているのか。それとも彼女の仲間も、何らかの事故に遭っているのか。
 それでも彼女の表情に暗さはない。
 こうして毎日、彼と対話ができることを心の底から楽しみにしているようであった。
 だが彼女の現状を考えるなら、どこかその笑みも脆く儚いものに見えてしまう。
 彼は、それに気づかないふりをする。どうせ彼女にしてあげられることなど、何もありはしないのだから。
 いつまでこうやって彼女と話ができるかもわからない。
 ならばせめて、出来るだけ、明るい表情を向けてきてほしかった。
 だから彼はいつも通りに行動する。
 彼女と対話し。
 記録をつけて。
 学術的に何の価値もなくなったその情報の積み重ねに、彼女とのつながりを実感する。
 こんこん、と、いつものノックで彼女が呼びかけてきた。
『なに?』
『おにいさん いつも ひとり』
 ああ、と小さく嘆息する。
 やはりこちらの異常事態になんとなく気が付いていたらしい。
 まだこの研究施設が閉鎖する前、彼女は彼の同僚たちにも会っている。
 数日数週間ならともかく、それで三か月も彼女と顔を合わせるのが彼一人となれば、おかしいと思わない訳がない。
『みんな いなくなった』
『ひとりぼっち?』
『そうだね』
 彼女が口をあけて、なにかを言っているようだった。
 ヒトの可聴域より高い彼女の歌は、相変わらず彼の耳には届かない。
 翻訳機はまだ生きているので、あとで録音した彼女の歌を聞かなければならないだろう。
 そして彼女は、少し奇妙な行動に出た。
『あびしい』
 そんな文字を書き――しかしそうやって自分の書いた言葉に違和感を覚えたのだろう。困惑したように首をかしげ『ちがう』とあわてて書き添えた。
 彼もまた怪訝そうに眉をひそめ、そしてすぐにその行動の意味に気づく。
『さびしい』
 彼の出した助け舟に、ぱっと彼女は表情を明るくした。
『そう さびしい さびしい』
 何度かそうやってつづりを繰り返して、頷く。まるでド忘れした英単語を繰り返し書いて必死に覚えなおしているようで、彼は小さく笑ってしまった。
『さびしくない わたしと いっしょ わたしが おにいさんと いっしょに いる』
 どうやら、それが伝えたかったらしい。
 きまりが悪いと彼女自身感じているのだろう、どこかその表情は照れ臭そうであった。
 たしかにこんな基本的な言葉を忘れるのは彼女らしくない。
 自然と顔が綻んで『ありがとう』とお礼を返し――そこで彼は、気が付いた。

 言葉を、忘れる?
 
 ぞっと血の気が引いた。

 あるいは、彼女が単純にド忘れをしてしまっただけかもしれない。
 そもそも、彼が彼女に教えた言葉は少々いびつだ。
 声を出して覚える類のものではなく、文字を記号という形で覚えさせたものでもない。
 ただ戯れ半分に彼が教え始めた、ディスプレイに指で書き付ける「文字の綴り方」を彼女はこちら側の言語として理解している。しかも彼に対して普通の文字として読み取れるように覚えさせたので、必然的に彼女が覚えるのは本来とは左右逆――鏡文字の形式だ。
 複雑で、覚えにくい形態だ。だから単純な言葉であっても自然にすぐ忘れてしまうこともあるかもしれない。
 だが――もしそうでないなら。
 彼の世界を滅亡へと追いやった、言語を忘却するという<EM>の攻撃の影響によるものだとしたら。
『おにいさん』
 彼女が、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
 だがどう言葉を返せばいいというのだ。
 すでに彼の持つ知恵の半分以上は忘却の闇に消えてしまった。
 元より彼は、彼自身を救う手だてを持たず。ただ孤独に耐えかね異邦人の少女とともにあることを慰めとして――それに依存するようになった、それだけの無力な人間に過ぎない。
 でも――それでも。
『だいじょうぶ』
 今はただ、そう気休めの言葉を伝えるしかない。
 大丈夫だから。
 きっと、大丈夫だから。
 自分自身にもそう言い聞かせる。
 そうだ、まだ彼女が「攻撃」の被害を受けているとは限らない。
 もしそうだとしても、彼と同じように絶望的な状況になるかどうかは、まだわからない。
 そう、まだ何もわかっていないのだから、まだ諦める訳にはいかないのだ。
 愛しい少女を守るために。

 その日は早めに彼女と別れ、彼は自室へと引っ込んだ。

 手駒は、彼が彼女との対話で残した大量の記録と、残りわずかとなった思考能力。
 人類を滅ぼした脅威に対する、たった一人の反抗が始まった。


 #5

 ――あくまで状況証拠からの仮定にすぎないが。
 やはり彼女も、<EM>の仕掛けた言語忘失攻撃の影響下にあったらしい。
 決め手となったのは彼女との対話の記録――正確には、言葉、文法、言い回しの単位日数あたりの忘却量だ。
 彼女と交流を持って、少しずつ単語を見せ、それが意味ある言語だと彼女が理解し始めて、そしてまともに対話が成り立ち始めたのが約二か月前。
 そこから、彼女が忘れる言語単位の量が、ざっくり言って約二倍に増えている。
 明らかにこれは不自然だ。
 普通ならば、意味のあるかどうかも分からない記号を覚えるより、何らかの意味を認知できる言葉のほうが、より効率よく覚え、忘れにくいものなのに。
 ならばそこに何らかの要素が介在したと考えるほうが自然だろう。
 なにより、<EM>の攻撃は「感染型」だった。
 ヒトとヒトの間、ヒトと機械の間を問わず、何らかの意味のやり取りが発生する場所で、忘却の効果が広がっていく。
 だからこそコミュニケーションの総量を減らす閉鎖型の環境にすることで、彼と彼を取り巻くもろもろの機械製品は、忘却の効果を抑え生き永らえてきたのだ。
 迂闊だった。
 コミュニケーション関係によって忘却の効果が伝染する――それが生物と機械の間ですら成立するのなら彼と彼女の間で成立しないわけがない。
 彼女が言葉を理解し始めてからこっち、彼のほうからも教える言葉の量が増えていたので、結果的に総量としてみると、彼女が忘れるより覚える言葉の数のほうが多かったのだ。だから今の今まで気づかないままだった。
(どうすればいい……?)
 何の道具も後ろ盾もない今の状況では、出来ることなどたかが知れている。
 藁にもすがる思いで、ただ彼女との対話の記録から、何か希望がないか探していく。
 グラフ形式を変え、数値データを見直し続ける。
 覚えさせた言語を一単位の定義を変え、もう一度初めから。
 7月28日 習得総量 1068 新規習得量 48 忘却量 23
 7月29日 習得総量 1103 新規習得量 51 忘却量 18
 8月01日 習得総量 1135 新規習得量 49 忘却量 17
 ……
 間抜けなミスに気が付いた。
 7月は、29日までだったか?
 いや、違う。31日までだ。日にちの感覚もとうになくなっていたから、そんな単純なことにも気がつかなかった。
 つまり、このデータは歯抜けになっている?
 それも違う。ぼんやりした記憶が徐々に明確になっていく。
 7月30日と、31日。
 そうだ。水道関係にトラブルがあって、その修理に追われて二日ほど彼女と会えなかった時があった。
 三日ぶりに顔を合わせた時にはひどく心配された。今にも泣きだしそうな顔で出迎えてくれたのを覚えている。
 しかし。だとしたら。
 忘却量――17。
 ほかの、毎日顔を合わせているときと、変わらない忘却量。
 あくまでこの言葉の単位の設定自体が、彼が仮定した暫定的なものだ。
 この数字が実際に忘れている情報の量にあっているものなのかどうかは分からない。
 しかしもし、この数字がそれなりに妥当なものであるならば。
 彼女は、彼と接している時しか、言葉を忘れていない、ということにはならないか?
 ならば――もしこの考えが正しいのなら、これ以上会わないようにするだけで、少なくてもこの脅威からは彼女を救えるということか?
「……ははっ」
 思わず、自分を嘲る笑いが漏れた。
 どれだけ意気込んでみたところで、今の彼にできるのはこの程度というわけだ。
 積極的に彼女のために出来ることなどありはせず。
 ただ、与えられたものを手放すだけ。
「格好つかない……」
 これだけの事しか分からずじまいで、かつては研究者の端くれだったというのだから、情けなくて涙が出る。
 だがこれが、今の彼の精いっぱい。
 それでも、彼女が助かる――助かる希望があると分かっただけでも、大儲けだろう。
 何せ自分が相手にしているのは、人類を滅ぼした不可視の脅威なのだ。
 もちろん、これはまだ、データから考え付いたあてずっぽうの仮定にすぎない。
 確証を取るならそれなりに別の見方でデータを取るなりしなければならないだろう――が。
 確証がないなら、それを見つけ出せばいい。
 彼女の顔を思い浮かべる。
 開けっぴろげで、可愛らしくて。彼女のそんな明るい表情に、彼は絶望の日々の中で何度も助けられてきた。
 互いに、互いの世界で独りぼっち。
 彼も彼女も、触れ合えもしない頼りない互いとの関係を支えに、今日の日までを生きてきた。
 だけど、彼女にはまだ希望がある。
 滅ぶしかない彼の世界とは違い、彼女の星には、まだ彼女の仲間がどこかに生きているはずだ。
 だから。
 彼女を守ろうとするなら、彼は彼女を手放さなければならない。
 腹の奥で覚悟を固めていく。
 守ってやらなければいけない。
 愛しい、小さな、あの人魚の少女を。

 #6

 手を開き、握りなおす。
 思い通りにきちんと動く。
 鏡を見る。若干やつれている感はあるが、まあ何とか大丈夫な面構え。
 今日一日でやることを頭の中で反芻し、二週間前にとったメモを見返して、問題ないことを再確認。
「……よし」
 安堵半分、気合を入れ直す。
 賭けではあったが、どうやら何とかなったらしい。
 彼は、まだ、やるべきことを忘れていない。
 ――決断の日から二週間。
 彼がまず選択したのは、「一定期間、人魚の少女と会わないこと」だった。
 彼がの仮説は、あくまで状況証拠から組み立てたものでしかない。
 だから最終的に彼女との交信を取りやめるにしても、それでちゃんと彼女を<EM>の脅威から守れるかどうか、その確証を得なければならない。
 確かめるのはただ一点。彼と会わないだけで、本当に彼女は言語を忘却せずに居られるのかということだ。
 記録によれば、<EM>の宣戦布告から三日後には言語の忘却の影響が確認されていたらしい。当然それはだいぶ後になってから検証された結果なので、どこまで信用していいかは不安が残るところではあるが。それでも二週間の期間をおいての検証ならば、まずまず間違いはないだろう――それが彼の判断だった。
 二週間のブランクを経て、彼女がどれだけこちらの言葉を覚えているかを確認し、それが記録の中から割り出した忘却量の平均値を大きく下回るなら、彼の仮説は正しいことになる。
 もっとも、その予想が外れていたところで、何ができる訳でもない。
 そうなれば改めて、彼女のために何ができるか、彼は初めから模索しなおさなければならない。
 できれば外れないでいてほしい。
 そろそろ、彼自身、人としての生活を送るのが難しくなりつつあった。
 次の手立てを考えなければいけなくなったとして、やりきるまで彼が彼でいられる保証はない。
 相も変わらず不気味に暗い廊下を歩き、ガレキを踏み越え、いつも彼女と会っていた「境界接続室」へと向かう。
 彼女はどうしているだろうか。
 嫌われているかもしれない。
 何せ、いきなり二週間もの不在を決め込んだのだ。
 今までずっと互いを支えにして、孤独から身も守ってきたという共通認識が彼と彼女にはあった。
 それを一方的に裏切った形になる。
 そして、これからも、ずっと裏切る形になる。
 あるいは――もう、この場所には彼女はいないかもしれない。
「――……」
 そうこうしているうちに部屋の前までたどり着いてしまった。
 若干の躊躇の後、扉を開ける。
 途端、どん、と大きく何かを叩く音がした。
「……」
 どん、どん。どん、どん。
 見れば――彼の人魚姫が、ディスプレイを強く、何度もたたいていた。
 顔をくしゃくしゃに歪ませて。
 怒りではなく、むしろ寂しさと嬉しさが同居したような、複雑な表情を浮かべて。
 こちらに近寄れないのがよほどじれったいのか、忙しない動きで窓の中を右往左往する。
『どうしたの なにかあったの』
 指をディスプレイに押し当てて、何度も何度も、その言葉を繰り返してつづる。
 よほどあわてているのか、ミミズがのたくったような筆跡で、ひどく判読しづらい。
『なにかあったの なにか もんだい おきたの しんぱいで たいへんで』
「――はは」
 思わず笑いが漏れた。
 何故か涙が出そうになって、ぐっとこらえる。
 怒るなんてとんでもない。
 彼女はただひたすらに、彼のことを心配してくれていたのだ。
 自分の寂しさなんてさておいて、彼の身を案じてくれていたのだ。
 彼女自身大変な境遇だろうに、彼も同じく異常事態にあるのを彼女は知っているから。
『だいじょうぶ だいじょうぶだよ ごめん しんぱいさせて』
 だから彼としては、こう答えるしかない
 そして、心の中で、もう一度深く謝る。
 どこまでも健気で愛らしいこの少女に。
 ごめん、一人ぼっちにさせて。
 ごめん、心配させて。
 それから、本当にごめん。もう、これ以上会えないから。
『きょうも たくさん おはなし しよう』

 #7

 ――いつもに増して少女は饒舌だった。
 彼と会わないときに何があったか、どういうことをしたか、いつものようにつっかえつっかえ、文字を介してしか思いを伝えられないのをもどかしそうに、それでも必死に語りかけてくれる。
 そして彼も、いつものようにおしゃべりしながら、彼女を言葉を記録する。
 記録しながら、その場で彼女のセリフを一定の単位に分け、彼女がどれだけ言葉を覚えているかの概算を取っていく。
「……これ」
 笑ってしまうような結果が出てきた。
 まだ一日のスケジュールの四分の三もこなしていない時点で、彼女が覚えていた言葉の数が、前回の記録分を上回ってしまったのだ。
 思い出してくれていたのだ。
 彼が再びやってきた時のために。
 その時、少しでも多く細かく、いろんなことを彼と語り合えるようにするために。
 だが、これで、決定的だ。
 彼と会わないようにすれば、それだけで彼女は言葉を忘れずに済む。
 彼女自身の本来の言葉も失わず、やがてまた再開するであろう仲間たちにも、その影響を与えずに済む。
『もうひとつ うれしいこと あった』
 やがて話題も尽きたのか、ひと段落した後、そんなことを彼女は文字で綴ってきた。
 言葉に反して、どうにもその表情は暗い。
 どうしたのかと聞いてみると、若干躊躇ったようなしぐさを見せた後、そろりそろりと、彼女はゆっくりと文字を綴り始めた。
『なかまの こえ きこえた』
「……!」
 彼女によれば、ちょうど今朝方、かつて離れ離れになった仲間の、彼女を呼ぶ声が聞こえたのだという。ようやく安定した移住先を見つけることがができたらしく、彼女の捜索へと乗り出せたということらしい。
 一週間もすれば、彼女の仲間はここにやって来れる、とのことだった。
『わたし ここを はなれなきゃ いけなく なる』
『そうか よかった』
 うん、と頷く。
『うれしいけど やだ さびしい』
 書きながら、彼女はぎゅっと額をディスプレイに押し付けてきた。
 まるで彼に少しでも近づこうとするように。
『おにいさんと いっしょに いたい』
「………」
 彼とて、出来ればそうしていたい。
 出来れば彼女と触れ合いたい。抱きしめて、彼女のぬくもりを直に感じたい。
 でもそれはできない話だ。
 ディスプレイの間にある距離は、恐ろしく遠い。
 どれだけ離れているかもわからない。
 もしかしたら、画面の向こうの世界は、時間の流れさえ違う場所なのかもしれない。
 確かに二人は生きている。
 互いに寄り添って、この数か月を二人で生きてきた。
 でも二人は同時に、互いにとって虚像でしかない。
 あくまで画面の向こう、触れ合えぬ壁の向こうに見える、生きた幻に過ぎない。
 まして彼女にとって彼は、触れ合えないだけで害をもたらす幻だ。
『きっと また あいにくるから』
 切なげな眼で書かれたそんな文字。彼女の想い。
 それがしかし、彼の胸には痛かった。

 #8

 祭りの終わりというのも、確かこんな寂しさを感じていたような気がする。
 楽しかった何かが終わるというのは、やはりどうしても未練を残すものだ。
 それが自分から望んだ結果であったとしても。
 愛しい存在を守るためのものだったとしても。
 その結果として愛しい存在を手放すことになるのなら、なおさらだ。
「……さて」
 時計を見る。
 彼女とともに過ごして八時間。
 いつもなら、そろそろ部屋を後にする時間だ。
 彼女が覚えていた言葉の数での検証もすでに済んでいる。
 頃合いだろう。いつものように別れの挨拶をし、そしてそのまま部屋の電源を落とせばいい。
 そうするだけで、彼女は救われる。
 懸念材料だった別れた後の彼女の行く末も、仲間がやってくるというのならば心配はいらないだろう。
 むしろ下手にここに留まるようなことがあっては、彼女の足かせになるだけだ。
『じゃ そろそろ おわりかな』
 そんな言葉に寂そうな顔を向けられた。
 せっかく久しぶりにお話しできたのに、もっと一緒に居たい――そんな顔だ。
 これを最後に、二度と会えなくなるなどとは思ってもいないだろう。それを考えるとやはり後ろ髪を引かれる思いがする。
 こんこん、とディスプレイが叩かれた。
 自分を見てほしいとき、何か特別伝えたいとき、いつも彼女がやっていた仕草。
 視線を向けると、ちょいちょい、と手招きをしている。
 子供っぽい仕草の割に、なにかを決心したような表情。
 ぱっちりとした目元が、まっすぐ彼を見ている。
 意図はわからないが、『こっちに来て』ということか。
 ディスプレイの傍に立っても、『もっと』と、今度は筆談で言ってくる。
 わけのわからないまま、それでも彼女の言葉に従っていくうち、額をディスプレイに押し付けるような体勢になった。
(なんだこれ……?)
 さすがに少女に問いかけようとした時、ディスプレイについていた手に、彼女の手が重ねられた。
「――……」
 当然、手のひらにぬくもりは伝わってこない。
 ディスプレイは冷え冷えとした感触を彼の皮膚に伝えるのみだ。
 彼女が近くにいる、彼女がそばにいる――そう感じるのは、やはり錯覚ではあるのだろう。だがそれでも――
『おにいさん』
 手のひらを重ねながら、小さく書かれたその文字に続く言葉は、なかった。
 そのかわり、ディスプレイ越しに、彼の額に、少女の唇が押し付けられた。
「……っ」
 さすがに驚いて身を引いてしまう。
 彼女もゆっくりと身を引いて、どこか楽しそうに彼の様子を眺めてきていた。
 ちょっとした悪戯が成功したような、あどけない笑顔。
 その頬が若干いつもと違う色に染まっているのは、気のせいだろうか。
『また あした』 
 今度はしっかりとした字で、彼女のほうからそう書いてきた。
 向けてくるのは、やはりいつもの笑顔。
 何度となく、彼を孤独から救ってくれた、愛しい笑顔。 
『そうだな また』
 あした、とは、書けなかった。
 さようなら、というのも、書けなかった。
 うつむいて、もうまともに彼女の顔を見れない。
 荷物をまとめ、部屋を出る。
 ふと、扉を閉める瞬間に、彼女と視線を合わせてしまった。
 ひらひらと手を振っている。いつもの笑顔。
 わずかにその口元が動く。
 いつもの様に何かをうたっているのだろうか。せめてその翻訳だけは必ずしよう――そう心に決めて、彼も手を振って扉を閉じた。
「――ぅ」
 やりきれない思いにとらわれて、彼は、だん、と一度だけ扉を叩いた。
 深呼吸を一つ。
 息を吐き。息を吸い。
 腹に力を入れて、決心をもう一度固める。
 彼女を抱きしめたい。
 彼女と触れ合いたい。
 後悔をしないうちにその思いを振り切って、扉の横のコンソールパネルを工具でこじ開ける。
 複雑に絡み合った配線をまとめて引っ張り出して、それをニッパーで一つずつ切断していく。
 どの線が何につながっているかの知識は、もう彼にはない。
 ただ、部屋のメインの電源につながるものがあったような、おぼろげな記憶があるのみだ。
 12本目を切断した瞬間、ぶづん、と何かが強制的に落ちる音がした。
 ぶしゅ、と音がして、つい今しがたくぐった扉が開かれる。
 電源が落ちた時に中に人が閉じ込められないようにと設けられた非常用機構だ。
 おそるおそる、中を覗き込む。
「……はは」
 空虚な笑いが、漏れた。
 もうそこには何もない。
 壁に埋め込まれたディスプレイ。
 わずかに設置された計器類。
 すべてはもう何の光も放っておらず、薄暗い闇の中に沈んでしまっている。
 試しに計器をいじってみても、当然ながら何の反応も示さない。
 そこには揺らめく水色もなければ、その中で活発に動きまくり、彼を癒してくれていた少女も、姿を現してはくれなかった。
 まるでそれらが幻であったかのように、その場所にあるのはひたすらに無機的な沈黙だった。
 不意に、気づく。
 別れ際に彼女が見せた、口元の動き。
 あれは、彼女の世界の言葉ではない。
 もっともっと、彼にとって身近な言葉だ。
 一つの子音と一つ母音を口の動きで調節し、発音し、意味を綴る、彼の世界の言葉だ。

 ――『またね』

 伝わることもないと思いながらも何となく別れ際に口にしていた彼の言葉を、彼女はしっかりと覚えていたのだ。
 それは、再会を約束するための別れのあいさつ。
 別離ではなく、明日もまた関係を続けることを願うための、三文字からなるとてもとてもシンプルな言葉。

 しかし彼が、彼女と再び顔を合わせることは、もうない。


#9


 ――数か月後。
 すでに彼は言葉をなくし、孤独の中を、獣のように生きていた。
 ぼんやりとした形にならない記憶を頼りにその日の糧を得、ただ寝るだけの生活。
 思考を完全に失うまえに持ち込んだ記録用ラップトップから、彼女の記録が再生され続けているのが、彼の孤独の唯一の慰めになっていた。
 彼女とかつての彼が残した会話の記録も、しかし彼には何一つ意味が読み取れない。
 彼女が笑顔を浮かべる映像を見て、聞こえもしない高音域の歌に耳を傾け、その日を過ごす。
 最早自殺をするという発想すら、彼の思考では編み出せない。
 そうなってから、さてどれくらいの日々が過ぎただろう。
 ぼろぼろで垢まみれになった毛布にくるまった彼は、不意に、何かの音が聞いたような気がした。
 高く。高く。美しく。
 緩やかな旋律を描きながら彼の耳に届く歌。
 彼には最早わからないだろう。
 それが少女が歌っていた歌であると。
 毎日繰り返し再生し続けた結果、スピーカーの設定が狂って、再生される周波数が下がったため、彼の耳に届くようになったのだと。
 しかし――
 何度も何度も繰り返し聞いているうち、彼はそこに何かの意味を見出した。
 言葉というものを何も知らぬ赤ん坊が、親が語りかけてくる言葉に耳を傾け、やがて言葉を獲得するように。
 あるいは文字というものを知らない彼女が、彼がディスプレイ越しに書いた指先の動きを、文字と認識するようになったように。
 白紙に戻っていた彼の「言葉」は、「思考」は、彼女の歌を子守唄にすることによって、再び緩やかに蘇り始めた。

 ――歌の一つ一つが伝える内容は、とてもシンプルなものだった。

 一つの意味を持つ言葉を、違う旋律、違うリズムで、何度も何度も繰り返す。

 ――どうか、どうか、元気を出して。
 ――どうか、どうか、元気を出して。
 ――あなたは決して、一人じゃないから。
 ――私がいつも、一緒にいるから。
 ――だから、どうか、元気を出して。

 ――ずっと。いつまでも。私はあなたが、だいすきです。


次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.032844066619873