中学の卒業式。俺が受け取ったのは卒業証書ではなく妹の危篤の知らせだった。
皆が同じ制服に身を包み『仰げば尊し』を歌う中、担任の教師が慌てて俺の元に駆け寄って来たのだ。急な事態に目を回す俺に担任は『お前の妹が倒れた』とそう告げた。
……え?
思考が、止まる。
倒れた? 妹が?
脳裏に浮かぶのは、俺と双子なのに全然似ていないたった一人の家族のこと。そして――病弱のため学校を休みがちなあいつのこと。
……結(ユイ)!
しばらくの放心の後、現実に戻った俺は担任に掴みかかるように事情を問いただした。あまりの大声に卒業式の皆の視線が集まるが、気にしている余裕はない。
結が、ずっと一緒だった妹が倒れたのだ。冷静を装える訳なかった。
担任に病院を聞く。覚えのある病院だ。すぐに向かえると俺は担任を押しのけ体育館を飛び出した。
靴も履き替えず上履きのまま外に飛び出し、自転車の鍵を解く。慌ててしまったためか指を怪我するが気にしている時間ももったいなく、俺は自転車を走らせた。
「結!」
俺と結は、双子の兄妹だった。
冬の雪の中、とある養護施設の前に捨てられていた俺達。それからずっと一緒にいた。馬鹿で頑丈だけが取り得の俺と、聡明だが病弱だった結。性格も体質も全く逆の、周りからは似ていないとよく言われるそんな兄妹として。
「はぁっ! はぁっ!!」
息を切らせながらペダルを回す。進む速度が遅いことに自分に怒りを覚えた。
結は身体が弱く、よく学校を休んだ。病名を聞いても馬鹿な俺はピンと来るモノがなく、それでも大きな発作があれば死んでしまうかもしれないという認識はあった。
そんな結を一人にしたくなくて仮病で学校を休もうとする俺を、力ない笑顔でダメだというあいつ。
身体が弱いくせに、それでも俺に気を遣わせたくないという――優しい妹の、儚い笑顔が頭から離れない。
十字路を突っ切り、病院の門を潜る。駐輪場が分からず俺は半ば転ぶように自転車を置くと、病院の受付に飛び込んだ。
「あ――あの!」
受付の人に怒鳴るように話しかける。だが、肺に息が入らず続く言葉が出ない。
早く! 早く聞かないといけねぇのに!
「さ、はぁっはぁ――佐鳥結の病室はどこですか!?」
受付の女性に部屋の番号を聞いた俺は、エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上がった。
501号室ということは5階のどこかのはずだ。3階くらいで足に疲れが出たが歩みを止めず転ぶように5階に上がり、そしてすぐそこに『501』の部屋番号を見つける。
「――結!」
叫び、部屋に飛び込んだ俺の目に映って来たのは――病室の窓際。そのベッドの上で静かに瞳を閉じた、妹の姿だった。
そ、んな……
間に合わなかったの、か……?
先ほどの焦りが嘘のようになくなり、代わりに冷たい汗が背中を滴る。俺はどこかふらつきながら妹に近づいた。
一歩一歩がやけに長く感じる。それは妹の安否を確認するのが恐いからなのか、上手く理解できない。
それでも歩みを止めず、いつの間にか俺は結を見下ろせる所に立っていた。
今朝も、せっかくの卒業式なのに休んでしまい玄関で別れた妹。違うのは俺を見送った時の笑顔ではない所と、来ている服が病院のそれということだけ。
なのに、たったそれだけなのに。
何で、何で目を開けてくれねぇんだよ……
――結!
まるで死んでしまったような妹に、俺は足に力が入らず、その場に膝をついた。
結。
……結!
「――結ぃぃぃぃ!!」
「何ですか兄さん?」
「生きてたぁぁぁぁ!!」
思いの外あっさり目を覚ました妹に、俺は涙を流しながら抱きつく。「に、兄さん!?」と結が動揺する気配が伝わるが我慢出来ず、嬉しさのあまりそのまま抱き上げ軽い妹を胴上げまでしてしまった。
即座に看護婦さんに説教されたのは言うまでもない。
30分に及ぶ正座。足がすごくプルプルします。
「に、兄さん。大丈夫ですか?」
大丈夫だ。問題ない。
「そうですか? 足が震え過ぎて4本に見えるくらいなんですが?」
大丈夫。正座のせいで足が痺れてるだけだから。
「あの看護師さんの形相がめっちゃ恐かった」
「本音と建前が逆転してますよ!?」
そんなやりとりに、俺達は揃って小さく笑う。
そして、小さく息を吐いた。
「よかった……」
心の底から出た、そんな言葉だった。
本当に思う。妹が目を覚ましてくれて、今ここで一緒に笑えている事実が。
「兄さん……」
安堵する俺を見て、結が何か言おうとするが、その後続くことはない。大方謝ろうとして、それをすれば俺がますます気遣ってしまうことを察したのだろう。長年兄妹をやっているんだから何となくそれが分かった。
まったく……
「こんな良い妹に育って! うぅ!」
「何でいきなり泣くんですか兄さん!?」
そう言いながらも、結は小さく笑った。聡いこいつのことだ。俺のお茶らけも理解してくれたんだろう。
空気が少し軽くなったのを感じ、俺は出来るだけ明るい声を意識して訊いた。
「身体の調子は、大丈夫か?」
「うん、今は苦しくないよ」
「そっか」
「うん」
それ以上、俺は訊かなかった。結も、それ以上何も言わなかった。
それが分かれば、お互い十分だから。
「佐鳥さん、少しいいですか?」
不意に声が掛けられ、俺は振り返る。そこには白衣を着た男性が立っていた。歳は20代前半くらいだろう。色素の薄い短髪に俺とは違いかなり整った顔立ちのその人に、思わず構えてしまう。
「えっと、すみません。結の主治医さんってことでいいんですか?」
「はい、朝倉です。あなたが佐鳥結さんのお兄さんということで間違いありませんか?」
俺が頷くと、朝倉先生は整った顔を優しげに微笑んだ。
その笑顔に、どこか不安になるのはどうしてだろうか?
「ではお兄さん。少しお話したいことがあるので時間をいただいても?」
「……はい」
席を立つ。見下ろす結がどこか不安そうな顔をしていることに気付き、俺は内心で苦笑いを浮かべた。
妹に心配をかけるなんて、兄ちゃん失格だな。
そっと、結の頭に手を置いた。
「少し、先生と話してくる」
「……」
「大丈夫、そんな大した話とかじゃねぇって」
「……うん」
……まぁ、そんな言葉で不安は取れねぇよな。
俺はもう一度結の頭を撫でると、朝倉先生の跡を追った。5階の病室からエレベーターで1階に下り、恐らく先生の診察室だと思われる場所に案内される。
ドアを閉め、俺が椅子に腰を下ろしたことを確認すると、先生は先ほどの笑顔を消し、冷静な面持ちで俺を見据えた。
医者の顔だと、そう思った。
「お話は、結さんの病気についてです」
……予想出来た、言葉だった。
俺は、自然と唾を飲んでいた。ごくりと、やけに音が大きく感じる。
なんだよ、まるで緊張してるみてぇじゃねぇか。
自分に対して茶化してみるが、嫌な予感が薄れることはない。いっそ、逃げ出したくなるほどに。
「あまり回りくどく言わない方がいいでしょう。お兄さん、結さんの病状は――危険な状況にあると言えます」
その時、俺はどんな表情をしていたんだろう?
覚えているのは、ガツンと何かに殴られたような、そんな感覚があったことだ。
朝倉先生の話では、結の病気は心臓に関係することらしい。難しい話は理解できないが、発作によって心拍数が急激に上昇し、最悪――死に至る。
……陳腐な小説のような病気だ。
そう思った。
現実味があまりにも、ない。
結が、死ぬ?
何でだよ? 今さっきだってちゃんと話せてたじゃねぇか。
あいつが何したってんだよ? いつだって自分より他人のことを考えて来たような優しいあいつが、何をしたってんだよ!?
認められるかよ!? 信じられるかよ!?
何より――受け入れられるわけねぇだろ!?
何で、何であいつなんだよ!?
「先、生……嘘、ですよね?」
性質の悪い冗談だ。あぁ、笑って許してやる。だから、その首を横に振るなよ。冗談だよって、笑い飛ばしてくれよ。
じゃ、じゃあ!
「臓器移植はダメなんですか!? 俺と結は双子だ! きっと合うはずだ!」
「……双子だからといって合うとは限りません。また、生きている人からの心臓の移植は認められていません」
もっともな言葉だった。何も言い返せず、俺は素人考えを出していった。だが、明確に結の病気を治す案など出るはずがない。
あるなら既に、先生が言っているはずなのだから。
「落ち着いてください」
朝倉先生が言う。その冷静な声に、俺は知らず立ちあがっていた足を折り、力なく椅子に座った。
顔を手で覆う。そのまま手前の無力さが腹立たしくぎゅっと拳を握りしめた。
「お兄さん、確かに結さんの病気は危険なモノです。ですが、適切な処置と適切な環境を与えれば発作の可能性を最小限に抑えることが出来ます」
「……完治は、出来ないんですか?」
「……可能性がないわけでは、ありません」
「……!」
言葉に顔を上げると、朝倉先生の表情は『完治』という言葉とは裏腹に険しいままだった。
「日本では認められていない手術を海外で行う。あるいはそれなら」
「……完治するかもしれないってことですか?」
「可能性は、あります」
「……」
俺は、思う。なぜ朝倉先生はこんなにも歯切れが悪いのだろうか?
それは、馬鹿な俺でも分かった。
「……手術の、成功率は?」
「……3割です」
一瞬、息が止まった。
それは、あまりにも低い可能性だ。賭けてしまうには儚過ぎる。
「もし、失敗したら?」
「……」
先生は、答えなかった。
それが、どうしようもなく答えを物語っている。
「手術をしなかった場合は、どうなるんですか?」
「……恐らく5年保つか否か、と」
5年。
たった、5年……
それは、結が大人になる前に死んでしまうということ。
5年間、現れるかも分からないドナーを願うのか、成功率3割の手術に全てを賭けるのか。
選択は、あまりにも残酷だった。
……だが、それでも。
「……先生」
意を決し、問う。
「手術の費用は、いくらくらいなんですか?」
「……!」
驚いたように、先生が目を見開く。そんな彼を、俺は真っ直ぐに見つめ返した。
考えが足りないかもしれない。
ただ現実から目を逸らしているだけなのかもしれない。
それでも俺は――その可能性に賭けたかったから。
「もちろん、いきなり手術をするわけじゃないです。ただ、本当に間に合わなくなった時、手遅れにだけはしたくない」
「……外国で、保険もなく他にも多くの費用がかかる。大人として言わせてもらうが、簡単に集められる金額ではないよ?」
「はい、それでも――集めます」
もしかしたら、ガキみたいな考えなのかも知れない。
何も理解していないだけで、上辺だけで言っているだけなのかもしれない。
それでも、今俺がここで言っているのは紛れもない本心だった。
だから、俺は頭を下げる。
「結を、妹を助けられるなら俺は何だってします」
たった一人の家族だから。
双子の、俺の半身だから。
何より――俺はあいつの兄ちゃんだから。
「……分かった。まだドナーの確認も終わっていないからそういった可能性が全部ないような状況だったら、改めてお兄さんに連絡を入れるよう約束するよ」
「はい。それとこのことは結に言わないでやってください。あいつは自分より誰かを優先するやつだから」
「気を遣わせたくない、と?」
俺は、それに苦笑いで答えた。
朝倉先生に頭を下げて、俺は診察室を出ると結が待つ病室に戻った。窓際のベッドで外を眺めるその顔がどこか悲しそうに見えて、俺は意識して明るい表情を浮かべると、
「『佐鳥結、小学1年生。夢は超能力者になって世界を救うことです』」
小学校で妹が書いてくれた色んな意味で涙が溢れそうになる作文を朗読してみた。
「に、兄さん!?」
慌てた顔がこちらを向く。そこには悲しさの代わりに羞恥で顔を赤くした結がいた。
「い、いきなりなんですか!?」
「いやぁ、何か昔を思い出して、つい!」
「そんな思いつきで妹の作文を朗読しないでください!」
「まったくもう」と本当に呆れたように言う結に俺が笑いかけると、結はしょうがないなというように微笑んでくれる。
「お話、終わったんですか?」
「あぁ。全然大したことない病気だけど、安静のために少し入院するってことらしい」
「入院、ですか?」
「あぁ」とそう頷いてから俺はあえて軽く、結に聞いてみる。
「なぁ、結」
「何ですか? 兄さん」
「俺がさ、もし何か選択したら、お前は俺を信じてくれるか?」
それは、何に対する問いだろう?
それは、何のための問いだろう?
知らず口に出ていた言葉。言った俺さえすぐに「忘れてくれ」とそう言おうと思ったそれに、だけど俺の妹は、
「信じますよ」
真っ直ぐに俺の目を見て、答えてくれた。
少しの間さえ置かず。
「兄さんの選択なら、私は信じます」
「だって」と結は微笑む。
「私は――兄さんの妹ですから」
「……」
本当に、こいつは。
俺は、苦笑する。
そして、本当に俺ってやつは。
思う。どこまでも、やはり俺達は兄妹なんだと。
あぁ、任せろ。
絶対、お前を治してみせる。
そのためなら、俺は何でもしてみせるから。
俺は、お前の兄ちゃんだから。
それから数日して、朝倉先生から連絡が入った。やはり現状ではドナーが見つからなかったそうだ。そして聞いた手術の費用は、15歳の俺にはあまりにも天文学な金額だった。
アルバイト程度ではどうやったって間に合わない金額。俺の決断は早かった。予定していた高校を辞退し、就職した。
日給8千円の工事現場での仕事だ。雇用形態は契約社員。中卒の俺を雇ってくれるんだ。縋りつくようにそこに入社した。
だが、それだけでは手術の費用を貯めるのは難しい。幸い俺の誕生日は4月の始めだ。すぐに原付の免許を取ると工事現場と並行して新聞配達を始めた。
高校生活に未練がなかったと言えば、嘘になる。だけどそれ以上に、結が死んでしまうことの方が恐かった。だから、妹を救えるなら俺は何だって出来る。
そう、思っていた。
工事現場に入社して1カ月は、俺が中卒であり新人ということで先輩たちは皆親身になって教えてくれた。俺も馬鹿なりに学んでいったつもりだった。
だが、それは長く続かなかった。
仕事に入って3カ月が過ぎた頃、現場の上司が変わった。50代の少しやせ気味のおっさんだ。眼鏡の奥の目がやけに他人を見下しているような、そんな印象を受ける男だった。
何が気にいらなかったのかは分からない。そいつの目に俺がどんな風に映っているのかも分からない。ただ分かるのは、俺というガキがそいつにとって『格下』と見下されてしまったこと。
そいつは俺が仕事をする度に方法や仕上がりにいちゃもんを付け始めた。その度に付けくわえられる『これだから中卒は』という言葉。
最初の方は、我慢していた。いずれ止むだろう、俺が真面目にやれば済む話だ。そう考えていたんだ。
だが、嫌がらせは終わらない。どんなに俺が努力しても、嫌みは、悪口は終わりを見せない。むしろ俺が言い返さないことをいいことにエスカレートしていった。
努力の仕方が悪いのか?
もっと頑張ればいいのか?
何をどうすればいいんだ?
考えれば考えるほど、馬鹿な俺は答えが出せないまま混乱していった。そんな状況で仕事が上手くいくはずなく、今まで普通に出来ていた作業でさえ失敗を繰り返し、いつしか悪口嫌みは上司だけではなく職場全体からになっていた。
俺が上司に殴りかからなかったのは、それをしてしまえば職を失うことになるからだった。いや、あるいは意気地がなかっただけなのかもしれない。
最終的に、俺が選択したのは我慢すること。
我慢して我慢して我慢して、俺が我慢し続ければ済む話だと、自分を殺すことを選んだ。
その度に、自分の何かが変わっていくのを感じながら。
「兄さん? 大丈夫ですか?」
週に1日の休みである日曜日。お見舞いで訪れた妹の病室で言われた言葉に俺は笑みを浮かべて答える。
「あ、あぁ大丈夫。悪い、少しぼーとしてたみたいだ」
俺の言葉に、結は「そうですか?」とどこか納得していない顔をする。だが、不意に咳き込み胸を抑えた。
発作!?
慌ててナースコールと押そうとする俺の手を、しかし結が止める。
「だ、大丈夫。少し休めば収まりますから」
俺が反論する前に、結はベッドの脇に置いてあるテーブルの上の薬を指差した。以前発作を抑える薬と説明されたモノだ。
俺は急いでそれを開けると結の背中を抱えて、薬と水を飲ませる。苦しそうにゆっくりと飲みほしてから数分して、結は力なく笑みを浮かべた。
「すみません、兄さん」
私のせいで迷惑をかけてしまって――そう言われているような気がした。
「……」
俺は、馬鹿だ。少し嫌なことがあったくらいで、大切な妹に心配をかけちまうなんて。
そんな自分の顔を見せたくなくて、俺はそっと結を抱きしめた。
「兄さん?」と驚くような声が聞こえるが、俺は言葉を返せない。今、口を開けば、弱音が出ちまいそうだったから。
ごめんな。弱い兄ちゃんで、ごめんな。
でも、頑張るから。どんなに苦しくても、俺を殺したって――頑張るから。
月日は、流れていく。
同級生が高校の制服に慣れ始めた頃、俺は薄汚れた作業着を着て家を出る。
勉強だ部活だ恋だ青春だと同い年のやつらが楽しむ中、俺は罵倒の中、炎天下で工事の作業に没頭した。
夜はこれからだと繁華街にガキどもが向かう時間に家に帰って死んだように眠り、そいつらが眠りだす頃に起きて新聞配達に出る。
それが俺の、青春だった。
職場では相変わらずガキのいじめのような嫌みが続いていく。その度に、俺は思うんだ。俺は、ここでは必要とされていない人間なんだって。
誰の役にもたてない、ゴミなんだって。
自分を殺すたびに、その想いが強くなっていく。
だけど、良いんだ。
他の誰かのためじゃなく、結のためになれれば。
1年の月日が流れ、また寒い4月の朝、俺は妹がクリスマスプレゼントと編んでくれた黒と白のチェック柄のマフラーを巻いて家を出る。
『ごめんなさい、私にはこれくらいしか用意できなくて』
そう、申し訳なさそうに俯く結の顔を思い出す。
何度も何度も失敗したのだろう。お見舞いの度に増えていくゴミ箱の毛糸に俺は思わず苦笑してしまった。
何が、これくらいなもんか。
すごく、元気が出た。
あぁ、そうさ。これがあれば、俺がお礼と共に頭を撫で、嬉しそうに笑ったあいつのあの笑顔があれば、俺は頑張れる。
どんなに俺が変わっても、その想いだけは変わらない。
そんな俺とは裏腹に、現実はあくまでも現実だった。
変わらない職場の環境。変わらない俺の青春。そして――変わっていく結の病状。
月日が流れるたびに、結の身体は細くなっていった。肌の色は1年前と比べひどく白くなっている。そして浮かべられる笑みは、どんどん弱々しいモノになっていった。
見つからないドナー。長く続く入院生活。
それがどんなに不安なモノなのか、俺には分からない。
日々を当たり前に生きられる俺には、分からない。
明日死んでしまうかも知れないそんな恐怖を、俺は理解してやれるとは言えない。
2度目のクリスマス、プレゼントを用意出来なくてごめんと謝るあいつがどんな気持ちでそれを言ったのか、分かってやれない。
その度に、俺はてめぇがどんなに無力で無様なガキかを理解させられる。
だけど、もう少し。
もう少しだけ、待ってくれ。
俺の通帳の残高は、あと1カ月分の給料で結の手術の費用に間に合う所まで来ていた。
あと少しで、結を治せるんだ。
あと少しだけ俺が俺を押し殺せば、結を救えるんだ。
そうすれば、何かが変わる気がした。
誰の役にもたてないゴミみたいな俺が――
いつしか無表情でいることに慣れ切っていた俺が――
誰かといるよりも一人でいる方が『楽』だと感じるようになっていた俺が――
結を救うことで変われる、そんな気がした。
給料が入ったら、通帳を見せて結に言ってやろう。お金が溜まったぞ。これで結は治るんだ。これからはいっぱい運動出来る! 学校にも、少し遅れてだけど行けるぞ! いっぱい友達を作って、兄ちゃんに紹介してくれ! でも彼氏を連れてきたら簡単には会わないからな!
そんな光景を思い浮かべると、思わず笑みが出てしまう。
たとえその手術の成功率が3割だとしても。
3割は、必ず成功するんだ。俺は頑張ったし、結は今までずっと苦しんでいた。神様だって少しは贔屓してくれるさ。
そして、待ちに待った給料日。俺は逸る気持ちを抑えられず仕事を休んで結の病院に向かっていた。右手には残高たっぷりの通帳を握りしめて。
結はこれを見て、どんな顔をするだろうか? 俺が高校に行かなかったことを黙っていたことに怒るかもしれない。病気が治ることに満面の笑みを浮かべてくれるかもしれない。もしかしたら申し訳なさに泣いてしまうかもしれない。
だけどきっと最後は、
――ありがとう、兄さん。
そう言ってくれると、そう思う。
だけど――
それは、丁度家を出た時だった。不意に震える、俺の携帯電話。着信の相手はもう何度も連絡を取り合っている朝倉先生の文字が出ている。
――嫌な予感が、した。
これに出てしまえば、何かが変わってしまう。そんな気が。
だけど、震える指は自然とタッチパネルに触れ――
耳に当てた電話から聞こえて来た声は――
『お兄さんか!? 今どこにいる!? 結さんが――』
今までにないほどの発作。
叫ぶように伝えられた声。
最後まで、俺は聞かなかった。
聞く前に、身体が動いていた。
携帯電話を捨て、病院の入り口を潜る。自動ドアが開き切らず両肩をぶつけた。そして何度も上がった階段を上がり切り、途中でこけながら入った結の病室には――何人もの看護師と、朝倉先生に囲まれている結の姿があった。
なんだよ、これ……
足が、震える。
立ちつくす俺に気付いたのか朝倉先生が振り返った。その表情には、ひどく悔しげな、その上でそれを隠すような、そんな表情が浮かんでいた。
「お兄さん、こちらに」
動けない俺を察してだろう。朝倉先生は俺に近づくと背中を押し、俺を前に進めた。
「兄、さん……」
見下ろした結は、見て分かるほどボロボロだった。限界まで細くなった身体。白い肌には玉のように汗をかいている。息は荒く、その目は俺に焦点が合っていない。
「兄さん、いるんですか……?」
「――あぁ、ここにいるよ」
「ホントですか? すみません、何故か目が見えないんです」
「……!」
込み上がる何かを押し殺して、俺は平静を取りつくろった。そして伸ばされた手を両手で包む。
「まだ、夜だから。暗くて見えないだけだよ」
「……兄さんは、相変わらず嘘が下手ですね」
小さく笑うように告げられた言葉に、目を見開く。そんな俺の目に映る結はどこか笑うように、どこか悲しそうに、どこまでも申し訳なさそうに、言った。
「兄さん……ごめんさない」
……やめろよ。
「ずっと、気付いてました」
……謝るなよ。
「兄さんが学校に行かず、私のために頑張ってくれていたこと」
……なぁ、頼むよ。
「職場で辛い目に合ってることも、昔みたいに明るく笑えなくなってた兄さんを見れば、すぐに分かりました」
そんな、そんな風に――
「ずっと頑張ってくれたこと……ずっと私のせいで我慢してくれていたこと、知っていました……」
これが最期みたいな顔、しないでくれよ――!!
「ごめんなさい、兄さん!」
「――謝るなよ!」
俺は、叫んだ。
それしか、馬鹿で無様でクズな俺には出来なかったから。
「俺は、苦しくなんてなかった! お前のためならあんなもん、ずっと耐えられたんだ! だから、お前が謝ることなんてないんだよ!」
なぁ、お願いだ……
「謝るくらいなら、生きてくれよ! 今日、金が貯まったんだ! これで手術が出来るんだ! これで結は治るんだ! だから――」
だから――
「そんな、諦めたような顔、しないでくれよ……!」
なぁ、頼むよ……
ここに、金があるんだ……
馬鹿な俺が、それでも必死に作った金があるんだよ……
だから、これ全部やるから、誰でもいいから――
「結を、妹を――助けて、くれよ……」
そんな、俺の懇願に――
誰も、答えてくれなかった。
ただ一人、結を除いて、
「兄さん」
ぎゅっと、手を握り返される。
弱々しい力が、妹の命の残量を表しているような気がした。
「――」
結が、何かを言った。
だけどそれは、言葉として紡がれず――
握った手が力なく落ちると共に、虚空に消えた。
……結?
なぁ、おい。
「結、何か言ってくれよ……」
俺は言った。
結は――答えなかった。
ピーと、テレビのドラマで聞いたような音が、ベッドのすぐ近くにある白い機械から流れた。表示された何かの線は、波打つことなく底辺に沈んでいる。
それが示すのは――
妹の心臓が、止まったということだった。
……なんだよ。
なんだよ、これ。
結局、そうなのかよ……
俺には、何も出来ないのかよ……
必死に頑張ったって――
我慢して我慢して我慢して――
全部全部全部押し殺して――
結果が、これなのかよ……!
……知ってたんだ。
俺には、何も出来ないことくらい。
俺が、誰にも必要とされていない人間だったってことくらい。
でも、変わると思ったんだ。
妹を、結を救えれば――
俺だって誰かの役に立てるって、そう思ったんだ。
でも、違った。
俺は、俺は――
必死に頑張っても、我慢しても自分を押し殺しても。
たった一人の家族を、妹を救えない。
誰の役にも立てない。
生きている価値もない――
そんな、クズだったんだ。
……死んじまえ。
――死んじまえ。
俺なんて――
――死んじまえばいいんだ。
to be continued