その二十五『テキサス大攻勢』
中世、初歩的な火器が出回り始めた頃。
戦場では数十グラムの火薬を消費することで敵兵一人を殺傷できた。
近代になり技術が進歩し社会の生産力が上がると、歩兵のほぼ全てが銃を持つようになる。
誰もが銃を持つ戦場では、敵兵一人を撃ち倒すために消費する火薬量は中世に比べ数十倍ないしそれ以上に増えた。
野原で棒立ちに並んだ一個中隊2百人の銃兵たちが、五十メートルほど離れて同じように戦列を組んで突っ立っている敵へ一斉射撃を浴びせても、殆ど死傷者が出ない事例さえ発生した。
時が更に進み無煙火薬の時代が訪れ、それまでのように立ちこめる硝煙に互いの姿が隠される事はなくなった。
戦場へ投入される火薬量に対しての戦果は更に下がった。
現代はというと、戦場で人一人分の火薬を消費してなお敵兵一人を無力化しきれなくなってから久しい。
例えば、堅牢な陣地に立て籠もる一個大隊の歩兵部隊がいるとして、約800名の敵兵のうち4割を殺傷させる‥‥つまり320名の敵兵を殺すあるいは戦闘不能にするのにどれだけの火薬が必要だろうか。
250㎏爆弾を使うとしても10発や20発では、一個大隊が籠もる陣地は無力化しない。100発200発使っても難しい。
爆撃とは、やれば必ず当たるというものではないし当たれば必ず効くというものでもないからだ。
某国海軍の正規空母部隊のような、航行中の敵艦へ九割近い確率で命中させられる輩は極少数派である。
鉄筋コンクリートなどを使い入念に構築された重陣地は戦艦の砲撃にすら耐えられる。
土砂や石積みの簡易陣地であってさえ、良く訓練された歩兵部隊に立て籠もられると容易には落ちない。文字通り地形が変わるほどの砲爆撃を受けた陣地がなお、人員の七割近くを保ったという実例もある。
当然ながら生身の兵隊よりも戦車や重砲などの、より戦力評価の高い目標に対してはより多くの火薬が必要とされる。
一般住宅にある陶磁器を思い起こして欲しい。下駄箱の上に置かれている物より床の間へ飾られている方が、そして倉の中に仕舞われている物の方がより高価な筈である。
戦場でも高い戦力単位ほど厳重に守られていて、敵の攻撃で壊されにくい。司令部や弾薬庫などは特に厳重になる。
航空機とかになると援退壕に引っ込んでいるよりも、空へ逃げた方が生き残りやすい事も多い。鳥がそうであるように、翼あるものは飛んでいる限りそう簡単には死なないのだ。
1935年初頭に日本海軍が出した試算では、艦船が爆撃機一機を撃墜するためには4000発の対空火力が必要とされた。しかも後の実戦でこの数値は過少に見積もり過ぎていたことが証明された。
平たく言うとたった一機へ一万発以上撃って墜とせない、という事例が一度ならず発生したのである。
二次大戦終結から四半世紀を経た60年代末にドイツで出版された「二次大戦における統計と逸話」なる書物で、著者のルドルフ・ヘス氏(ナチス党副総統とは同姓同名の別人)は、大戦において協定軍が使用した火薬量についてある試算を引用してる。
敵国の内紛などによるものを除いた、協定軍がもたらした死者。戦死者や巻き添えだけでなく戦略爆撃などによる物資欠乏などの間接的な犠牲者も含めた推定される犠牲者総数で、協定軍の使用した火薬量を割ると約896㎏となる、と。
前線銃後あわせ、老若男女平均して協定国は敵国民を1人殺すために0.9トンの火薬を消費したのだ。
逆に言うと二次大戦水準の戦争では敵一人あたり1トンの火薬を用意できれば、殺せる計算となる。
1930年代前半の日本列島に先知恵でそう考えた者たちがいた。考えたことを行うべく動いた。動いた結果は十年近く後になって現れた。
日本帝国の主敵はアメリカ合衆国である。腰の低い傲岸さを自然体で持ち合わせている日本人にとって、カナダは最初から数に入っていない。大衆どころか知識層でさえ「合衆国とカナダは別の国」と言われて「あれ? まだ併合されてなかったっけ?」と素で返す輩は少なくない。
敵はアメリカ。
一般的に、近代国家は構成員の2割を失うと継戦能力を失うとされる。
合衆国の人口は約一億五千万。人種間や階層間の分裂を狙った各種の工作により、合衆国いや北米大陸において日本帝国との戦争を望む勢力は、多めに見積もって一億人ほどにまで減っている‥‥と仮定しよう。
1トンの火薬で人一人を殺せるのであれば、一億の二割、二千万人を殺すために二千万トンの火薬を使えばよい。
合衆国本土へ二千万トンの火力を、適切かつ順当に投射できれば今次大戦は終わる。
米本土決戦の基本路線はそれで良いとして、問題は投射手段である。
如何にして2000万トンもの爆発物を運ぶべきか。
大型爆撃機による超遠距離からの戦略爆撃。
これはあまり宜しくない。
大型爆撃機、例えば日本軍の呑竜や零式陸攻などを1000機使い潰したとしても、それで運べる爆弾は30万トンか40万トンか、そんなものである。どうやっても100万トンは無理だ。50万トンでも目標として厳しいだろう。
航空機、それも最新鋭の大型機体ともなれば稼働率と耐久性はお察しの通り。飛ばして投下して帰ってくるだけで何%かは途中墜落もしくは帰還後に修復不可能と判定され廃棄処分となる。徹底的に悪天候を避けて運用しても、だ。
修理できると判定された機体も、壊れた所を直し部品を取り替えなくてはならない。特に壊れた箇所がないように見えるものも入念に整備して部品交換しないと次の出撃でまず確実に墜ちる。
新鋭の大型爆撃機とは程度の差はあれど皆そういうものである。飛ばすたびに機体と人命と、燃料その他が消えていく。
敵が一切迎撃しないサンドバッグ状態でこれなのだ。実際に向かう先は敵の本土、世界に冠たる巨大帝国の心臓部。決死の覚悟で迎撃に上がってくる米軍機の群と数々の対空兵器を相手にすれば、どれだけの犠牲が出ることやら。
機械はまだ良い。だが人命の浪費は拙い。
飛行機の搭乗員は飛行機より高価値だ。調達費用もだが、それ以上に利益性が違う。
爆撃機は倉庫に仕舞っておくだけで予算を喰いまくる。用済みになったものを解体するだけでも費用が要る。だが、搭乗員達を娑婆へ放せば勝手に経済を活性化してくれて、税収増という形で予算面へ貢献するのだ。
戦争であるからこそ、兵の命は惜しまねばならない。自国民の将兵、熱意と愛国心に溢れた若人達を一世紀半に渡って浪費し続けた結果、斜陽の坂道をずり落ちているフランスのようになりたくなければ、兵の消耗を軽視してはならない。
延べ数千機の爆撃機を投入し。膨大な予算と人命を消費して100万トンや200万トンの爆弾を落としてもアメリカは折れない。合衆国市民の心が折れる前に日本の大衆が噴火する。
流石に陸軍省庁舎へ暴徒の群が押し入るようなことはないだろうが、あまりの費用対効果の悪さに腹を立てた民衆の投じる浮動票によって戦略爆撃を支持した政治家達がばたばたと落選する事はありえる。そうなれば永田首相は退陣する羽目になるだろう。
航空母艦に乗せた艦載機による爆撃。
これは更に宜しくない。
正規空母は勿論だが、高速貨物船などを改造した空母であってもやはり高い。
船そのものよりも乗っている人間達が高価であり、脆い。この時期の航空母艦は燃料と火薬の塊が浮いているようなものであり、只一発の敵弾で火達磨になりかねない代物である。
大型爆撃機よりは幾分かマシだが、艦載機だって飛ばすたびに壊れていく。船の上で壊れるならまだしも、戦場で壊れれば搭乗員の生還は難しい。
空母の単独航行は自殺行為だ。つまり、戦場へ投入するなら充分な護衛を付ける必要がある。
使うたびに莫大な物資を消耗し、使えば必ず戦力を失う。日本海軍の着艦機構はハードウェア的にもソフトウェア的にも世界最高の安全性を誇るが、何度も着艦を繰り返せば必ず事故が起きる。
飛び立ち、降りる。只それだけでも命がけなのが艦載機乗りだ。まして敵本拠地へ乗り込んで戦うとなれば、数回の出撃で空母に積んだ部隊は戦力価値を失いかねない。
そもそも火力が足りない。
仮に、補給艦を引き連れて出航した空母が10回の連続対地爆撃任務に耐えられるとしよう。爆弾を500㎏積める機体を使い、一隻につき50機の爆撃機を載せ、放った爆弾は全て命中し、幸運にも故障や事故や戦闘による損失が一切なかったと仮定する。
その場合でも一隻の正規空母が一度の出航で投射できる爆弾は250トンにしかならない。火薬量で言えば更に下がる。
空母艦載機による攻撃とは高く付くものなのだ。敵輸送船団への直接攻撃すら「不効率」と批判されるときもある程に。
元々が軍艦を、つまり建造予算だけで小国の国家予算が消し飛ぶような代物を狙うために造り出された存在であり、費用対効果が良いとはお世辞にも言えない。
空母機動部隊は敵の空母を始めとする軍艦を沈め制空権及び制海権を得るための兵器であり、商船虐めは潜水艦や仮装巡洋艦に任せればよい‥‥という空母閥の主張にも一理や二理はあるのだ。
流石にトラック沖開戦の直後、味方からの対地支援要請に対して第1航空艦隊所属の某参謀が放った「優勝した力士へ大根買ってこいと八百屋に行かせる気か!」なる発言は問題視されたし、されねばその方が問題だが。
戦艦による艦砲射撃。
少しは増しな選択だ。
戦場の主役を航空機に譲ったものの、戦艦の火力は依然として強大である。現在の有利な戦況にありながらも、協定諸国軍指導部は恐怖の味を忘れていない。
超弩級以上の戦艦が、掣肘されることなく火力を発揮した場合総投射量は軽く一千トンを越える。一個機動部隊、正規空母数隻が搭載戦力全てを擂り潰す覚悟で送り込む反復攻撃に匹敵する火力を、たった一隻の艦が持っている。
制空権の保持や特殊砲弾の実戦配備など有利な諸条件が揃えば、の話であるが戦艦は一兵も損なうことなしにその火力を振るうことすら可能である。イングランド南岸でサウスダコダが証明したように、戦艦は無敵でも最強でもないが恐るべき兵器なのだ。
ただ、まあ、何ごとにも例外は存在する。
今次大戦において英国戦艦の働きは悪かった。
老朽艦は勿論だが、新造艦もおよそろくな物ではなかった。生まれの不幸を呪うしかないが、彼女たちはみな揃って欠陥品だったのである。
初期不良による体調不良を押して出陣したジョージ五世は鉄血宰相に討ち取られ、歩み出したばかりの王太子は凶弾に倒れた。戦艦プリンス・オブ・ウェールズは戦艦武蔵の超遠距離砲撃によって沈められたのだ。
それでも戦場で倒れた上の姉妹は幸せだったのだろう。母胎から這い出る前に建造施設ごと抹殺されたヨーク大公と比べれば、まだ。
艦砲射撃の問題は、やはり費用対効果の比率が悪いことだ。
戦艦が1000トン分の砲弾を撃つと、砲身の内側がすり減ってしまう。日本製の戦艦は新技術の採用により砲身の耐久性を上げ、過度の長砲身化を避けて砲内圧力を押さえ、対地用砲弾の表面を軟鋼材で被うなどの処置で砲身への負担を下げているのだが、それでも1門につき200発も撃てば消耗して撃てなくなってしまう。
すり減った砲身を取り替えるにはそれなりに設備が整った施設を使わねばならず、作業には予算と時間が必要だ。
言うまでもなく砲弾は高価だ。戦艦のものとなれば尚更高い。
上手く取り扱えば味方が死なないという点で艦砲射撃は航空攻撃に優る。しかし狙う獲物が高価な目標であればまだしも、只の市街地などへ放つには適さない爆発物運搬手段だ。
更に言うと破損した際の影響も大きい。
戦艦は注目度が高い。軍事知識のない者にもその価値が解りやすいのだ。国の誇りだの床の間のお宝だのと言われることもある。壊されて「なんだそんなもの」と笑い飛ばせる代物ではない。
ウラジオストックを砲撃した戦艦陸奥が被雷しただけで日本国民の一部は動揺した。サンフランシスコ沖の大惨事には国内どころか勢力圏全体で大騒動となった。
艦砲射撃を行う艦艇は厳重に守られねばならず、守りが堅ければ堅いほど費用対効果は落ちる。
無人飛行爆弾の大量投入。
これは費用より実現性において問題があった。
V一号。梅花。あるいはフィーゼラー103。そう呼ばれる兵器の有効射程は長めの派生型でも500㎞。
イングランドに対して撃ち込まれたV1兵器の殆どはその半分以下の距離しか飛べなかったし、それで事足りた。
その程度の射程でも北フランス沿岸地域から放てばロンドンは勿論、ノリッチやケンブリッジ、サウザンブトンなどの都市へ届いた。海上の無人機母艦から撃ち込めば、イングランド地域の殆どへ届いた。
英本土の連合軍側航空戦力が防戦一方、を通り越して己の生存に全力を注がねばならなくなった頃には高速商船改造の特殊機母艦が北海を気ままに泳ぎ回り、隙を見てはイングランド沿岸へ近寄って飛行爆弾を射出した。
V1兵器をイングランド地域へ大量投入できたのは、距離が近かったからである。
現在でも一部の潜水艦から、あるいは空母機動部隊に付随した特殊機母艦からV1兵器が北米東海岸の諸都市へ放たれている。
だがその量自体は大したものではない。嫌がらせにしかならない程度の火力だ。
ドーバー海峡を挟んだ敵に対してやっていたことを、そのまま大西洋の向こう側にいる敵に対してやることはできない。普通に艦隊を航行させるだけでも難事業なのに、戦わねばならないのだから当然だ。
それでも、事前の計画ではなんとかなる筈だった。大英帝国の遺産、海上交通網とその管理機構が使えるのなら。
現実はそうならなかった。
英本土は焼け、火事現場跡地では未だに煙が燻っている。英国海運は人体で喩えるなら集中治療室から出て来れず、入院できるかすら解らぬ危機にある。北米を攻める足場には使えない。
協定諸国の海運力が英本土の救命医療に注がれている以上、大西洋から北米への攻撃はV1兵器ですら減ることはあっても増えることはない。当分の間、半年から一年の間はそうなる。
では、如何にして合衆国を倒せるだけの火薬を運ぶのか。
答えの一つとして用意されたのがV2兵器である。
A作戦は、黒海からカスピ海に繋がる地域を制圧し、ソヴィエト・ロシア勢力圏南半分の流通を止めることがその骨子であった。
B作戦は、メキシコ湾の制空権を確保し合衆国南部地域の水運を麻痺させることが目的であった。
C作戦。北米攻略の決定打となる作戦の根本は上二つと同じく、敵から海(水運)を取りあげることが主眼にある。
日本陸軍はマンチュリアまたはシベリアでロシア軍を迎え撃ち、削り殺すことに特化した軍隊なのだ。敵の本土へ殴り込むことも出来るが、それは本領ではない。
慣れぬ事をすれば失敗と不手際が連続するは必然である。日々火力と装甲を積み上げている北米へ正面から攻めかかれば、戦いはかつてなく厳しいものとなるだろう。
故に対米戦不可避の気運が高まった30年代末の時期に陸軍参謀本部の虜囚達、己の軍服に付いた金モールを呪うようになったエリート将校たちはABCの三作戦を立案した。
彼らも人間なのだ。せめて月の三割程度の夜は家に帰りたかった。幼い我が子に顔を忘れられるのも、他人のように扱われるのも嫌だった。
白木の箱に入って凱旋する将兵を一人でも減らすために、少しでも残業時間を減らすために。
より少ない犠牲で勝てる作戦を。後方の処理が少なくなる作戦を。
なるべく楽な作戦を。
そんな思考の行き着く先がC作戦であった。
西欧地域でV2兵器を量産し、効率よく順序だてて北米へ向けて送り出す。ただそれだけの単純な戦争計画。
A及びBと同じく、Cという呼称も他との区別のために付けられたに過ぎない。少なくとも立案者は特に意味を込めていない。
だが、作戦に関わる者たちの間ではCはCOLONIALのCであると囁かれている。即ち、北米本土を植民地へと還す作戦なのだ、と。
1941年9月26日。この日に実戦初となるV2兵器が北米で炸裂した。それは以後1年以上に渡って続くコロニアル作戦の初撃であった。
・・・・・
二次大戦において、協定軍の勝利がいつ決したのかについては史家の間でも意見が分かれる。
ある者は41夏の米軍が英本土離脱したときであると主張し、ある者は40年初冬のスエズ攻略により地中海とインド洋の海運が繋がった瞬間であると言う。40年春のトラック沖で米太平洋艦隊が壊滅した日であるという意見も有力だ。
対して、アメリカ合衆国の敗北が決まったのはいつ何処でか? という質問への答は比較的異論が少ない。
1941年9月末から10月上旬、テキサスからメキシコにかけての地域でという意見が多数派である。
戦争終結時に独立国家として存続できることを勝利条件としたならば、この時期の合衆国にも希望が残されていた。
合衆国の海軍と海運は既に致命傷を負っていたが、それでも後一年から一年半は大西洋側からの上陸を阻める程度の力が残っている。
未だ合衆国には五大湖付近が安全地帯として残されており、そこには世界の二割近い工業生産力が保たれていた。
昼夜の区別も曜日の概念もなく稼働する工場と訓練施設は、日産数百機の航空機と百輌近い戦車に加え、それに見合うだけの物資と人員を生産し続けている。
防衛側に航空戦力の傘が保たれるうちは、海からの侵攻は難しい。中継基地としての英本土の価値が激減した後では尚更だ。
英本土の港湾能力が壊滅している以上、協定諸国軍が北大西洋に展開できる海上戦力は限られる。
限られた戦力では制空権が取り切れず、制空権が取れなければ兵站線の維持は難しい。兵站が途切れた軍隊など水を換え忘れた花瓶の花よりも惨めに朽ち果てるのみだ。
故に、米陸軍には一縷の希望があった。
協定諸国水上部隊が北米東海岸へ楽には近寄れず、カリブ海にもメキシコ湾にも入れないこの時期なら、パナマ運河が修復されていない時期なら合衆国軍はテキサスからメキシコにかけての方面で勝てる、筈である。
北米東海岸や南海岸へ協定軍の水上部隊が気軽く接近し無事に離れられる状態となれば、つまり本土近くの制海権が敵に握られてしまえば米国の勝ち目はなくなる。
日本海軍の戦艦はロケット推進式の特殊砲弾を使えば海岸から200㎞以上離れた陸地へ砲撃できるのだ。ウクライナで赤軍の冬季攻勢を頓挫させ、英本土で撤退する連合軍に痛打を浴びせた実績もある。
日本製空母から飛び立つ航空隊の戦闘半径は1000㎞近くにも達する。もしメキシコ湾内に日本艦隊が遊弋することになれば、テキサス州都ダラスあたりまでは余裕で攻撃範囲に入ってしまう。
欧州方面での出番がなくなり余り気味だという無人飛行爆弾の到達距離は火砲と艦載機の中間、海岸線から200~500㎞程度である。
もっともブリテン島と違い広大な合衆国では人も施設も疎らに配置されているので、無誘導弾を撃ち込まれても被害は比較的軽いだろうが。
メキシコ湾の制海権を日本海軍が握っていない41年の秋ならば、アメリカ側に勝ち目があった。制海権がないということは船舶による輸送がおぼつかない訳であり、陸運だけで動かせる兵力は限られてくる。
合衆国は国内の鉄道網と運河網そしてミシシッピ川が使える。まして日本側、メキシコ方面軍の兵站線は万全から程遠い状態にある。
日本軍向けの物資が運ばれている輸送路は荒廃と混乱が常態のメキシコを、念入りな焦土作戦で仕上げた無法地帯の真っ直中を貫いているのだ。
新大陸に展開している日本軍の陸上戦力は決して多くない。国力的な問題もあって、総動員しても日本帝国の陸上兵力は350個師団、人数にして700万人が精一杯である。
今次大戦において日本軍がチャイナ・マンチュリア・シベリアを除く本土外へ送りだした兵力は最大の時期で91個師団とその他、約180万人。41年秋時点の北米本土には44個師団相当の協定軍が展開しており、メキシコ戦線にはその過半を占める27個師団(約55万人)が参加していた。
対する連合軍、いやアメリカ陸軍の総兵力は2000個師団3000万人。その大半が郷土防衛にしか使えない民兵であるが、それでも41年秋の段階で機甲師団120個、機械化および機械化可能師団170個の合計400万に達する実働兵力を持っていた。
師団数の割に兵員が少ないのは、この時期の米陸軍は編制単位の小型化を行っていたからである。
ただし前線で直接攻勢に出せる戦力はその2割程度であった。
軍事的な理由ではなく、政治的な理由で全力出撃は出来ない。400万の実働兵力全てをテキサス方面に送り込めば、米陸軍がメキシコ国境を越える前にワシントンDCは陥落する。合衆国市民に蹂躙される。
がら空きになった首都を黙って見ていられるほど、合衆国人の政治意識は低くない。軍隊がいなくなれば必ずや民兵組織が決起してクーデターを起こす。絶対に起こす。たとえ本土決戦の最中でも。
本土内で各州の正規兵や民兵、テロリスト集団などの犯罪組織に睨みを利かし社会秩序を保つには200万は要る。それ以上合衆国内を締め上げる樽のタガを減らすことは危険だ。
実際にはさらに半分、二割五分の100万人いれば反乱を防げると米陸軍は保証したが、ホワイトハウスの住人達は自らが乗っている国家体制の耐久試験をやるつもりはなかった。
人間は一日あたり1リットルの水で生存でき、2リットルあれば活動できるとされる。文化的な最低限の生活を送るには4リットルは必要だが。
しかし砂漠を踏破するときに必要量ぴったりの水しか用意しない旅人は何れ渇き死ぬ。不測の事態は前もって測れないから不測なのであり、万一に備え手元に余裕が欲しいのは人間心理として当然であった。
反攻作戦に使える戦力は最大200万人。正規兵だけだ。装備や練度や指揮系統に問題のある州兵などを投入したところで足手まといにしかならない。物資が無駄になるだけならまだしも、本当の意味で足を引っ張られかねない。
本職の現場、例えばマグロの遠洋漁船へ日曜にフナ釣りしかしたことがない素人集団を乗せたがる漁師などいる訳がない。
まして州兵や民兵が手に携えているのは釣り竿ではなく、実弾の入った銃である。無能な味方は有能な敵よりも恐ろしいのだ。
合衆国はロシアとは違う。ろくな武器も持たせず訓練もさせていない即席兵を督戦隊の機関銃で脅しあげて敵へ突貫させることはできない。
建前だけでも自由と正義を守らねばならない。合衆国人の愛国心は理念の向こうにあるもので、大地に根差したものではないのだ。国是の幻想さえも消え去ってしまえば、政府如きに誰が従おうか。
赤軍と同じ事をやれば百万単位の、下手をすれば一千万を越える暴徒とテロリストが連邦政府を敵と認定して暴れ始める。そうなれば確実にホワイトハウスは黒こげだ。
合衆国の秩序は崩壊し、敵軍の手に寄らずして敗北するだろう。
テキサス地域に200万の軍勢を集めても、矢面に出せるのはその三分の一程度である。近代の軍隊は正面戦力より、後方で支える頭数の方が多くなる。
武器弾薬に燃料食料などを動かし配分するにも人手は必要だ。中世の軍勢なら手弁当と現地からの徴収で戦えたが、近代軍はそうも行かない。
機甲部隊を動かすには燃料などの消耗品が大量に必要で、大量の消耗品を運ぶには相応の人手が要り、補給部隊を動かす為に大量の消耗品を用意せねばならず、それらを保管するにも配分するにも人手が要るのだ。
信用できる見張りがいなければ、見張りに任務を全うする実力がなければ、集積した物資は瞬く間に友軍兵が横領または隠匿または私物化して消え失せる。あるいは敵の工作員によって燃やされる。それが合衆国の現状である。
主に政治的な理由で、合衆国がテキサス方面に集められる戦力は約200万人。うち攻勢に当てられるものは50個師団、70万足らず。
主に兵站上の理由で、日本軍が同方面に集められる実働戦力は11個師団約19万人。加えてオーストラリア軍やモンゴル軍など協定国軍が5個師団約9万人。
双方の戦力差は約2.5倍となる。
一年前の時期ならば、組織制度でも戦闘教義でも圧倒的に優る日本側が数の差をものともせず圧勝しただろう。
しかし41年秋の合衆国陸軍は、日本軍がカルフォルニアへ足を踏み入れた頃と比べて見違えるほどに強化されていた。
この時期の合衆国陸軍は火力密度においてソヴィエト赤軍に並び、機動性においてドイツ第三帝国軍を越え、装甲戦力の充足率で日本軍を上回っていた。組織構築の学習速度においては地球上の全ての軍隊に優っている。
台湾平定戦役と日露大戦の、あるいは旅順要塞攻略戦と青島要塞攻略戦の対比から解るように、日本陸軍は長期的には堅実な学習能力を発揮する組織である。が、しかし短期間に戦訓を吸収消化して組織全体へ適応させる能力ならば、米陸軍に軍配が上がる。
純軍事的な意味に限れば、アメリカ陸軍は後世一般で言われるほどの馬鹿ではない。
彼らは海軍に頼らず勝利を掴むため、祖国を滅亡から救う戦果を得るために全力を傾けていた。その甲斐あって、一局面に限っての話であれど勝利の目前にまで達した、と確信できる成果を積み上げていた。
41年秋のテキサスから北部メキシコに掛けてなら、協定軍に作戦的勝利を得られると。
客観的に見て、両軍が米墨国境付近へ集めた戦力を比較すれば米陸軍にも勝ち目は充分あった。
41年秋現在の条件下であれば、50万人のアメリカ人青少年をすりつぶす覚悟で戦えば、メキシコ北部に展開する協定軍を叩きのめすことは充分に可能だった。
過度の精鋭主義に陥っている日本陸軍が十万を越える死傷者を出せばその衝撃は大きく、メキシコ戦線の崩壊も狙える。
合衆国側がメキシコ方面の制空権を一時的にでも得られたならば、パナマへ戦略爆撃ができる。パナマとニカラグアの運河を破壊できれば一年やそこらは時間が稼げる。協定軍の北米東海岸上陸を、43年秋以降にまで遅らせる事ができる。
その後は根比べだ。
日本人が諦めない限り何れは運河が修復され、カリブ海とメキシコ湾の制海権は奪われるだろう。しかし稼いだ時間を使い本土決戦の準備を進めておけば相当に粘れる。粘って粘って粘り抜けば、やがて日本政府も講和の席に着く筈だ。
総力戦などそう何時までも続けられるものではない。必ず戦争の狂熱は冷め、妥協のときが来る。大概の要素を呑み込んで妥協してしまうのが政治なのだ。
故に米陸軍は41年9月19日に、南テキサスに終結させた戦力を使って一大攻勢に移った。俗に言うテキサス大決戦の始まりである。
結論から言えば、米陸軍によるテキサス攻勢は失敗に終わった。
メキシコに展開する日本軍へ甚大な被害を与えその行動力を奪うことはかなわず、中米地域の制空権を一時的に奪ってパナマ運河を再度破壊する目論見も潰えた。
何故失敗したのか。その理由は単純である。米陸軍が幾つかの要素を見落としていたからだ。
一つは、日本の陸海軍は合衆国の軍人達が考えているよりは協調性があった事である。
確かに「陸海軍相争い、余力を持って他国軍と戦う」と揶揄されるほど、日本の陸海軍は仲が悪い。しかしそれは急場に身内で争うことを忌避する日本文化の中での話であり、西欧諸国などとは事情が違う。
事実として、二次大戦において日本帝国では陸海どちらかの軍がもう一方を露骨に見捨てたりとか、あからさまに盾としたという事例はない。むしろ現場の部隊同士でいえば日本軍は上手く連携していたと言えるだろう。
これは思想的な、あるいは歴史的な背景あっての事かもしれない。
中世の話ではあるが、北九州に押し寄せたモンゴル軍は地元武士団が一切降伏せず文字通り全滅するまで戦い続けることに戦慄したと伝えられている。
大陸では、圧倒的大軍に攻め寄せられたならば必ず寝返る地元民が現れるからだ。有力者にも無力者にも、裏切る者は幾らでも出る。侵略者へ糧食や財貨、家畜や妻や娘を差し出しあるいは侵攻の先導を申し出て今日の命を繋ごうとする者が必ず出る。
だが日本は違う。敵に焼かれる前に自ら都市を焼き、捕虜を盾とされれば敵ごとまとめて射抜くのが武士である。
武士とは元々が軍事貴族崩れに指導された武装農民の群である。近代日本軍は百姓の倅をかき集めて軍事教育を施した、精神的にも物理的にも武士団の後継なのだ。
武士は相身互い。戦場で助け合うのは当然である。
というより助けなくては非難では済まない。陸だから海だからといった理由で味方を見捨てようものなら確実に身内から報復される。
日本陸軍でも背中に弾を受けた戦死者は割単位で存在するし、一人きりのときに迂闊にも艦艇から転落死する将校は日本海軍でも絶えることはない。
日本海軍は郷土別編制をしていない。戦艦長門の乗員が山口県民に限られていたりとか、巡洋艦最上には東北人しか乗っていないとかいった事例は有り得ないのだ。
つまり、駆逐艦朝霧の乗組員○○水雷長の甥っ子が広島の師団にいたり、巡洋艦賀古の乗組員××水兵の従兄が名古屋の師団にいたりする事は普通に有り得る。当然、友人知己が何処かの部隊にいる可能性は更に高い。
陸軍将兵の誰かは、海軍将兵の誰かから見て身内なのだ。普段は没交渉でも窮地にあれば見捨てることは出来ない。無論のこと、陸軍から見てもこの認識は成立する。
そんなわけで、日本海軍は窮地のメキシコ方面軍へ救いの手を差し伸べた。
海軍の所有する超大型潜水艦16隻全てを投入し、カリブ海とメキシコ湾を秘密裏に押し通ってベラクレス市の港湾へ臨時補給を行ったのだ。
この補給は一度きりしかできなかった。
この時期の合衆国海軍がどれ程にいためつけられていて、哨戒態勢に穴が開いていようとキューバとユカタン半島の隙間を排水量1万トンを越える怪物潜水艦が通るなど、正気の沙汰ではない。しかも一隻きりではなく計16隻も。
只でさえ南洋の海水は澄んでいて、普通の潜水艦でさえ潜むには適していないのだ。
ベラクレス沖へ到着したときには某潜水艦の聴音担当が発狂していたとかしていないとか言われる程の難事であり、しかも16隻がそれぞれ潜水式の輸送コンテナまで曳いて運んだのだ。
一隻も欠けることなく辿り着いたことはまさに奇跡である。この輸送作戦だけで後の世に何本かの戦争映画が撮られるであろう。
輸送潜水艦隊は元々が不正規戦の支援や秘密輸送の任に着いていた艦であり、戦局が有利になってからはめっきり出番が減っていた。普通の船で世界中何処でもいけるのであれば、わざわざ効率の悪い輸送潜水艦を運用する意味などない。
だからこそ今此処で出番が回ってきた。合衆国の近海と裏庭に当たるカリブ海及びメキシコ湾を通って物資を運べる艦船は潜水艦しかいなかった。
来たは良いが、同じ道を通って帰ることは不可能である。奇跡は滅多に起きないから奇跡なのだ。
輸送潜水艦16隻は荷物の積み卸しが終わった後はベラクレス市沖の浮き桟橋近くに隠れ潜み、交代で乗員を陸に上げて休ませつつパナマ運河の再開通を待つことになる。
パナマ運河修復に備え、ベラクレス市の沖に建造された港湾施設が輸送潜水艦隊の受け皿となった。現地で造られたコンクリート船を繋ぎ合わせて急造されたドックや艀にクレーンやベルトコンベアが据えられ、潜水艦と曳航された運貨筒から物資を引き上げた。
揚陸された物資は無数の統制型トラックに積み込まれ、鉄道や道路ときには水路を伝わって前線へ送られる。
いかに巨大とは言え潜水艦の搭載力には限界がある。潜水艦隊の持ち込んだ物資は総計8万トン強であり、輸送船団一つ分にも満たない。
たかが8万トン、されど8万トン。砂漠で渇いている者にとり一口分の水の有無が生死を分かつように、この臨時補給の意味は大きかった。
一つは、日本陸軍が退くことのできる軍隊だと見抜けなかったことだ。
確かに日本軍が陸戦で後退することは珍しい。チャイナやマンチュリアでも、シベリアや東南アジアでも窮地に陥った陸軍部隊が後退を選ぶことは殆どなく、陣地に籠もり頑なに防戦を続ける事が多々あった。
故に米陸軍は「ジャップは後退できない軍隊しか持っていない」と判断した。日本軍は専制国家故の硬直した指揮系統に囚われており、臨機応変に動くことは出来ない、と。
無論のことそれは錯覚である。もっと正しく言えば偏見による曲解である。想定外の事態に弱い日本軍であるが、想定内でありさえすれば判断も行動も素早く的確なのだ。退くべきときには退くことが出来る。
日本陸軍士官学校の教育内容はなにかと問題視されているが、こと戦術能力に関してならば質と量の両面で世界最高水準にあった。
ワイマール時代の軍縮で痛めつけられたドイツ陸軍や、一次大戦以降の政治的混乱に振り回されたフランス陸軍、資金と人材を海軍へ吸い取られた英国陸軍、大粛清に晒されたロシア陸軍、そもそも大戦勃発まで実体として存在していたかどうかさえ怪しいアメリカ陸軍と違い、日本陸軍には優秀な尉官佐官たちが大量に備蓄されている。
その反面で、士官たちの優秀さは戦術ないし作戦の領域までしか発揮されないという致命的欠陥を日本陸軍は持っているのだが、それはさておく。
国家大戦略に至っては陸軍全体でも「理解している」と断言できる者を数えれば片手の指で事足りてしまうのだが、それもさておく。
日本軍は前線から一歩も退かず頑強に抵抗する、との予測に基づいてテキサス大攻勢は行われたのだが、協定軍は整然と後方へ下がり、あるいは前線近くに作られた臨時の要塞へ逃げ込んだ。
大陸の戦場で、日本軍が滅多に退却しないのはその方が被害が少なく兵の生還率も高いからである。戦場で最も人が死ぬのは武器を捨て秩序を失って逃げ惑うところへ追撃を受けた場合であり、陣地に踏み止まって戦っているうちはそう簡単には死なないのだ。
ちょっと不利になったぐらいで後退するよりは、援軍が来ると信じて粘った方が被害は減るのである。日清日露から日支事変まで日本陸軍が蓄えた戦訓を分析すれば、そう結論が出る。
捜索破壊ドクトリンの完成以降は、誰の目にも明らかになった。援軍の当てがある限り、下手に後退せず持ち場を死守する方が死傷者が少なくて済む。
元々捜索破壊ドクトリンは、防戦時には堅陣と機動戦力を組み合わせて敵に出血を強いる戦闘教義である。
常に主導権を握り続け、積極的に防戦する方法論なのだ。
戦いの中で実績は積み上げられ信仰と化し、遂には常識となった。日本軍においては、死守命令は将兵を救うために出されるのである。
捜索破壊ドクトリン。それは常に部隊同士が連絡を取り合い、上空の航空機や後方の砲兵や機甲部隊が窮地の友軍を支援する事により成り立つ。
兵卒に将校並の、将校に将帥なみの能力と見識を要求するという無理難題を突破した軍隊にのみ成し得る異様な指揮機構はメキシコでも滞り無く機能した。
戦力の消耗を避け陣地に籠もる日本兵を包囲して、米陸軍は後退を続ける協定軍を追った。米墨の国境線かその更に奥に協定軍の主要抵抗線がある筈であり、そこを貫けば一気にメキシコ方面の協定軍を崩せるものと思われた。
一つは、メキシコ人を軽んじていた点にある。
往々にして、気軽く暴力を振るう者ほどその弊害に無頓着である。
世の中には己の身体を診察させる医者を特に意味もなく鞭打つ王侯貴族や、己の乗る航空機を扱う整備員を何の理由もなしに殴る将校や、己の食う飯を作る妻を目つきが気に入らないという理由で怒鳴りつける夫、などというものが存在する。
彼ら(彼女ら)は殴られる側の感情など気にも留めない。報復を怖れる知性があれば、そんな真似はできはしない。
そして積もり積もった憎悪を被害者が爆発させると、暴力に染まった者たちは「理不尽な!」と驚き戸惑い、そして憤る。
一般のアメリカ人にとって、メキシコ人は驢馬のような存在だった。
安賃金で働かせ、鞭で殴っていうことを聞かせ、暴れるようであれば射殺する。
合衆国的世界観では弱者に生きる資格はない。あるとすればそれは強者に隷属しての生のみだ。故に米国社会では家庭内に性暴力が蔓延している。少なくない比率の親が子供を性的な搾取対象とするのだ。
合衆国人が虚構の中で性的要素を排するのは、現実世界が性的な脅威つまり暴力と悲嘆にまみれているからである。火の怖さを良く知っているから火事を恐れるのだ。
合衆国では病的なまでに肥満した小児が頻繁に見受けられるが、そのうち3割以上は親または親族からの性対象となることを防ぐための防衛行動として肥満することを児童が選んだ結果である。極端に肥満した者を性的に好む者は北米でも少数派だ。
国力で比較すればアメリカ合衆国に対しメキシコは弱体であった。社会構造的にも弱かった。
突き詰めてしまえば社会が発展するか否かは、支配機構の精度と利益還元度合いによって決まる。きめ細かく行き届いた統治がなされ、なおかつその統治が人々を幸せにしていなければ、社会は何れ腐って朽ち果てる。
空間や時間やそれ以外にも色々と問題があって、メキシコの社会構造は米国のものより統治効率と幸福の分配能率において劣っていた。
故にメキシコは相対的弱者であり、今次大戦においてもろくな目にあっていない。
外国軍とそれに組みした軍閥により焦土作戦が行われ、100万を越える死傷者とその数倍の難民が発生し、経済は破綻した。
内戦状態に陥ったメキシコから米陸軍は悠々と立ち去り、後は混沌の坩堝と化した大地とその中に取り残された日本軍だけが残った。
メキシコは、米国に比べれば弱い。これは覆しようのない事実である。
ただしそれはメキシコ人が低能であることを意味しない。
纏まりとか計画性といった要素に欠ける嫌いはあるが、メキシコ人は愚物ではない。
緑服の米兵(グリンゴ)どもにしたい放題された怨みを忘れてはいないし、報復のためには協定軍へ協力する事が早道であると判断する知性も持ち合わせている。
メキシコの敵は合衆国であり、敵の敵を一時の友とする決断は一般的メキシコ人達にとって難しいものではなかった。
言い変えれば、日本軍は米陸軍の参謀達が想定するよりも遙かに早くそして深く、メキシコ地域の民心を得ていた。異国の異人種の異教徒達をメキシコ人達は歓迎こそしなかったが、無意味に抗うこともなかった。
最初期の狂乱状態が日本軍のばらまいた弾薬と援助物資によって鎮まると、生き残った地元軍閥の仲立ちにより日本軍が制圧した地域の治安は急速に回復していく。
後々の話であるが、復興事業が軌道に乗ったメキシコから日本軍が撤収する際に「日本軍帰らないでくれ」と主張するデモ行進が地元民により行われた地域もあった。それ程に、当該地域での日墨関係は良好だった。
メキシコ人と日本人は「仁義」とか「浪花節」とかで表現される感情的同調を見せていた。米陸軍の中枢部が想定していたよりも遙かにその関係は良好であった。
関係を良好に保つため、メキシコ湾側へ送られるはずの物資はメキシコ国内の復興へ使われ消えていく。
その点は米陸軍の望んだとおりだったのだが。
誤算は、現地メキシコ人の協定軍に対する戦争協力により、メキシコ内部の至るところに中小規模の航空基地が造られていた事である。
ただ造られただけでなく、その維持にも現地人が一役買っていた。地元民の自警団が基地の周辺を巡回し、基地への物資輸送や基地内の雑用を手伝った。基地に隣接する飲み屋街の酌婦までが協定軍に協力し、連合国側の間諜らしき者を見かければ密告した。
協定軍が米墨国境付近へ大兵力を集められないのは、主に兵站の問題である。
最前線へ人や兵器を集めても、輸送能力が限られていては全員に物資が行き渡らなくなってしまう。修理器材や部品は勿論、各種の消耗品がなければ戦えない。
銃があっても弾が無い、トラックがあっても燃料が無いのでは戦えない。食料や医薬品がなく、頭数だけ居る集団は軍隊ではなく流民だ。
ならば無理に最前線へ送らねば良い。補給線が最前線と繋がっていなくとも、距離が遠すぎなければ飛行機は飛んでいける。
そんな理由でメキシコの内部、復興中のメキシコシティ近郊から前線に近いモンテレー市に掛けての地域に無数の航空基地が造られた。その多くは野外飛行場に毛の生えた存在に過ぎなかったが、傷付いた協定軍の飛行機が緊急着陸を試みるには充分役に立つ。
テキサス方面で米軍の大規模侵攻が始まると、それらの航空基地から協定軍の飛行部隊が次々と飛び立ち、戦場へ航空戦力を送り込み続けた。
テワンテペク地峡を東西に貫く陸路の運送力には限界がある。メキシコの太平洋岸へどれほどの物資があろうと、地峡部の道が瓶の首と化して仕舞えば必要量が届かない。
故に協定軍は瓶の首を通りきれず溢れてしまうであろう物資を、メキシコ高地に点在する航空基地へ送りそこから航空隊を出撃させたのである。
大攻勢が始まる直前の主戦場であったテキサス中部にはぎりぎり届かない、航続距離の短い航空機でも米墨国境を越え南下してくる米陸軍には届くのだ。
ハワイ方面で訓練を受けていた日本海軍や各国義勇軍の航空部隊も順次メキシコ高地地帯へ送り込まれた。日本の陸軍と海軍は仲良しではないが、現場で協力することは出来た。
この航空基地群の存在を米軍側は見落としていた。これまでの戦闘では一切使われていなかったからだ。
米軍の諜報網はメキシコ内陸部に多数の航空基地が協定軍によって造られている事を察知していたが、テキサス大攻勢司令部の判断には影響しなかった。
基地群の存在とそこに終結しつつある航空戦力を換算すれば、攻勢時に一時的にだけでも制空権を奪取できる目算が立たなくなる。故に、あえて米陸軍は可能性を無視した。
楽観論だけで押しきろうとするのは全ての軍隊の悪しき習性だ。戦争に負けているときは特に酷くなる。米陸軍に限った話ではない。戦局が不利になればなるほど、意思決定機関の認識は現実から遠のいていく。
と、言うかアメリカ合衆国だけでなく地球上の国家あるいは民族集団の多くにおいて「現実」なるものに大した価値は認められていない。「あの人は現実を見ていない」という評価が最大限の罵倒となる社会は、世界規模で見れば少数派なのだ。
メキシコ領内に入り込んだ米陸軍は協定軍の造った阻止線に阻まれ、迎え撃たれた。そして動きの止まった彼らに西と南から協定軍の航空戦力が殺到する。制空権の天秤は一気に傾いた。
この時点で、テキサス大攻勢は事実上頓挫していた。現代戦で制空権なしに長時間戦える軍勢など存在しない。
だめ押しに、もう一つ。
米陸軍の軍人達は忘れていた。彼らの敵、日本人達が怒り狂っていることを。
日本人は地球上に生きる他の民族と同じく、極端から極端へと走る生き物であることを。
そして、日本人達は戦略爆撃の価値を十分に理解していたことを。
・・・・・
【1941年10月1日午前3時00分 メキシコ西海岸 マサトラン市郊外】
海辺の都市、マサトラン市の南方には飛行場がある。カルフォルニアで造られたコンクリー船を組み合わせた急ごしらえの港湾施設と同じく急ごしらえな倉庫群に隣接する、南北に伸びる長い長い滑走路を持つ飛行場だ。
マサトラン飛行場には煌々と明かりが灯され、夜中であるのに大勢の人間が動き回り各種の車輌が行き交っていた。
いや、車だけではない。
車輪付きではあるものの、空を飛ぶために造られた機械達がゆったりと滑走路上を動いている。
巨大。
第一の印象はそれに尽きる。
全長約50メートル、全幅は60メートルを超える。全高は12メートル余り。
自重88トン、満載時重量209トン。最大搭載量32トン。
航続距離9100㎞。最高時速835㎞。満載時でも720㎞以上。
最低限の塗装しか施されていないため、巨人機(GIGANT)は灰銀色の金属地肌を剥き出しにしていた。
重量あたりの強度に優れた日本製ジュラルミンは腐蝕にも強い。
新時代の推進装置、ターボファン型ジェットエンジン。連装6基12発の、新型エンジンを搭載。
いま此処にあるのは試作器や実験機を除く、実戦仕様ロット最初期型の機体である。
日本陸海軍共用超大型爆撃機、富士。それが怪物の呼び名。
これこそがB作戦を構成する最期の一枚。
B作戦の主眼は合衆国本土南岸とミシシッピ川下流域の水運を遮断するところにある。
この怪物、富士をメキシコ太平洋岸へ配置し、制空権を確保したメキシコ及びメキシコ湾上空を通って合衆国本土へ爆撃を加える。
テキサス方面から米陸軍が攻勢を仕掛けてきたならば、現地の部隊で拘束した後に富士を始めとする航続距離の長い航空機で袋叩きにする。
A作戦とB作戦の発案者は同じである。この二つの作戦は本質的に似通った、悪く言えば同工異曲な代物なのだ。
その骨子は、敵を野戦に引きずり出した上で伏兵による超遠距離攻撃を行い殲滅するものである。
A作戦では、アゾフ海へ乗り込んだ5隻の戦艦が放った奮進装置付き砲弾が勝負を決めた。200㎞を越えて飛来した艦砲射撃は曇天の下を進む赤軍機甲部隊にとり完全な奇襲となったのだ。
B作戦では延べ数百回に渡って出撃する富士の搭載する積み荷、総計1万トン以上に達する爆発物が200万の敵軍を止める。
富士にはそれが可能である。100機の富士が一機あたり4回以上出撃して任務を果たし帰還すれば、それだけの鉄量を投射できるのだ。
富士とは即ち、不次を意味する。
唯一無二。次ぐもの無き超越の存在たることを期待して創り上げられた、日本航空産業の頂点なのだ。
富士は高価である。たった一機でフリゲート艦なみの調達費用となる。しかも耐用年数はフリゲート艦の数分の一、維持費は十倍以上である。一個飛行隊16機揃えたならば一個駆逐隊(軽巡または教導駆逐艦1、艦隊駆逐艦4)を越える値段となる。
だがそれでも、100機の富士を使い潰してでもB作戦を行う意味はある。それが戦争終結に必要なのだと参謀本部の囚人達は判断した。
富士はV兵器のように平押しで押しまくる系統の代物ではない。適宜的確に使わねば費用対効果の悪さに、作戦部が政治的に自爆してしまう系統の兵器なのだ。
マサトランだけではない。太平洋沿いの都市部、アカプルコやクリアカンなどにはコンクリ船を組んで造られた即席の港湾施設と同じく即席の倉庫があり、日本から送られてきた戦争機材が山となっている。
それらの集積所に隣接して造られた飛行場から、戦場である米墨国境付近までの距離は約1500から2000㎞。富士の航続距離なら満載しても問題なく届く。
準備を整えたジュラルミン製の怪物共は順番に助走を始め、飛び立った。マサトラン基地飛行隊の第一陣である16機の富士は上空で編隊を組み、西北の戦場を目指す。戦局次第だが、彼らも二度目以降の任務では前線を越えた奥へ向かうかもしれない。
彼らのもたらす破壊と災厄こそが、合衆国の終焉を決定付ける一打となる。
海軍に続いて陸軍まで倒れれば、アメリカの希望はもはや怪しげな新兵器にしか託せない。
当然の話であるが、これまでの歴史に登場した殆どの新兵器と同じく、いま合衆国が造り出そうとしているものにも戦局をひっくり返す力はない。画期的新兵器が登場して戦局が大逆転するのは、考証の甘い虚構作品の中だけだ。
新兵器の有無に関係なく、勝つ側は順当に勝つ。負ける側は順当に負ける。
合衆国の希望はつい先程、富士が飛び立った瞬間に潰えた。人は再び禁忌の箱を開けてしまったが、胡乱な新兵器は希望すら残せない。
だが日本軍は合衆国が開発中の新兵器を恐れていた。
独伊を始めとする協定諸国の指導部も五大湖周辺地域で造られている存在を恐れていた。それは敵味方問わず万人に、否、千の千の千倍の人々に死を与え、残る人々へ絶望をもたらす代物であるのだから。
戦争は、まだ終わらない。
続く。