「…………最ッ悪」
姫海棠はたての寝起きの機嫌は、ここ数十年でも例を見ないほどに悪い物であった。
婿殿との仲が一体どうなるのか、それが分からない時ですらここまで悪くは無かった。
いや……あの時は、羅針盤の針がどちら所か。どう言う動きをするか分からなかったから。苛立ちや、それを超える怒りと言う感情を呼び起こしにくい状況であった。
しかし今は。今のはたては、かの男が婿殿と呼ばれるように、つまりは正式に結ばれて、婿殿もはたての事を、通俗的な言い方をするならばベタボレの状態である。
もはや婿殿は、この愛妻であるはたての下から去る事は無い。
つまりはたてには、愛する人との別離に対して心配をする必要は一切存在していない。
で、あるならば。
「ッ!!」
はたてが自らの機嫌の悪さを隠すことなく。天狗が持つ力からすればほんの一部分であるが、風を舞わせてまだ寝ている里人を。“自分たち夫妻と同じく”野宿をしている里人の連中を叩き起こした。
そう。婿殿の事に関して心配をする必要が無いのだから。人里のわがままと言うか、余りにもずれた考えに。はたてや椛に射命丸よりも上の意向であるとは言え。
その上の意向を婿殿も比較的中心となって実現しているとは言え。
これが終わったならば、婿殿が妖怪の山の中での、天狗の中での地位をいくらかは上向かせることが出来ると言うそうとうに甘いエサがあったとしてもだ。
それにしたって、振り回されすぎだと。
寒空の下で毛布を互いに掛け合いながら眠りにつくとき。
こんな状況だから眠れていても、それは浅い眠りなのだから。何度も何度も、苛立ちの噴出であるとしか言いようのない、自らの歯ぎしりの音で目を覚ましてしまった。
おまけに、はたての歯ぎしりで目を覚ましてしまうのは。はたて自身だけであるのならば、まだ良かったのだが。
婿殿の方まで、はたては自らの歯ぎしりで起こしてしまっているのである。何度も、何度も。
この姫海棠夫妻は、知っている者が見たとしても。少し以上に仲が良すぎると思われて当然なのだから。
もちろんのこと婿殿は、愛妻であるはたてと肩を寄せ合って眠りについた。
帰りが遅い事を心配した白狼が現状に絶句、それ以上に同情して毛布などを出来る限り集めて差し入れてくれたのでそこまで寒くは無いのだが。
いや、上っ面だけでも良くする必要があるので。この毛布を里人も使うのには、やや気を悪くしたが。
それよりも疲れの方が勝った。
そんな疲れの方が勝る状況でも婿殿は、そしてはたても。愛する伴侶が寒くしていないだろうかと気にしながら、お互いに自らの毛布を一部分、愛する伴侶に分け与えながら眠っていた。
なのだから、ただでさえこの夫妻の眠りは浅い。野宿の時点でかなり浅くなることを強いられているのに。
それだけに留まらず……はたての歯ぎしりの音による、いびきと同じく眠りを害する異音で。
はたては自身だけにとどまらずに、婿殿に至るまで眠りを妨害してしまったのだ。
「ああ、もう!もう!もう!何でこんな事になっているのよ!!」
バシン、バシン、バシンと。はたては駄々っ子のように手足を地面に打ち付けながら叫んでいた。
「何で帰れないのよ!!家もウサギに壊されたまま、修理すら始めれていないし!!」
後半部分に関しては、それはやや姫海棠夫妻の自業自得なのだが。
前半部分の、何で帰れないと言うところに関しては、白狼だって同じことを思っている。
なのではたてが。バシン、バシンと地面に対して力いっぱい、それもただの力では無く天狗の力を打ち付けるたびに。
永遠亭の周りには、本気ではないとはいえ天狗が巻き起こした風が吹きすさびだしたが。
はたてが今の自分たち、白狼の気持ちも半分ぐらいは代弁してくれているので。毛布で口元を覆ったり、目を閉じたりして砂埃から身を守る事を考える程度であった。
それにこの程度の風。妖怪の山にいれば、天狗が吹かさなくても、河童の気まぐれ実験の方が酷い事も多いし、果てには自然と吹くこともある。もちろん、今のはたてが吹かせている以上の強い風が。
故に、白狼達にとってはどころか。この中では一番年季の浅い婿殿ですら、この程度。
子守唄にも使えてしまえそうな心地よさを持っていた。
現に、白狼の一部に至っては。はたてが叫びだしたときにはまた面倒事かと思い、舌を打ちながらもぞもぞと起き出したが。
そこまで心配したほどでも無さそうだと知るや否や、毛布を被って、またうつらうつらとし出した。
婿殿も、はたてがこれ以上興奮しないように。肩を抱いたり、背中をさすったりする程度の事は続けているが。
叫び声とは言え、その叫び声に乗せられている感情が、こちら側と同じであるからなのか。
婿殿ですらどこか、うつらうつらとした表情であった。
唯一、息子君から部外者をいれるなとの命令を実行するために門番を勤めている八意永琳だけは。
彼女だけは、貴重なまどろみを邪魔された事により。やや眉根をひそめる表情をしていたが、“いたのであるならば”一番文句を言いそうな蓬莱山輝夜と四季映姫は息子君と同様にご不在。
結局昨日は帰ってこなかったので、果たしてどこにいるのやらと言った状況ではあるが。
赤子状態の○○が、明らかな足手まといとは言え。蓬莱人と閻魔が連れ立って歩いているのだ。
出会う事すらしたくない部類の存在である事は確かであろう、片方ですらそう思いたいのに。
だからまぁ、どこにいるのか気にはなるが、状況の心配まではする必要はない。
同じことは息子君も、彼に至っては永遠亭のウサギ全員で中有の道へ行ったと分かっているし。
もし仮に、息子君が永遠亭の中に籠って。絶対に会わないぞと言う態度を取っていると言う状況でも。
吹きすさぶ風に起こされたと仮定しても、天狗の矛がこちらには向かない事は重々承知している。
向くとすれば人里の方向であるという事は、嫌でも理解している。
なので、ざまぁみろぐらいの感想だけを漏らして。また布団の中に戻って、鈴仙やてゐに、小町さんの誰か。あるいはこの全員から、良くしてもらう事であろう。
その気になれば、彼は寝転がったままでこの三人から良くしてもらえる。
何か細かい事があっても、一言二言告げればいい。この中に八意永琳をいれようとしているのだから、大した物である。
…………別に、婿殿は嫉妬しているわけでは無い。
息子君には息子君なりの、婿殿には婿殿なりのやり方があるし。息子君が永遠亭の全部を味方に引き入れる事が出来たのは。
賭けにもならないほどに簡単な予想とは言え、重畳である。永遠亭がいれば、当座どころか一生分の安全は手に入れたも同然だ。
ただ、安全は安全でも、快適さと言う部分になると話が違ってくるだけで。だから息子君は意地でも話し合いに応じないのだけれども。
だとしても息子君は今頃はどうしているだろうか。きっと遅くまで酒を飲むか、遅くまで鈴仙やてゐに小町さんと寝床を共にしたはずだ。
ならばお天道様がお顔を出されてすぐの今は、まだ寝ているかもしれない。どんなに良くても、朝風呂としゃれこんでいるであろう。
その後はどうするだろうか、やはり朝寝か?それとも朝酒?
しかしどう考えても、今の息子君は。この朝寝、朝酒、朝風呂。
この遊び人の代名詞とも言える行為の、少なくとも1つはやっているであろう。
またそれを永遠亭の面々や小町にしたって、とがめる事は無いし。
婿殿にしても、うらやましいと言う感情はあるがやはり、とがめたり等はしない。
理屈の上では、今の息子君を止めるべきでないという事は分かっている。理屈の上では、である。
息子君が、今は遊び人状態のままでも維持するべきだと。
…………そこまで考えて、ようやく婿殿は。今の自分の心中にある、いわゆる魚の小骨が引っ掛かったような感触の原因に気付くことが出来た。
ただただ、うらやましい。結局これに尽きてしまうのである。
いや、もちろん、抱ける女の数の事を問うているのではない。好きな女と好きな時に、誰の目も気にせずに遊びまわれる。
この事をうらやましいと思っているのである。
こっちは、愛妻と仲良く同じ寝床に入るどころか、風呂にすら入れていない。であるのだから、酒何て、飲めるはずが無かった。
「何であんたたちはぁ!!無駄だって、言ってるのにぃ!!」
相変わらずはたては、苛立ちを天狗の力と一緒にぶちまけている。風は先ほどよりは強いかなと感じたが。
まだ許容範囲内であろう、椛も射命丸も、慌てたりしている風は無い。
ああ、そう言えば。射命丸だけでも息子君の所に返した方が良いかもしれないな。
一応まだ、彼女は永遠亭付きのようだから。
それもまぁ、大事だが。はたての事の方が優先事項だ。
里人に関してはひたすらどうでも良い。あいつらも怯えから泣いたりして。
「お許しを、天狗様」等とのたまっているが。知った事か。
はたての方が、はるかに大事で。その次に同僚である白狼達からの心証である。
連中の事など、婿殿にとっては三番目にすらいれていない。
はたてはまだまだ、荒れているし。婿殿からしても、はたてに代弁してもらっている形なので、そう無理に止める気も無い。
それは多分白狼も同じだろうけど、はたての真横にいる婿殿は少しだけ事情が違っていた。
「何でここまでしてるのに!駄目なのに!!あんた達はぁ!!!」
確かにはたては、こちらの気持ちを極めて正確に代弁してくれている。
それは良い、それは確かに良いのだが。
焦燥感も同時に募ってしまうのだ。愛妻の泣きわめいて、叫んでいる顔を。しかも間近で見続けているのだ。
焦燥感と言う物が募ってしまう方が普通である。
「はたて、いくら言っても無駄だ」
何となしに、深くも考えずにそんな事をはたてに言ってしまった。嫌実際その通りなのだろうけれども、もう少しばかり、言葉を選ぶ必要があったのは確かだった。
「じゃあ、これはいつ終わるのよ!!」
婿殿が相手ではあるから、先ほどまでの叫び声はそのままでも、睨みつけるような表情は無くなった。
代わりに泣き出した。
いや、しかし。無理も無い話ではあるのだが。
例のクソ女、当代の名目上の妻、残念ながら息子君の実母。
あいつから刺されて死にかけた、あの事件から数えて。もう結構な時間が経過してしまったが。まだ終わらないのである。
終わらないだけでも相当に嫌だと言うのに。姫海棠夫妻の視点で物を見れば、負債の時間が、あの時からずっと、ことごとく邪魔をされてしまっているのだ。
本当に間の悪い事ではあるのだが……いや、間の悪いで済まされてなる物か。
ああ、こうなってしまうと。婿殿はもう、はたてを止める方向に力を入れる事が出来なくなりつつなってしまった。
やはり、自覚はしているけれども。自分は、はたてに対してとことん弱いなと、婿殿は何度目かの再確認を行ってしまうのである。
「やばいですね……いやまぁ、こっちもいつまで続くんだとは思っていますけど」
一部始終を、ひとまずは見守っていた射命丸も。婿殿がはたてに同調し始めたのを見て。
朝食の缶詰――天狗だけで食う、連中にはやらないと決めた――を食べながら、夫妻に近づいた。
白狼は、もちろん椛も含めて。一番仲のいい射命丸には、最初から期待を、もとい圧力をかけていたので。
そのままおっかなびっくりのきらいは残っているが、食事を続けた。
もちろん天狗だけで。
「まぁ、まぁ……ご夫妻とも。とくに婿殿さん……あなたはまだ、喋れる方だと思うのですが」
射命丸から、話をしようと提案された婿殿ではあるが。チラリと、愛妻であるはたての方を見てから。
「最終的には、はたての方に付くがな。はたての決断に従うさ」
この婿殿も、はたての怒りに触発されているのか。沸点がそうとうに低くなっている。
「乾パンでよければ食べますか?味気ないのならば、金平糖もありますよ。あ、それとも。今食べてる野菜のトマト煮込みにしましょうか?持ってきますよ」
とりあえず、腹を膨らませる事にした。そう言えば昨日は、夕食もまともに食べていない。
ならば疲労と空腹が合わさって、余計にイラついて当然であろう。
実際、夫妻ともに。射命丸から差し出された乾パンや金平糖や、野菜のトマト煮缶詰を。これらを抵抗なく受け取った。
「射命丸、上からは何と言われていたのだったかな?俺たちはいつ帰れるんだ?」
しかし、空腹であるが故に食料は黙って、素直に受け取ってくれたが。機嫌に関しては治る気配は見えなかった。
むしろ腹具合が少しは収まったので、冷静に怒り出した気配すらある。
婿殿は食べながらまだ機嫌が悪く。はたての方は、先ほど暴れた体力を取り戻す為か、婿殿以上にがっついている。
その様子に、婿殿がまた寂しそうな顔を浮かべた。
ああ、これは不味いぞ。射命丸はそう直感できた。
「分かっているとは思いますが。我々天狗では、この案件の、決定的な処理は出来ません。お手伝いしか出来ないのです。それが上の意向です」
婿殿を爆発させないために、今の婿殿では絶対に黙るしか出来ない。射命丸よりも上の影をチラつかせたが。
「じゃあ、あのガキに始末を付けさせなさいよ!!私達じゃだめでも、あのガキがやる分には見ているだけでいいんでしょう!?」
しかしはたては違う。射命丸と同じく、結構えらい事もあるし、射命丸ですらはたてのことはどんな天狗よりも天狗らしいと評価している。
しかし今はその評価が、悪い方向に転がっていた。
結局、はたてにとっては。婿殿や射命丸に、あとは椛か。そこに白狼も入るかな?ぐらいなのである。大事にしようと思っているのは。
やはり姫海棠はたては、射命丸の評価する通り。余りにも天狗である、天狗よりも天狗である。
少し追い込まれれば、途端に、無理を通そうとしてくる。
ほんとうに、今ここにウサギがいなくて良かった。全てのウサギが、息子君に付いて行ってくれて、本当に良かったと射命丸は思った。
「あのガキは今何をやっているのよ!!私たちの事も知らないで、朝から女を抱いているのかしら!?」
「私たち夫婦は、あのクソ女に夫を殺されかけてから!!ろくに二人の時間が無いのに!?」
まさか息子君の事を、彼の事をガキとまで表現するとは。ここにウサギは一匹もいない事を確認している射命丸も。さすがに、今食べた物が食道を逆流してくる感触に気付かざるを得なかった。
「ははは……まぁ確かに、永遠亭にいる間も、そう言う事はやってないから――あー、えーっと。分かった、射命丸」
お前は黙っていろ!!余計にこじれる!!
射命丸は食道から逆流してくる朝食を無理矢理飲み込みながら、ヘラヘラ笑っている婿殿に目線だけでそれを分からせた。
「射命丸!」
椛が、射命丸の事を危ないと認識したのか。後ろから水筒を投げ渡してくれた。
それを射命丸は、一気に飲み干した。逆流してくる物を、再び腹の中に押し流しながら。
「あのガキ!あのガキ!!逃げてばっかでないで、何かやりなさいよ!!」
だが射命丸が水筒の中身を飲み干している最中も、はたては息子君の事を“ガキ”と表現し続けていた。
……しかし。何もできない天狗では、このままで何日も何日も続くのは必定。
言葉は思いっきり選ぶ必要はあるけれども。確かに、はたての言う通り。
息子君に動いてもらいたかった。当代の○○が無理な以上、そうなってしまう。
本当に嫌だし、永遠亭からの不興は留まる事を知らないが。人里と同じ結論に、射命丸は達してしまった。
…………いや、もしかしたら。
人里も、もしかしたら。根っこの部分では、はたてと同じように息子君の事を見ているのかもしれなかった。
荒い言葉で表現するか、わざとらしく丁寧に表現するかの違いはあるけれども。
「ならば、天狗がやっても意味は無いか……代理ではね」
ふっと、射命丸も望んでしまった。あの子が、息子君が徹底的になってくれることを。
逃げでもなく、妥協でもなく。根絶することを、あの子自身が。
「婿殿さん、天狗じゃやっぱりむりなので。あの子に、息子さんに『草刈り』をお願いしようかと思います」
はたてはまだ、息子君の事をガキガキと言い続けていたので。婿殿にだけ、耳打ちした。
「この事、まだはたてには言わないでください。荒れるでしょうから。今は、はたてを止める事だけを考えて」
「いつまでだ?」
「せめて2日は下さい」
「ふん、合計3日かかるのか。本当に、『カノッサの屈辱』のようになってきたな。あの時も確か神聖ローマの皇帝が、教皇に許しを請いに――」
「外の知識は、はたての前では言わないように」
婿殿も、愛妻が目の前で壊れるように暴れているので、いっぱいいっぱいなのだろう。はたてが嫌がる外の知識を、ポロポロとこぼしてくれる。
2日はくれと言ったが、持たなかったらどうしようか……。
もういっそのこと、帰らせようか。せめてあのお屋敷に。
この夫妻なら、今からでも同じ布団に入ってやることやってしまうだろうが。良いガス抜きだ。
「椛、2日下さい。このまま何もしなかったら、息子君は本当に何もしません。大火がどれほどになるかは分かりませんが、あの『雑草』は、息子君以外には刈れる人がいません」
しかし、やれるだけの事はやらねばならない。はたてがああなってしまった以上、決定的な事は出来なくとも間接的に動けるだけ動かねばならない。
「2日で良いんだな?」
「そのあと私は、息子さんに付き合う必要が出るかもしれませんが……とにかく、今の状況を何とかするのに、2日ください」
「分かった、今すぐ行ってくれ!必要なら、私も手を貸す!!」
「最悪、ご夫妻はここから帰らせた方が良いかもしれませんね……はっ、要するに欲求不満ですから」
「はは……違いない」
下世話な冗談ですら、焦燥感に満ちていた。
射命丸も、そして椛も。