華美すぎず……しかし安っぽくもない品の良い調度品と、淡い色を基調とした落ち着いた雰囲気の応接間。その部屋の中で、パリっとしたスーツを着た一人の初老の男性と、顔を俯かせ暗い顔をしている高校生くらいの少年が、柔らかそうな革張りのソファーに互いに向かい合って座っていた。
「君が私の事務所に来るようになってから、今日でもう一週間になるね。……どうだろう。そろそろ何か一言くらい、話してくれる気にはならないかな?」
少年と向い合っていた男性は、柔和な笑みを浮かべて少年に語りかける。その表情からは、『人から警戒心を抱かれずに心を開いてもらえる自分』を理想に描いてそこに近づこうとする、確かな努力が感じられた。……しかしその笑顔にも、今この時には微かな陰りが見えていた。
とはいえ、それも仕方のない事だろう。
この町で、カウンセラーとして事務所を開いていた白鳥が、知人の医者から紹介されてきたという少年の両親に相談を受け、カウンセリングを試みてから既に七度。その全てにおいて、この少年は一度足りとも口を開いてすらくれなかったのだから。
「……」
そして今日も、やはりそれはまるで変わりがないようだった。
少年はカウンセリングに来ることも、この部屋に入ることも、そのソファーに座って一対一で対面することも抵抗することなく素直に応じてくれるというのに、唯一つ……白鳥や自分自身の両親との対話だけは、何故か頑として応じてはくれなかったのだ。
相談者が全く何も話してくれないというこの状況は、カウンセラーにとっていわば、取っ掛かりのない断崖に素手だけで登ってみせろと言われているようなものだった。
いや、少年の両親に関してはとても協力的ではあるし、実際には白鳥の本業でもあるスクールカウンセラーとしての繋がりから、ある程度手がかりそのものは得られているのだが……やはり悩みを持った本人からのアクションがなにもないということは、非常に困った事態であることに変わりはないのである。
元々少年が白鳥の元へとやってきたのは、身体的にはどこも異常が見られないことと、果物だけは一応口にするからという理由で彼の『摂食障害』は軽度のものだろうと判断されたからだった。
薬は使わずにすむのであればそれに越したことはない、というのが白鳥の持論だ。
だがこのままカウンセリングになんの進展も見られなければ、そうも言ってはいられなくなるだろう。少年の両親が彼をどこかの精神科医の元へと連れて行くのは、そんなに遠い未来の話ではないはずだ。
(……やはり、仕方ないか。試しにこちらから切り出してみよう)
白鳥は、不意に口をつきかけたため息をどうにか自制しながら、もう一度少年の資料へと視線を落とす。そしてしばらく瞑目し頭のなかを整理してから、やがて意を決したようにゆっくりと語り始めた。
「青鹿水夜(あおがみや)くん。君は今、確か高校二年生だったね。そして通っている学校は麻布高校であると。それで間違いないかな?」
白鳥のその問いに、少年――水夜が一瞬身じろぎか何かと見まごうほど微かに、しかし確かに頷いた。
「では……、麻布高校は今でこそ普通科のみの学校だけど、その前身は農芸高校だったそうだね。過去に生徒数の減少から普通科を作った後、時代の移り変わりで結果として今の形に落ち着いたそうだけれど……まあ、それは本題ではないので置いておこう」
白鳥が一旦そこで話を区切り、水夜が相変わらず顔は上げずとも静かに耳を傾けていることを確認すると、
「重要なのは、ここからだ。麻布高校はその成り立ちから、今でも社会科見学で屠殺場に行くそうだね。君の学校にいるスクールカウンセラーに少し話を聞いたのだけど、それはちょうど二週間ほど前に行われたばかりなのだと言っていた。そして、そこでショックを受けて帰ってくる学生は実は少なくないのだとも」
――いつの間にか、水夜が視線だけをあげていた。
覗き込むように。或いは伺うようにして、水夜は躊躇いがちに白鳥の顔を見つめていたのだ。
「……。……何が、言いたいんですか?」
その時初めて聞いた水夜の声は、なんだか随分と嗄れてしまっていた。もしかしたら水夜が今の摂食障害――拒食症になってから一周間とすこし、白鳥だけではなく他の誰ともほどんど喋っていなかったのかもしれない。
しかしそれでも彼の声は……不思議と綺麗に周りに通る、その名の通りに澄んだ響きを感じられた。
そしてその時白鳥は、気づけば目を丸く見開いてしまっていた。それが自分の行動によって引き起こされた結果であるとは分かっていても、今まで一言も発することのなかった人物が上げた声というのは、やはり驚愕に値するのだろう。
しばらくして、すっかり自分が話の途中で呆けしてしまっていたことを自覚した白鳥は慌てて「ごほん」と軽く咳払いをし、揺らいでいた意識をすぐに引き締めこういった。
「実を言うと、私は以前から少し疑問に思っていたことがあったんだ」
更に続けて、
「そしていくつか話を聞いた後、その疑念はより強まり、あることを思うようになっていった。……実は君は拒食症になってしまったというよりは、正確には『自分の意志』で物を食べようとしないのではないか、と」
白鳥がそう告げると、返って来たのは沈黙だった。
長い、長い沈黙。
だけれどもその沈黙は、これまでのものとは少し質が違うもののように、白鳥には思えた。
それから暫くの間、二人の間に横たわっていた静寂を破ったのは、それまで迷うように視線を彷徨わせていた水夜だった。
「声が、聞こえるんです」
「声……?」
訝しげに首を傾げた白鳥に頷き返し、水夜はそれまでの迷いを振り払うように首を振ってから、ポツリポツリと話し始めた。
「俺は、色んな物の声が聴こえるんです。動物や、植物や……本来動くはずのない、生き物じゃない物からも」
「それは比喩表現ではなく、言葉通りの意味かい? つまり、いわゆる付喪神とか、そういったたぐいの」
「……そう、だと思います。こんなこと、誰にも信じてもらえないと思ってたから人にはいったことなかったけど……子供の頃から、ずっとそうなんです」
「ふむ……」
白鳥は小さく吐息を漏らし、腕を組んで自分のひげをなぞるように一度なでつける。
「となると、君が何も食べなくなった原因は……」
「……悲鳴が、聞こえたんです。何度も、何度も。屠殺場で……」
目を伏せ、軽く口元を抑えてから、水夜は呻くようにそういった。
「わかっては、いたんです。自分たちが生活するその裏で、ああやって殺されていく動物たちがいることは。生きていく上で、食物連鎖とか自然の流れだとか、そういうのを否定するつもりもなくて。だけどそれは、つもりだけだったみたいだ。あれを聞いちゃったら俺にはもう……」
そう独白する水夜の脳裏に流れていたのは、たくさんの悲鳴の連鎖だった。
絶叫しているのもいた。ただ嘆くだけのものもいた。屠殺場にいた動物たちは大抵が納得済みだったようだけど……それでも死の間際、今わの際の断末魔だけは、そんなものは関係なしに等しく水夜の耳朶に突き刺さり木霊し続けた。
「では、果物だけはどうして食べられるんだい? 君は植物の声も聞こえるのだろう?」
「……家の庭には、リンゴの木があるんです。その木が、心配してくれて。自分たちにとって果実は身体そのものではなく人間でいうところの爪や髪の毛のようなものだから、気にせず食べてくれって言ってくれたんです」
「なるほど。それなら――」
気づけば水夜は、それまでの沈黙が嘘のように、何でも包み隠さず答えるようになっていた。
それはずっと抱えていた秘密を話すことができたことによる開放感であったり、こんな荒唐無稽な話を否定もせずに聞き続けてくれることが嬉しかったこともあったのだろう。今回の件だけではなく、これまでにあった様々な悩みまで、この後水夜は白鳥に打ち明けていた。
そしてその日の相談時間も終わって応接間を出て、入れ替わりで白鳥に呼ばれていった両親の背中を見送った水夜の表情は、これまでに比べ随分と明るいものになっていた。その表情を見て両親も少し安心した顔をしていたことを、水夜は思い出す。そしてかなりの心配をかけていたことを、強く実感していた。
これが終わったら、両親にも全部話してみるのがいいのかもしれない。
きっとすぐには理解を得られなくとも、いつかわかってもらえるはずだ。そんな風に、水夜は思っていた。思っていた、はずだった。
「ご子息様はおそらく、幻覚……幻聴を伴ったPTSDを患っています。もしかしたら、統合失調症も併発している可能性があります。話してくれた内容は――」
「あの子が、そうですか……。私たちには何も話してくれなかったから、そんな夢みたいなこと――」
本来であれば、聞こえるはずのない声。防音仕様の部屋の中で交わされた、伝えられたその会話。
「……」
――その日、青鹿水夜は行方不明になった。