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No.39580の一覧
[0] 乙女ノ興廃此ノ一日ニ在リ(艦これ・短編)[男爵イモ](2014/03/06 15:13)
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[39580] 乙女ノ興廃此ノ一日ニ在リ(艦これ・短編)
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:006b1e01
Date: 2014/03/06 15:13
■プロローグ

 バレンタインデーについての説明を加賀から聞いて、赤城は衝撃を受けた。

「え! チョコレートをたくさん食べてもいい日ではないのですか?」

 もちろん違う。
 空母たちの母、鳳翔は呆れることなく答えた。

「女性が意中の男性に、チョコレートと一緒に気持ちを伝える日、ということになっていますね。そうでなくても、日頃の感謝の気持ちを伝えることもあるそうですよ」

 赤城、加賀、鳳翔。三名の艦娘が顔をつきあわせるここは、横須賀鎮守府の庁舎に隣接して建てられた艦娘寮、その中でも空母のための棟だ。
 この建物で寝起きする空母の数はわずかに五。にもかかわらず他の艦種の寮と遜色ないほど広く作られているのは、今後の増員を見越してのことだった。
 人気のない廊下やガランとしたサロンを前にすると、鳳翔には賑やかな他の寮が羨ましく思えることもあったが、赤城とともに機動部隊の中核を担う加賀などは、無駄に艦娘の数ばかり増やすことに懸念を示したりもする。
 彼女たちは互いに相手の意見の正しさを理解しているため、衝突は起きるはずもないが、しかし己の主義主張を曲げることのない芯の強さも持ち合わせている。

 では赤城はどうなのかというと。

「チョコレート……どうすればたくさん食べられるのでしょう?」

 あまり深く考えていなかった。
 これは彼女が無責任なのではなく、艦隊の運営は自らの職責を超えるところにあると認識しているからだった。彼女なりの弁え方だ。裏を返せば、どのような状況になっても対応してみせるという自信あってこそともいえた。また、艦隊の舵を取る提督への厚い信頼ゆえでもあった。

「提督に贈るには、多すぎるように見えますが」食堂の長テーブルに置かれたいくつものダンボール箱を見て、加賀が言った。「すべて材料ですか?」
「そうですよ。練習用にもと思って、多めに届けてもらったんです。それに戦艦寮の大和さんに頼まれたものもありますからね。戦艦寮の分は、これと、これと……」

 これと、これと、これと……鳳翔が箱を指すたびに、赤城の眉尻がどんどん下がっていく。
 空母寮の取り分はみるみる減っていき、最終的に残ったのは全体の一割ほどだった。空母と戦艦の人数の比率から判断して、明らかにおかしな配分に赤城はおののいた。

「せ、戦艦の皆さんは、いったいなにを企んで……」
「いえ、大和さんが駆逐艦の子たちを集めて、作り方を指導するそうですよ」
「ああ、なるほど」加賀がうなずく。

 彼女たちは皆、大和に駆逐艦たちがじゃれつく光景を容易に思い浮かべることができた。艦娘になる前、海に浮かぶ鋼鉄の艦であった頃もよく見られた光景だったからだ。

「大和さんはもうじきいらっしゃると思います。運び終わったら、私たちも作りましょうか。まずは練習で作ってみて、自分たちで試食してみるのがいいかもしれませんね」
「そうですね! どうかご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」赤城は一転、うきうきと答える。
「よろしくお願いします」付き合って加賀も頭を下げる。
「はい。一緒に頑張りましょう」

 鳳翔が微笑みながら言ったそのとき、来客を告げるブザーが鳴った。
 やや遅れて、ガラガラガラ、玄関の引き戸の音。
 からん、ころん、硬く軽い足音。

「もし。大和です。チョコレートの材料を受け取りに参りました。どなたかいらっしゃいませんか」

 いつもどおりのよく通る声だ。妙な気負いも萎縮もない。
 かつて主力として期待されながら航空機にその地位を奪われた戦艦たちは、艦娘になっても空母に対して思うところがあるらしく、好んで空母寮に近寄る者はほとんどいない。
 そんな中で、大和は数少ない例外のひとりだった。
 それどころか、彼女を相手にすればむしろ空母の側が緊張する。それほどまでに、活躍の大小や生まれの順とは関係なく、この国のすべての艦にとって大和は別格の存在なのだった。

「はい、ただいま」

 鳳翔ははしたなくならない程度の早足で玄関に向かった。赤城と加賀も従って、客を迎えに出向くことにした。

 こうして誰もいなくなった食堂はしんと静まりかえり。
 窓から朝日が差し込み、光の筋が空気中を泳ぐ塵をきらきら輝かせている。

 季節は初春。寒さもわずかに緩みはじめ、七十二候においては鶯の鳴く時期とされるとおり、遠くから高く澄んだ鳴き声が聞こえてきた。
 バレンタインデーまでは残すところ数日。しかし、勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求めるという。
 決戦の準備段階である今、乙女の戦いは既に始まっているのだった。





 大戦艦たるもの、いかなるときも動じることなく。
 それを体現するのが武蔵だ。
 かつては乗員さえも間違えたほど大和と瓜二つであった彼女だが、辿った経歴は大きく異なる。先に沈んだ武蔵は、古今東西で最も苛烈な攻撃を受けた艦なのだ。ひるがえって、彼女を揺るがすにはそれほどの戦力が必要だったということになる。
 そのあたりが影響したのか、艦娘として再び生を受けた武蔵は常に泰然自若としていた。唯一の例外は戦闘中で、そのときに限って彼女は高天原で荒れ狂ったスサノオもかくやの猛威をふるう。求めて求めてやまなかった決戦への渇望が満たされる喜びと、戦艦として生まれ持った暴力的な本能が故だった。
 戦いに臨む彼女を見れば、誰しもが思う。敵でなくてよかったと。その後に損得を勘定して、味方でよかったという思考がついてくる。人類が磨き続けた知性という名の盾を紙切れのように打ち抜いて、動物としての本質を直撃するほどの、圧倒的な強さ。それが武蔵という戦艦娘なのだ。

 そんな彼女だが、近頃は出撃の回数がめっきり減っていた。にもかかわらず、機嫌はよい。傍目にはわかりづらいが、いつもよりほんの少しだけ柔らかい表情で、朝日を浴びながら歩いている。
 紙袋を両手にぶらさげているのは、買い出しの帰りだからだ。袋の中身に気をつかっているというわけでもないが、寮の敷地の景色を眺めて楽しめる程度には足取りもゆっくりとしている。裸の桜樹を目にとめては、今年は花を見られそうにないと残念がって、そうした自身の心の動きを楽しむ余裕さえあった。
 近く、大きな作戦があるのだ。一ヶ月後には彼女と仲間たちは遠い異郷の海にいる。いつ帰ってこられるかもわからない。そうとなればいま目に映るこの光景が途端に惜しくなるのだから、我ながら現金なもんだ。そんなことを考えて、武蔵は上機嫌に目を細める。

「うん?」

 いまひとつ彩りのない景色の中におかしなものを見つけ、武蔵は足を止めた。
 片眉を上げた彼女の視線の先には、桜の幹からはえた黒くて長い耳が二本。よく見れば、それはリボンだとわかる。

「島風ではないか」

 武蔵は樹の裏にいるであろう顔見知りの名を呼ばう。すると黒いリボンがはっと驚いて引っ込んだ。ややあってから今度は恐る恐る顔が覗く。

「あ、武蔵」
「そうだ、武蔵だ。こんなところでなにをしている?」
「別になにも」

 ふてくされたように言う島風だが、ここまでくれば逆に素直だった。
 武蔵は進路を変えて、親しい駆逐艦娘に近寄った。

「いまの時間、手の空いている駆逐艦たちは大和のもとに集っているはずだぞ」
「知らない」
「そうか。かく言う私も、実はこれから大和のもとに向かうところだが」武蔵はふっと笑って、両手にぶら下げた紙袋を掲げる。拍子にギンと音が響く。「届け物を頼まれていてな」
「なに、それ?」
「酒だ」
「飲むの?」
「いいや。なんでもチョコレートを作るのに使うらしい。詳しいことはわからないが、提督用だと言っていたな」
「ふぅん」
「島風は提督に作ってやらないのか?」
「私はバレンタインデーなんて興味ないもん。みんなして浮かれてバカみたい」
「そうだな」

 武蔵がすんなり同意すると、島風は驚いたように彼女を見上げた。目をしばたたかせて、高い位置にある赤い瞳から真意を探ろうとする。
 武蔵は友人を諭す口調で言った。

「しかし、たまには馬鹿になるのも楽しいもんだ。今日と同じ明日はないし、花に嵐のたとえもあるぞ」
「バカになる?」
「いまを楽しんだ者の勝ち、ということだ」
「いまを……」
「ほら、これを持て。運ぶのを手伝ってくれ」武蔵は酒瓶の入った紙袋を島風に差し出した。
「え」島風は思わず受け取ってしまう。
「島風よ、参加する気はなくてもチョコレートに興味はあるだろう。どうせ大和のやつがたくさん作る。さあ、いざ行くぞ」
「あ、待ってよ」
「あっはは、自慢の脚はどうした? 時の流れは速いぞ。乗り遅れるな」

 そうまで言われて黙っている島風ではない。長い足ですたすた行ってしまう武蔵を、彼女は慌てて追いかける。袋の中で酒瓶がぶつかって音を立てるのにもお構いなしだ。
 手のかかる駆逐艦娘が追いついてくるのを確認して、武蔵はわずかに歩調を緩める。その口元には、優しげな笑みが浮かんでいる。






「じゃーん!」

 戦艦寮のキッチンで皆の目を集めたのは雷だった。手には見慣れない金属の……なにかを持っている。

「なにそれ?」漣が皆を代表して尋ねた。というより、本音がぽろっとこぼれたといった感じの口調。実に訝しげだった。
「チョコレートの型よ! 工廠の妖精さんに頼んで作ってもらったの。ほら、ちゃんとビンの形をしてるわ。中にお酒を入れて、ボンボンを作るのよ」
「あら、こんなにたくさん曲面の連続を……素材はアルミですか。凄いですね」この場の総責任者、大和は妖精さんの工作技術に唸る。
「まずチョコレートを流し込んでから少し冷やして、外側だけ固まったらひっくり返すの。そうしたら内側のチョコレートが流れ出るから、代わりにお酒を入れたら完成よ!」
「ご主人さま、お酒好きですからね」
「司令官の部屋の植木鉢の陰にビンが置いてあるの、見たことあるわ」暁が言う。
「たまに夜中に執務机に突っ伏して酔いつぶれているね」響が醜態をばらす。
「で、でも、凄い人なのです」末の妹ながらこの中で一番の古株、電がかばう。
「アニオタですけど」漣が混ぜっ返し。
「アニオタだけど凄い人なのです!」涙目でかばう電は、もう自分でもなにを言っているのかわかっていない。
「男の人はときどきお酒に頼りたくなるものよ」
「悪いとは言ってないさ。ただ、あまり強くないのに好きなのは危ないかな」
「アニメは漣や夕張に付き合ってるだけでしょ?」実は一緒に見ている暁が言う。
「潮ちゃんはどう思う?」綾波型九番艦の漣が、十番艦の妹に尋ねる。
「わ、私ですか?」急に話を振られて、引っ込み思案の少女は焦って答えた。「あの、昔は戦闘機のパイロットだったのは凄いかなって……そのっ、思います」
「え、司令官ってパイロットだったの?」雷が目を丸くした。

 彼女だけでなく皆が驚いていた。
 しかし、理由はそれぞれ違う。

「暁は狩人だったって聞いたけど」
「私は戦車兵と聞いたけど、ないと思う」響は苦笑する。「海軍の提督なんだ」
「ぼ、冒険者をしてたって言っていたのです」
「アイドルのプロデューサーを目指してたって聞いたわ」
「あー、野球選手だったと聞いたことがあるような……」漣が言った。「ロビカスとかいう魔球使いをついに返り討ちにした話には、手に汗握りました」

 漣の発言を最後に、場に沈黙が満ちる。
 皆の心は一つになっていた。
 しかし誰も言葉にはしない。
 代わりに、いままで黙っていた大和が口を開いた。

「もう、困った人……」

 呆れたような言葉とは裏腹に、声は微笑ましそうな。惚れてしまえばあばたもえくぼなのだった。
 提督と二人きりでないと表に出さない顔を垣間見せた大和の、普段の凜々しくも優しい姿とのギャップに、駆逐艦たちの視線が一斉に集まった。
 皆に見上げられていることに気づいた彼女は、慌てて体の前で両手を振って誤魔化す。

「さあ、そろそろ作り始めましょう。お酒は、もう少ししたら武蔵が持って来てくれるはずですから、先にチョコレートを――」

 そこまで言ったところで、玄関の扉が開く音が豪快に響き渡った。

「いま戻ったぞ!」
「もぉ、待ってってば!」

 たったふたりなのに、やけに賑やかな声だった。
 ゆっくりした足音と小刻みな足音がキッチンに入ってくる。

「おかえりなさい」大和は凸凹のコンビを出迎えた。
「おう大和よ、頼まれていたものを調達してきたぞ。ついでに島風も捕まえてきた」武蔵は自分のうしろに隠れていた島風を前に押し出す。
「あっ、ちょっと」
「おはようございます、島風。武蔵を手伝ってくれたんですね。ありがとうございます」
「えっと……」なんと言っていいのかわからず、島風は口ごもる。

 彼女がなにか口にするよりも先に、他の艦娘たちが次々に言った。

「なによ、武蔵を手伝ってたの? 探したんだから」と暁。
「みんなでなぜか木の上とか探しましたからねー」と漣。
「なぜもなにも、それを提案したのは漣だったよ」と響。
「来てくれて良かったのです。ね、潮ちゃん」と電。
「はい。みんなで一緒が、いいです」と潮。
「さあ、一緒に作りましょ」と雷。

 人見知りの気がある島風も、この一大攻勢には勝てなかった。渋々といった風を装いながらも、嬉しさを隠せぬ表情でうなずく。それで誘った少女たちはますます喜んで、キッチンはにわかに活気に満ちあふれる。

 なかなかのチームワークを発揮する少女たちを、戦艦のふたりは静かに見守っていた。

「ありがとうございます」囁くように大和が言う。
「なに、必要なことをしたまでだ。実は道中、叢雲やら摩耶やら見かけたが、そっちには声をかけなかったしな」
「叢雲は艦娘としては最古参ですしね。重巡のみなさんも、参加したければ自分で言うでしょう」
「そういえば摩耶のやつ、ブラックプラズマとか書かれたでかいダンボール箱を抱えてたな」

 一目で義理とわかるチョコだ。なお雷や電とは関係ない。

「せかっくですから武蔵も作っていきませんか?」
「いや、チョコレートには興味があるが、作るのはそれほどでもない。遠慮しておこう」
「でしたら後で、試作品でよければ持っていきますね」
「ありがたい。さあて、私は提督のとこにでも遊びに行くかな」
「だめです。お仕事の邪魔になるでしょう」
「いい酒の一本でも持っていけば容易く釣れるぞ」武蔵は紙袋から酒瓶を一本抜いた。
「今日は大井が秘書艦ですから、提督も真面目に過ごされるはずです」
「ああ、やつか。あれもなかなか怖い物知らずというか活きがいいというか。提督が好んでいるようだから問題ないが」

 それを聞いて、大和は少し難しい顔をした。

「私もああいう風にした方がいいのかな……」
「やめておけ」武蔵は苦笑して言う。「お前や金剛みたいなのがいるからこそだろう」

 大和は首をかしげた。しかし武蔵は答えることなく背を向けて、手をひらひら振りながら行ってしまった。もう片方の手にはちゃっかりと大きな酒瓶をぶら下げていたが、あの程度ならおつかいのお駄賃みたいなものだ、大和は見なかったふりをした。

「おう長門、何をこそこそ覗いている? なに? 駆逐艦に懐かれる大和が羨ましい? ならばそう言って加わればいいだろう。恥ずかしい? 何を言ってる。おい、引っ張るな」

 叫び声やらあらあら言う声やらが遠ざかっていくのも聞こえないふりをした。
 気を取り直し、彼女は未だきゃっきゃと姦しい駆逐艦娘たちに向き直る。

「さあ、みなさん。少し遅くなりましたけど、そろそろ取りかかりましょう。まずはちゃんと手を洗いましょうね」

 すぐに元気のいい返事がたくさん上がって、こうして少女たちのチョコレート作りはようやく始まった。





■前

 チクタク、チクタク。カタカタカタカタ。
 執務室にある音は、時計とキータッチの音だけ。
 部屋の主は大きなデスクに向かってひたすら文書作成に励んでいる。プリントアウトされて山となった書類のほとんどは、引き継ぎのための資料だ。
 彼の艦隊は近いうちに日本を離れることになっており、代わりに鎮守府海域で戦うことになる艦隊のために、腕がおかしくなるほど作業を続けているのだった。
 聞いた話では、後任は艦娘艦隊の指揮官としては新人であるというから、彼としては通常よりも詳細な資料を作りたい。なにせ彼のときは艦娘や深海棲艦というものが現れてから間もなく、味方のことも敵のこともなにもわかっていなかったから、百戦して百戦が危うかった。あのような苦労をわざわざ今更になってする必要はない。そんな思いが、熱意の源になっていた。

 彼がしているのは、普通に考えれば艦隊の長その人がおこなう作業ではないが、仕方のないことだった。艦娘を運用する組織の規模、そしてそこに所属する人間の数は、彼女たちの作戦能力からすれば驚くほど小さいのだ。
 そうなったのは、機密保持の観点からだけではない。
 人類の戦いを見つめてきた艦娘たちが、そこらの指揮官よりもよほど判断力に優れ、そこらの参謀よりもよほど頭が切れるという、なかなかどうして現実的な理由もあった。そこに、そこらの兵よりよほど働き者の妖精さんが加わってしまえば、人間の出る幕などほとんどない。
 一例を挙げれば、艦娘たちの艦隊を率いる司令官には、人間の副官ではなく艦娘の秘書艦がつくことになっている。秘書艦の任命権は提督にあり、常に同じ艦娘を側に置く者もあれば、ここの提督のように持ち回りで任命する者もある。

「提督。ここの数字、おかしくないですか? 確認お願いします」

 現在の秘書艦は大井という少女だった。
 数少ない重雷装巡洋艦の艦娘は、作成された書類に目を通し、簡単なチェックをするよう申しつけられていた。

「ん……どこだ? 見せてくれ」提督はやや遅れて返事をした。
「ここです。去年の出現数の統計が……」大井は彼の執務机に近寄った。
「あー、二月のがダブっていて、それで以降一ヶ月ずつずれてるのか。よく気がついたな、こんなの。見なかったふりしたいが、くそ、今訂正する。上にも提出しなおさないとな。後回しでいいか。ああ、仕事に戻ってくれ」
「はい」大井は自分のデスクに戻る。
「すまんな」
「いえ、仕事ですから」
「この時期に仕事を入れてしまってすまない」提督は少し疲れた声で言い直した。

 大井は彼の顔を見た。海軍の将たる提督と呼ばれるには若すぎる男の顔だ。
 目は真っ赤に充血し、頬は少し痩けたようにも見える。普段からあまりよく見ることがないので、気のせいかもしれなかったが。

「ここのところ戦闘も減って、他の連中は色々やってるだろう」
「色々って、バレンタインの準備ですよね」
「まあそうね。それにかこつけて大量に買い込んでるやつもいるが、あれはどうするつもりなんだろうな。一ヶ月後には赤道直下にいるかも知れないのに、持っていくのか?」
「何の話ですか?」大井は早くも面倒になってきていた。
「いや、お前も誰かに渡す予定があるのか気になっただけだ」

 え、まさか催促されてるの?
 もちろんふたりはそういう仲ではないので、大井は嫌そうな顔をした。
 それを見て、彼も同じような顔をした。

「違う。わざわざ相手が誰なのか触れなかった気遣いを汲んでくれ。どうせ北上だろうが」
「問題ありますか?」
「大いにある」

 断言した彼に大井は冷たい目を向けた。寒いジョークに反応したわけではない。本気で腹を立てていた。
 睨まれた彼は、しかし怯まず言葉を続けた。

「お前は来週末までは秘書艦だ。それではまともに準備ができないだろう。そこで特別に時間と作業スペースを融通する用意があるが、どうか」
「え、本当ですか? あの、提督。私、提督を誤解してました」
「無駄にしおらしくしなくてよろしい」

 ばっさりと切られ、大井は舌打ちしそうになったが何とか押さえ込んだ。

「日時の方は、急で悪いが明日だ。丸一日、好きに過ごしていい。必要なら外泊の許可も出す。翌朝の点呼に間に合わないようなら、直接俺に連絡を入れるように」
「……?」大井は首をかしげた。外泊という言葉がひっかかっていた。

 彼女が大まかに想定するところでは、明日はできるだけ早くに材料を調達して、あとは寮のキッチンにこもりきりで力作を仕上げる、その程度だった。外泊などという言葉が紛れ込む余地はない。
 どこで食い違っているのか。
 答は提督が口にした。

「作業場の住所はここだ」彼はさらさらと慣れた様子で手帳に書き込み、そのページを切り取って大井に渡した。
「えっと、東京都――」

 そこに書かれていたのは、大井には覚えのない住所だった。どのような場所かもまったく想像できない。単純に知識が不足していた。相方の北上が出不精なため、それにつきあう大井の行動圏も大変にせせこましいものになっているのだ。それは日本国海軍の主力としてはどこまでも正しいが、年頃の少女としては残念な姿だった。
 彼女はメモから顔を上げ、尋ねた。

「これ、どこですか?」
「俺の実家」
「え゛」少女にあるまじき声を上げる大井。慌てて表情を取り繕う。「もしかして、提督のご両親に紹介していただけるんですか? お断りします」思わず本音がこぼれていた。
「今は誰も住んでないから安心しろ。ガス、水、電気、全部通っている。業務用のオーブンと冷蔵庫もある。各種調理器具も揃っている。ただし水は、使う前にしばらく流しっぱなしにすること。鍵と地図はあとで渡す。現時点で何か質問は?」
「いえ。……いえ、でしたら一つだけ。どういうつもりですか?」
「うん、引き替えにというわけでもないが、実は頼みたいことがある。夕方頃に荷物が届くから、それを受け取っておいてほしい」

 頼みと聞いて身構えた大井は、あまりに簡単な依頼に肩すかしを食らった。簡単すぎて逆に疑念が湧くほどで、彼女はもう一度尋ねる。

「荷物って」
「幸せの白い粉」遮るように提督が言った。「――つまり薄力粉だ。あとはココアと砂糖、牛乳、卵、バターなどなど。クッキーの材料だな。ほら、来月はもうお返しどころじゃないだろ。だから、俺もバレンタインデーにみんなに渡してしまおうかと思っている。既製品でもいいんだが、あいつらは手作りの方が喜ぶだろう。なにせ俺の手作りの方が美味い」彼は謎の自信に満ちあふれていた。「しかし、そうしたら材料が一人で運べない量になったんで、秘密基地に届くよう注文したわけだ」
「そんなにたくさんお返しする相手がいるはずだなんて、提督はすごいですね」
「お前な、わかってて言うのはやめてくれ」彼は顔をしかめるが、すぐに苦笑になった。「今年は大和が大号令かけてしまったからな」

 などと大仰に言うものの、実際にかの大戦艦娘がしたことは、日常会話の中でふとバレンタインデーのためにチョコレートを作ると口にした、それだけだ。たったそれだけで皆がこぞって真似し始めて、去年まで細々と行われてきたイベントは、あっという間に賑やかな乙女の祭典へと変身してしまったのだった。

「だが俺は、皆が励んでいるのを知らないことになっている。知っていたとして、俺のためのチョコを作るなら便利な場所があるぜ、とはまさか言えまい。その点、お前なら問題ないんじゃないか?」
「ああ、そういう……」大井は深くうなずく。

 ようやく納得できて、彼への疑いも霧散した。そうなれば素直に感謝の気持ちも湧いてくるというもので、彼女は珍しくも彼の前でにっこりと笑った。

「そういうことでしたら、お気遣い、ありがたくいただきますっ」
「結構。荷物が届く時刻は追って知らせる。生ものは冷蔵庫に放り込んでおいてくれると助かる」
「はい……って、そう言えば提督はいつ作るつもりなんですか?」
「俺か? 俺も明日」
「あ、やっぱり結構です。みんなに頼んで寮のキッチンを使わせてもらいますから」
「――は無理だろうから、まあ明後日か、その翌日か。仕事の様子を見ながらだな」彼は意地悪く笑っている。

 お返しに、大井はもう一度にっこりと笑みを浮かべた。思わず動いた右手が、普段は魚雷発射管を装着している太もものあたりで空を切っていた。





 翌日。
 大井は見知らぬ土地にひとりいた。
 片手にトートバッグを、片手に地図を持ったセーラー服の少女の姿は、平日の昼間の住宅街では浮いていた。しかし、町が彼女を異物とみなすように、彼女にとってもこの光景は見慣れず、どこか居心地悪のわるいものだった。
 明るく見通しが良く生活感はあるのに、人の気配だけがない。しんと静まりかえって、聞こえるのは自分の足音だけ。
 一番怖いのは夜の海で、二番目は昼の海だけど、ここはその次くらいにはイヤ。
 彼女は足を速め、道の端に寄って、逃げるように目的地を目指した。
 このご時世に珍しく、飼い犬の姿など見かけて興味を惹かれるも、横目に見るだけにとどめて足を動かし続ける。

 そうしてたどり着いたのは、何の変哲もない民家だった。地図がなければ周りの家と区別できなかったに違いない。しかし、建造物の作りとは別のところにある、この家だけの特徴に彼女はすぐに気がついた。
 簡易な屋根のついた駐車場は空。庭の芝は枯れてしまっている。郵便受けの投入口は封がされている。表から見える窓はすべて雨戸が閉まっている。
 人の気配がないというよりは、人が住んでいる気配がない。
 提督から聞いたとおりだと思いながらも、念のためチャイムを鳴らしてみるが、やはり反応はなく。

「おじゃまします」よそ行きの声で挨拶すると、大井は預かった鍵でドアを開けた。

 人が生活する空間にはそれぞれ違ったにおいがある。しかしこの家は、そのどれとも違うにおいがした。閉め切った空間に独特の、沈んで淀んだ空気のにおいだった。
 不意に彼女は、新入りのために寮の空き部屋を掃除したときのことを思い出した。

 あのときは北上さんがバケツに足を引っかけて、大変なことになったっけ。北上さんは申し訳なさそうに謝ってくれたけど、私はふたりきりで掃除をするの、楽しかったのよ。北上さんとふたりでいられるなら何だっていいの。でも今日みたいに、北上さんに内緒で北上さんへの贈り物を準備するのも素敵。本当は、北上さんと一緒に北上さんに内緒で北上さんのためのチョコレートを作りたいけど、こういうの、あちらを立てればこちらが立たずっていうのよね。もちろん無理なのはわかっているから、今日はチョコレート作りに集中するつもり。渡すときのことを考えると、今から胸が高鳴るわ。北上さん、喜んでくれるかしら。喜んでくれるといいな。

 無二の親友のことを考えるとき、時間は光の速さとなって未来へ飛んでいく。
 彼女は鼻歌交じりに窓を開け放ち、キッチンにうっすらと積もった埃を拭い、念のためアルコールで消毒までして、調理に相応しい清潔な環境を作り上げた。
 朝の内に買ってきた材料をバッグから取り出して並べ、キッチンで見つけた調理器具も並べれば準備は完了。気合いも十分。

「よしっ」

 彼女はさっそく調理に取りかかった。
 生クリームを鍋に入れて火にかける。それから市販のミルクチョコレートを細かく刻んでいく。これらは生チョコみたいなもの、つまりトリュフのガナッシュなかみになる。
 チョコレートを細かくする作業に没頭している内に、鍋の中身は沸騰しそうになっていた。彼女は慌ててボウルに粉々のチョコレートを入れ、そこに熱い生クリームを注いだ。それから電動の泡立て器でひたすら混ぜに混ぜ、チョコレートの溶けた液体がなめらかになったところで作業は一時中断となる。しばらく室温に置いて温度を下げてやる必要があるのだ。室温は低いので、冷めるのは早いはずだった。
 ときどきかき混ぜながら待っていると、予想どおりすぐに丁度いい固さになったので、それを絞り袋に入れる。そして、大きな皿に敷いたクッキングシートの上に、棒状に絞り出していく。
 ここでまた作業は一時中断。今度は冷蔵庫に入れて更に冷やさなければならない。
 待ち時間を、彼女は友人のことを考えて過ごすことにした。すると、十分後に鳴るようセットしたタイマーによって、体感時間にして十秒ほどで現実に引き戻され、彼女は少しだけがっかりしてしまった。しかし、彼女にとって北上はチョコレートのようなもの。本人が側にいない今、少しずつ大事に消費しようと思い直す。
 気を取り直し、今度はナイフを軽く火で炙り、冷蔵庫から取り出した棒状の長いチョコレートを二センチほどに切り分けていく。まだまだ柔らかい上にナイフの熱もあって、チョコレートは簡単にバラバラになった。その一つ一つを指で丸めて形を整えて、すぐに冷蔵庫に戻す。

「……これで、よし」

 ここで三たびの作業中断となる。ただし、今回は長い。最低でも数時間は冷やさなければ、生クリーム混じりの水気の多いチョコレートは固まらない。ガナッシュを包むためのチョコレートも、いま作っては早々に固まって無駄になってしまう。
 そういうわけで、早くも手持ちぶさたになってしまった彼女であるが、これは元々予定していたことだった。ぬかりなく暇つぶし用の本を持ってきている。本当は移動中、電車の中でも読もうと思っていたのだが、慣れない交通機関のせいで集中できず、一ページも読み進められなかった。この静かな空間ならば、きっと読書も捗ることだろう。

 キッチンとつながったダイニングルームにある食卓は、大きくも小さくもなかった。長方形で、四つの椅子に囲まれている。大井はその一つに腰を下ろした。
 背をぴんと伸ばして姿勢良く。文庫本を開き、なんとなく覚えのある文章を目で追いかけ始める。

 一行目を読み、二行目を読み、三行目、
 また一行目、二行目、三行目、
 一行目……。

「……………ああ、もうっ」彼女は苛立ちを振り払うように頭を振った。少し癖のある髪が猛禽類の羽ばたきのように広がり、乱れる。

 どうしても文章が頭に入ってこなかった。電車のときと同じだが、あのときとは理由が違う。
 本よりも気になることがあったのだ。
 一度それを認めてしまえば、いてもたってもいられなくなる。興味のないものはあっさり切り捨てられるくせに、執着あるものに対してはどうにも抑えの効きにくい自身の性格を、彼女はよく知っていた。
 心にかかった気持ち悪いもやを吹き飛ばし、平静な心を取り戻すには、もはや第一の興味に向かって邁進する他に術はない。

「ふう……」

 乱れ髪を手櫛で梳いて整えて、ゆっくり息を吐く。開きっぱなしだった本を丁寧な手つきで閉じる。
 それで心は決まった。
 いつもどおりの彼女が戻ってくる。
 人並みに悩み葛藤もするが、やると決めたら強い女、大井である。
 その視線の先には、未だ足を踏み入れていない廊下があった。





 そういうわけで探検だった。
 住人不在の家を物色するのはいい趣味とはいえないが、大井はその住人から禁止の言葉を頂いていない。敢えて禁止せず踏み絵のように試されている可能性にも思い至ったが、あの提督だ、それはないだろう。そう思い直す。

 そうよ、むしろ詮索してほしいと思っているはずよ。わざわざ実家を使わせたり、思わせぶりに家族はいないとだけ言ってみたり。どれだけ構ってほしいのよ。

 自分でもどうかと思う理不尽な怒りで罪悪感を誤魔化して、彼女は廊下を進んでいく。

 一階にはダイニングとキッチンの他に、畳敷きの客室、洗面所、浴室、トイレがあった。それらのどこにも生活感はなく、普段から使われているようには見えなかった。しかし、積もった埃はキッチンと同じくらいで、あまりにも長い間放置されていたわけではないと知れる。恐らく提督が数ヶ月おきにでも掃除をしているのだろう。
 特に発見もなかった一階に早々に見切りをつけ、彼女は階段を上った。

 二階はどうやら人が寝起きするための空間らしかった。ぐるりと回る『コ』の字型の廊下に扉が四つある。一階を歩き回って把握した家の形からして、寝室三つにトイレか物置が一つだろう。
 毒を食らわば皿まで。彼女は躊躇なくドアノブに手をかけた。

 一つ目の扉は寝室だった。置かれたダブルベッドからして、夫婦の寝室だと思われる。ベッドにはきちんとかけ布団があった。部屋に踏み込んでクローゼットを開けると、当たり前のように衣類が吊されていた。コートやスーツ、ジャケット。男物は提督の年齢で着るデザインではない。提督の両親の部屋で決まりだろう。

 二つ目の扉はトイレだった。ここは一階と同じで、しばらく使われていないのが一目でわかった。トイレットペーパーがセットされておらず、また備蓄もないようだった。

 三つ目の扉は寝室だった。恐らくは少女の部屋だろう。布団やカーテン、カーペットのデザイン、なにより可愛らしいぬいぐるみの数々。大井には馴染みがないが、それでも一般的な家庭のイメージは持っている。別段羨ましいと思ったことはなく、そういう世界もあるのだと醒めた認識を持っていた。この部屋でもクローゼットとタンスを覗いてみれば、そのサイズから部屋の主の大まかな年齢が想像できた。自分の外見年齢よりもいくらか年下といったところだろうと彼女は当たりをつけた。

 四つ目の扉は、かつての海につながっていた。

「わ……」足を踏み入れた大井は思わず声を上げた。「北上さんと私? それに大和型と長門型、金剛型に――」

 艦船の模型だった。
 かつての海を駆けた勇ましい姿がずらりと並んでいるのを見て、大井は郷愁の念を抱く。

「空母はここまで。ここからは巡洋艦ね。高雄型、夕張に川内型――」彼女は一隻ずつ指さし確認していく。「島風と、陽炎型は一、二……四隻、漣、潮、特Ⅲ型、叢雲」

 名前を読み上げるたびに、大井の脳裡には二つのイメージが浮かんでは消えた。
 一つは、目の前にあるままの艦の姿。
 そしてもう一つは、同僚の少女たちの姿だった。
 最後に読み上げた叢雲まで、彼女は一度の例外もなく二つの姿を思い浮かべることができた。
 それはつまり、目の前にある小さな大艦隊は、提督の艦隊だということだ。

「そういえば、秘密基地って……」そういうことか。彼女は納得した。意識せず微笑んでしまっていた。「ふふっ、可愛いところもあるじゃない」

 言いながらも、正直なところ安堵もしていた。
 提督の家族は、理由はわからないが、恐らくすべて亡くなっている。でないと、この家の状態はありえない。住民はいないのに、私室などは昨日まで誰かが住んでいたかのようにも見えた。そのままにしてあるのは感傷からだろうか。
 もちろん、そのあたりは提督の自由だ。誰が冒すことも許されない。しかし、大井としては、不幸自慢をされても反応に困るのだ。
 実質的な上司であり、そう嫌いな相手でもないから、冷たく切り捨てるわけにはいかない。そういう相手だからこそ、してもいない同情をしたように見せるのも気が進まない。どちらに転んでも袋小路が待ち受けている。

 そういうわけで、秘密基地に秘蔵された大艦隊は、非常に都合のいい逃げ道だった。
 なにせ、探索したことは隠しきれないだろう。廊下の埃に足跡が残ってしまっている。掃除をしたらしたで踏み入ったことは明らかなので、誤魔化しようがない。その上でこの家にあったのが提督の不幸の証拠だけならば、次に顔を合わせたとき、そのことを話題にせざるを得ない。
 しかし現実には、こうして出来のいい模型たちがいる。
 これならば、提督の不幸は単なる情報として胸にしまいつつ、彼の少年らしい趣味をつつくことで笑い話にできるという寸法だった。
 提督が自分のことを知ってほしいと歩み寄ってきたとして、このような気遣いが共にあるならば、大井としても応えるのにやぶさかではない。
 もっとも、彼ならば本当にこの模型を自慢したかっただけという可能性もなきにしもあらず。そういうところがあることに、彼女は薄々感づき始めていた。

 さておき、すっかり気と肩の力が抜けてしまった彼女は、改めて眼前の小さな艦たちを観察することにした。
 艦の数は多く、それぞれ細かいところまで精緻に作り込まれているようだった。一隻一隻楽しんでいては、きっと日が暮れてしまう。
 しかし、それでも構わなかった。
 幸いなことに、彼女には時間がまだまだある。

「あら? これ、北上さんの魚雷発射管に傷がついてるじゃない。ちっ、雑な仕事……」

 幸いなことに、粗探しをする時間はまだまだある。





■幕間

「あれ? 提督、一人でなにやってんの?」

 重雷装艦娘の北上は、執務室に入るなりそう言った。
 あまりにあけすけな発言に、提督は口元を引きつらせる。

「これが遊んでるように見えるなら、ドック入りの優先権をやろう」
「いやー、そうじゃなくってさ、秘書艦は?」
「大井はおつかいに出てくれている。何か用事でもあったか?」
「霞ヶ関でしょ? それは大井っちから聞いてるけど、そうでもなくて」

 彼女は代理の秘書艦がいないことを言っているのだ。

「なあに、一日分の仕事ならどうにか一人でも回せるだろう。なんだ、心配して見に来てくれたのか?」
「まあ心配というか手伝いに来たというか」
「なんだと?」彼は真剣な表情で北上を見た。ほとんど睨んでいるといっていい。
「え、なに?」突然のことに北上は困惑した。
「貴様……いつの間にうちの北上と入れ替わった? どこの鎮守府の艦娘だ? 何が目的なのか答えなさい。俺の北上がこんなに真面目なわけがない」
「や、提督のじゃないし」
「似たようなもんだろ」

 彼の話を聞き流しつつ、北上は応接用の柔らかいソファに腰を下ろした。背もたれにぐったり身をうずめ、だらりと足を放り出す。

「まあねぇ、たしかに最近ますます私兵じみてきてるよねー。あたしは別にいいんだけどさ、居心地も悪くないし。でも軍としてはどうなのかと思ったりするわけよ」
「それほど問題視はされていないな。現状勝ち続けているし、俺は国に忠誠を誓っている。何より軍は俺を、民間でいう立派な社畜だと見なしている」

 見なしているも何も、そのものなのだ。
 艦娘艦隊の指揮官のカレンダーに土日はない。彼の体感としては月火水木金金金金金(中略)金金金金金。休みはいつまでたってもやってこない。年中無休で二十四時間拘束、サービス残業はマシマシ、おまけになんと運が悪いと死んだりもする。身辺調査もしっかりされているので、ちょっとサボりたい日に都合よく身罷ってくれる親戚のおばさんなど一人もいないことも知られてしまっている。

 二人は顔を見合わせて、まったく世知辛いもんだね、ため息をついた。

「提督、お願いがあるんだけどさ」北上が姿勢を正して言った。「執務室で書類に埋もれて戦死とかはやめてよね」
「だったら手伝ってくれ」
「そのつもりで来たんだってば」

 そういうわけで、北上はソファから秘書艦用のデスクに移動した。
 本当に仕事を始めるつもりでいる彼女を見て、提督は今度こそ驚いた。

「本当にどういう風の吹き回しだ」
「いやー、キャラじゃないってことはわかってるよ。あたしだって、秘書艦が大井っちじゃなきゃこんなこと言いださなかったし」
「へえ。あいつはいい親友を持ったな」提督は孫を見守る老人のような目をした。「しかしお前、バレンタインの準備はいいのか?」
「え、なになに? 提督、チョコがほしいの?」
「いや、大井に渡さなくていいのか? こっちはいくつかもらうアテがなくもないんだが」
「あー、そっちかー。うん、それはちゃんと準備してるから大丈夫」北上は曖昧に笑った。「それにしても、提督は金剛型とか連合艦隊旗艦とか、ホント上手くやったもんだよねー」

 北上が話を逸らしたことに気づきながらも、彼はうなずいた。
 実際、金剛や大和を筆頭に、たくさんの艦娘たちが彼に信頼と好意を向けている。そして、彼も艦娘たちの期待によく応えていた。
 しかし、いかに堅固に見える関係であっても、だからこそ最初からそうだったわけではない。
 最初の頃は艦娘たちも、習性ともいえる嗜好に従い、男性の司令官である彼に無条件の好意を抱いただけにすぎなかった。それが数多の戦場を越え、軍制度ではなく将個人に信を置く古参兵のように、彼という提督その人に付き従うようになっていったのだ。
 つまり、先に北上がこぼした私兵という語は決して冗談ではないのだった。

 たとえばの話。
 ある日彼が軍から離反せんと企てたなら、彼の艦娘たちは当然諫めて止めようとするが、それでも聞き入れられぬとわかった段階で、軍に殲滅されると理解しながら彼と共に軍を離れるくらいはしてみせる。

 それがわかっているから、彼は万感の思いで言うのだった。

「慕ってくれるのはありがたいことだ」
「みんな美人で頭がよくって従順で一途に慕ってくれて、しかも軍艦だもんね」

 まさに男のたくましきロマンと夢を具現化したような女たち。

「正直たまらんね」

 正直すぎだった。
 彼は咳払いして誤魔化してから、言葉を続けた。

「しかし、ああいうのばかりに囲まれていると馬鹿になる。そういう意味では、摩耶や曙、大井みたいなのがいてくれるのはありがたい。ああ、もちろんお前みたいのも。こういう会話に付き合ってくれるのはお前ぐらいのものだ」
「褒めたって何も出ないってば」
「チョコくれ」
「はいはい、気が向いたらあげますよー」
「期待せずに待っている。……さて、そろそろ仕事に戻るか」
「そだね」

 伸びたうどんよりも締まりのない空気を一瞬で振り払って、ふたりは自分のデスクと向き合った。うんざりするほど溜まっている書類に目を落として、こいつらどうしてくれようか、闘志をめらめらと燃えたぎらせる。
 やる気というのは有るとか無いとかいうものではなく、必要なときに必要なだけ体の内側で作り出すものだ。それができなければ下へ下へと落ちていくばかり。いわば厳しい時代を生き残るための必須技能といえる。艦娘たちを指揮する提督はもちろん、普段は炎天下のアスファルトに落ちたアイスクリームみたいにやる気のない北上であっても、切り替えのスイッチは当然のように持っているのだった。
 かくして部屋にはいつもどおりの軽快なキータッチ音と紙をめくる音が帰ってきた。その中で、ふたりはひたすら仕事の山を切り崩しつづける。

 無言の時間が長く続き、
 時計の針が進み、
 日が高くなり、
 正午も間近となった頃。

 ちょっと早いけど、まあいっか。やる気の供給を切って、北上は仕事を切り上げた。

「提督ってさー、大井っちのこと好きなの?」

 数時間前の雑談そのままの口調で、そのままの話題を引き継いで。
 凪が終わるその瞬間の風のように、北上の声が静けさを打ち破った。

「好きだよ」提督は仕事の手を止めることなく平然と答えた。
「あー、やっぱり」北上は楽しそうに笑って。「じゃあ戦艦たちは?」
「もちろん大好きだ」
「にひ。わかってるねえ。前から思ってたよ、提督はロマンのわかる男だって」

 男のロマン。それはハーレム。
 ではなく。

「うちの艦隊、どう見たって空母より戦艦に偏ってるもんね。あたしや大井っちの出撃も多いし」

 戦艦や重雷装艦。
 航空機の出現で時代の徒花となった決戦兵器こそが、海の男のロマンなのだった。

「そうだな。もちろん北上、お前のことも大好きだ。が、お前は一つ勘違いをしている」
「え、勘違い?」
「ちょっと手を出してみろ」提督はようやく文字を打つ手を止め、北上を見た。
「何かくれるの? 新型魚雷?」
「手の平、上向きじゃなくこっちに突き出すように」提督は席を立って言う。

 北上は首をかしげながらも言われたとおりにする。すると、まるでこちらに来るなと言っているような光景になった。
 それを無視して、提督は彼女に近づいていく。

 黒い軍服の袖に包まれた腕が持ち上がり、
 ふたりの手の平が合わさる。

「うわ、大っきいねぇ。もしかして宇宙人ごっこ? あれ? 手の平だっけ?」
「あれは人さし指だろう。そうじゃなく、これが日本が一番厳しかった時期にも、一日三食しっかり食わせてもらった大人の男の手だということだ」

 ふたりの指は、関節一つ分ほども長さに差があった。太さも違っている。彼の側から見れば、北上の手は完全に隠れてしまっていた。

「お前たちがこの華奢な手で砲やら魚雷やら握って戦っているとき、俺は陸でペンを握って偉そうに指示を出すだけだ。まったく馬鹿げた話じゃないか」

 それは艦娘に感情移入してしまったすべての提督たちの声だった。

「初めて艦娘に引き合わされたときは、何の冗談かと思った。いや、思う余裕もなかったか。お前は知っているか? うちの叢雲だが、あれは実は世界で最初の五隻のうちのひとりだ。それが建造直後に俺の下に来てくれたんだ。が、あの時代、艦娘についての常識なんて誰も持っていなかったから、俺も動揺してしまって。それに、駆逐艦たちの装備だな。あれのグリップが細すぎて、俺ではまともに握れもしないと気づいたときは、さすがに消えてしまいたくなったよ」

 彼の声は不自然なまでに穏やかだった。
 口では弱みを語りながらも、弱い姿は見せたくない。彼は司令官なのだ。

「とまあ、そういうわけで戦艦たちの仄暗い劣等感やら、お前たちの魚雷バカやら、俺にも少しだけ理解できるところがある」

 だから戦艦や水雷戦隊を積極的に使ってやるのだ、と提督は言う。
 彼の心の深いところを初めて目の当たりにした北上は、病人を労る医者の顔で言った。

「んー、提督もなんか色々ダメな感じにこじらせてるよねー」
「うるせ。俺も必殺の酸素魚雷とか46センチ砲とか撃ってみてえよバーカバーカ」

 何もかもが台無しだった。
 しかし、ふたりにはこのくらいがちょうどいい。
 彼が乗ってきたことに安堵して、北上は尋ねた。

「だいたいさ、なんで急にこんなこと話してくれたの?」
「うむ、仲良くなったら魚雷の一発ぐらい撃たせてくれるやもしれぬと」

 艦娘用の装備は、艦娘が身につけてはじめて兵器として稼働する。人間である彼が真似して装備したとして、それは単なるコスプレにしかなりえないのだ。
 彼が魚雷を発射するためには、だから艦娘が装備した状態で手を重ねるなどしてトリガーを引く必要があった。
 しかしほとんどの艦娘は、彼女たちに装備を与えた提督が相手であっても、自身の艤装を容易に触らせようとはしない。それは北上も例外ではなく。

「うーん、やだ」彼女は無慈悲に断った。しかしすぐにフォローするように言葉を続ける。「まーあたしは大井っちにだって代わりには撃ってほしくないし」
「そんなものか」
「やっぱ魚雷の一本まで責任持たないとね。それが戦うってことの意味だしさ」
「ま、そうだよな」断られておきながら、彼は満足げに微笑んだ。「その覚悟やよし。さすがは俺の艦娘だ」
「だから提督のじゃないって……っていうか、手、そろそろ離してもいい?」

 彼女が言ったそのときだった。
 ダンッ! 勢いよく扉が開く。

「Hey! 提督! 一緒にランチにするデース!」
「あ……」

 執務室の窓際。
 向かい合って立ち、互いの手を取って見つめ合う男女。

 誤解が解けるまでに大変な苦労があったのは言うまでもない。





■後

 甘く香ばしいにおいに嗅覚をくすぐられ、大井は目を覚ました。
 どうやらテーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい。枕にしていた腕の感覚がない。身を包む暖かい毛布が引き留めるのも振り切って、彼女はゆっくりとまぶたを持ち上げる。

 ここ、どこかしら。

 毎朝の目覚めを迎える場所ではない。ぼんやりとした視界に写る光景には覚えがなかった。いくつかの悪い予測が頭をよぎり、しかし、はっとして跳ね起きる寸前に彼女は今までのことを思い出した。

 ここは提督の実家。これはダイニングテーブルよね。眠ってしまったのは、模型を眺めるのにも飽きて本を読み始めたはいいけれど、面白くなかったから。なによ、イルカが攻めてくるぞって。そっちがその気なら、私にも考えがあるわ。イルカ人間なんて酸素魚雷で粉々にしてあげる。覚悟なさいな。

 などと寝ぼけた頭で意味不明な闘志をみなぎらせながら、幾度かまばたきしたところで、彼女はようやくおかしなものが見えていることを認識した。

 キッチンに誰かの背中。
 背が高く、広い。
 顔は見えないが間違いなく提督だった。
 何か作業をしている。
 でも、来られないって言ってたのに。
 …………。
 うそ、まさか丸一日寝てたの?

「……っ」

 彼女のまどろみは一瞬で蒸発した。
 この場合、提督の都合が変わったと考えるのが妥当だが、寝起きにそこまで求めるのは酷だった。まず自身の過誤を疑るべし。身に染みついた生き残るための秘訣が、今度こそ彼女の体をバネ仕掛けのように跳ね起きさせたのだ。

「ごめんなさいっ」ほとんど反射で大井は謝った。
「起きたか」提督は振り向かずに言った。

 その穏やかな声に勢いを削がれ、大井は言葉に詰まった。彼はどうやら、怒っていない。
 部屋の中を見回すと、閉じられたカーテンの隙間から雨戸が降ろされているのが見えた。夜らしい。目に入った壁の時計は相変わらず止まっている。スカートのポケットから携帯端末を取り出して確認すると、二二〇〇時。日付は変わっていなかった。彼女はほっとして息を吐く。

「……あの、この毛布は提督が?」大井は跳ね起きた拍子にずり落ちたそれを拾う。
「ソファに運ぼうとも思ったが、起こしてしまいそうだったのでそうした。家に入ったとき、やけに静かだと思ったらぐったりしていたから驚いたよ」

 大井は頬が熱くなった。よりにもよって寝顔を見られるとは。恥ずかしさを誤魔化すために、慌てて話題を変えようと考える。

「今日は来られないはずだったんじゃ……」
「ところが仕事が順調に進んでな。おかげさまで、こうして楽しくクッキーを焼いている」彼は北上の助力については話さなかった。本人から口止めされていたのだ。
「そうですか。……本当にクッキー、作るんですね」
「そりゃあ作るよ」

 大井の位置からは見えないが、彼女が言ったとおり提督はクッキー生地を作っていた。ボウルの中のそれを混ぜる手つきは妙にこなれていて、それは知らない者が見れば彼を軍人だとは絶対に思わないほどだった。

「でも、こういうのはたまに作るから楽しいんだよな。実は昔、クッキー職人だったんだが、三十京枚ほど焼いたところで飽きてしまって」
「え? 30kキロ枚?」
「いや、兆のもう一つ上の単位。宇宙でチョコチップクッキーをばら撒いていたんだ」
「はぁ……」

 よくわからないが、たぶんわからなくてもいい話題だろうと判断して、大井はとりあえずうなずいておいた。

「ところでお前のチョコは、さっきちらっと覗いたが、あとはコーティングするだけだろ?」
「はい、そうですけど」
「だったらガナッシュなかみの方を、もう何種類か作ってみないか? どのみち今からコーティングをしては終電に間に合わないだろう。ならば有り余った時間を有効に使おうじゃないか。どうせ俺も朝までひたすらクッキーだ。帰りは朝一で、一緒に車に乗っていけよ」

 いつになく親しげな口調と、そして提案の中身に警戒を覚えなくもないが、提督の言うことが最も正しい方法だというのも確かだった。
 それに、夜通しのお菓子作りと聞いて、大井にはピンとくるものがあった。

「でしたら、お願いします」大井は相変わらず振り向かない背中に頭を下げてから。「ところで提督。提督が金剛さんとふたりきりで夜を明かすことがあると噂になってるの、知ってます?」
「ああ、うん。ときどき紅茶の研究会を開くな。だいぶ昔からの習慣だ。いや、噂になっているのは知らなかったが」彼はここで初めて作業の手を止めた。「別に金剛だけというわけでもないぜ。他には……そうだな、長門なんかとは朝まで釣り糸垂らして遠征組の帰りを待っていることもある。あと、これは加賀に近所迷惑と叱られて潰えたが、駆逐艦寮の伝統、枕投げ夜戦演習とかもあったな。最近は新顔が増えて連中の勢力も増してきたし、たぶん近いうちに復古運動が起きるだろう。実に楽しみだ。あ、艦種混合の紅白戦みたいにアレンジしたら親睦にもいいかもな」

 少年のように生き生きと語るのを聞いて、大井はついに悟った。
 ああ、つまりこの人はバカなのね。それもただのバカじゃなくて、もの凄いバカ。

「うふふっ」

 図らずともこぼれた好意的な笑みを引き連れて、大井は足を踏み出した。
 エプロンを着けて、提督の隣に並び立つ。
 顔はまっすぐ正面を向いたまま。
 彼がちらりと視線をくれるのを視界の端で捉えながら。
 蛇口から水を出し、手を洗い。
 この人になら、もう少しだけ心を開いてもいいかもしれない。なにせバカだから無駄に深読みもしないだろうし。
 そう信頼して、彼女は素直な気持ちで口を開いた。

「私、提督には感謝してるのよ」
「へえ」提督は返事も短く先を促す。
「よその艦隊にも大井や北上はたくさんいるけど、私は私でよかった。だって、そうじゃなければ北上さんと会えなかったから。それだけで……こういう気持ちになれただけで、艦娘として生まれてきた意味があったと思う。だからその点、提督には感謝しています」

 大井は蛇口を閉め、濡れた手を拭く。
 しかし、拭き終わってもその場を動くことはなかった。
 正面を向いたまま、彼と目を合わせないまま、言葉を待つ。

「そうか。まあ、友情なのか恋なのか知らないが、微力ながら応援している」彼は娘を持つ父親のように微笑みながら言った。「もちろんそれ以外でもいい。美味いものを食いたいだの楽しいことをしたいだの。お前たちが望むなら、何だって応援してやるさ」
「北上さんは大切な親友です」
「あそう。俺は同性愛については偏見のない方だが」
「艦娘同士でも?」大井は思わず提督の方を向く。「……あっ、いえ、私のことじゃなくて一般論です」

 提督は吹き出した。
 大井は顔をしかめ、再び正面を向く。

「たいへん結構じゃないか。恋せよ乙女、だ。人間の女、軍艦の女。どちらも女に違いない」
「たしかに命は短いかもしれませんけど」
「馬鹿言うな。お前たちは誰ひとり死なせるものかよ」

 困らせてやろうと揚げ足を取ったら本気で返されて、大井は少しだけ慌てた。しかし表には出さず。

「そんなの理想よ」彼女は拗ねたように言う。
「そうだ」しかし提督はあっさり認め。「それでも、もしひとりでも死なせたら、腹切ってやるよ。ひとりで海の底は寂しいだろう」

 そんな、理想よりも実現が難しいことを簡単に口にした。

「まあ、無責任にすべて放り出すわけにもいかないから、少し待たせることになるだろうが」
「…………」大井は何も言えず唇を噛んだ。

 そんなことをされたって誰も喜ばない。そう思う反面、喜んでいる自分がいることにも気づいていた。
 だって、仕方ないじゃない。艦なんだから。私じゃなくたって同じように思うに決まってる。

「このっ……」

 なんだか頭にきた大井は、手頃な位置にあった提督の足を蹴り飛ばした。つま先でガシガシやって悶絶させる。わざと聞こえるように陰口を言うことはあっても、手を出したことはなかった彼女の、まったくもって不器用な甘え方だった。

 けれども彼女は不器用なりに、彼が言葉を違える可能性についてはついに考えることさえしなかったし。
 彼も遠い未来に年老いて死ぬまで、ついぞ彼女の信頼を裏切ることはなかったのだが。
 まあ、それは完全に余談である。





■乙女ノ興廃此ノ一日ニ在リ

 そして、その日がやって来た。





 数年前までは高級品だったチョコレートも、今では求めやすくなっている。それは長い戦いの末に、いくつかの安全な海路が確保されたおかげだった。
 ならば海の安全に一番貢献する艦娘たちには、このバレンタインデーという日を一番楽しむ権利があるに違いない。
 彼女たちは朝っぱらから、仲のいい者同士で贈り合ったり、日頃世話になっている艦娘に贈ったり、ひたすら食べたり、酒の強いものを食べて酔っ払って倒れたり。あるいは、意中の人にいつ渡そうか悩んでそわそわしたり。バレンタインデーそのものには興味がない者も、楽しげな仲間たちを眺めてなんとなく幸せな気分に浸ったり。
 戦いばかりの毎日では疲れてしまうから、少女たちは各々のやり方で今日という日を楽しんでいた。

 そんな浮ついた雰囲気漂う中、提督は執務室を目指して歩いていた。
 朝の空気はまだ寒く、マフラーと手袋は欠かせない。彼の階級からすれば、公務中に女の手編みのそれらを身につけることは公の場で肩を抱いて歩くにも等しいことだったが、背に腹は代えられない。暖かいし艦娘のご機嫌も取れるし、一石二鳥なのだ。
 ところが、最近は方々からマフラーが舞い込み、そのコレクションを見れば彼をヒュドラかギドラかヤマタノオロチかと勘違いする者が出てくるかもしれないほど。しかも、実際には首は一つしかないから、誰から贈られたものを巻くかが大きな悩みどころとなっていた。
 しかし、今日だけはそれも無用の心配だった。というのも、提督が首に巻くのは給糧艦娘の間宮から贈られたもので、これすなわち最強の防壁といえる。なぜなら、彼女に逆らえる艦娘などこの世のどこにも存在しない。今日ぐらいは頼ってもいいだろうと取り出した、提督の秘密兵器なのだった。
 間宮印のマフラー襟元に、彼はひとりで鎮守府庁舎の廊下をゆく。
 こつこつ足音を響かせて、執務室もほど近い曲がり角に差しかかる頃。

「提督、おはようございます」

 彼の背後から小走りで追いついてきたのは、ここのところ距離が縮まったように思える秘書艦だった。

「おはよう。早いな」彼は立ち止まって振り返る。
「提督こそ」大井は彼の隣に並ぶ。

 言葉短く挨拶を交わし、ふたりは執務室を目指し歩きだす。

「北上には渡せたか?」
「いえ。朝にするか仕事が終わってからにするか悩んだんですけど」
「そうか。今日は早めに切り上げるか」
「ありがとうございます」大井は自分でも驚くほど素直に礼をを口にし。「あ、そうだ。提督にも、これを――」

「あ、あれ? 大井っちに提督じゃん。あちゃあ、ふたりともこんなに早かったのかぁ……」

「え? 北上さん?」バッグの中で目的のものを探していた大井の手が止まる。
「よう、おはよう。お前こそ早いな。どうした、大井に用なら先に執務室に行っておくが」
「うーん、ま、いっか。今はどっちかと言うと提督に用があったから」

 北上は背に回していた両手を前に出した。
 左右の手がぐわしと掴むのは、それぞれ黒々と輝く巨大で細長い何か。

「魚雷か? いや、チョコ?」
「いやー、駆逐艦たちに捕まって最初は仕方なく作ってたんだけど。作り出したらなんか楽しくて」北上は二本とも提督に押しつけて。「提督、魚雷撃ちたがってたでしょ?」
「う、む……いや、しかしこれは。おい、二重反転スクリューが回っているように見えるんだが?」
「お酒の化学反応と炭酸使ってさー。機構は原始的だけどちゃんと推進するし、遊び終わったら食べられるし、我ながら傑作よねぇ」北上は得意顔で言った。「し、か、も。備蓄は全40本」
「ヒューッ」提督は口笛を吹いた。「すっげーな。よし北上、一緒に雷巡ごっこしに行こうぜ! 俺が北上役やるからお前チ級やれよ。海……はだめだな、プール行くぞプール。ひゃっはぁー!」
「あっ、引っ張るのやめてよー」

 提督は脇に魚雷を抱え、北上の腕を掴み、来た道を風のように駆け戻っていった。

「え……あれ?」

 寒々しい廊下に一人残され、大井は首をかしげた。
 あまりの展開に頭が付いていかず、しばし呆然と立ち尽くす。
 数十秒後、正気に戻った彼女は、いつの間にかバッグの中で握りつぶしていたチョコレートの箱から手を離し、それから去って行った二人の背中を猛然と追いかけ始めた。
 やっぱり白黒つけないといけないようね。ふふ、待ってて北上さん。その男はすぐに海の藻屑にしてあげるから。

 かくして乙女の興廃をかけた一日は、ついに幕を開けたのだった。







/////////////
あとがき

バレンタインっていつだっけ……
それはともかく金剛の話や加賀の話や妖精さんの話もそのうち書きたいです
あとづほちゃんとメロンちゃんのお腹なでなでしたいです


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