――主人公は『男』だったんだよ!
シャンの村の夜。村の中はひっそりと静まり返り、夜の帳はすでに落ちた。虫の鳴く声だけが、この小さな集落に響いている。
村のはずれ。粗末な小屋の中から、水の音がした。サーと流れるシャワーのような音。誰かが小屋の中で風呂に入っているようだ。
「~♪」
女性特有の綺麗な声だった。今、シャンの村の独身男性を騒がせている一人の女性の歌声だ。
シャアという偽名を名乗っているが、本名はシャマルという。しかし、それもまた表側。実は別の世界での名前もある。自分ながら、なんとも不自然な人柄であると〝彼〟自身は思っている。
歌っているのは、少なくともミッドチルダでは聞かない、独特の音程の曲。
97管理外世界「地球」の「日本」で歌われる、演歌である。少々年寄り臭いが、誰も知らない曲なので特に気にしない。
タオルをもって肌を擦る。たっぷり染みこませたボディソープで、ゆっくりと体を洗っていく。真っ白な、日焼けなんて知らないと言いそうな赤子のようなスベスベの肌だった。
「赤ちゃんを洗うように、ですか。小さな女の子の体を洗う事はたまにありましたけど、まさか女性の体を洗うことになるとは思いませんでしたねぇ……」
誰にもわからないことを呟いて、サッとシャワーで体を流す。泡がゆっくりと流れ落ちていく。水は排水溝に吸い込まれていった。
ガタン。
シャアが髪にシャンプーを染みこませたところで、脱衣所から音がした。
泥棒!? 彼女は指にはめられたクラールヴィントを構えようとして、すぐに音の主を発見して構えを解いた。
「何をやってるんですか?」
男の子たちが数人で、脱衣所から彼女を覗いていた。全員が、バツの悪そうな顔で互いの顔を見合っている。
男の子してますねぇ。シャアは和んだ。おどおどする子供たち。
「お風呂、入りたいんですか?」
「え、ええっと……」
「洗ってあげますよ。入ってきなさい」
すわお仕置きか。戦慄した子供たちを、ちょいちょいと悪戯顔で手招きするシャア。
男の子たちは顔を見合わせた後、服を脱いでお風呂に入ってくる。あまり広くはない浴室の中で、みんなが並ぶ。
ここにいる男のたちはみんな、この村の子たちである。
誰かが、「先生のお風呂覗いてやろう!」とか言い出してみんなが賛成したのだろう。
「すけべ」
にやにや笑って呟くシャア。なんとも意地悪。
男の子たちは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
十歳前後の子供たち。もうお父さんお母さんに体を洗ってもらうことはないであろう年齢。
男女七歳にして同衾せず。そんな言葉を思い出してシャアは含み笑い。
手にシャンプーを出すと、目に付いた一人の頭をゴシゴシと洗ってやる。
「わ、わわ。先生!? 痛っ! シャンプーが目に……」
「目、つぶってないと染みるからね~」
「ああ! ずっけえ!」
子供同士で先生に洗ってもらうのは僕、オレだ! みんなで洗ってもらう権利を奪い合っている。
(可愛いですねえ)
幸せそうな顔のシャア。
それは、彼女が村に来て一ヶ月半のある日の話。
シャア丸さんの冒険
短編1話「シャンの村のある一日」
「ああ、シャアさん。村の近くにクマの子供が出るらしいですから、気をつけてくださいね」
「ご忠告、ありがとうございます」
家を出てすぐに村人に声をかけられました。
ペコリと腰を折ってお礼を言ってから、早朝の村の中を歩き出します。
村の人たちともだいぶ仲良くなってきました。人と打ち解けられるのはやっぱり嬉しいですね。
でも、どうして村の女性たちは、私を敵の姿でも見るような目で見てくるのでしょうか?
複雑怪奇な乙女心は、女性になってもわかったものじゃないです。
今、私の手の中には、私が住み付いている小屋で預かっている子供たちの洗濯物があります。
男の方たちが出稼ぎに行ったりするときには、私にまだ幼い子供を預けていいですよ、って言ってあるんです。
今までは頼み込んで預かってもらっていたようですが、預かり専門の私が現れたおかげで出稼ぎが楽になったと村の人は言っています。
都会の子供とは違ってスレていないので、村の子供は純真そのもの。やっぱり、子供は素直で可愛いです。はうぅ……。
さて、そんなことは置いておいてお洗濯です。洗濯機なんて存在しないこの寄せ集めの村では、洗濯物は全部手洗いです。
たまに洗濯機が欲しい時もありますが、手洗いも手洗いでなかなか味があってすぐに好きになりました。
ジャブジャブと洗濯物を水につけながら、別のことを考えます。
今日の朝の献立は何にしましょうか……。今日、私の家にいる子供は五人だから……。あ、いえ。後、もう一人いましたね……。
「さて、それじゃあ今日もあの子の説得に行きますか……」
私はこれから先の憂鬱を考えて、深々と溜息を付きました。
その子を拾ったのは、ほんの三日ほど前。四歳から六歳くらいであろう女の子が、シャンの村近くの森に倒れていたのです。
多分、近くにある集落の人が、ここまで育てた我が子を捨てたのだと思って、私はその子を自分の小屋に連れ帰りました。
目を覚ましたその子が言うには、ここら辺を根城にしている盗賊が両親を殺し、自分をさらったのだそうです。
何とか隙を見つけて逃げ出したその子は、歩く途中で力尽きてあそこに倒れていたのだそうです。
どうにかして聞き出した彼女の名前は、リリと言いました。御年六歳の女の子なのだそうです。
拾ったままの服はボロボロですが、綺麗な蜂蜜色の髪の毛と黒い瞳をしている可愛い女の子でした。
リリちゃんは盗賊に復讐に行くんだと、良くわからないことを叫び続け、暴れるだけ暴れた後そのまま寝てしまいました。
次の日、リリちゃんの姿は小屋の中になく、慌てて森の中へ探しに行くと、そこで迷って泣いていました。
復讐なんて言わないで平和に暮らそう? といくら説いても話を聞かず、また飛び出して迷子に。
仕方がないので、昨日は強制的に眠らせてしまいました。魔法って便利です。
何故だか、魔法はスムーズに使えます。私自信に魔導師適正があったってことでしょうか? それとも何か別の理由が……?
今日もリリちゃんの説得に行きます。復讐なんて忘れて、静かに平和に暮らそう、って。
「やだ! 絶対にお母さんとお父さんを帰してもらうの!」
「一人じゃぜったい無理だよ。殺されちゃうよ? そんなの、貴女のパパとママだって望んでないと思う」
「やだやだ」
小屋の中で眠らせていたリリの束縛を解いて起こしたものの、すぐに飛び出そうとするリリちゃん。
手を掴んで引きとめたものの、勢いよく暴れます。
うーん。心理学の授業でも、敵討ちの心理については教えてくれませんでした……。
「ね、リリちゃん。お姉さんの言うことを聞いて……。ね?」
「いーやー」
「……困ったわ」
特に考えず呟いて、リリちゃんを見詰めます。
暴れっぱなしでお風呂にも入ってくれないため、リリちゃんの全身ボロボロ。女の子なんだから、もう少し身だしなみに気を使って欲しいです。
食べ物は少しは食べてくれるものの、一回失敗料理をあげてからちょっとだけ警戒するし……。この身体のドジっ娘属性は嫌いです。
腕の長さとか身長とかが前と違うから、調味料置き場に置いてある調味料を取り間違えて別の物を入れてしまうんです。
この前、とうとう塩と砂糖を間違えてしまいました。
自分で味見してビックリしました。気付いて本当に良かったです。
「リリちゃ……」
私の手は何も握っていません。さっきまでしっかりと繋いでいた手は何時の間にか開いていました。
別のことを考えている内に、逃げられました。マルチタスクを使うのは難しいです。まだまだ習熟度が足りませんね。
……はぁ。また探しに行かなければいけないんですか……。
溜息を付くと、私は指輪型のクラールヴィントをペンデュラムの形に変形させました。
指輪から浮かび上がるペンデュラム。魔力の糸が通って変形終了です。
「クラールヴィント。リリちゃんを探して」
『Ja』(了解です)
村の近くにクマが出没するって話なのに……リリちゃん、大丈夫でしょうか?
発見。
幸い、村の外には出ていませんでした。
はぁ。心臓に悪いから、すぐに逃げ出さないでください……。今回は手を離した私が悪いですけど。
村の外れにある少し高い木の太い枝の上。そこでリリちゃんは泣いていました。その小さな体でよく登れましたね。それと、どうして登ったのか。
魔法を使って飛び上がると、リリちゃんの隣にこっそりと座ります。太い枝なので人二人なら簡単に座れます。
リリちゃんは泣いたままで、私が隣に座ったのにも気がつきません。
気付く様子はないまま。仕方が無いので声をかけることにしました。
「リリちゃん? 大丈夫?」
「え、わ、わぁ!!」
『突然隣に現れた私』に驚いて、落っこちそうになるリリちゃん。
慌てて手を掴んで、リリちゃんの細い体を支えてあげます。
「ゴ、ゴメンね。驚かせちゃったかな?」
「び、ビックリした……」
掴むのが遅れてたら危なかったです。
驚かせるのも時と場所を選ぶ必要があるってことですね……。
とりあえず、笑顔。子供を安心させるのは笑顔です。それと、母親の心臓の鼓動。
私の笑顔に毒気を抜かれたのか、ポフンと私に体重を預けてくれるリリちゃん。笑顔って偉大ですね。前の私グッジョブ。
預けられた身体を黙って抱きしめてあげます。私と同じ金色の髪の毛をそっと撫でました。
そのまま一時間ほど、私たちはずっと寄り添っていました。
帰ったら、おなかを空かせた子供たちに怒られてしまいました……。
その日の夕方。私はリリちゃんを誘ってお散歩に行きました。
村のまわりの森。
森林浴はいいです。ここは、私がいた世界とは違って、とても広くて自然も綺麗です。
「自然が綺麗です」
「……?」
口を開いた私の顔を見て、リリちゃんは首を傾げました。
こんな自然、普通のものだと。
いくらミッドチルダが発展した国でも、偏狭まで行けば森はあります。
多分、地球よりもあるでしょう。この国では、火力発電とかは使っていないでしょうから。
自然はとても綺麗に守られています。エネルギーを得るために森を燃やす必要がありません。
何時の日かミッドチルダ中がただの自然再現区域になったとしても、それまでは自然が大切だなんて思うことはきっとないでしょう。
思考を戻します。自然が綺麗なのは、今のこの子にはあまり関係ありません。最近まで食べていたキノコは中々に美味しかったですけど。
「敵討ちはね、私の住んでいた場所だと違法なんだ」
「……」
日本の、昔の話だけど。武士が父の仇を打つという習慣は、何時の間にか庶民の間にも広まっていた。
しかし、庶民の間に広まる間に敵討ちは時代遅れの行動になっていた。
そうこうしている内に、何時の間にか規制されていました。
やっぱり、殺されるのも殺すのも嫌だからだと思います。
「両親が殺されたって悲しみは私にはわからない。でも、自分の子供に仇を討って欲しいなんて、普通は頼まないと思う。敵は盗賊。者と物を盗む賊。子供に、そんなのに立ち向かえなんて、お父さんたちは考えないよ」
「……うん」
小難しい話をして、無理やり納得させます。不承不承みたいですが、わかってくれたみたいです。本当はこの子の目線で話したいですけど、盗賊に復讐とか、命に関わるならば話しは別です。
やるせなくて、目の前でお父さんとお母さんを奪われて、自分の身まで奪われて、だから殺したいなんて言ったのでしょう。
「もしリリちゃんが死んでしまったら、お父さんたちも悲しむだろうし、私も悲しい。だから、敵討ちなんて寂しいことは言わないで」
盗まれたモノは帰ってこない。それが普通なんです。
仇を討っても奪われたモノ、失ったモノは帰って来ません。
もしも残されたモノまで奪われたら、みんな悲しい、みんな悲しむ。
「きっと、警察が……管理局の地上部隊が、盗賊を捕まえてくれます。だから、待とうよ」
それに、この子をずっと私の手元に置いておくわけにもいきません。
リリちゃんにだって、きっと親戚はいます。
絶対心配されてます。他の家族達は心配しているでしょう。
盗賊の危険がなくなったその時、リリちゃんの親族を見つけましょう。
この子を本当の居場所に返してあげましょう。
「うん」
頷くリリちゃん。いい子です。物分りのいい子は好きですよ。
ちょっと生意気な子も好きですけど。
「安全になったら、リリちゃんを親戚の所に送ってあげるね」
きっと、誰も知り合いがいないこの村を警戒している筈です。
馴れ馴れしく話し掛けてくる私を嫌っている筈です。
この村から出て、おじいちゃんとかおばあちゃんの所に帰りたい筈です。
ですが、リリちゃんは逆に顔を曇らせました。何か悪いことを言ってしまったのでしょうか?
「……リリ、親戚いないの。お父さんとお母さん、かんどーされたんだって」
……え? 何ですか、そのハードな設定の両親は? そ、それは困ります。ずっとこの村に置いておいていいはずないのに!?
「……でもね、あなたとなら一緒にいてもいいよ?」
私にしがみついて来るリリちゃん。込められた力は、子供とは思えないほど強いです。込められた心は、強靭な子供故の強さを持っています。
けれど名前を呼んでくれません。いえ、シャアって名前は偽名なんですが……。そういえばリリちゃんには名乗ってなかったような……。
どうしてこんな偽名を名乗ったんでしたっけ……。
ああ、そうです。シャマルって名乗ろうとして、すぐに本名はマズイと思ってシャアで止めたんでした。木安張は、キャスバルに漢字を当てただけです。
我ながら安直ですね。
今まで名乗ったのは、親につけられた本当の名前とシャマルにシャア。次はクワトロとでも名乗りましょうか?
さて、現実逃避は終わりです。
「私となら、一緒に?」
「うん。お姉さんとなら一緒」
懐かれるのは嬉しいですけど、頷くことは出来ません。
私はこの村の人間じゃありませんから。
勝手に人さまの子を預かるなんて真似はできません。
私を見詰める無垢な視線。けど、受け入れる事はできないんです。
「……ダメ、です。私はあの村の人じゃありませんから」
「あたしだって、あの村の人じゃない」
「……それでも、私はリリちゃんと長い間一緒にいるのは無理です」
「でもぉ」
「ダメです。わかって、リリちゃん!」
口から零れ落ちた自分の言葉に絶句しました。
自分の都合を押し付ける言葉である『わかって』なんて子供に言ってはいけないはずなのにどうして……。
リリちゃんの目に、大きな水の塊が溜まっていきます。堤防の結界はすぐそこ。
「リリちゃん、ごめ……」
「うわあぁぁぁん!」
弁解の余地もなく、リリちゃんは泣いて、凄い速さで走っていってしまいました。
さ、さすが子供。元気一杯です。
次いで、朝村の人に聞いた言葉が、頭の片隅を泳いで行きます。
『子供のクマが森に出る』。
別段ミッドチルダに生息するクマが強い、別にそんなわけではありません。大人でも全長4メートル程度の、地球にだっている程度の大きさのクマです。さらに、それの子供。知能も高い。
私一人なら、全く問題ありません。怪我一つ負わないで逃げることができるでしょう。
でも、もしもリリちゃんが会ってしまったら……。
最悪の予想を捨てきれないまま、私はリリちゃんの後を追いかけました。
ばか、お姉さんのばか。
お姉さんはとっても不思議な人。あたしを拾って、あたしに良くしてくれた。
あたしはお姉さんとなら一緒にいてもいいのに。嘘でもいいから、一緒にいようって言って欲しかった。
ばかばかばかばか。お姉さんのばかたれ!
体の小ささを利用して森の中を駆け回る。
後ろから、追いかけてくるお姉さんの声が聞こえるけど、そんなの知ったことか!
走って走って、また走って、視界の隅を木々がどんどん通り過ぎていく。ふと、お姉さんの言った自然が綺麗という言葉を思い出した。
別のことを考えたせいで、足を滑らせて転んでしまった。
痛かった。体がとても痛かった。膝をすりむいてしまっていた。
「お姉さんの、バカ」
零れ落ちる涙を拭う。目が痛かった。転んだせいで服の袖に泥がついていたのだ。
もっと悲しくなって、声をあげて泣いた。
――グルルル。
「え?」
呻き声がした。まるで、獣みたいな怖い声。
ふと、昼頃に村の人たちが話していたの会話を思い出した。
『近くにクマが出るってよ? 怖いよなぁ』
『大丈夫大丈夫。この村には魔導師さんたちがたくさんいらぁ。クマなんてちょちょいのちょいよ』
ま、まさか……。
恐る恐る振り向く。そこには、暗闇が広がるのみ。
良かった。そうだよね、クマなんていないよね……。
でも、暗闇……? まだ、夕方のはず。森の中でもあんな暗い場所が……。
――グオオオオオ!!!
暗闇が吼えた。あたしが暗闇だと思っていた場所は、クマが座っていた場所だったんだ。
クマが臆病な生き者だってお母さんが話してくれたのに……このクマは殺意を持ってあたしに近寄ってくる。
どうして? あたしが何かした?
本能的な恐怖が、あたしの体を縛る。
声を出せない。歯が震える。
目だ、目を併せれば獣は襲ってこないっ。
どこで聞いたかも忘れた言葉を信じて、クマの目を見る。
そこにあったのは、殺意だった。すぐに目を逸らしてしまう。あたしでは、あの目には耐えられない。
こうして獣が反射的に生物を襲うキッカケは整った。自らより小さく、自らに脅え、自らから目を逸らすモノ。これが揃えば、野性の獣は人を襲う。
振り上げられたクマの手。その丸太のような腕に、目を瞑ってしまう。
誰か、助けて。助けて、お姉さん!
「リリちゃん!!」
大きな声。名前は聞いていない、お姉さんの声だった。
その顔は、緊張で強張っていた。心配させてしまったという事実に、不思議と胸が痛んだ。
声に驚いた獣は、腕を振り上げたまま声の主の方を向く。
「良かった! 無事ね!」
ホッとした顔で、緊張に強張った顔を崩して笑顔になるお姉さん。
人二人に囲まれて興奮したクマは、獲物をお姉さんに定めたみたいだった。
四メートルを超えるクマの前に、お姉さんは腰に両手を当て、足を大股で開き、仁王立ちで立ちふさがった。
その顔は自信に満ちていた。
「小熊がいるとは聞いていましたけど……。親熊までいるとは知らなかったです」
すでに完全リラックス状態。口調も今までの物に戻っていた。
獣を前にあんなに冷静なんて……。お姉さん、すごい。
――ぐ、グルル。
正体不明の自信の前に、ジリジリと後ずさるクマ。
後ずさるクマの先にいるのは、勿論あたし。
「ひっ!」
喉から声が漏れた。今度はあたしの声に、クマが振り向く。目が血走っていた。
今、このクマは混乱状態にあった。
綺麗な顔をまた強張らせて走り出すお姉さん。
「あ、あああ……」
クマが振り上げ続けていた手は、とうとうあたしに……。
「リリちゃん!」
「え?」
凄まじい速さだった。お姉さんは凄まじい速さで、あたしの前に手を広げて立っていた。
振り下ろされるクマの太い手。
「お姉さん……お姉ちゃん!!」
その先にはお姉さんが……。このままじゃ、お姉さんが……。あたしの手に力が入った。運の良いことに、今のクマは隙だらけ。手の中にある力を解き放とうとして……。
「クラールヴィント!」
『Ja. Panzers child!』
「ええ!?」
もう一つの声が響き渡り、お姉さんの掌に、緑色の三角形が出現した。
ま、魔法!? お姉ちゃん、魔法使いだったの!?
ガキィッ。音を経てて吹き飛ぶクマ。その衝撃ではためく、下品でない程度に改造された綺麗な黒いドレス。
お姉ちゃんは私に背中を向けたまま、キッとクマをにらみつけていた。
か、格好いい……。女の人の理想がそこにあった気がした。
「大丈夫!? リリちゃん」
クマが動かない事を確認して私を振り向くお姉ちゃん。
また、綺麗な笑顔をあたしに向ける。いつ見ても安心できる、とても洗練された厭らしさの欠片もない自然な笑み。
きっと、あの笑顔は血の滲むような努力で作られたのだろう。誰もかも安心できるように。慢心などせずにずっとずっと頑張って作られた、とても素敵な笑顔。
元気付けられたあたしは、大きな声で無事をつげる。
「だ、だいじょ……」
「泥々です! 全然大丈夫じゃないです! 後でお風呂に入りなさい! 服と纏めて洗ってあげます!」
あたしの言葉は遮られてしまった。
必死な表情であたしに近づくお姉ちゃん。ポケットからハンカチを取り出すと、泥の付いたあたしの目元を拭ってくれる。
繊細な手つきで、あたしの顔を拭いてくれた。
お姉ちゃんの後ろで、倒れたクマが起き上がった。
魔法使いだとわかったからか、クマはお姉ちゃんに近づくのを恐れているようだった。
「どうしてこのクマが暴れているのか、大体検討が付きました」
「へ?」
自信満々に頷くお姉ちゃん。
腕を天に掲げた。指の先で、指輪が光った。いつも付けていたあの指輪……あれが、お姉ちゃんのデバイスなんだ……。
「とりあえず、落ち着いてください!」
『Ruhig licht』(安らぎの光)
そのデバイスから発せられる、優しい緑色の光。その光を浴びたクマの目が、徐々に理性を取り戻していく。
夕闇に染まった森の中で緑に染まるクマ。とても幻想的な光景だった。
「今日の朝聞いた、小熊の話。そして、暴れている親熊。少し考えてからこじつけると、この二匹が親子だとしか考えられません! 子を見失ったのが原因で暴れてるってとこですね!」
強引なこじつけをお姉ちゃんが叫んだ。自信満々な姿を見た後だったので、ちょっとだけガッカリした。
そうしている間にも、お姉ちゃんの指輪から出る光を浴びているクマの目が、ドンドン優しくなっていく。
そして、最後にはとても澄んだ視線が、あたしたちを見詰めていた。
「この付近にいるミッドグマは、親子の絆がとても深いクマです。子が大人になるまで、ずっと一緒にいて愛を注ぎ続ける。親の声はよく響き、しっかりとした理性ある遠吠えなら、小熊が十キロ離れていたとしてもその声は届くのだそうです」
まるで、ピクシーと針です。クスリとお姉ちゃんが笑った。
ピクシーってなんだろう? 妖精と針?よくわからない例えだった。
――うおおおおおー!!
クマが、吠えた。今までの怒りに掠れた声ではなく、綺麗な、美しい遠吠えだった。
その声にある悲しさに、あたしは息を呑んだ。
――うおおおおん!
叫び後の後に聞こえて来た、それよりか一回りほど小さな声。美しいのではなく、可愛い声だった。
――うおおおおん!!
声は少しずつ近づいて来て、ガサガサと木陰が揺れたと思ったら、1メートルくらいの大きさの小熊が飛び出してきた。
嬉しそうな声をあげ、小熊が親熊に体をこすりつける。
互いに体をこすり付けあい、あたし達の姿を見ると小さく頭を下げた。
「……頭を下げた?」
「ミッドグマは知性が高いですからね。人の子供くらいの知能はありますよ。……高い知性も、混乱している時はなりを潜めますけど……。ミッドグマは臆病な種族で、その高い知性と戦闘力もあって、なかなか人前に姿を現しません。姿を見ることのできた私たちは、もしかしたらとてもラッキーかもしれませんね」
素敵な笑みでクスクス笑うお姉ちゃん。その顔を見ながら、思う。
あたしも、あんな綺麗な笑みが浮かべられるようになるだろうか……。
茂みをかき分けて、ミッドグマという生物は、あたし達の前から去っていった。
「さて、と」
「?」
茂みの奥に去っていったクマの姿を見通しながら、お姉ちゃんがあたしをギュッと抱きしめた。
「痛いのとんでけ」
お姉ちゃんが呟くと、あたしの膝が緑の光に包まれて、滲み出ていた血が止まった。
これが、この人の使う魔法。大きな驚きの後、お姉ちゃんがとても凄い人に見えた。
「じっとしててね」
お姉ちゃんが耳元で囁いた次の瞬間、体が宙に浮いた。
小さくなっていく木、森、そして村。
「わ、きゃあ!?」
「大丈夫だから。喋らないでね。舌を噛みますよ?」
浮かんでいく体。
落ち着くと、お姉ちゃんがあたしを抱えたまま飛んでいるのだということが、よくわかった。
山を越えてまだ高く。雲を越えてまだ高く。
お姉ちゃんに抱えられて、私はとても高い所にいた。
太陽が、とても近かった。
人の身だけでは辿り着けないその場所に、あたしはいた。
眼科に広がる山と森。目がクラクラしたけど、あたしを抱きしめるしっかりとした腕の締め付けの心地よさに、恐怖は感じなかった。
「なんで?」
「理由はないけど、こうしてみたかったんです」
お姉ちゃんは頬を染めて恥ずかしそうに笑った。その笑顔が可愛くて、ついあたしまで赤面してしまった。
顔を逸らす為に下を見ていると、さっき分かれたミッドグマの小さな姿が目に映った。
仲良く寄り添うあの二頭。
自分も、ほんの数日前まではあんな日常を送っていたのだ。
だからだろうか。意識せずに、ポツリと呟いてしまった。
「いいなぁ。家族って……お母さんって」
私の言葉を聞いて、ポカンと口を開いたお姉ちゃん。そこにあるのは、両親を失ったあたしへの同情なのだろうか。
開かれた口が閉じられ、その口元が小さく笑った。あたしを抱きしめた腕にさらに力が篭った。
「なら、私がママになってあげてもいいよ?」
母をお母さんと呼ぶあたしに、ママになってあげると言うお姉ちゃん。
それは、呼び名を尊重しているのだろうと思う。
貴女のお母さんはお母さんだけ。私はママだと。
「ううん。お姉ちゃんは、お姉ちゃんだから」
「そっか」
はるか上空の雲の上で、あたしたちは笑いあった。
お姉ちゃんの腕が優しくて、背中に感じる体温が暖かくて。とても嬉しかった。
ミッドグマは寄り添って歩いていく。はるかに続く森の中を。
まるで、今のあたしたちみたいだ。
今度こそ、はぐれるんじゃないよ。子供とずっと一緒にいてあげて。
愛をたっぷり注いで上げて。
あたしたちは、空の上から見えなくなるまでクマの親子を見守り続けた……。
帰ってからあたしは、久しぶりにお風呂に入った。
お姉ちゃん――どうやら『シャア』というらしい。どうも嘘臭い――に体を洗ってもらった。
終始嬉しそうにあたしの体を洗うお姉ちゃん。
その身体はスタイル抜群で、お母さんを超えていた。やっぱりお姉ちゃんは凄かった。
孤児院? のみんなと一緒にご飯を食べて笑いあう。とても美味しかった。
嬉しすぎて涙が零れた。お姉ちゃんが慌てた。みんなが囃したてた。それでも、あたしは何時までも泣いて、何時までも笑っていたのだった……。
これが、孤児だったリリがこの村の一員となった物語。
いろいろ問題もあるだろう。
けれど、あたしは何時までもお姉ちゃんと一緒にいたいと、心の底から願ったのだった。
それは、シャンの村の楽しい日々の一ページ。
――あとがき
Q 主人公の中身が男だと思うとキモイのですが……。
A だから、最初に女だと思えと書いておいたでしょう。
思え! されば救われる。主に精神が。作者は困る。
存分に間違おう。そうすれば後が楽しくなる気がする。感情移入は大事ですよ。