『2005年』6月4日。
「つまり、ただの親戚で良いわけね? 変なことされてるんだったら相談してね」
「ですから、ホントに親戚ですって。大丈夫やから、ね」
「もう……。えーっと、一緒に住むというのなら、この子のこと、お願いしますね」
あれから、病院の中で特に騒ぎが起こることもなく。はやてちゃんが私たち全員を親戚と紹介して病院からの疑いを解き、どうにか私たちは八神家に帰宅しました。
けれども、あの目はまだ私たちを完全に怪しんでいました。
はやてちゃんを家に連れて帰るために必要な車椅子も病院で借りることができたので、彼女を乗せて人通りの少ない住宅街を進みます。
黒服四人が、一人の女の子の車椅子を押して歩いている様は、かなりシュールな光景だったのではないかと少しだけ反省。
「……さっきの声、なんなん?」
「後にしてくださいねー」
道を行く途中、さっきの思念通話がなんだったのかと私たちに疑問をぶつけてくるはやてちゃん。降って沸いて出た私たちにそういう疑問をぶつけてくるのは当然ですよね。
そんなワクワク感というより義務感MAXの彼女をなんとかなだめすかして、八神邸に到着。車椅子を押してリビングに入ります。
いざ、彼女の疑問に答えようとするヴォルケンリッター。しかし、ここではなくて、私の部屋で話そうとはやてちゃんに言われたので彼女の部屋に移動します。
今度こそとばかりに彼女が矢継ぎ早に質問をしてきます。一体、私たちが何なのか。どうして自分の前に現れたのか。
私たちは答えます。我らが闇の書から生みだされた生物であること。闇の書は、魔法で作り出されたこと。そして、あなたが私たちヴォルケンリッターのマスターであること。最後に、私たちの名前を。
そんな、触り程度の簡単な説明に、はやてちゃんは目を輝かせていました。これは魔法に興味があるということなのか、はたまたそれ以外か。
……夜天の書云々は、この場で話した方がいいのでしょうか? いえ、まだ他のヴォルケンの方々との擦り合わせもすんでいませんし、今は言わないほうがいいでしょう。
他のみんなに釣られて、畏まった体勢のままで考え込む私。
そうして、私たちから聞けることを聞いた後、はやてちゃんは柔らかく微笑んで言いました。
「ほんなら私はみんなのマスターなんやから、衣食住はキッチリ面倒見てあげなアカンな」
料理は得意、服とかも買ってあげる。一緒に住むから家もある。手元にある闇の書を抱きしめて、彼女は言います。
怪しさ満点どころの騒ぎではない黒服四人組を相手に微笑むことが出来る、彼女の思考。彼女のような体験をしていない私には想像することしか出来ませんが、検討はつきます。
ずっと自分の傍に居てくれる人たち。つまり『家族』の誕生。それは、一人で暮らし続けていた少女にとって、どれほど素晴らしい出来事だったのでしょうか。
自分を慕い、何時までも一緒に居る。そう言ってくれた人たちへの恩返し。
それが、衣食住の世話。とういか、自分にはそれしか出来ない。はやてちゃんはそう思っているのでしょう。
けれど、好意に甘えて九歳の女の子にパラサイト。それはどう考えても絵的に駄目人間っぽかったので、数日中にお金を稼ぐ手段を探すことを私は決心しました。
……昔私が色々な人を誘ってやっていた幼稚園や保育園の手伝いは、アルバイトじゃありませんでしたし……。さて、どんなバイトをしましょうか?
幼稚園や保育園で、世話の手伝いをさせていたドットやマンキーの怒りの顔や寂しげな顔が思い浮かんできて、つい苦笑してしまいます。
彼らは善良な人たちでしたから、安心して子供たちを任せることが出来ました。ドットはメガネ太りさんでしたけど、別に変な人じゃなかったですよ。
昔のことを思い出してほんわかしている私。ヴォルケンリッターのみんなもそれぞれ別のことを考えていて、何かを探しているご様子のはやてちゃんには気付きませんでした。
目的の物がある場所に心当たりはあるのか、はやてちゃんは車椅子を押して自分の机に向かって行きます。
……? 何となくシグナムと顔を見合わせて、はやてちゃんが何を探しているのかを考えます。
それから数秒もせずに目的のものを見つけて戻ってきた彼女が嬉しそうに取り出したの
は、ぐにゃぐにゃしたものさし。もっと簡潔に言えば『メジャー』でした。
「身のまわりの品、必要やろ? だから、体のサイズ測らんと……」
「は、はぁ……」
自分以外の人のために買い物が出来るという嬉しさのあまり、不気味なオーラを発生させているはやてちゃんにタジタジのシグナム。
これから服を買いに行く時の参考にするからという理由で、みんなの体のサイズを測ろうとしているはやてちゃん。
セクハラを超えたパワハラに近いことをしようとしているはやてちゃんをどうにか押し留めると、自分の身体のサイズを告げます。
むっと唸るはやてちゃん。私の体を触って調べたかったのでしょうが、却下です。自分で服を縫っているのですから、自分のスリーサイズは完璧に把握しています。
それに、小さな女の子に体のサイズを測られるのは何だか屈辱です。私は測られるよりも測る派。災害地の子供の服を繕ってあげたことは十や二十じゃすみませんよ。
サイズを測る? それはどういうことですか、主。そんな風に微妙な顔をしているヴォルケンリッターのみんなの顔も目に入ったので、シグナムたちの全身のサイズもはやてちゃんに漏らさず伝えます。
……古くから伝わる色々な作品の主人公の必須技能、『目測スリーサイズ測り』。マンガの中でしか見ることがなさそうな技術は、私の二十年もの長い鍛錬によって実現しました。
「……シャマル?」
「これが、一人で動いていた時に得た技能か……?」
「変な特技作ってんじゃねーよ」
驚くというか、呆れる全員。それは当然。体のサイズを測ったことなんて、ヴォルケンリッターの方々はないんですから。そんなこと知らないはやてちゃんは、ただ首を傾げるだけです。
これで、メジャーで全身見られるなんて恥ずかしいイベントは……。
「シャマルが自身満々なのは分かるけど、本当に正しいかどうか分からんし、証明せなあかん」
「……そうですか」
十数分におよぶ、全身をメジャーで測られるという私にとって微妙に屈辱的なイベントを終え、今日中に私たちの服を買いに行くことになりました。
確かに、普段着が黒服のままなんて怪しすぎますからね。
衣服の購入というのは、それ即ち身の回りのものの入手という訳でもあります。そんなわけで、いらない物を処分する気になりました。
一度はやてちゃんに断ってから、今まで持ち歩いていた鞄を開けます。たまたま、今までに入手した衣服が目に付きました。
……えーと、今私が持っている服は、現在着ているこの黒服と、洗濯するときに着る予備の黒服に黒い上着。そして、昔使っていた清掃員の青い作業着だけです。
今まで、この三着の服だけで旅をしていました。手持ちのカバンに入る物しか持ち歩いていませんでしたからね。
少しだけ懐かしく思って、何時も着ていた黒い服を見ます。ヴォルケンリッターの身を包む、ただ黒いだけのドレス。それは、縛られている証。お前らは、自らを飾る必要すらないのだと無言で告げるただ黒いだけの服。
「その黒い服、まだ使う?」
私が今の黒服に愛着を持っていることに気付いたからか、はやてちゃんが笑顔でそう言ってくれます。
……長年着続けていたこの黒い服。何年も何年も私の身体を包んでいた、ヴォルケンリッターの初期装備。……そろそろ、休ませてあげてもいい頃かもしれません。
「……いえ、捨てます。もうボロボロですから」
「ほうか」
私の口調から何かを感じ取ったのか、はやてちゃんは小さく笑います。そして、先立つものが必要やねー。と呟いて家を引っくり返し、自分の母親の服を取り出すと私とシグナムに手渡してきます。
同じく、ヴィータちゃんには自分のお古を。
先立つものというか、買い物に行くための服という奴でしょうか?
「これは?」
身体のサイズを測られるとか、温かそうな服を手渡されるとか、ヴォルケンリッターにとっては殆んど初体験のイベントが目白押しで目を白黒させているシグナムにヴィータちゃん。
私はと言えば、さっさと黒服を脱ぎ捨てて手渡された服を着ています。……う、ちょっと胸がきつい。そうですか、はやてちゃんのお母さんより私の方がスタイル良いんですか。
……と、いうことは……。
かつての私の友人たち曰く、リリカルなのはに登場する、烈火の将シグナムの胸はヴォルケンリッターの中で一番大きい。
さっきサイズも測って裏付けも取れています。
シグナムを見れば、胸はきっとセクハラの如く突き出して……アレ? 彼女が着ているのはちょっとだけ伸びた感じのセーターなので、そこまではキツくなさそうです。
セーターを着て、その保温効果や伸縮性を見て、シグナムがほうと感心した声をあげています。
はやてちゃんが、私に親指を上げてきました。「まだ少しだけ寒い季節やし、胸がぱつんぱつんになるのも防げるナイスな服や……」そう言っているように見えます。……やりますね。さすがは私のマスターです。
とりあえず、私も親指を上げておきます。何だか通じ合えた気がしました。
変な意思疎通を行った後、はやてちゃんがみんなに声をかけます。
「じゃ、服買いに行くから、みんな付いて来たってな」
はやてちゃんのお下がりを着ているヴィータちゃんに、黒い服のままのザフィーラ、そして伸びたセーターを着たシグナム……あれ?
もう一度、全員の衣服を見ます。ザフィーラが、やっぱり黒い服のまま。……お父さんの服でも着せてあげればいいのに。
ちょっとだけザフィーラが不憫になったので、少し批難するような目をはやてちゃんに向けます。バツが悪そうな顔をしたはやてちゃんは、言い訳するように手を振ります。
「……お父さんの服、ザフィーラの体にはとても合わんから……」
「ああ、なるほど……」
納得したように、私も手のひらを叩きます。マッチョで背の高いザフィーラの体は、一般的な成人男性よりもだいぶ大きいです。
お父さんのお洋服は、ザフィーラの体に全くフィットしないみたいです。というか、逆にフィットしすぎるようです。そんな物を着せると、体に自身のないお兄さん方に大ダメージです。
ムキムキマッチョとは、それだけで貧相な男の精神力を削る存在らしいのです。
「ゴメンな、ザフィーラ。お留守番してくれるか?」
「いや、私に服は必要ない」
本当にすまなさそうな主の顔を見たザフィーラ。黒服がどうしていけないのかまでは分かっていないようです。ただ、この世界の普段着には相応しくないということだけには気付いた様子。
外の出ることができないのが自分の衣服と体のせいだというのならば、怪しまれない姿になればいい。そのように判断したのか、彼が変身魔法を発動します。
わっと驚きの声をあげるはやてちゃん。
小さな光がザフィーラの体を包んだ次の瞬間、そこに人はおらず一匹の大きな青色の狼がいました。
青い毛皮と、首まわりの白い毛。その姿はまるで青空と雲、蒼天の如し。それにしても、狼の姿は本当に久しぶりに見ましたよ。
「これならば、問題ないはず」
ただ結果だけがある。相変わらずの特に何も考えていないような顔で、狼の姿になったザフィーラが呟きます。
いきなり目の前に表れた狼を見て、はやてちゃんの体がブルブルと震え始めました。顔からダラダラと冷や汗を垂らしています。
主の変化を見て困惑するザフィーラ及び他のヴォルケンリッターの面々。もちろん、私も困惑します。
……アニメにおいて、はやてちゃんは普通に狼の姿のザフィーラと暮らしていたはず。まさか、変身した時に何かひと悶着あったのでしょうか?
ああ、一体何が起こるのですか!?
「い、犬!」
「狼だ、主」
目に見えて混乱している様子のはやてちゃん。元の姿に戻ろうと動くザフィーラ。まさか、はやてちゃんは犬恐怖症!?
それならば、アニメ版開始までの間に一体何があったんですか……。
「あ、ま、待ってザフィーラ」
「はぁ……?」
変身を途中で停止するザフィーラ。ほうと溜息を付くはやてちゃん。その意味不明な行動に、みんな揃って首を傾げます。
信じられないと呟き、あまりに真剣すぎる顔で数回ほど息を整えてから、いきなりザフィーラに抱きついたはやてちゃん。そのまま叫び出します。
「私、昔から犬飼いたかったんや!」
「犬ではなく、狼です主」
あくまで落ち着いているように見せているザフィーラ。けれども、犬扱いと抱きしめられるという彼にとっての非日常に、混乱しているのが手に取るように分かります。
私の背後で、何だか面白くなさそうに頭の後ろで手を組んでいるヴィータちゃん。どうやら抱きつかれたザフィーラが羨ましいらしい。同じように、はやてちゃんに構って欲しい様子です。
そんな私たちの表情の変化にも気付かず、興奮しっぱなしのはやてちゃん。
「犬や! 犬や!!」
「だから、狼です」
「犬ぅ。犬ぅ」
「…………」
犬犬騒いでいるはやてちゃん。ザフィーラも観念したようで、もう何も言わなくなりました。
それから数分の間ザフィーラをハグし続けて、どうにか落ち着いたらしいはやてちゃん。けれど、未だにザフィーラのふかふかした毛皮の感触を味わっています。
狼の姿に変身しているザフィーラが犬扱い。大型犬が怖くないのでしょうか。
「なな、それからずっとその姿でいてくれへん?」
「主がそれを望むのならば」
「ありがとなー!」
はやてちゃんがペットが飼いたかった、という理由で狼の姿を取ったままになることになったザフィーラ。そこに小さな同情を禁じえません。これからはずっとペットポジションでしょうけど、頑張ってザフィーラ。心の中でそっと涙を拭います。
そして、ザフィーラに首輪を取り付けて、勇気リンリンやる気マンマンの土属性召喚師みたいに元気な様子で車椅子を走らせ、家を飛び出たはやてちゃんの後を追いかけました。
シャア丸さんの冒険
八話「早めに周囲を整えましょう」
海鳴の繁華街に到着し、近くにある服屋を目指すはやてちゃん。さすがに、私もここら辺までは来ていないので、どこに何があるのか知りません。
先を行くはやてちゃんと、安全であると信じていないのか周囲の警戒をしているシグナム。そんな全身を硬くしているシグナムに、はやてちゃんが笑いかけます。
「まずは衣服やね。シグナムも、私のお母さんのお下がりは嫌やろ?」
「いえ、そんなことありませんが……」
「それに、何かおばさんっぽくて似合わんし……」
「……はぁ」
私の目の前でそんな会話をしているはやてちゃんとシグナム。主が必要だと言い、参謀が文句を言わずに付いてきているからここにいるだけで、何が目的なのかははっきり分かっていないようです。
ヴィータちゃんは、近くにたくさん人がいるせいで機嫌が悪そうです。……みんなピリピリしてますね……。
はやてちゃんの持っているリードにつながれたザフィーラ。これがないと目立ってしまうからと懇願され、屈辱に燃えながら首輪を付けられています。
けれど、主の命では仕方がないと諦めてもいるようです。ところで、ペットを飼っていないのに、どうして首輪があったんでしょうか?
そんなことを考えていると、はやてちゃんが一軒の服屋さんに入って行きます。ザフィーラは店の前で待っているよう。
シグナムとヴィータちゃんはもう店の中に入っているので、慌てて私も駆け込みます。
……ところで、さっきの服の話ですが、シグナムは似合っていなくても、私は似合っているというのでしょうか。これは、ザフィーラと一緒に屈辱に燃えるべきなんですかね?
店の中に入ると、中ではすでにヴィータちゃんのファッションショーの真っ最中。はやてちゃんがノリノリでヴィータちゃんの服をプロジュースしています。
「……もうちょっと、ヒラヒラした方がええかな?」
「動きにくい……」
「別にええやん」
「んー」
はやてちゃんに頭を撫でられているヴィータちゃん。……よし、混ざりましょう。
「混ぜてください」
「OK、了承や!」
というわけで、二人でヴォルケンリッター女性陣のお洋服選びを開始しました。
「ヴィータ、ほんま可愛いで!」
「ホントです! ……はうぅ、十一年前のやっと夢が叶いました……。えいっ、えいっ」
「頬つつくな!!」
うん。
「シグナム、改めておっぱい大きいなぁ……」
「巨乳という奴ですよね」
「……主はやて……シャマル……」
とても。
「まだ終わらないのか?」
「ザフィーラ、喋ったらアカンで!」
「あら、何時の間にかもう五時をまわってますね」
楽しかったです。
「あちゃー。まだ食器とか買っとらへんのに……。これは、みんなの素材がええのがいけないんよー」
「……すみません、主はやて」
「じょ、冗談やって、シグナム! だからそんな落ち込まんで!」
真っ暗になった空を仰いで、はやてちゃんが手の中にある『最低限』の服を抱えながら呟きます。
シグナムに冗談を本気に取られて慌てていますが、それでも楽しそうです。
ついついシグナムやヴィータちゃんの着せ替えに夢中になってしまって、服の調達に時間がかかってしまいました。
ほとんど始めて〝女性の買い物〟を目の当たりにしてグッタリした様子のお二人とも。
……保父を目指していた私は、精神的に長時間の買い物に慣れていました。そんな長所があって本当に良かったです……。
それがなかったら、今の私も……ああ、普通に順応できていたような気がします。
それにしても、食器ですか。確かにあまり数はありませんでしたが、五人程度なら大丈夫な量があるような……。一日二日で回らなくなりそうですけど。
しかし、はやてちゃんには、食器以上に大変な問題があるようです。つまり、食器以前の問題。
「……五人食べられる食料、家の冷蔵庫の中にあったかな……」
うーむと悩んでいるはやてちゃん。それです。どんなに料理が上手くたって、食材がなければ食べ物は作れません。
なんたって、私たちは朝、昼。何も食べていないのです。
ヴォルケンリッターの面々は、今までの主の影響で食を抜くのに慣れていますが。
でも、問題ははやてちゃんです。今は楽しいという興奮状態のおかげかお腹の感覚は麻痺しているようですが、そんなの長くは続きません。
育ち盛りの九歳(今日が誕生日)が一日食べないでいられるわけがないのです。早急にご飯を用意する必要があります。
「別に、食べられればそれでいいって」
ヴィータちゃんは腹に入れば何でもいいと言っていますが、料理人となった私の前でそんなことは言わせません。
「「……」」
それは、はやてちゃんも同じだったようです。近くにあるスーパーで食材を買ってくる。私とはやてちゃんの間でアイコンタクトが成立します。
はやてちゃんが服を家に持って帰り、調理器具を準備しておく係り。私がスーパーで食材を買ってくる係り。
互いの役目を瞬時に決めると、はやてちゃんからお財布を受け取って、昨日のうちに場所を確かめておいたスーパーにダッシュします。
今日の朝方、隙を見つけて冷蔵庫の中を確かめておいたので、簡単に作れる料理の案はいくつかあります。
ものの十分もしないうちに必要な食材を買い込み八神宅に帰ります。
家の中には、すでに器具の準備を終えて私の到着を待っているはやてちゃんがいました。
「……食材、見せて」
はやてちゃんが私の手の中にある袋を覗き込みます。はやてちゃんが作りたかった料理と同じなのか、彼女がにやりと笑います。
中から材料を取り出し、これならいけると呟きます。
「シャマルは料理作れるか?」
「はい、問題ないです」
「おっしゃ。三十分で作るで」
「はやてちゃん、休んでいても構いませんよ?」
「冗談。調味料とか食器の位置、完璧には把握しとらんやろ」
「……ですね」
「腹に入れば何でもいいと言う様な悪い子に、目にもの見せてやらんとあかんよね」
「正式には舌とお腹ですけどね」
「言葉の綾やって」
くすりと笑い合うと、一度リビングを振り向きます。
そこには、私たち二人の戦意を感じ取ってぶるぶると震えているヴィータちゃん。それを見て溜息を付いているシグナムとザフィーラ。
全員食べるつもりがあるということを確かめると、どちらともなく呟きます。
「では」
「はじめますか」
そもそも炒飯を作ることは確定していたので、私が朝の内にこっそりと炊いていたご飯と混ぜて作り始めます。
私が材料を切り、はやてちゃんが味の整えを行う。私と比べて絶対的な修行時間が足りていないはやてちゃんの材料切りを、私がフォローする形で料理を行います。
熱を通し易い材料の切り方は、ただ教科書で学ぶだけではできません。料理をする間に零した汗と執念が、調理という技術を完璧な物にするのです。
「……凄い」
驚きの声をあげるはやてちゃん。自分の、たかが数年では辿り着けない料理の極地。
十年、二十年、そして三十年。私の腕から伝わってくる料理の歴史。そして、そこに見える幾人もの師匠、弟子。料理をしない者には決して見ることが出来ない、私の修練が見えているのでしょう。
実は、私自身ここまで料理に身を捧げられるとは思っていなかったんですけどね。はやてちゃんも、私の弟子になってみますか?
空気的に言ってみたかったので言ってみました。何故かふふんと鼻で笑われました。とても悲しい目をした後、私の背中に見える料理人としての歴史を見てはやてちゃんが呟きます。
「……二十年って……おばさんやん」
ぽつねんと漏れた彼女の言葉を聞いて、私の額にぶっとい血管が浮かび上がりました。ふふふ、もしかして、私から越えることが出来ない力量を感じて嫉妬しましたか。
小娘の分際で、設定年齢22歳、若くて美しいと清掃員の方々に言われていたこの私を、おばさんと呼びますか?
和やかムードだった台所が、一転して魔境に変わります。互いに顔だけは和やかで、それ以外のところで張り合います。
……私に逆らいますか? 子供という保護されるべき女の子が、保母を目指す私に逆らうんですか?
とても苛付きました。どうしてか分かりませんが、なんだか苛付きました。
小娘、おばさん。小さく呼び合います。衝動のまま、はやてちゃんの頭を左手で掴みます。変わらずピアノの練習はしているので、握力は高いのです。
「止めてくれません? お・ば・さ・ん」
「ああ、すいません。ちょうどいい位置にありましたので、たまねぎと間違えてしまいました。……小さかったもので」
「子供は小さいものやで。……なんや、小娘に嫉妬か? やれやれ、年取ると物覚えと認識力が低くなるんか? 年は取りたくないものやなぁ……」
「あまりにも全身が貧相な小娘なんで、つい」
「…………おばさん」
この少女も、自らの言葉を取り下げる気はないらしい。……なら。
ギリギリギリ。左手に込める力を強めます。暴力に頼ってはいけないと頭では分かっているのに、感情が言うことを聞きません。
なぜか、この子にマイナスの感情が浮かび上がってくるのが止められません。
それでも、調理の作業を止めないのは、料理人としての最低限の矜侍です。ものの数分もしないうちに最後の行程を終え、炒飯は無事に完成。
……さて、これで気兼ねなく、殺りあえます。
互いにニコニコと笑ったまま、楽しい喧嘩、もとい意見交換を続けます。
「湖の騎士、闇の書の参謀。……まさか、暴力に訴えんとなんもできんのかな?」
「……髪の毛はサラサラして綺麗ですよね。でも、頭の中はゴツゴツしてそうです。子供の分際で、大人に逆らいますか?」
「家事が出来る、一人で暮らしてる。大人と子供の差ってなんや?」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ。私と小娘の間で広がるフィールド。……本来、被保護対象である分際で何をほざき……。
「何やってんだ、シャマル!」
『Panzers child!!』
ヴィータちゃんにハンマーでぶん殴られました。別に本気の攻撃ではなかったようなので、簡単にシールドで受け止めることができました。
味方に文句は言いこそすれ、直接的な攻撃をすることがなかったヴィータちゃんからの攻撃。ありえない事態に、頭が急激に冷めていきます。
私のシールドの強度を見て、小さく息を呑むヴィータちゃん。シールドに弾かれ、そのまま空中で一回転して着地します。
冷静になったので、シールドを消してから振り向きます。そこには、頭を抑えてふらふらしているはやてちゃんがいました。
目尻に浮かべている涙は、私が加えたダメージのせいでしょう。……私は一体何を……。
あぁー。何だか自己嫌悪です。どうして、おばさんと言われただけでこんなになってしまったんでしょう。
ヴォルケンリッターとしての責を忘れ、マスターに向かって攻撃を行ってしまうとは。早く謝らなくては。
思うや否や、半分以上腰を落として頭を下げます。地面にぶつかりそうになるほど、頭を下げます。
「ご、ごめんなさい、はやてちゃん!!」
「……ええってええって。私も大人気なかった……。おばさんとか言ってゴメンな、シャマル」
「こちらこそ、本当にごめんなさい!」
浮かび上がってくる感情をどうにか押しとどめ、謝り続けます。
後ろにいるのは、ハンマーを構えて私を見ているヴィータちゃん。シグナムも私に怒りの目を浴びせてきます。ザフィーラは何も言いませんが、呆れている様子。
頭を抑えながら、ご飯食べよ。笑顔で言ってくれるはやてちゃん。
まだ、作った料理は冷めていません。早く食べないと、冷えてしまいます。
皿に炒飯を分けて、テーブルの上に並べます。ザフィーラも人の姿になって、椅子に腰かけます。
……沈黙の中で、黙々とご飯を食べる私たち。……この空気を打破するいい方法は?
自分が何であんなに怒ったのかが分からりません。あの感情は、一体なんだったのでしょうか?
何か、何か話題を作らなくては。話せる話題、楽しそうな話。纏まらない頭のままで、私は言葉を紡ぎます。
「はやてちゃんは、今日が誕生日だったんですよね?」
「そ、そうやけど!」
どうにかしようと動いている私のことを気遣って、はやてちゃんが大声を張り上げます。……私が作ってしまった空気なんですから、どうにかこれで……。
ここからどんな風に話を繋げるか。それで、私の力量が問われます。
「だったら、一日遅れですけど、誕生日のパーティーでも開きませんか?」
どうにか作り上げた笑顔のまま、そう宣言してみます。
何故かしーんとなる食卓。はやてちゃんが黙りこくりました。
私の頬をダラーと垂れる冷や汗。……スベッた? スベりました? 誰か何か言ってくれませんか? とても気まずいのですが。
「パーティーって何だ?」
誰も何も言わない空気の中で、ヴィータちゃんが私に聞いてきました。……ああ、単語の意味を知らなかったんですか。
はぁー。助かりました。意味を知らないんだったら、みんな黙っていて当然ですよね。……って、助かってないです!?
さきほどの私の強引な会話の振りに乗ってくれたはやてちゃんが誕生会に乗ってくれなかったということは、つまり無言での拒否。
あんたとは誕生会なんてやりたくないと言っているようなものです。全く持ってそんなことをする気分ではないということです。……では、ではどうすれば。
変わらずシンとした食卓の空気の中、そっとはやてちゃんの顔を窺います。この子はきっと、とても不機嫌な顔を……。
恐る恐るはやてちゃんの顔を覗き見て、私は首を傾げました。はやてちゃんの顔が、目を見開いたまま固まっていたからです。
茫然自失。そんな表現が良く似合う顔。……そんなに嫌だったんでしょうか。これは、死でもって償うしか……。
私が後悔に後悔を重ねていると、とつぜんはやてちゃんの目が動き出しました。はやてちゃんの顔を覗き込んでいたので、当然、私の目とはやてちゃんの目がピタリと合わさいます。
「ええね、誕生会!! やろう!!」
いきなり叫び出しました。パーティーの意味を聞こうとしていたヴィータちゃんが、はやてちゃんの声の大きさにビクッとなります。
ザフィーラやシグナムまで驚いています。パーティー……。聞いたことはあるが、関わったことはなかったなと二人で話しています。
「うん、どのみちお皿とかも買ってこなきゃいけなかったんやし、ついでにケーキとかも買って来よう!」
私の提案にハイテンションになっているらしいはやてちゃん。……気を使っているわけではなさそうですね。とても楽しそうですし。
……うーん。何がなんだか分かりませんが、はやてちゃんが元気になってよかったです。
みんなで、みんなでパーティー!? 無茶苦茶ハイテンションなはやてちゃんを寝かしつけ、私たちの部屋割りをすると、それぞれが睡眠に移りました。
同部屋になり、私に何か言いたい様子のシグナムに、今日は疲れましたと会話を断って私は眠りにつきました。
2005年 6月5日。
次の日、またしても買い物に出かけました。ザフィーラは昨日と同じく狼の姿。大きな『犬』に、道行く人々がビビッています
今日はやてちゃんの車椅子を押すのはヴィータちゃん。隣を歩くのは私です。
顔をあげたはやてちゃんと小さく目が合ってしまい迷っていると、はやてちゃんから逸らしてきました。……どうやら、彼女も気まずい様子。
リードを握っていない方の手を、そっと握ります。驚いた顔をしたはやてちゃんですが、同じくそっと握り返してきました。そのまま、ずっと歩きました。
……と言っても、これはお互いがお互いのしたことを気にしないようにしているだけで、打ち解けたとは言い難いのですが。
どちらも仲直りしたいと思っているのに、そのことを切り出せない。……これから、どうにか挽回していきたいです。
それから家具屋やペットショップに寄って、食器を買い揃えました。
ザフィーラのためのお皿は『ZAFIRA』と書かれた平面皿。つまり、犬用のお皿。完璧にペットの立ち位置になってしまったザフィーラ。
私は、この事件を止めることが出来ませんでした。……だって、あんな楽しそうなはやてちゃんを見てしまったんだもん……。
昨日ケンカした手前、何も言えませんよ。
沸きあがる後悔と、楽しそうなはやてちゃんの笑顔を見れた喜び。相殺しあう二つの感情。結果、ま、いいかと諦めました。
今日は服屋じゃなかったのかと、ホッと溜息を付くシグナムとヴィータちゃん。そりゃそうか、あんなに買い込んだんだもんな。二人で顔をあわせて笑っています。
……甘いですよ、二人とも。女の子は服が大好き。月に一回くらいの割合で、ファッションショーは開催されるに決まっています。
次にはやてちゃん行きつけのスーパーに行って、食材を買い求めます。私とシグナムが分担して持って、家に帰ります。
「買い物とは、普段からこれくらいしているのですか?」
「そんなわけあらへん。昨日、今日は……特別や」
「……そうですか」
シグナムが買った食材の多さに少しだけ驚いているのが窺えます。
時間帯はすでに夕方。この時刻は、主婦が最も動く時間帯でもあります。
歩いていた私たちは、たまたま世間話をしている主婦の方々を目撃しました。その中には、昨日会った件の後藤さんもいます。
夕日の袂で話す主婦。……絵になると言えば、絵になりますね。住宅街の風物詩という奴です。
「ちょっと、ご近所の方に挨拶して来ますね」
「ほうか? じゃ、私も行くか」
はやてちゃんに笑顔を向けると、他のヴォルケンリッターに一礼して主婦の群れに突っこみます。……ここからどう行動して住宅街での地位を決めますかね。それが『主婦(仮)』シャマル初めての勝負です。
私にどこまでできるのか。覚悟を決めると、努めて明るく振舞いながら主婦の皆さんに声をかけました。
けっして、これから家に帰ってはやてちゃんと正面から向き合うのが怖くて、先延ばしにしているわけじゃないんですからね。
「……あそこの大学生さんがね、近頃、空も見ないのに望遠鏡を……」
噂話をしている奥さま方に話し掛けるのは、至難の技。もしも、皆が固唾を飲んでいる話に割って入ったりすると、そこの地区での評価は地に落ちます。
つまらない話に最適な話題を引っ提げて割って入れば、評価は天に上がるほど。ただし、邪魔された人の評価は地に落ちます。
そして、話が終わった所に割って入るのは絶対に不可能。目の前で話している人の話が終わり、自分が話し始められるタイミングを、みんなして今か今かと待ち望んでいるのですから。
「ツチノコが……」
あまり目立たない容姿をした奥さんが喋り始めました。
この人です。この人の会話が心底どうでも良く、さらにこの人の評価が下がってもこの住宅街で行動しにくくなることはありません。面白くない話をしている人は、総じて住宅街の中での評価も高くないですから。
主婦の会話は弱肉強食。面白ければ生き、つまらなければ死にます。
「あのぅ」
「はい、何でしょうか!」
「あら、貴女は……」
いきなり大声で割って入って、会話の中心になるも良し。声小さく入って控えめな方という評価を貰うも良し。
この場合、私は後者を選びました。
その奥さんの単調でつまらない話に飽き飽きしていた奥さま方は、私の乱入に目を輝かせて振り返ります。
「昨日から、この住宅街に居着かせてもらっています、シャマルと申します。以後、よろしくお願いします」
ペコリとお辞儀。どの道、仲が良くなれば砕けた話し方になりますが、第一印象は良ければいいほど後に生きる。どうでも良さそうにあいさつされたのと、誠心誠意あいさつされたのでは、記憶への残り方が違います。
途中で、どうやら私のことを覚えていたらしい後藤さんが、私のことを知っているような声をだしています。
これは都合がいいです。始めから自分たちのグループの人と仲がいい人を、奥さまは邪険に扱うことはありません。これは、年が上に行けば行くほど顕著になります。
「あらそう。わたし、今井というの」
「今井さんですね」
今井さんですか。行動の節々から感じられますが、中々フランクな方ですね。あと、この人からはリーダー格の匂いを感じ取れます。
この人は、この地区の奥さまズの中心人物ですね。
私に会話に割り込まれ、現在ハブられている奥さんが絶対零度の視線で私を睨んできます。でも、無視します。奥さまは、一日のことをそうそう深く恨んだりしません。
初日に、こいつのことを絶対に恨み続けてやると思っても、次の日は水に流しているものです。
そんなカラッとした奥さまの気性を私は気にいっているんです。
率先して誰かを恨んだりせず、話もつまらない。この奥さんは、この住宅街初心者の私にとって救世主ですね。
私の場馴れした空気を感じ取った今井さんと後藤さん、その他数名の表情が変わります。私を脅威と判断したのか、どんなネタで攻撃してやろうかと考えているようです。
「……楽しいか?」
奥さまとの距離詰めに全力になっている私に、後ろから追いかけてきたらしいヴィータちゃんが話し掛けてきました。……これは危険ですね。
とりあえずジョークを言わなくては気がすまない奥さんがいる場合、小さい子が近くにいる若い女性は変な狙われ方をされてしまいます。
主婦のお一人……というか、さっきの今井さんが、ヴィータちゃんと私を見比べた後、首を傾げて言いました。その目に大きな感情は見つけられず、相手の神経を逆なでする意図が見て取れます。
「娘さん?」
「なっ!」
「えっ!」
嫌そうなヴィータちゃん。嬉しそうな私。否定すると悪乗りされるので、ここはあえて嬉しそうにするのが味噌です。
……中々悪質な攻撃を。他人を利用して攻撃するとは、何て人です。でも、これは私の力量を測る試しみたいなものでしょう。対応によって、下に見られるか上に見られるかが変わります。
私の対応を見て、骨のある奴だとでも判断したのか、すっと今井さんが引きます。……何ですか、全員と戦えというのですか?
さすがにそれはキツいんですけど……。
「あはは。楽しそうやな、シャマル」
ヴィータちゃんに続いて、今度ははやてちゃんが参上しました。さて、これは会話のネタとなるか、弄りのネタとなるか……。
どんな言葉を言われても対処できるように、マルチタスクを使用。これならば、何て言われても問題なし。
分割された思考能力が、最適な言葉を弾き出してくれるでしょう。
さあ、今井さん、あなたはどんな顔をしますか? 笑い、弄り、嘲笑、何でも来なさい。私の中で大防御と刃の防御が発動します。
「八神ちゃんね……」
はやてちゃんを見て、何故かマジ顔になる今井さん。他の奥さんたちも何故かマジ顔になっています。
主婦さんたちの間に広がる、マジメ特殊空間。奥さんたちがこれを発動するのは、かなりレア。
連帯感と責任感と生真面目さと現実感がある住宅街で、近くにいる奥さんのご主人が亡くなった時くらいにしか発動しない、最強のフィールドです。結界魔法に匹敵する能力を秘めていると言っても過言ではないでしょう。
……この反応は想定の範囲外なんですが。何がどうなっているのか、混乱する私。
「シャマルさん」
「は、はい!」
かなりマジメな顔をしている今井さんそのほかの主婦を見て、つい背中を伸ばします。
今井さんは私の肩に手をかけて、目を覗き込みながら聞いてきました。
「あなたが住む家って、八神ちゃんの家なのね」
「そ、そうです……」
私の言葉を聞いて、一斉に胸を撫で下ろす主婦たち。その行動に、はやてちゃんまで驚いています。
誰からともなく泣きそうな顔になって、良かった、本当に良かったと言い出しました。
ビビりまくる私たち。主婦といえば、軽い、温厚、お喋り好き。そんな三拍子が揃った無責任軍団と思われがちです。
そんな彼女たちが、女泣きに暮れているのです。はっきり言ってしまえば、不気味です。
「えーと、何の話をしているのでしょうか……?」
「……そうよね、シャマルさんはわからないわよね」
困惑する私の正面に後藤さんが一歩足を出して、自分の胸の腕を組んで私の耳に囁きます。
それは、私によく聞かせるためというより、はやてちゃんに聞かせないためというように感じられます。
後藤さんが言いました。八神家が長女、八神はやては一人暮らしである。
……そんなの、すでに分かりきっていることです。どうして、今更そんなことを言われなければならないのでしょうか。
「……知ってますけど?」
「……それだけじゃないのよ」
私の白い目に、後藤さんは首を横に振ります。その目の節々にある真剣さには、一片の曇りもありません。
後藤さんは数年程度前に引越してきたばかりなので当時の事件には関わっていないが、これは、ここ近辺の主婦の間では暗黙の了解となっているほど有名な話らしい。
ちなみに、男衆でこの話を知っている者は一人もいないそうだ。
それは、この狭い住宅街にとっても、とてもとても小さな出来事だった。
その出来事の中心は、関西のほうから新たにこの町にやってきた新婚夫婦。彼らが手に抱くのは、足の不自由な当時二歳だった少女。
その家。八神家は、決して稼ぎが多い夫婦ではなかった。
けれども、娘が楽に暮らせるように、暖かい気候の町に移住することにした。娘が安全に過ごせるように、バリアフリーの家を購入した。
十年にも家の及ぶローン。娘のためだけに、この住宅街に引越してきた。娘の幸せだけを考えて、彼らはここにやって来た。
その家の新妻はやはり新婚夫婦で、まわりとの関係を大事にする術はない。最初の頃は、よく話しのダシにされていた。
でも、それから数週間もする頃には、八神はやての母親もこの住宅街の奥さまの一員となっていた。
そんなある日、奥さま同士で自慢の息子娘を持ち寄って、我が子自慢に花を咲かせたことがあった。その時、今の奥さんたちと幼かったはやては出会った。
足が不自由なこの子ですけど、みなさん良くしてくださいね。最愛の娘を抱いて、はやての母は笑った。
主婦たちはもちろん了承した。うちの子の恋人になるかもね、と冗談を言い合った。それからしばらくして、はやての母と父が死んだ。
事故だった。誰か、あの子を守ってあげてください。それが臨終の言葉となった。奥様たちは、約束を守ろうとした。
まずは、遺産の整理とかをするための弁護士とかに説明を行おう。誰かが言い出した。
ところが、誰も何も言わない。というか、言えない。誰の口からも、八神はやての様子を見に行こう、手伝おうという話が出てこなかった。
どうにか全員で話し合い、はやての家に一人暮らしで大丈夫なのかと聞きに行こうとした。それでも何故か近づけない。
無理やりにでも近づくとどうしてか、大丈夫なのか聞きに来たことを忘れてしまう。それが無理なのだったら、市や県に連絡をしようと誰かが言い出した。
ところが、県庁に電話をかけようとしても、かける前に何で電話をしようとしたのかを忘れてしまう。メモを取っても、文字が見えない。
まるで、彼女が何か悪い霊にでも取りつかれているかのように。はやてがずっと一人暮らしでいろと命令しているかのように。
少しして、彼女の父親の友を名乗る男が、彼女の遺産を管理し始めた。主婦たちは、気味が悪いと思った。
なぜなら、そんな頼もしい友人がいるのなら、自分たちのようなただの主婦の集まりにあの子の世話を頼むはずがない。
それでも、誰も何も出来なかった。自分たちは、何も出来ないのだから任せるしかない。
彼女たち近所の主婦に出来たのは、自分が何をしたいのか忘れない距離で、そっとはやてを見守ることだけ。
挨拶されたら挨拶を返す。料理のコツを教えてくれと言ったから、料理を教える。
何か悪い人に絡まれたりしないように、困ったことにならないように。自分たちからは何も出来ないが、彼女から頼まれたことは実行することができる。
いつも心配で、一人で暮らしているのはやてのことを見守っていたのだと言う。
だから、はやての家に一緒に住んでくれる人が現れて本当に良かったのだと涙したのだった。
どんなに怪しくたってもいい。ただ、あの不幸な女の子のそばにいてくれればそれでいい。
私たちは、あんたに何も聞かない。あの子の傍に来てくれたあんたたちに、感謝をする。
主婦の方々の言葉を聞いて、私は泣きそうになりました。天涯孤独の少女であっても、こうして見守ってくれている人たちがいた。この子をずっと見守ってくれている人々がいた。そのことを、初めて知りました。
「何時から、あの子を見守ってくれているんですか?」
口から出た私の疑問に、今井さんが答えてくれました。そうすることが、さも当然であるかのように。
「最初から。あの時わたしたちに八神ちゃんが紹介されて、あの子の両親が死んだその時から、ずっと」
「……ありがとう、ございます」
気が付くと、私の目から涙が出ていました。ただの住宅街の仲間。たかが仲間の言葉と無視することもできたはずなのに、あの子のことを見守ってくれた人たちが、確かにいた。
私に襲い掛かってくる、数々の後悔。一人暮らしの女の子。誰も関わることの出来ない結界の中にいた、一人の少女。
それは、きっとギル・グレアムの魔法的な措置だったのでしょう。
一人で暮らしている少女を見て、誰かが騒ぐことのないように。誰かと深い関係になったりして、一人の少女の失踪に気付かせたりしないように。
閉じられた世界の中で、医師などの必要最低限な人物しか彼女と関わらないようにして。彼女のことで悲しむ人が出ないように、とても優しくとても寂しい処置をされていたのでしょう。
……何が、地球の位置が分からない、ですか。何が、無印に関わったらヤバイ、ですか。
……一人で、たった一人で、小さな女の子が暮らしていたのに……私は何を言い訳をして、はやてちゃんの前に現れないでいたんですか。
十一年も前から自由だった私は、この子が生まれたときからずっと一緒にいれたはずなのに……。この子のお父さんお母さんだって助けられたはずなのに。私は、どうして……。
気付かないうちに私の瞳から零れ始めた涙。ポトンポトンとアスファルトの上に流れ落ちて、そこで砕けます。
「あーあー。シャマルさん、泣きなさんな。近所のわたしたちですら気付けないのに、別の国にいたっぽいあなたがあの子の状況を知れるわけがない。……それに、今、あなたはここに来たじゃない。それだけで、あの子は幸せだと思うよ?」
今井さんが、私を慰めようと色々言ってきます。たくさんの感謝と感情が篭められたその言葉に、何度も何度もありがとうと返します。
そんな私を、不思議そうな目で見ているヴィータちゃん。溜息をついているシグナム。ヤレヤレと首を振るザフィーラ。
今はまだ、信頼関係が築けていなくて変わらない彼らの反応。それでも、きっとまた一緒に戦えるはず。
「……シャマル? 何で泣いて……?」
そして、私の顔を下から覗き込むはやてちゃん。その姿に感極まって、はやてちゃんを車椅子から抱き上げると、ぎゅっと抱きしめます。
私の行動の意味がわからずに首を捻るはやてちゃん。
もっと一緒にいれたはずなのに。この子と一緒に過ごすことができたはずなのに……。私は、何を怖がって……。別に、あの人への義理なんか果たさなくたって……。
「……シャマル、どしたん?」
「ゴメンね。一人にしてゴメンね。……もっと一緒にいれたはずなのに、一人にしてゴメンね……」
「……?」
主婦の皆さんと私の会話を聞いていないはやてちゃんは、私が何を言っているかわかっていないのでしょう。むしろ、分からなくていい。知らなくていい。
主婦の方々も、知っては欲しくないでしょう。自分たちが好きでやっていたのだから、礼を言われる必要はない。それどころか、誰にもあなたが一人でいることについて深く聞くことが出来なくて、助けることが出来なくてごめん。そう言うでしょう。
主婦の方々にも矜侍がある。礼を言われるために助けるのではない。助けを請われたから助けたのではない。
自分たちは、目の前に人がいれば自主的に助けるのだ。主婦の皆さんは、口に出さずに背中で語ります。
住宅街の横っちょ。道路の中心で、私ははやてちゃんを抱えながら泣き続けます。
「みんなー。お邪魔みたいだから帰るよー」
主婦みんなを見渡して、今井さんがやる気なさげに叫びます。呼応して、さっさと去っていく主婦の方々。その後ろ姿はまるで軍隊のよう。ザッザッザと靴の音をたてながら、彼女たちはそれぞれの家に帰っていきました。
残っているのは、まだ泣いている私と、私の背中をさすっているはやてちゃん。それにヴォルケンリッターだけ。
「……もう、だいじょうぶ、です」
「落ち着いた?」
「はい」
最後に小さな滴が頬を垂れていって、私は泣き止みました。もう一度はやてちゃんを抱き上げると、車椅子に座らせます。
「……それじゃ、帰りましょうか。……もう、すっかり暗くなってしまいましたしね」
「え、ああ……シャマルがええんやったらええけど……」
私の突然の言葉にビックリしたというか、訳の分からない物を見るような目をするはやてちゃん。
赤くなった目を見られないように、私は先へ先へと歩いていきました。
台所の前、エプロンを付けたはやてとシャマルが二人で向かい合っていた。台所には、山と詰まれた食材の数々。
早く調理してくれと、まるで材料が懇願しているようだった。
決して昨日のように一緒に作ることはない。彼女たちの根底にある教示が、一緒に作ることを許さない。
昨日、そのことが判明していた。というわけで。
「材料をどっちが料理するかという話になるんですが」
「うん、そうやね。……台所は私の居場所。シャマルには渡さんよ……」
「つまり、勝負はこれで付けるんですね……」
シャマルが右手でグーを作る。同じようにはやても左手でグーを作った。互いに手を振りかぶり、相手に向かって突き出した。
かなりの速さで進む、右手と左手。そして、拳同士が後一歩で直撃というところまで近づき。
「「最初はグー!! じゃんけんぽい(ん)!!」」
三本勝負の結果、シャマルが勝った。
すごすごと台所を後にするはやて。ニヤリと笑いながら、シャマルははやてを見送った。
リビングに戻り机の上にガバっと身を投げ出すと、はやては近くにいたシグナムに声をかけた。
「負けたー」
「……ご愁傷様です」
「……シャマル、明るくてええ子やな」
「そう……ですね。アレにあんな部分があったなんて、始めて知りましたが」
出会ってからまだ二日。それでも、もう二日も経っている。終始戸惑っていたシグナムも、何とかはやてと打ち解けて、今日で何度目かの会話を行っている。
ヴィータは、完璧にはやてのことを気にいったらしく、たまに笑みを見せている。それでも、まだまだ体は固かった。
あまり話さずに着せ替えショーをしたのが結構効いているらしい。どうせ、何時の日か笑い話に変わりそうだが。
あははとはやては笑うと、今度はシグナムに抱きつく。いきなりの主の行動に驚くが、それでも何となく抱きしめ返してみた。
「なんていうかな、シャマル、お母さんみたいなんよ」
「は?」
「せやから、イジワルしたくなった」
「……そうですか」
昨日のシャマルとはやての争い。蓋を開けてみれば、そんな簡単なことか。シグナムは、とりあえず納得しておいた。
納得してしまった。主の精神状況は、一番気にしておかなくてはならない事柄だというのに。
だから、はやての表情の変化には気付かなかった。一瞬で表情は元に戻り、シグナムから離れると、笑顔でシャマルの後ろ姿を見守り始めた。
後ろ姿を見ていて何がそんなに楽しいのだろうかと、ヴィータがはやてに声をかけようとして……。
「シャマル! それお酒やなくてみりんや!!」
「はうぅ! また間違えました!?」
溜息を付いた。同時にヴィータのお腹がグゥと鳴った。
それから一時間後、お腹を空かせたヴィータの前に、ごちそうという物が並んだ。机の上に所狭しと並べられたケーキやら肉やらのご飯。
ヴィータは、大量のご飯を見て目を輝かせた。
結局パーティーというものが何なのか分かっていないヴィータは、パーティーとは美味しい物を食べる会だということを知った。
別に間違ってはいないので、誰も訂正はしなかった。
「主はやて。これは……?」
「……うーむ。やはりシャマルの腕は私以上……。ホントは私が作りたかったのに、ここまで作られては文句も言えん……」
「主?」
「あ、何でもあらへんよ。……ではヴォルケンリッターの皆さん、グラスを持って」
「こう?」
「ん。そうやで、ヴィータ」
その後、ゴホンとわざとらしく咳払いをする。不思議そうな顔のヴィータ。演出と言うものですよ、とシャマルがヴィータにウインクした。
人型になってコップを持っているザフィーラも見て、そんなもんかと納得するヴィータ。グラスを大きく掲げると、はやては言う。
「では、一日遅れやけど、私の誕生日と新しい家族の誕生に……」
シャマルが、みんなの真似をしろとヴィータに教える。ザフィーラもシグナムも、何をするべきかは知っている。
ヴィータだけが一歩遅れたが、それでも八神邸に声が響き渡る。
「「「「「乾杯!!!」」」」」
乾杯。
――後書き
Q 喋り方……。
A 実はキャラの喋り方を完璧に把握していません。よって、キャラとキャラの会話には期待をしないように。
ところで、はやてちゃんと打とうとした時、はやてたんになってしまって少し焦りました。
しまった! あの黒い服がヴォルケンズの初期装備だなんて、誰も一言も言っていない!
初期のこの話は、アニメを見ずに想像だけで書いたので、作中と矛盾している所があります。
アニメの場合、服ははやてだけで買ってきたみたいなんですよね。でも、買い物のシーンが欲しかったのでイベントを追加しました。
さて、はやてと主人公のケンカの理由ですが……。二人のあり方を考えると、こうなるのが必然ですよね。