……その戦巫女に対しては、夜は余人と異なる貌を見せる。
さながら地面いっぱいに蛍火を敷き詰めたように、薄緑の輝きに照らされ、男たちの陰影を色濃く浮き彫りにさせる。
そしてより強い輝きを放つ二条の光線は、円弧となって伸びて、彼らの眉間にまで届いている。
否、届いてなどいない。
途中でふっつりと途切れたそれが示唆する運命の通りに、射放つその矢は大州に防がれ、まるで彼女に見えた光線が己にも見えていると言わんげに、鐘山環は落ち着き払っていた。
それが、気に食わなかったし、疑うことなく大州の剣に己の命運を委ねる悪友が、それにも増して苛立たせる。
そこに至って幡豆由基は、そうした暗躍や暗殺の類が己らしからぬ行動であったことに気がついた。
羞恥を敵愾心にすり替えて姿を見せた彼女に対して、少年は、普段通りの様子で彼女を出迎えた。
いつも通り。だがそれは、少女の知る友の姿ではない。
幡豆由基と誼を結び、市井を歩き回った鐘山環とは、彼女の一睨みにわたわたと怯え、青臭い格好つけでそれ故に仲間に小馬鹿にされ、周囲の事情に振り回され、だからこそ由基の親愛と庇護を受けるに足る少年であったはずだった。
「偉くなったもんだな」
ぽつりと呟いた言葉に、環は眉をひそめた。
「……裏切りの見せしめとして色市をさらし者にして、お次はオレたちを前線送りか?」
「配置されるのは後方だ」
「ナメんな。銀夜の小娘が躍起になってオレたちに回り込む可能性が高い。それぐらいは分かるんだよ」
「小娘って、お前の方が年下だろ」
微苦笑と共に話をはぐらかそうとする自らの大将に対し、変わらぬ鋭い視線を彼女は送り続けた。
「それでお前の将兵だけで手柄を総取りにすりゃ、お前の武名も天下に轟くってもんか。一将の功のために、胞輩の万骨が枯れようともなんとも思わないってか? 気づかないうちに、ずいぶん戦国武将らしい考え方ができるようになったもんだ」
これは、掛け値無しの賛辞だったのだろうか? あるいは痛烈な皮肉だったのだろうか?
その言葉の真意は、発した彼女自身にさえ分からないものだった。
「で、その先はどうする? そんなものを得てなんになる? 目的はなんだ? 板方城に帰ることか? 弟妹や父親の仇討ちか? 栄達か、名誉か? 女か、富か権勢か? あるいは本当に天下取りでも始める気か?」
だがどれも、環らしくない答えばかりだった。そう感じてしまったのは他でもない、幡豆由基本人だった。答えもなく、目深に帽子をかぶってうつむく少年に、彼女は弓を捨てて、露骨な苛立ちをぶつけた。
「答えろよっ! ここまでかき回して、はぐらかしておいてっ! ただ騙されて、目先の利に泳がされたまま訳も知らずに犬死にしろってのか!? ……その罪が、業が、お前一人に背負えるのかっ!? その覚悟ができたってのか、あぁ!?」
肩肉に爪を食い込ませ、歯は今にも喉笛を食い千切りそうで、手にした矢は脇腹に突き立てる覚悟と間合いができている。
だが、そうさせたのは鐘山環だった。彼の持つ空気によるものだった。
他人の好意や思慕だけではない。憎悪や激しさ、怒りまでも、併せて呑んで受け入れる。その懐の深さを、器の差を、ここに至るまで自分たちは何度味わわされてきたことだろうか?
さざなみのように静かに揺れる、美しい青の双眸が、すっと細まりやがて閉じる。
それから二人は、虫の鳴き声に耳を澄ませ、時を共有していた。
一種の睦み合いともとれる時間が悠然と、流れた後のことだった。
「……大渡瀬でもそうだった」
するりと持ち上がった指先が、環自身の胸板に押し当てられる。
それは間違いなく友人の声調ではあったものの、聞いたこともないような環の声でもあった。
「父親が死んだ時もそうで、ここに至るまでの道程も、似たようなもんだった」
「何を、言っている?」
「俺が良かれと思って動いたことが、あるいは何も動かなかったことで、周囲を巻き込み、大きくなっていく。……あるいは、それを天命とでも言うのかもしれないけどな」
「自分の行動を、お天道様が正当化してくれるとでも?」
未だ、この順門府公子が何を言わんとしているのか、由基には見えてこない。独語にも似た彼の手近な一言に、批判的な意見をぶつけるだけだ。
それでも、一つ分かっていることはある。
今まで韜晦し続けることで秘匿してきた鐘山環の本心が、彼なりに言葉を選んで、語られようとしている。
そのため、外面の荒々しさ、刺々しさとは対照的に、巫女の心中は穏やかだった。
「……別に、そういうわけじゃない。ただ、己の存在の大きさは、もはや縮小させることができない。このままじゃ、振り回されて誰も彼もを暗黒へと引きずり込んでしまう。だから、御するためには指針が必要だった。俺自身が、目的を持たずにはいられなくなった。……本当に死ねば、その思い煩いからも解放されるのかもしれないけど、」
「その大義名分が、見つかったのか?」
少年は、己の心の臓をえぐるかのように、強く、着物の袷を引き掴む。
環の顔は決して美しくない。その美男でもない顔が、激しく歪み、肺病をわずらうかの如く、大きく喘ぐ。
「……大渡瀬が、始まりだった」
だが、そうした彼の姿そのものが、悲恋の絵巻を見るような心地で、美しく見えてしまう。
おそらくは鐘山環に特別な意図はないのだろう。演技でなく、真実この公子は、命と精神を削って、朴訥と言霊を紡いでいる。だから、人は無自覚に彼に引き寄せられていく。彼に親愛を求める者も、憎悪を抱く者も。
「何故、町を焼く必要があった? 何故、民は、世は、その暴虐を甘受する? 異を唱えない? こんなものが宗善の解なのか? こんなものを宗流は望んだのか? こんな結果が宗円の求めた理想だったのか? それを是とする朝廷とは、国とは、なんだ?」
問い続ける環の声は、彼自身の心に感応して震える。
「この旅路で得た思いは、問いは、忘れちゃいけない。なかったことにはできないんだ」
見開いたその目に、剣にも似た鋭い輝きが宿っている。
久しぶりに、環に正視された気がする。
初めて、鐘山環という人間の本心を、ぶつけられた気もした。
「だから俺はっ、この問いそのものをこそ、天下への標榜とする!」
「……問い、だ?」
「疑問も抱かず意識もなく従い続ける人々に、このままで良いのかと、改めて問うために戦う。俺の命と存在をまっとうすることが、世を揺すり動かす問いになるのなら! 俺が戦い続けることが民草の目覚めに繋がるのなら! それでも」
「それでも……なんだ!」
幡豆由基は、矢を捨てる。拳で環の頬を打った。
環がようやく、己の真意を打ち明けた。
にも関わらず、少女の溜飲は下がらない。
こうも苛立つのは、焦れったいのは……本当に聞きたかった言葉は……
「……不条理なのも理不尽なのも分かってる! それでも……俺は……っ、お前らが大切で……殺すことも、利用することもしたくはなくて……っ」
「今さら泣き言ってんじゃねぇッ!」
環を押し倒す。その喉元に手がかかり、草むらに背を叩きつける。
躙られた雑草の匂いが、二人を包んだ。
「お前はもう選んじまったんだろうが、道を知ったんだろうが! じゃあ進めよ! だがな、お前が守ろうとしている奴らも、大切だなんだのとほざいた奴らも、結局のところお前の理想になんぞ興味はねぇ! 分かりもしない! ただオレ達は、お前の一言を待っているんだよっ!」
「……っ」
「最初からだ! ずっと前からだ! ……なんでただ一言……『助けてくれ』が言えないんだっ、お前は!?」
環の、蒼天の色をした瞳孔から、一筋、涙が浮きこぼれた。
由基の知る、少年の顔だった。
「ずっと苦しかったくせに、凡人が格好をつけて英雄のマネなんかするからこんなことになるんだろうが! 大から小まで、善から悪までなんでも背負い込みやがって!」
戦巫女は力を抜いて深く呼吸する。立ち上がり、身なりを整える。
ずいぶん、長い道のりを歩んできたような心地がした。そして同じほどの道のりを、並行して環も進んできたのだろう。
「……いつだったか言ったよな? 『辛くなったら言え』って。『オレがとってかわってやる』って」
「……あぁ」
「代わってやるよ。半分な」
幡豆由基は、未だ誕生し得ない天下人を掴んだ。
今度は上半身ではなく、言葉の代わりに伸ばされた腕を掴み上げる。
「お前ができなくなったことは、オレが継いでやる。お前が今持つ理想も情もなくした時は、オレが討つ。だからお前は、お前にしか描けない天下を描け」
感情に任せてそう宣言した瞬間、戦巫女は、己の弓の使い道を悟った。