「ぐぁっはっはっはっは、そうかそうか、メディアは自らオリュンポスに来ると言ったか。よくやったヘルメス」
「いえ、自分は言われたことをしたまでですので」
オリュンポスの頂上にそびえ立つ大神殿の玉座にて、主神ゼウスは膝を叩いて笑う。ヘルメスは冷めた目をして、ただ首を垂れる。
コルキスにはヘルメスに贈物を捧げる敬虔な者も多くいた。そんな彼らにとばっちりにも似た神罰を与えるなど虫酸が走る行為だ。
たしかに案を出した。伝令も行った。だが、それはヘルメスの立場によるものだ。彼自身は喜んでやっているわけではない。
主神の息子にして、忠実なる部下という彼の立ち位置を、このようなことで手放すわけにはいかない。
女神ヘラからも信頼を得て、他の兄弟たちとの仲も悪くはない。彼はこの立ち位置に満足していたので、情に絆されてこの位置を捨てる事はない。
とはいえ、罪の意識からは逃れられず、被害を被った者たちには、あとで補償としての祝福を与えてやらねばならない。
「しかし、父ゼウスよ。先にも述べさせていただきましたが、このような事で下々の人間を苦しめることは、他の神々からの不興を買いませんか?」
「なに、問題はない。メディアとの子が生まれれば、多くの祝福を与えてやればいい。奪った分は与える。実に心優しい神だろう我は? そうすればヘカテーも文句は言わないだろう」
最悪だなコイツ。
そもそも神というのは理不尽なものだ。神々の色恋沙汰に巻き込まれて当事者にない人々が被害を被るなど当たり前だ。
たとえば、ゼウスに拉致強姦されたアイギナという女性がいたが、そのことに嫉妬した女神ヘラは、この女性の名を冠した島の住人を疫病によって虐殺したという話がある。
かように、降りかかる理不尽を神格化したのが神だというのならば、神とはただそれだけで人間にとって理不尽な存在に違いない。
しかし、先日、確かにメディア姫はオリュンポスに来ると言った。とはいうものの、彼女はゼウスにその身を差し出すとは一言たりとも言わなかった。
であるならば、何かを企んでいるのは明白だろう。
先にもポセイドン様やハーデス様まで彼女に手を貸しており、とてもじゃないが素直にゼウスに応じるとは思えない。
そもそも、彼女はかの偉大なる女神ヘカテーの巫女にして、太陽神と海神の直系。下等な人間の血など一滴たりとも混じっていない神に連なる由緒正しき姫君だ。
協力する者も多いだろう。
どちらにせよ、この鼻を伸ばしたスケベジジィの顔に泥を塗ってくれるならば、少しは反省するのではないだろうか?
ヘルメスはそう思い、そして唐突に後ろを振り返る。何かいたような気がしたのだ。この前の悍ましい目が忘れられず、若干彼は神経質になっていた。
いない。
ヘルメスは安堵する。
「ところで父ゼウスよ。我らが女神ヘラ様は今どちらへ? 今日は一度も顔を合わせてはおりませんが」
「うむ、そういえば、我も見てはおらんな」
◆
「この場所にプロメテウスが磔にされていたのか」
「アタランテ、さ、寒いのじゃ…」
コルキス王国の北方、カフカス山脈はヨーロッパの最高峰、エルブルス山。
万年雪を冠する白き山の頂上に、人類に火をもたらした罪で鎖に繋がれたプロメテウスがごく最近までここにいた。
毛皮のコートで身を包むアタランテとぺリアスは、ざくざくと雪を踏みしめて山頂を見上げていた。
「なぜ吾についてきたのか。ダイダロスと共にいれば良かったではないのか?」
「うむ、なんというか、あの屋敷の者たちの視線がのぉ…」
「それは自業自得というものだろう」
王座を簒奪し、妻を人質にとったり、約束を破ったり、エジプトでは真っ先にメディアを裏切った。
これで良い顔をされると思う方がおかしい。というか、命があるだけ不思議というものだろう。
ちなみに、ダイダロスたち親子は歓迎されているらしく、今はオケアノスの屋敷にてアルゴー船の改造の最終段階に入っているらしい。
「この地に住んでいたというハゲ鷲を見つけるんじゃったか?」
「ヘラクレスが射殺したという話だ。羽の一枚でもいいとのことだが」
メディアからの頼み事だった。この山の頂に出没する化け物、巨大なハゲワシの体の一部を手に入れてほしいというオーダーを受けた。
そのハゲワシは古くから人間たちによく知られる化け物の類だ。曰く、かのハゲワシは、磔にされたプロメテウスの肝臓を毎日ついばみ、彼に苦痛を与え続けていたのだと。
だが、ヘラクレスがプロメテウスを救い、その際についでと弓でそのハゲワシを射殺したのだという。
なぜメディアがそれを欲しているかは分からないものの、魔法使いである彼女のやる事は基本的に戦士の私には理解できないのだから、気にする必要もない。
「巨大なハゲワシと聞く。なんとか探し出すぞぺリアス」
「ところで、そのメディアはどこに行ったんじゃ?」
「私も詳しくは知らん。メディアの事だから、何か企んではいるのだろう」
そうして二人は再び探索に集中する。結局、目当てのモノを手に入れたのは数時間の後の事であった。
◆
「ゼウス様ゼウス様ゼウス様ゼウス様ゼウス様ゼウス様ゼウス様ゼウス様、ああ、お可哀そう。きっとあの女に騙さされているのよ。私が何とかして差し上げないと」
そう。私の名はヘラ。神妃にして、結婚を司る契約の女神。ゼウス様に相応しい女は私以外には存在せず、彼を真の意味に幸福にできるのも私だけなのだ。
しかし、あの方は気が多く、簡単に他の女に騙されてしまう。
神々の王ゼウス様がモテるのは当然であり、多くの恥知らずな女どもが彼に言い寄り、その血を血統の中に混ぜることで権勢を得ようと企むのだ。
そのような事は許されない。
私が何とかしなければならない。この世界の秩序を守り、主神ゼウスの血を守り、彼の心を守るのは私の役目。
よって、私は何をやっても良いのである。私は悪くない。あのアバズレどもが悪いのである。邪悪なのである。よって死刑。
「なるほど、君は面白い事を考えるな」
「いえいえ、それで、できますか?」
「そうだな。材料が必要になるだろうが、まあそれ自体は問題なかろう。君には協力者が多い」
そうして私はこのエジプトくんだりまで来て、あの女の背中を射殺すように睨んでいるのだ。
コルキス王国の阿婆擦れ女。私が加護を与えたイアソンを袖にして、私のゼウス様を誘惑した泥棒猫だ。
この女が阿婆擦れで尻軽の最悪な女であることは見てのとおり、エジプトの神をたらしこんでオネダリなど最悪である。
だから私はそのまま彼女に飛び掛かり、その脳天に斧を振り下ろした。
「ちぇすとーっ!!」
◆
さて、エジプトはクムヌ、ギリシャではヘルモポリスと呼ばれる場所、私はそこに立つ万能神殿に来ていた。
目的はトート神に会うため。彼の「何かあったら頼っていいよ」的な社交辞令を真に受けて、その言葉の言質をとるように頼りに来たのである。
あれである。いつでも遊びに来てねという言葉をかけられたので、毎日遊びに行きました的な。
さて、そんな理由でトート神が住まう万能神殿にて、彼に謁見し、色々と相談しているのだけど、頭上から何か異様な雰囲気を感じる。
私は小声でトート神に囁きかける。
「と、ところで、トート様トート様、アレ、知り合いですか?」
私はアレに気付かれないように話す。アレは部屋の天井の隅の方に忍者か何かのようにへばりついている。
正直目を合わせたくはないが、ちょっと魔法的に確認すると、ピンク髪の美人さんで、しかしものすごく怖い表情をしていた。
どのくらい怖い顔かというと、インターネットで検索して見てしまった時に、思わず声を上げて椅子から落ちるぐらいに怖い。ブラクラ系である。
「直接はあった事はないけれど、君の所の神様だろう、アレ」
「いやいやいや、あんな悍ましい邪神がギリシアにいるわけないじゃないですかっ。外なる神でしょあれ。暗黒のファラオとかの同類の」
「君が何を言ってるのか分からない」
『まあ、メディアの言う事ですのでスルーするのが妥当ですよ』
「ひどい言い様ですねヘカテー様」
ヘカテー様に文句を言いつつも、やはり気になって仕方がない。
先程から内容を知ったら発狂してしまいそうな呪詛じみた何かをブツブツとつぶやいていて、きっと悍ましい事を考えているに違いないのだ。
きっとその真意を知れば、ただの人間など一瞬で気がふれて、大量殺人者に早変わりするに違いない。
「まあ、とりあえず、僕としては材料さえ揃えてもらえば…」
『メディア、うしろうしろ』
「ちぇすとーっ!!」
「ひぃっ!?」
すると突然、部屋の天井の隅にへばりついていた女神(?)がこちらの方に向かって跳躍し、両刃斧を振り下ろしてきた。
来ると分かっていたので避けるのは容易かったけれど、振り下ろされた斧はそのまま空振りして、そして世界を切断した。
「ちょっ、ええっ!?」
「避けるなっ、この泥棒猫!!」
『相変わらずですねこの方は…』
斧の刃が床にめり込んだ瞬間、大地が割れた。地割れは一気に数キロを断裂させ、神殿と街を倒壊させていく。大地震だった。
「あ…、また修理しないと……」
『すみませんね、ウチのがいつも迷惑をおかけして』
「いやいや、ボケ老人を相手にするよりは気楽だよ」
「何のんきな事をっ、じゃなくて、なんなんですか貴女ぁぁぁっ!?」
「いいわ。名乗ってあげましょう。私はヘラ。真なる神々の女王ヘラよ!」
白い絹の衣を身に纏い、宝石をちりばめたティアラやネックレスなどのアクセサリーを全身に身に纏う美しい女性。
女神ヘラというからには、イメージ的にはもっと年上の、20代後半から30代前半の成熟した女性を想像していたが、その実態は女子高生ぐらいとすごく若く見える。
それは彼女が毎年、春にて若返りの儀式をとりおこなうためでもある。
彼女は毎年春になると、カナトスの聖なる泉にて身を清め、処女性を取戻し、アフロディーテに勝るとも劣らない美しさを取り戻すのだ。
そして、神々が1年でそうそう老けるわけでもないので、基本彼女は美しい女である。その救いようのない精神性にさえ目をつむれば。
「えっと、なんでこんな場所に? 貴女、基本的に天上から呪う系のヒトですよね?」
「何度呪っても効果のない貴女が悪いのよ! だから、私が直接手を下しに来て上げたの。分かった!?」
女神ヘラ。
結婚の女神であり、ティタノマキアでは匿われ、ギガントマキアでは服を破られて悲鳴を上げる視聴者サービスをするなど、武闘派とは程遠いイメージが基本である。
しかしながら、その実態はガチのグラップラー。
狩りの女神であるアルテミスをマウントポジションから、笑いながらぶん殴りまくって泣かせたエピソードがあったりする。
なお、性格のほどは超ヤンデレ。夫ゼウスが浮気した女の名前にちなんだ名の島、アイギナ島の住民を疫病によって絶滅させかけるほどに。
なんて傍迷惑。ヤンデレ超コワイ。
「死ぬ死ぬ死ぬっ!?」
「死ね死ね死ねぇぇっ!!」
というわけで、今、リアル鬼ごっこやってます。捕まれば斧でメタメタにされます。ヤンデレはデレられるこそ萌えるのであって、殺害対象になっても萌ません。
「でやぁ!!」
「うわぅおっ!?」
薙ぎ払われた斧を避けるため、横に跳んで地面を転がる。薙ぎ払われた面に沿って、エジプトの煉瓦の建物が水平に切断された。
極東にて2千5百年後ぐらいに登場するとされるミスターブシドーよりもすごい。たぶん、ショーグンよりも怖い。
「こういうエフェクトは斧でやるものじゃないですから!! ふつう、刀とかでやるエフェクトですから!! おい演出仕事しろ!!」
「ちょこまかちょこまかとぉぉぉっ!」
私は這うように立ち上がり、再び路地を疾走。振り下ろされる度に切断・地割れでクムヌの街の被害も増大していく。
ああ、人間がごみのようにふっ飛んでる。
細い路地に入ってなんとか追跡を躱そうとする。しかし、
「えええっ!?」
「見つけたぁぁっ!!」
「ぎゃぁぁぁぁ!?」
斧を口に咥えて蜘蛛のように壁を這いながら現れた女神ヘラ様に発見される。やだ、そういうの美人系のキャラがやっていいアクションじゃないし。
おい、振り付けとアクション担当っ、仕事しろ!
「怖い怖い怖い怖いっ」
「殺す殺す殺す殺すぅぅぅ!!」
もう嫌だ。だれか助けて。このヒト怖い。マジで泣きたい。おしっこちびりそう。
そうだ武器だ。反撃のための武器が必要だ。
「これでもない、これでもないっ!」
ポケット(四次元的な何か)からガラクタを漁る。くそっ、普段は欲しいもの一発で出てくるのに、テンパって変なものばかりっ。
趣味で作った冷蔵庫、猫、趣味で作った某ゲームで魔女メディアが持っていたオサレな銀の杖、猫、趣味で作った炬燵、猫。
「つか、なんで猫ばっかりっ!?」
『私が入れました』
「あんたかっ! なんでこんなことをした、言え!」
『いえ、その、雨の日の帰り道に、子猫が段ボール箱に入れられたまま捨てられていて…』
「あざといっ」
何その20世紀日本の漫画にありがちなシチュエーション。そんな場面に古代ギリシアで出くわすはずないだろうに。
そもそも、そういう《あざとさ》は普段悪ぶってるあの子が雨の日の帰り道にやるのがセオリーなのである。そっと、傘を子猫のために差しだすのがポイント。
「ああっ、もうっ、欲しいものが出ない!」
「止めよ死ねぃ!!」
「ひぃっ!?」
そんな風に非常時にヘカテー様とのコントを繰り広げる内に近くまで迫られていて、女神ヘラ様が非常に猟奇的な表情で私に斧を振り下ろさんと、
「ああ、もう、これでどうやっ!!」
私は最後の瞬間、掴み取った金属の棒っぽいものをポケットから取り出して、前に突き出す。
そして、斧の刃とソレの切っ先が接触し、
「「!?」」
光が弾けた。ギャリギャリとドリルで金属を削るような耳をつんざく音が鳴り響き、思わず私たちはまぶたを閉じて悲鳴を上げる。
「にゃうっ!?」
「きゃっ!?」
そして、
「(はぁ?)」
『わーお。●REC』
どうやら私は仰向けになって、その上にヘラ様が乗っかっている状態になっているらしい。そして、唇に柔らかいものが触れる感覚。
柔らかい? 瞼を開けると、
「「!?」」
いたずらなキス状態。なにそのテンプレ。同じく正気に戻ったと思われるヘラ様が飛び起きるように私から離れた。
女神ヘラ様、顔も耳の先端まで真っ赤。やだ、なにこの可愛いババア。頬を赤らめながら、私を睨みつけるように見下ろし、その胸には金の矢が刺さっていた。
《金の矢》が刺さっていた。
「あ…」
「な、何なのよっ、何なのよコレっ! 顔熱いっ」
《金の矢》はすぐさま光の粒子となって消えていく。何が起こっているのか理解できず、まるで乙女のように狼狽する女神ヘラ様。
やべ。これどう考えても死亡フラグにしか見えない。
「あああ、貴女のせいよっ! 死ねっ、私の心の平穏のために死ねっ!」
再び斧を振り上げる女神ヘラ。
彼女が怒るのも当然だ。女神ヘラは結婚を司り、何よりも貞節を重んじる女神だ。よって、彼女の浮気や不倫などの不貞への忌避感は非常に強い。
そんな彼女に《金の矢》である。
ちょっと前に、愛の神エロースから巻き上げ…戴いた《金の矢》である。
その効果は21世紀のギリシア神話を全く知らないような異国の子供にだって知られる《一目惚れ》だ。
単為生殖を基本とした大地母神ガイアに愛を与え、有性生殖をもたらしたのもこの《金の矢》であり、その効果はおおよそ最高神クラスにまで届くに相違ない。
そんなモノを、貞操を何よりも重んじる女神にぶっ刺したのだ。怒らないはずがない。
「わ、わざとじゃないんですっ!!」
「うるさいうるさいうるさい!!」
「ひぃぃぃっ!!」
『理性が完全に蒸発していますね。これはアカンかもしれませんね』
投げやりなコメントを寄越すヘカテー様の余所に、私は再び走り出す。
先ほどよりも狙いは粗くなっているが、力任せに振るわれる斧はより多くの破壊をまき散らす。死ぬ。これは死んでしまう。バーサークヘーラーとかマジ勘弁。
誰か助けてください。何でもしますから。ああっ、こんな時にヒーローが颯爽と出てきてくれたら!
私はそんな実現もしないだろうコトまで妄想してしまう。なんて末期症状。だが、それも仕方のない事なのだ。たとえ救いがなくとも、神に縋るのが人間のサガ。
しかし、その時、その祈りに応える声が。
『おっけー』
「こっ、この声は!?」
どこからともなく声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。あの時のように唐突に暗雲が立ち込めはじめ、私たちは天を見上げた。
そして雲の割れ目から再び彼がやってきた。
「………」
それは、無言の圧力。その強力な威圧の前に、というか、唐突に顕れた強大な存在感に、見境を無くした女神ヘラすらも一歩も動けなくなった。
「な、なんなのよ…?」
「さ、流石、私たちのヒーローメジェド様。可愛いヒロインのピンチに現れるなんて流石ぁ、尊敬しちゃいます!!」
逆さまにした真っ白な袋を被り、すね毛の生えた両足だけを突きだしたシンプルな御姿。涼やかな切れ目の長い瞳。
そして、その瞳から突然、電撃じみた見たことも聞いたことも無いエネルギービームが放たれ、
「え?」
私たちを襲った。
「「あばばばばっ!?」」
ちょっ、なんで私まで!? エレクトリックで刺激的な痛み。これは痺れる(物理的に)気絶する。
「喧嘩両成敗♪」
そう言い残すと、私たちが吹き飛んでいくのを見送りながら、メジェド様は天へと帰っていく。
風が吹いた。
ピラリと彼が身に纏う衣の裾が風にあおられた。ありがとうメジェド様、貴方のおかげでエジプトの平和は再び守られた。
「きゅう……」
エジプトの神はエジプトの民のためにあるのだ。決してどこかのど田舎のコルホーズとかで生まれたようなキャベツ女を守るためではない。
正義とは、どちらかを救い、どちらかを切り捨てるという厳然とした天秤なのである。
ナイルの悠久の流れは今日も変わらない。
おや、その流れにぷかぷかと二人の女が流されていくのが見えますね。まあ、そんなのはいつもの事なので、気にするエジプト人は誰もいないのですが。
神、空に知ろしめす。なべて世は事もなし。めでたしめでたし。
◆
「めでたしじゃねぇですよ!!」
「まあまあ」『まあまあ』
危うく水死体になりかけたが、そこは水神の血筋なのでなんとか免れ、同じく水死体になりかけたピンク髪バーサークヘーラーを引きずって万能神殿に戻ってきた。
トキ頭のトート神とヘカテー様は苦笑い。いや、トート神鳥なんで表情もくそもないけど雰囲気的な意味で。
まあ、その前にヘラを拘束しておく。また襲い掛かられてはたまらないのである。
しばらくすると、女神ヘラ様が目を覚ます。彼女はキョロキョロとあたりを見回して、私を確認するやいなや、
「がるるる!!!」
「獣か」
「早くこの縄を解きなさいよ!」
「解いても、私に襲い掛かりません?」
「か、顔近っ」
顔を近づけて質問。すると、顔を赤らめて顔をそらす女神ヘラ様。なにこれ楽しい。ツンデレの素晴らしさとか三次元では理解できないと思ってたのに。
そして、少し落ち着いたのか頬を赤らめながら睨みつけてくる。美人が睨みつけてくると迫力あるよね。
頬が赤いので台無しですが。
「どうなんです?」
「お、襲いかかるに決まってるでしょっ!」
「なら、解けませんね」
「わ、私にこんな事してタダですむと思ってるの!?」
「それがモノを頼む態度ですかねぇ。これはお仕置きが必要でしょうか」
睨むヘラ様だけど、なんだか可愛くなってきたので、ちょっと弄ってみよう。いや、もう後戻りできないので、行くところまで行かないと。
嗜虐的なニヤニヤ表情を作って、女神ヘラ様を舐めるように上から下へと観察する。
すると、拘束から逃れようと身を捩り始めると共に、頬を上気させてチラチラとこちらに視線を送ってくる。
クッコロ状態ですね分かります。
すると、ヘカテー様が口を挟んできた。なんだか楽しんでる感じの声の調子で、多分、愉悦状態なのだろう。おお愉悦愉悦。
『ヘパイストス様の時の事を思い出しますねぇ』
「ちょっとヘカテー! 命令よっ、さっさとこの綱を解きなさい!」
『すみませんヘラ様、私、今、実体がコルキスにありまして。ああっ、お鍋が吹きこぼれてっ、すみませんね、ああっ困ったなぁ』
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! あとでひどいんだからね!!」
絶対楽しんでますよねヘカテー様。そうしてヘカテー様は一通り当たり障りのない範囲でヘラ様を弄り倒すとその気配を断った。
まあ、普段からオリュンポスの神々のワガママでストレス溜めてるだろうから、ここぞとばかりに恨みを晴らしているのだろう。
きっと表情はゲス顔である。
「うん、それはそうと、彼女が持っていた斧だけど、アダマント製だね。うん、君の頼んでいたもの、これを材料にしようか」
さて、トート神はわりとマイペースだ。性格はSじゃないらしい。ヘカテー様の所業にも苦笑してばかり。まあ、トリの頭なので表情分かりにくいけど。
しかし、アダマントか。棚ボタというやつだろうか。
アダマントは希少価値が高い金属で、まあ化学的には鋼鉄なんだけれども、魔法的な意味でギリシア最硬の素材となっている。
これで作られた武具は大抵が神造兵装であり、ギリシアではヘパイストスの作が代表的だ。代表作は不死殺しの剣ハルペーである。
ゼウスの父クロノスが有した大鎌も、プロメテウスを拘束した鎖もアダマント製なので、その性能は折り紙付きだ。
「ちょ、ちょっと、なに人のもの勝手にっ!」
「でも、これ、君の持ち物じゃないでしょ?」
「え、あ、う、ど、どうだったかしら…?」
トート神の鋭い指摘に女神ヘラは視線をそらして目を泳がせる。さ、さすがは賢者トート神やでぇ。そんなこと全く気が付きませんでしたわ。
「しかし、君もすごいものを持ち出して来たね。これ、君の夫の頭をかち割った斧でしょ?」
「え、嘘、し、知らないわそんなのっ。ぶ、武器庫にあったのを適当に選んだからっ」
うはっ、これ、女神アテナが生まれた時の斧かよ。国宝級じゃねぇですか。
女神メティスから生まれる子を恐れたゼウスが、彼女を飲み込むことで一度は征服した地母神信仰。
しかし、結局、この両刃斧によって自らの頭をかち割り、女神アテネを誕生させざるを得なかったこのエピソードこそが女神信仰根絶の失敗の象徴である。
父なる神の系譜はこの後も何度も女神信仰根絶に精を出すのだが、結局のところ21世紀にいたるまでそれが完遂されることはなかった。
ちなみに、21世紀において両刃斧はフェミニズムとレズビアンの象徴になっていたりする。
なるほど、その概念を含めればさらにおもしろいものが…。
「どうせなら、この前のヤハウェ神への借りの分も注ぎ込んじゃいましょう」
「なんだ、ギリシアのヘカテー、エジプトの僕、ヘブライのヤハウェの権能まで入れるのかい? ものすごくカオスだけど、面白そうだ。腕が鳴るね」
トート神がやる気になってくれて何よりです。
知恵や技術、音楽や魔術、暦や文字などを司る実に多彩な権能を持つ彼は、オシリスやホルス、セトといった強力な神々と互角の力を持つ非常に重要な神様だ。
ぶっちゃけ、ものすごく忙しいヒトなんだけど、私のために時間を割いてくれて本当にありがたい。イケメンである。
「あ、貴方たち、いったい何をするつもりなの!?」
「…これ、どうします」
それはそうと、これをどうすべきか。徹底して弄り倒したので、野放しにはできない。そうだ。契約書で縛ってしまおう。そうすれば懸念事項も無くなるはず。
「じゃあ、僕がヒエログリフで契約書を作成してあげよう」
「何から何までありがとうございます」
「え、結婚届!? ダメよっ、私には夫がっ」
「誰もそんなコトは言ってねぇですよ。契約書です。け・い・や・く・しょ」
かつてユーフラテス川のほとりにて、神と人との間で交わされた契約にルーツを遡る由緒正しき契約魔術式。
交わされた約束は、全知全能を以てしても覆すことはできない。
「僕としても彼女にこれ以上、エジプトで暴れてほしくないからね」
「ご迷惑おかけします」
くわえて、文字の開発者、すなわちヒエログリフを人類に与えた神としてもトート神は知られている。
つまり、彼がその手で記したヒエログリフに込められた力は、ほかのどの神が記した神聖文字をも上回るチカラを発揮するはずだ。
というわけで、僕と契約して魔法少女になってよ。
「ちょ、貴方たち、止めなさいっ! 止めなさいったらぁぁぁぁ!!」
パピルスにヘラの血判がなされた時、正義は実現したのでした。(長いものには巻かれる的な意味で。)
◇
「お、覚えてなさいよ! 後で絶対にぎったんぎったんにしてやるんだから!!」
「できるんですか?」
「くっ、ぐぬぬっ。覚えてなさいよぉぉぉ!!」
契約は交わされた。
私と私の故郷、家族に危害を加えることが出来なくなった女神ヘラ様がツンデレ的に頬を赤く染めながら捨て台詞を叫び、そのまま北へと姿を消した。
うん、しかしあの人、エゲツない事さえしなければ実は可愛いヒトなのかもしれない。
そして、私はトート神に振り返り、深くお辞儀をした。
「それでは、お世話になりました。このご恩は後に必ず」
「いいよいいよ。僕も楽しかったしね。じゃあ、武運を」
「はい」
そして私は切り札の一つを手にコルキスへと戻る。さて、まだまだ準備は足りないが、これである程度の算段はたった。
次はそう、あの男を説得しに行かねばなるまい。あのギリシア最大の英雄ヘラクレスを。
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改訂しました。《金の矢》は決戦の最中で使おうと思ってましたが、プロット変更です。