「そう……そう。本当に……?」
「ええ。あの子はもう大丈夫よ――真の意味で」
「これで……やっと。本当に言える――よかった……!!」
「……ええ。夏葉――あなたは、いいの?」
「言ったじゃない。私にはあの子の親を名乗る資格なんてないのよ。それに、碧。あなたの方こそ――」
「だめよ。私の方こそ、あの子にこれ以上関わってはいけない」
「……ふふ。私たち、報われないのね」
「いいえ。充分報われたじゃない」
「――ああ……本当。確かに、そうね。こんなに満ち足りた気分は初めてかもしれないわ」
「これが一番幸せじゃない。私も、あなたも、そして彼らも」
「もうひとり、忘れていない?」
「――いいえ。でも……決心がつかなくて」
「行ったほうがいいわ。久しぶりの再会じゃない。――あ、でもあなたはあまり容姿が変わっていないわね……怪しまれるのかな」
「……どう思われてもいいわ。私は――彼女から奪ったんだもの。たとえ、責められたとしてもそれも仕方のないことよ」
「いいえ……あの子から奪ったのは、私――私たちなのよ、碧。あなたは何も悪くない」
「それでも。それでも私は――」
・・・・・・・・・・・・・・・
「成也っ」
「うっ……みぞおち……。って、なんかお前大きくなってないか?」
「ん……?何が?」
「いや……身長とか、あと……うん」
「……?」
学校の帰り。河原へ直行すると、今や見慣れてしまった――前は珍しいと思っていた、銀色の髪が低い姿勢でタックルを繰り出してくる。
そう、そして彼女は心なしか背が伸びたように見えるのだ、僅か一日の間で。目算十センチといったところだろうか、一日で伸びたにしては明らかに不自然な急成長だった。
そして別の部分も急激に発達していた。しかし面と向かって言おうとすると、恥ずかしさが勝ってしまう。ところがちらちらと無意識にそこへ向かう視線が彼女に何かを悟らせたようだった。
「成也……っ!?な、何ジロジロ見てるのっ、変態!」
「な……誰が。み、見てねえよ」
「嘘つき成也っ、絶対見てた!いやらしい目つきしてたっ」
「うっ……」
顔面を紅潮させながら俺を非難する彼女に、思わず開き直る。
「好きな子の胸見ちゃいけないのかよ」
「…………!!?」
世界は更にもう一段階顔を赤くした。さっきまでの赤さをリンゴのようだと表現するのなら、今の赤さはまさに燃えるような夕焼けのそれだった。
しかし俺には自覚があった。自分も彼女に負けず劣らず顔中火照らせている、と。
それでも俺は、恥ずかしい気持ちすらもっと欲しかった。
世界と積み上げ直している時間を彩るための絵の具、その種類は多ければ多いほどいい。
「……大きいほうが好き?」
「世界の胸なら、それでいい」
「……ありきたりな台詞。変態」
「そんな変態を好きだって言ってるお前はなんなんだ」
「わ、私みたいな物好きは珍しいんだからね」
愛おしくてたまらないその顔が、恥ずかしげにそっぽを向く。
一瞬、その頬に吸い付いてやろうかとも思うが、あの時の俺のように何も考えずにそれを実行する度胸はなぜだかなかった。
あの時――そう、あの時を思い出すたびに胸を抉られるような痛みが奔る。
早夏――俺が世界を手に入れるために、最も傷つけてしまった少女。
俺はこの痛みを忘れてはいけないんだと、思い込もうとした。
それでも、心のどこかで感じていた。
赦されたい。
そうでなければ、世界と幸せになれないのだ、俺は――。
・・・・・・・・・・・・・・・
帰り道、唐突に何かを感じ取り振り向く。
不意に胸中をよぎった懐かしさ――懐かしい、匂いなのだろうか。
色褪せた記憶が蘇る。その中の一部分が鮮やかに、その色を取り戻してゆく。
どん底から掬い上げられた私が、最も幸せを感じられた場所。時間。
その中にいた少女――碧。
彼女があの時とほとんど変わらない姿で、立っていた。
「碧……?碧なの……?」
「茜……!?まさか、覚えていてくれたの……?」
驚いた表情。それは、以前の碧なら決して見せることのなかった感情のこもった顔だった。
それに驚愕し、同時に胸の奥からふつふつと湧いてくる喜び。
ああ――彼女と、こんなにも普通に会話を交わせる日が来るとは。
何より特別だと思っていたあの場所にいたというただそれだけで、碧の存在そのものも茜にとって特別なのだ。幾度の後悔を重ねただろう。あの時、もっと根気よく彼女に接していればあるいは。
「当たり前……だよ。忘れるわけないじゃん、あんな偏屈な子供」
「……それもそうだけど。もっと言い方とかあるじゃない――そうね、例えば不思議な雰囲気の美少女、だとか」
「自分で美少女とかいうかぁ」
「ふふ、それもそうよね」
本当に変わった。まるで別人であると疑ってしまうほどに、彼女は普通過ぎた。
加えて、内面とは対照的に外見はほとんど変化がないのも気になるのだ。あれから既に十年の月日が流れていた。それなのに見た目が変わらないというのはおかしな話ではないか。
「でも……どうして。あんまり変わってないように見えるよ」
「……そうね」
「本当に……碧なの?」
「……別人とも言えるかもしれないわね」
でもこれだけははっきりしているわ、と。碧はそう呟いて、茜をまっすぐに見据えた。
「私は此花碧――あなたがあの場所で出会った此花碧の成れの果てだということ」
「成れの果て……って、どういうことなの……?」
「……本当に聞きたい?」
「聞きたいよ」
即答する。
その刹那、茜を見つめる碧の瞳の奥底に暗い光が宿ったように見えた。しかしその光は一瞬の後には消え去り、碧は茜をじっと見たままで語りだした。
「……未練を残した魂はこの世を彷徨い続ける――そんな話を聞いたことはあるかしら」
「幽霊……ってやつかな?聞いたことはあるけど……」
「それに近いわ。あなた、オカルトは信じない質?」
「えと……面白ければそれでいい、って思ってるから信じるとかは特に……」
「まあ、どちらでもいいけど。そうね……言ってしまえば、私がそうなのよ」
「どういう、意味なの……」
「私は死んだわ」
有無を言わさぬ口調で、碧が告げる。
死んだ――その言葉が意味することは分かっている。しかし、人の死というものに直面したことのない茜にはいまいち実感が湧かないのも事実だ。
碧は死んだ。それなのに、ここにいる。私と会話をしている。その現実は、茜の中にある「死」というものの定義に反していた。
「でも……ならどうして碧はここに」
「さっき例に挙げたとおりよ。――未練を残したままでは、魂は在るべき場所へと還ることができない」
つまり、と碧は言葉を繋いだ。
「私は彷徨い人……過去と現実の狭間に縛られた歪な存在」
・・・・・・・・・・・・・・・
だけどね、そう言って碧はいつの間にか暗くなっていた天を仰いだ。
しかしそれは日没によるものではなく、時折碧の頬に小さな雫が当たって跳ねる。
空の機嫌を伺う限りでは、天候が荒れるのも時間の問題と見えた。
「私がここに残してきた未練――それさえ解消できれば私は……」
「でも私は……ねえ碧、私はどうすればいいの……?その言葉を、どう受け止めれば――」
「あなたは事実だけを知っていてくれればいい。私がどうしてここに在るのか、その理由だけを」
「…………」
碧が言っているのはかなりの我が儘だった。自分から一方的に伝えておいて、それに関することは一切訊くなと拒んでいる。
それでも茜は碧の言うことを聞き入れるしかなかった。そうでなければ碧は自分の前を去ってしまい、もう二度と現れないような気がしたのだ。
茜はそれが怖かった。たとえ彷徨い人、というよく解らない存在に碧がなってしまっていたとしても、茜にとってはそんなことはどうでもよかった。ただ、碧と普通に話ができる。そのことはあの特別な時間をより良い形で蘇らせてくれる――それが何より大切だったのだ。
頭に何かが触れるのを感じた。
見上げると、空は今にもこぼれ落ちそうな涙を必死に堪えているようで。
しかし耐え切れず流れた大粒の涙が向かい合う二人の少女の身体を激しく打った。
「私はね、茜。ひとつだけ、あなたに訊きたいことがあって来たの」
「……うん」
「あのね、茜――」
雨はなお轟音を立てて降り注いでいた。
しかし碧の声は凛と澄み、決してかき消されることなく茜の耳へと届く。
「あなたは今、幸せ?」
茜は一瞬だけ逡巡した。
しかし彼女は答えた。即答するだけの理由が、彼女にはあった。
「うん……幸せだよ。とっても、幸せ」
「……そう」
それを聞いた碧は、儚げな微笑を浮かべた。今にも泣きそうな――しかし、降りしきる雨は碧がたとえ涙を流したとてそれをすぐに隠してしまうだろう。だから茜は、碧の涙を、初めての涙を見ることは叶わなかった。
そして碧は踵を返すと、言った。
「……茜。これからもずっと――ずっと、幸せにね」
歩き去る碧を、茜は見送ることしかできずにいた。
雨はまもなく止みそうに見えた。
・・・・・・・・・・・・・・・
突然降り出した雨は、成也を屋根付きのバス停へ追いやった。
世界に別れを告げ、家へ向かう途中に降られてしまったのだ。慌ててたまたま近くにあった屋根の下へと逃げ込むと、後から雨宿りに来る人影が現れた。
「……早夏?」
「あ……先輩」
気まずい空気が流れる。ひとつ屋根の下にいるはずが、何か大きな障害物を隔てているかのようだった。知り合いと偶然出会ったというのにまともな会話のひとつも交わさない。
胃の底にずしりとくるような重い沈黙が漂う。成也は今までに感じたことのない居心地の悪さに、今にも理由もわからず謝ってしまいそうだった。
やり場のない申し訳なさに屈服しかけていると、不意に声が聞こえた。
「あの……」
「えっ!?な、なんだい」
「……なんでそんなに動揺してるんですか?」
「いやぁ……別に」
「…………」
「…………」
再び静けさが満ちる。
しかしそれが続くのは今度は短かった。
「先ぱ――」
「きゃああ……濡れちゃった……」
また誰かがバス停へ飛び込んできた。声から察するに、女性だろう。しかし、成也はその声にどこか聞き覚えがあるような気がして仕方がなかった。
だが濡れた髪を手櫛で頑張って整えようとするその女性の顔には、見覚えがなかった。
するとその女性はこちらに挨拶をしてきた。
「あ、おじゃまします」
「え……っと、おじゃまされます?」
不思議な会話だった。そして、その女性自身も不思議な雰囲気を醸し出していた。
そしてその不思議な女性は一瞬にしてこちらのプライベートな領域に足を踏み入れてきた。
「失礼かもしれませんけど……もしかして、ケンカ中だったり……しません?」
「えっ……どうして」
「ごごごめんなさいっ、悪気はなかったんですけどなんかつい訊いちゃいまして……。その、ちょっとおふたりの間に悪い空気が流れてる気がしたもので」
すぐ耳元で、雨の雫が舗装された道路を叩いている音が聞こえる。
しばらくして、早夏が口を開いた。
「別に……喧嘩なんてしていませんよ」
「でも、私にはこう見えるなぁ……」
成也はその時はっきりと見た。
その女性が口の端を歪めて笑うところを。
「自分の身勝手な理由でふった女の子とたまたま会っちゃって気まずい空気が流れている……ねえ、違うかな?」
「…………あんたなんなんだよ」
完全に図星を指され、つい声を荒げる。
成也は内心で不信感を抱いていた。この女性はなぜこんな台詞を吐くのか、ということにもだが、なにより知りえないはずのことが彼女の口から飛び出たことが決定的だった。
どうしてこいつはそのことを知っているのだ――。
考えるより先に、柔らかな口調の――しかしそれでいて悪意が籠っているように思えて仕方がない声が飛んできた。
「さて、誰でしょうか?答えはあなたの胸に訊いてみてね……ふふ」
「ふざけてるのか……」
「先輩……やめましょう」
早夏が被せるように言う。揉め事は嫌いなのだろう。だが、成也の疑惑と苛立ちは抑えきれそうになかった。あと一度でも彼女が彼の琴線に触れれば決壊してしまうだろう。
そしてそれを知ってか、女性は更に続けて言葉を投げかけてくる。
「あなたの知ってる人だよ……志島、成也君?」
「お前……っ!?」
「先輩っ」
咎めるような早夏の声、しかし成也はもう止まれなかった。
噛み付くように声を張る。
「なんで……俺の名前を知ってるんだよっ」
「そんなの当たり前じゃない……って、違う。成也君に言いたいのはそんなことじゃなくて」
慌てたような表情になって両手を振る。
何を言い出すのか、と成也が警戒していると思いも寄らぬ言葉が聞こえて、成也は耳を疑った。
「私は二人の仲裁をするために来たんだった……いけないいけない」
・・・・・・・・・・・・・・・
「……なんの冗談だよ」
「あ……やっぱり。ごめんなさい、成也君があんまり可愛くなってるからついいじめたくなっちゃって」
そして頭を下げるのだ。女性の豹変っぷりに、二人はただ唖然とするしかなかった。
すると彼女は早夏に向かってこう言った。
「成也君は悪くないの。責めるなら、私や里依――彼のお母さんを責めて」
「どうして……どうしてそんなことを」
「仕方がないことなの。成也君はただ、忘れてたことを思い出しただけ……その結果として、あなたを傷つけることになってしまったの」
唇をきゅっと噛み締めて言う早夏に、諭すように声をかける。
そして彼女は語りだした。
「私はとある場所で秘密の研究をしてたの。その研究所には、たくさんの子供がいたわ。でも……でもね。皆いなくなっていくの。最後に残ったのは四人だけだった」
「…………!」
「……察してね?理由は言いたくないの……自分のしてきたことはわかってるつもりよ。でも――それでも、私は」
「……大丈夫だから、続けてくれ」
「……ありがとう」
苦しげな表情を見るのが耐え切れなかった。彼女の言葉から、筆舌に尽くしがたいほどの苦悶がひしひしと伝わってくるようで。
そして何より、一刻も早く知りたかったのだ。この話の核心を。
「そして――残った四人の子供のうち、……信じられないでしょうね。そのうちの二人は、人間ではなかったの」
「なっ……!?」
「知らなかったよね、成也君。里依はどうしても知らせたくなかったみたいだから……。でもね、成也君。あの子と共に生きる覚悟があるなら、知っておかなくてはならないことなのよ、これは」
「…………!!」
何も言えなかった。ショックも当然あるだろう。そして恐怖だ。これから一体何を知らされるのか。知らず知らず足は震え、普通なら痛いほどに手を握りしめていた。
滝のような雨は、まだ止みそうにない。
・・・・・・・・・・・・・・・
彼女が何を言っているのか、早夏には理解ができなかった。しかし成也の反応からすると、それらの事柄は二人にとって既知であるようだった。それが早夏に疎外感を与えていた。
早夏にはその話はわからなかったが、その話が成也にとって重要性の高いものだということだけはわかった。はじめは小説か何かの話かと思った。しかし話が進むにつれ、空気は張り詰めていく一方だ。もしかするとこれは実話かもしれない。そして、成也の過去に深い関わりがある話かもしれない――。そんな暗い予感が早夏の胸中をよぎる。しかし早夏は否定したかった。自分の先輩――自分の初恋の相手が、どこか遠い世界へ行ってしまうのがたまらなく嫌だった。
小さなバス停は沈黙していた。一時間に一本しかないそのバスは、まだまだ来る気配はなかった。
話を一旦止めた女性は、成也の返事を待っているようだった。
目を逸らし、苦しげな表情で考え込んでいる成也に思わず声をかけそうになったとき、彼の顔が変わった。瞳は逸らさず、真剣な表情で口を開く。
「……教えてくれ。俺は逃げてはいけない――世界のために」
「……っ」
一瞬だけ、女性が顔を背ける。
しかし直後には成也を正面から見据え、伝えた。
「……ええ、教えるわ。あのね――」
空が輝いた。そして、轟音が暗い空を貫いて成也の顔を照らす。同時に女性の声は遮られ、早夏の耳には届かなかった。
しかし光に照らされた成也は――目を見開き、驚愕を露わにしていた。
半ば呆然としながら、辛うじて出た言葉は、
「…………嘘、だろ」
・・・・・・・・・・・・・・・
「……残念ながら」
そのあとに省略された言葉。真実だ――。
足元が覚束ない。
そのあとの言葉は夢見心地で聞いていた。
「……だからね、えっと」
「海月です。海月、早夏……」
「早夏ちゃん、ね。あのね、早夏ちゃん。成也君は特殊な体質で――簡単に言っちゃうと、普通の人よりも圧倒的に女の子を惹きつけやすいの。そして、私は……私たちは、彼の体にある仕掛けを施していた」
「仕掛け……って」
「……女の子を、衝動的に好きになってしまう仕掛け――」
「嘘っ!!」
早夏が叫んだ。
「そんなの……そんなの、信じないっ!!嘘、嘘っ!!」
「でもね、早夏ちゃん……これは」
「イヤ……いやぁっ!!聞かない、聞かせないでっ!!これ以上、私を……追い詰めないで」
「早夏ちゃん……」
「私は……先輩に好きになってもらえたんです。ほんの少しの間でも……先輩は、私のことだけを見ていてくれたの……っ!だから……だから!!」
そんなの絶対、信じない。
早夏の叫びと、俺の内での呟きが、重なった。
・・・・・・・・・・・・・・・
雨が止み、早夏は静かに立ち去った。
静寂に包まれたバス停に、二人だけが残っていた。
ベンチの端と端に腰掛け、言葉も目も交わさずに、ただそこにいる。
その清閑な空気を、女性の声が破った。
「……ねえ」
「……なんですか」
「私……どうしたらいいのかな」
「……知りませんよ」
再びバス停は静まり返る。
空には綺麗な虹が掛かっていたが、成也の目にはそれは色褪せて映った。
・・・・・・・・・・・・・・・