――――prologue
いつもとなんら代わり映えのしない朝。空からタイムマシンが降ってきたり、可愛い妹が起こしにきてくれたり、学校が爆発したり、そういったことは一切ない。
しかし一つだけおかしいことがある。思わず、誰もいない空間に向けて呟いた。
「今は何月だよ……?」
その年は季節が三つしかないようだった。
駆け足というにはあまりに早く春は過ぎ去り、照りつける日差しは今がもう夏であることを俺に嫌というほど思い知らせてくれる。
今はまだ五月の末だというのに、気温は上がり続け、記録的な猛暑となっている。
世紀末だな、などとくだらないことを考えながらいつものように朝食を摂り、学校に行く支度をする。
志島成也には両親がいる。しかし彼らは成也が中学に上がる時に「世界一周旅行に行ってくる!」といって出ていったきり戻ってきていない。音信不通というわけではないが、連絡は月一程度に来る手紙のみだ。つまり成也は現在一人暮らしということになる。
彼らが旅行に行ったあと最初に届いた手紙には、「これで遠慮なく彼女を連れ込めるな、よかったじゃないか!」「女の子を家に上げるのは構わないけど、無理矢理は絶対にダメだからね」などと書いてあった。中学生になんてことを言う親だ、と思いながら過ごし、現在では「まだ彼女の一人や二人も出来ないのか、奥手な奴め」「もっと積極的にいかないと女の子は振り向いてくれないのよ」といった内容になっている。そんなことしか伝えることはないのか、あんたたちは。
兎にも角にも俺は学校へ出立せねばならない。
見送る人間もいない玄関を、いつもと同じように出て行った。
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学校――水島桜の丘学院、俺たちが現在通っている学校に汗だくになりながら辿り着くと、なにやら教室がざわついている。
「何事だ?」
「お、遅いな成也。ナンパでもしてたか?」
「こんなに暑くてしかも朝っぱらから出来るか馬鹿」
「それもそうだな」
朝っぱらからこんなしょうもない冗談を投げ付けてくるこいつは神楽 優人――俺の小学三年の頃からの友人だ。
「で、なんの騒ぎだこれは」
「ああ、そういえばそんな話だったな。どうやら転校生みたいだぞ」
「転校生……?変な時期だな」
すると優人はおもむろに顔を寄せてきて小さな声で、
「帰国子女らしいぞ。それもかなりの美少女」
「へえ……」
少し興味が湧いた。正直、野郎が来ても誰の得になるんだ?と思っていたところだ。
「はいはいHRが始まるから席につかないと懲罰ですよー」
と、怖い言葉を吐きながら教室に入ってきたのは我らが担任教師、花島 麗奈先生だ。柔らかい物腰と口調とは裏腹にキツい言葉を吐いたり生徒に何かと絡んだりとだいぶフランクな先生である。一部の生徒からは絶大な支持を誇っているが、今はそんなことよりも大事なことがある。
「はい、みんな知ってるかもしれないけど、今日は新しい隊員……じゃなくてクラスメイトを紹介します。八津ヶ浦さん、どうぞー」
麗奈先生は何やら怪しげな単語を口走ろうとしたが全員が全員、暗黙の了解として聞かなかったふりをした。以前、似たようなことを先生が言った時にそこに突っ込んだお調子者の生徒がいたという。しかしそれは――その生徒が存在したという事実すら、もう過去の話だ。世界には触れてはならないものがあるのだ。
それはそうと、転校生だ。40対、計80の目が扉が開くのを今か今かと待ちわびている。
と、教室の扉を開け放ち颯爽と歩みを進める女生徒の姿が目に入った。流れる綺麗な金髪が生徒たちの視線を切って進み、教壇に立つ。整った字で黒板に名前を書き、
「八津ヶ浦茜です。今日からクラスメイトになる皆さん、どうぞ、ふつつか者ですが……末永くよろしくお願いします」
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時は早々と流れ行き、転校生がクラスにやってきてから一週間が過ぎた。彼女は既にクラスに馴染んでいる。
とは言うものの、俺自身はほとんど彼女と会話を交わしていない。席が遠い方なので、当然といえば当然の話ではある。
そして今は昼休み。クラスは雑然、騒然、話し声が飛び交う混沌のるつぼと化している。
しかし俺はそんな騒がしさが苦手だった。どちらかというと一人の方が気楽さを感じられる。
その騒々しさから逃げるように扉を開け、外に出る。
俺は一人暮らしの身の上。弁当を作ってくれる優しい母親などはなから存在しない。そして自分で弁当を作るなどということは考えたことすらない。
毎日、学食のおばちゃんにお世話になっているのだ。
そして今日も食堂へ向かおうとすると背後から声がかかる。
「おーい、成也ー。俺の分の塩ラーメン頼むー」
……優人。自分で買え。
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昼休みは、長そうでいて実はとても短い。食堂で並ぶ時間、そして昼飯を食す時間を差し引くとそのほとんどを消費してしまうのだ。特に出遅れた時は酷い。順番待ちの列に並ぶだけで休み時間の半分が終わってしまった、などというのはざらにあることだ。
そのため、小走りで廊下を目的地へ向かっていると、
「先輩。廊下は走っちゃいけないんですよ?」
声がかかる。
長い、茶色の髪を腰の上辺りまで伸ばしたこの女の子は、
「ああ、海月か。おはよう」
「おはようございます、成也先輩。――ところで、そんなに急いでどちらへ?」
海月。海月早夏、それが彼女の名前だ。一つ下の後輩で、よく懐いてくれている。度々廊下で会ったりすると必ず挨拶をしてくれる可愛いやつだ。
「食堂にな。急がないとかなり並ぶ羽目になっちまう」
「あ、ならご一緒してもいいですか?私もおなか、ぺこぺこなんです」
安易な気持ちで快諾して、のちに後悔する。
二人で食堂?
後輩の女の子と?
噂が立つこと間違いなしのシチュエーション。
話題の中心に立つことは極力避けたいと常日頃から思っている俺としては、それは嬉しくない事態だった。
……正直、噂それ事態は満更でもないわけではあるが。
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「俺が並んでくるよ。何が食いたいんだ?」
「じゃあ、……んと、オススメランチで、お願いします」
「売り切れてたら?」
「あ……ですよね、人気メニューですもんね。そうしたらあっさりランチでお願いします」
「了解。席取りよろしくな」
「はいっ、任せてください」
いかにも普段通りのように振舞って見せてはいるが、内心の焦りと動揺はひどいものだった。
知り合いに見られたらどうしよう、知り合いに見られたらどうしよう、知り合いに見られたらどうしよう、と流れ星に願う勢いで反復している自分に気がついて怖くなった。
いや、弱気は駄目だ。もし恐れている事態が起こってしまったとしても、ただ自分は事実を述べるだけでいいのだ。
彼女とは特別な関係はありません。ただの後輩です。
まるで有名人が写真を撮られたときの言い訳のようだが、これで十分だろう。
問題が自己解決し、満ち足りた気分で前を向くと、
「……成也くん?」
今、最も見たくない顔がそこにあった。
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遭遇した、その女子生徒の名前は毬谷 茉里亜。韻を踏んでいるような名前だが、本人の前ではタブーとなっている。それより今は、
「あっれ成也くん、そこの可愛い女の子……。おやおやー?なかなかやるじゃない、成也くんのくせにー」
これである。どうやらこいつは俺を見かけると何かしらつっかからないと気が済まないらしく、いつも対応に困るのだ。
そして今――昼食を買い終えて海月のもとへと運んだのだが、こいつは何を察知したのか、後からついてきたのだ――は誰の目から見ても絶好のツッコミ・チャンス!……この機会をこいつが逃さないはずがなかった。
「いや、ただの後輩で」
と誤魔化してみる。いや、誤魔化しではなく、全くの真実ではあるのだが。
「ならなんで二人っきりなのー?あーやだやだ、ただの後輩だって。どう思うよ、後輩ちゃん?」
すると海月は何やら意味ありげな笑みをその可愛い顔に貼り付けて、
「……先輩?『ただの』後輩、そう言いましたよね?」
なにやら怪しげな雰囲気がただよい始める。
女は地雷原。
これは、父から授かった格言だ。父も、母をゲットするときにかなり手こずったらしい。
彼曰く、「マスターボール使っちゃおうかと思ったくらいだよ」ということらしい。あんたいくつだ。
「……先輩?」
海月の声で我に返り、現実を思い出す。
こういうときに打つ一手も、父から授かっている。それは、
「おっと用事を思い出し」
「「逃げるの?」」
しかしまわりこまれてしまった!
そんなテロップが頭の中に流れ込んできた。
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そして昼休みが終わる。
なんだか疲れた。体が重い。
「成也…ご愁傷様」
「なんでお前が知ってんだよ」
「風が囁いてた」
この学院では隠し事、という概念は存在しない。と言われるほど噂という奴の伝達が早い。新聞部の暗躍だ、という説が最も有力だが、他にも水島桜の丘の妖精の仕業だとか実は学院に入った瞬間に某「ヤックデカルチャー!」で有名なアレに出てくる地球外生命のような思考的ネットワークが形成される、とか変なことを言っている奴も少なからずいる。主に『暇人』と呼ばれる部類の生徒がそれに該当するわけだが。
するとおもむろに優人が口を開いた。
「時に成也よ」
「なんだね親友」
「塩ラーメンは?」
自分で買え。
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帰り道。いつものように佐倉川沿いを寂しく一人で歩く。川面は綺麗な橙色に染まっていたが、疲れ果てた成也にはそれを眺める余裕などなかった。
「まだ……家は遠いな……」
ひとりごちる。
学校から家までは徒歩で15分ほどである。が、今はその時間が三十分にも一時間にも感じられるようだ。
そこでふと何かに気付く。
それが何かはわからない。
しかし、自分の中の、これまた何かが反応しているような。
とても不思議な感覚に包まれていって。
「……♪♪」
これは……歌?どこから聞こえてくるのか。誰が歌っているのか。
知っている。
しかし、知らない。
そして、その思考はあまりの不自然さゆえに意識からシャットアウトされ、記憶の闇に葬られる。
成也は既に、深い思考をやめていた。
「不思議な歌だな……」
その旋律はまるでこの世のものではないようで。この世のものではないものなど見たことも聞いたこともなかったがとにかくそう思えた。
視線を走らせ、音源を捜すと、河原に佇む影を捉えた。
近づいていく。ぼんやりとしていた輪郭は徐々にはっきりとしたものになり、その存在を認識できるようになる。
それは、風にその白銀の長髪をなびかせ――
「……ぁ……」
声が、出なかった。その少女の容姿もまた、この世のものではないようだった。とにかくそう思えた。
しかし、これも知っていたのだ。彼女の名前も。声も、その温もりも。
しかし知らない。彼女の名前も、彼女が何者なのかも。
全てを忘れて、忘れたことすらも忘れて、
「……それは、なんの歌なの?」
声をかけると少女は驚いたようにばっと振り向き。
バランスを崩して転がった。
「…………」
「…………」
慌てて起き上がる。そしてまるで何もなかったかのように先程の姿勢に戻った。
……やり直せ、ということだろうか。
「…………」
「…………」
声をかけるかどうか決めあぐねていると、少女はこちらをちら……と見て、――期待に満ちた目をしていた。しかし目が合うと、すごい勢いでもとの体勢に戻り、
「…………♪、……♪♪」
再び歌い始めるのだった。
その最中もこちらをちらり、ちらりと見ながら。
「…………それは、なんの歌なの?」
耐えきれず声をかける。
少女は振り返り――
「――滅びの歌だ」
…………。
…………。
…………。
は?
何を言っているのかいまいち理解ができない。
しかし彼の脳、その片隅で、それを知っていると、叫んでいる。
しかし彼の無意識はその声を押しつぶしてしまう。
「……?貴様もしや信じておらんな?」
そしてその変な言葉遣い。この女の子は、普通ではない。そう考えることに不自然さは感じられなかった。
しかし、彼はこうも思っていたのだ。
彼女は、普通の「人間ではない」――、
「それにしても我に話しかけるとはなかなかに勇敢、そして無謀な輩だな。畏れを知らぬのか、貴様は?」
不意に質問をぶつけられ、意識が現実に帰ってくる。
しかし帰ってきたところで凡人の彼には返す言葉などなく、
「えっと……?」
「どうかしたか」
「話についていけていません」
「全く……理解力に乏しいやつだな。だがよい、愚かな人間に教えを請われるのも我の運命ゆえ」
そう言われ、一つ、思い浮かぶ。
まずはじめに気になったこと。
知っているようで、しかし今の彼にはわからないことだ。
「じゃあ教えてくれ、まず――君は何者なんだ?」
「それが我にものを尋ねる態度か?頭が高いぞ」
「……」
なんだか人を苛立たせるのが得意な方のようで。
何かを勘違いしているのか、それとも本当にどこかのお偉いさんのご子息か。
どちらにしても下手に刺激しないほうがよさそうだ、と思い従うことにする。
「教えてください」
「……まあよい、教えてやろう。感謝するが良いぞ」
少女の話によると、彼女は「救世の天空神の末裔」……だそうだ。
「この世界には現在危機が迫っておる。父上は大変頭を悩ませておるのだ」
「父上?」
「我の父上は全知全能なる万能神。貴様ら人間共が崇め奉るべき存在だ」
……そうですか。これが俗に言う厨二病というやつですね。そして今この子が話しているのは、設定ですね。わかります。
そこまで理解したところで、適当にあしらおうとする。
「そうか。じゃあ家に帰ったら仏壇でも作っとくわ。じゃあ俺はこれで……」
「待て」
呼び止められてしまう。簡単には帰してもらえなさそうだと思い、頭が痛くなる。
「貴様……信じておらぬのか?」
「何を」
「この世は急速に終焉へと向かっていっておる。それも加速しながら」
「ああ、そうだな」
「……そして我は天く」
「じゃあ俺はこれで」
無言で袖を掴まれ、引きとめられる。
しかし俺は帰りたい。
そう、帰りたいんだ!
もう疲れたんだ!
心がそう叫ぶ声に任せて、目の前の少女をたしなめようと試みる。
「もう暗くなってきたし……お前も早く家に帰れよ?ここらも危ない大人がいないわけじゃないんだから」
「帰る家など……ない」
思いがけない答えに、言葉が詰まる。
家出だろうか。もしそうなら、余計に早く家に帰ったほうがいいだろう、そう思い、
「家出などではない。ただ我には家などないのだ」
考えを読んだかのように言う。
そして続けて、
「だから、……お前の家に連れて行け」
やめてくれ。
目の前の少女……いやここではあえて幼女と言おう。この幼女は、みた目完全に幼女だった。
つまりこれをうちに連れて帰ることは、非常に高い確率で誤解を招くこととなる。つまり、「あいつはそんなことするやつには見えなかった」的な感じになってしまうのだろう。
それは、
「駄目だろ、絶対!?」
思わず大声を出してしまい、少し焦る。しかし幼女は意外にも落ち着き払った様子で、
「なぜだ?何をするわけではなかろう?」
不思議そうに言う彼女に、諭すように語りかける。
「何もしなくても犯罪者扱いされるんだよ……この世知辛い世の中は」
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結局三十分かけて彼女を説得し、家に帰るようにと言った。
だから帰る家などないというのに、といいつつ彼女は渋々河原の茂みに消えていった。
すこし罪悪感に苛まれながら、再び長くて短い家路を急ぐのだった。
そしてようやく家に着く頃には辺りはすっかり暗くなっていた。最早季節は夏のようなものなので日は長いはずなのだが。
シャワーを浴びると、すぐさま布団へ潜り込む。
そしてすぐに眠りにつくのだ。夢をみても、記憶に残らないほどの深い眠り。
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夢の中で彼女は、俺に何か言いたげな顔をしていた。
悲しそうな、しかし嬉しそうな。
不思議な表情を、していた。
しかし目覚めると俺は全てを忘れてしまう。その前に、彼女に伝えるべきことがあるはずだ。
しかしそれが思い出せない。記憶に鍵がかかっているかのように。
固く閉ざされた扉に拒まれた俺になす術などなく。
再び深い眠りへと、落ちていく。そして終わるのだ。夢の中の世界が。
現実が帰ってくる感覚に目を背けたくなる。
まだ、彼女に何も言えていない。
伝えなければ――!
しかし叫びは虚しく宙に消え、意識は闇の底へと沈んでいく。
反転。
・・・・・・・・・・・・・・・