夏。とても日差しの強い、八月の午前中の出来事だった。 坂上渚は真っ白なワンピースに同色のつばの広い帽子を被り、砂浜近くを歩いていた。 何にも染まらない黒髪は白い服とは対照的で、八月の青い空の下で、慎ましくその存在を主張する。肩に掛けられた、網目模様の鞄には携帯電話などの小道具と、小さなケースが入っていた。 渚は鞄から、そのケースを取り出した。 二、三歩ほど歩いて、辺りを見回す。「今日は、ないかなあ」 独り言をぽつりと呟くと、渚は砂浜を歩いた。 季節柄人気のある場所とはいえ、まだ時間も早い。遠くに見えるサーフィンをしている男たち以外は、静かな海だった。 ここは、穴場なのだ。 ビーチサンダルを踏みしめ、屈んで歩いた。程なくして、渚はそれを発見し、拾う。 それは、小さな貝殻だった。「集めているんですか」 ふと、声が掛けられた。渚は屈んでいた身体を起こし、声の主に振り返った。 その表情が、少しだけ緩んだ。「――ええ。趣味なんです」Epilogue -Nagisa Sakagami- 波の音が聞こえる。潮風は寄せては返す波に合わせて、渚の黒髪を揺らした。登り続ける太陽に照らされながら、渚は拾った貝殻をひとつ、声の主に差し出した。「おひとつ、いかがですか」 穏やかに微笑む。青年は微笑み返して、渚の貝殻を受け取った。「確かに、綺麗ですね」 八月の日差しはこれから強くなり、まもなく夏休みの学生達でこの場所は賑わうことだろう。 とても、懐かしいと思う。 一体、どのくらいの年月が経ったのだろうか。渚はその人物に出会うことはもう無いかもしれないと、諦めていた。中尾智也と中尾雫の願いを叶えるため、会社を辞めて一人旅立った、その青年のことを。 僅かに伸びた無精髭は似合わず、青年が髭を剃る暇も機会もなく、この場所に歩いてきたことが分かった。 青年は、几帳面な方だからだ。「随分長い、旅でしたね」 渚がそう言うと、彼は笑った。「そうですね。ほんとうに、長かった――ほとんど、日本中を旅して回ってしまったかもしれません」「歌を、歌って?」「ええ」 青年は砂浜に腰を下ろすと、ギターケースから中身を取り出した。智也が持っていた当時こそ新品だったものの、彼が使い倒すことで古びたそのギターは、しかし丁寧に扱われていた。 その様子を見て、渚は少しだけ嬉しくなった。「百花さんは、元気ですか?」 青年は聞いた。渚は思う。右京百花は渚との一件を通じて、左神秀一を探しに出るかと思われた。だが実際には、百花は会社に残った。 いつか、一人で生きていかなければならない日が来る。 渚の口からそう聞いたことが、彼女にとって大きな出来事だったのかもしれない。「日下部さんと、仲良くやっています。マネージャが抜けてしまって、ぼろぼろになったチームを立て直すためには、彼女が必要でしたから」「……はは。ぼろぼろになってしまいましたか」「ええ。やっぱり、大きい存在だったのだと思いますよ」「そうですか――……」 青年は水平線を見詰め、何かを考えているようだった。いつの間にか黒くなった髪が、潮風に揺れる。 髪を染める事もしない程に、歩き回っていたのかもしれない。「じゃあ、その日下部は?」「元気にしています。最初は居なくなってしまったマネージャに、とても悲しんでいたようですが。立ち直ってからは、元の彼女に戻りました」「立松は?」「彼は相変わらず、バーをやっていますよ」「そうですか。じゃあ、今日くらいにでもお邪魔しようかな」 青年は笑って、鞄からペットボトルを取り出し、水を飲んだ。「武藤は?」 渚は言う。「別れました」 初めて、青年が驚いたような表情を見せた。渚は数歩、波打ち際に向かって歩くと、うん、と伸びをした。 薄手のワンピースが風と共に踊る。いよいよ昇り始め、朝焼けから少しずつ世界に色を付け始めた太陽を、渚は見詰めた。「どうして?」 どうしてだったか。今となっては、それすらもよく思い出せない。 遠く記憶は時間の経過に合わせて置き去りになってしまい、渚の心の中からは居なくなっていく。 過去とは、通り過ぎるものだ。 どのように辛い出来事も、どのように幸せな出来事も、等しくその人物の前から姿を消す。 ――いや、姿を消しているのは、きっと本人の方なのだ。 渚は、『当時の渚』を置いてきた。 それだけの話だ。 青年は少し寂しそうに、渚の後姿を見詰めていた。「……そうですか」 渚は振り返り、青年に笑った。「今日は、どうして、ここに?」 聞くと、青年はギターケースを見た。古びたギターを取り出すと、何度か弦を弾く。 どこか懐かしさを感じさせる音が、辺りに響いた。「返そうと、思って」「返す?」「このギターの持ち主は、海で居なくなったから。最後はここに、――長い旅路の果てに、到着する。そんなシナリオが、一番良いと思いまして」「ふふ。そのギターの持ち主は、彼ではなかったでしょう?」「そうなんですが。彼は、このギターをとても大切にしていたから」 二人は、笑った。「なにか、発見はありましたか?」 渚は聞いた。青年はふと、渚の目を見て、その瞳の向こう側に何かを見出したような顔になった。 すっかり様子の変わってしまった格好が、時間の経過を感じさせる。そう――今の彼は、どこか中尾智也に似ている。突拍子もない格好で、どこか適当に見えて、それでいて決断が早く、そして誰よりも聡明な見解を見出した、あの中尾智也に。 それは知性がいかに深いか、ということではない。確かな経験に裏付けられた決断の強さを、彼は身に付けているように思えた。「――そうですね。じゃあ、ひとつだけ」 彼は言った。渚は、その言葉の続きを待った。「この世は孤独だ、と思っていました。誰にも、誰かの感情の裏にあるものを見付ける事はできない。それを共有できないことが人にとっての唯一で最大のカルマであり、そこから誤解は生じるのだと、思っていました」 でも、そうではなかった。言葉の展開を、渚は知っていた。 思わず、表情が緩んだ。「最大の問題は、自分が孤独だと思っていること、そのものでした」「――そうですね」 彼はギターを砂浜に置き、立ち上がった。 すると、いくらか彼の背が大きくなったような気がして、渚は驚いた。しかし、背が大きくなったのではない。大きくなったのは、彼という存在自身――そして、彼の背中に背負っているものの違いだ。「人は、永遠に一人です。だけど、人は一人ではない。一人であることを知っている人は強く、そして一人ではなくなる。依存する、頼ることではなく、自分自身の目で相手をまっすぐに見詰めること。その時初めて、『感情』は共有できるのだと」 不思議と感極まった。涙を隠す必要はない。――そのまま、流れるに任せた。「初めて、人は『平等』になれるのだと。……今では、そう思います」 ――――もう、いいだろうか。「おかえり、左神くん」 渚は呼んだ。 その、決意を持った人物の名を。「戻りました、渚さん」 青年も、渚の名を呼んだ。 風が二人の間を通り過ぎていった。渚の帽子は風に飛ばされ、慌てて渚は帽子を押さえようとした。だが帽子は渚の手を離れ、風に飛ばされてどんどんと高くなっていく。 それを、二人は目で追った。 海の方に行ってしまった。まもなく高度は下がるだろうが、あの位置では取りに行くのは無理だろう。 渚は、帽子を諦めることにした。「渚さんは?」「うーん……分かんない、かな。自分の成長なんて、自分自身はあまり言葉にできないかなーと思って」「ずるいな。僕に言わせたのに」「あはは」 あとどれだけ歩けば、人は一人ではなくなるだろうか。そう考えていたことを、渚は覚えている。 言う事がなかったのではなく、渚はまさに、秀一と同じ事を考えていたのだ。 だから、言わなかった。 それだけだった。「……そろそろ、行きます」 秀一はそう言うと、渚に手を振った。渚も頷いた。 そこに――ギターを、置き去りにしたまま。「今度は、どこに?」「さあ、どこへでしょう――今度は海外に行っても、良いかもしれませんね」「……そっか」「渚さんも、身体にお気をつけて」「うん。ばいばい」 秀一は背を向けた。その後姿に、どことなく中尾智也のそれを感じた。 ――どうしても、 言わずにはいられなくなった。「左神、秀一さん」 秀一が足を止めた。渚は、まるで空高くから自分と秀一を見詰めているようだった。「――なら、あなたにとっての私は、誰でしたか」 ――そうして、 秀一は歩き出す。「忘れないでください。私と雫ちゃんが、あなたを好きだったこと」 ただ、その背中に。「私達は、二人ともあなたを大好きだったこと」 言葉を、投げ掛けた。「それだけは、忘れないで」 秀一は立ち止まった。渚の視点からは分からなかったが、秀一は左手で顔に触れているようだった。 だが、気付いた。 その砂浜が、濡れていることに。「――申し訳なくて」 渚は秀一に向かって、走る。 開いた距離を、引き戻すように。 二人の距離を、引き戻すように。「自分のやってしまった取り返しの付かないことが、本当に申し訳なくて」 長い時が、経ってしまった。 誰も、彼を迎えに行かなかった。 その間、彼がどれだけ宿命に追われていたのか、 あるいは、自分の罪滅ぼしの意識に捕らわれていたのか、 誰も、知る術を持たなかった。「ずっと、何かに追われるように、歌を歌って」 渚は、秀一を抱き締める。「僕は、何のためにここを出たのか、とうに分からなくなって――」 濡れた唇に、口付ける。「二人分だよ」 そうして、渚は言った。 長い時間の果てに辿り着いた、渚の答えは。秀一に言わなければいけない、渚の言葉は。「ね、左神くん。あなたずっと、勘違いしてた。私の中にいる雫ちゃんを、雫ちゃんだけを、見てた」 秀一はただ、赤子のような目で渚を見る。何も分からず、その答えを待っているようだった。「本当は違うの。私、思った。私も間違ってた。私だけを見て欲しくて、ずっと頑張ってた」 渚は、秀一の頬に触れた。「左神くんの中に雫ちゃんが居るように、私の中にも、雫ちゃんがいる」 そうして、「ね。二人分だよ。雫ちゃんのこと、好きでいい。もっと好きになろうよ。私も雫ちゃんのこと、好きになる。そしたらきっと、あの子は幸せになれる」 ずっと言いたかったことを、秀一に渚が言いたかったことを、渚は言った。「それで、もし良かったら、私のことも好きになってくれたら、うれしい」 秀一は、止まらない涙の末に、頷いた。 渚は、そんな秀一が愛おしくなって、何度も口付けた。「過去は、無かったことにできないよ。これから、始めようよ。みんな幸せに、一緒に、生きていこう」「――はい」 そして、二人はもう一度出会う。 もう一度、その渚で。Fin.