指先でごわごわとした荒い質の紙を撫でて、何度目になるか分からないため息を吐き出す。気だるげに背もたれに体を預けながら、テーブルの上に散乱した幾枚もの紙の山を眺める。指先の、そして全ての紙に所狭しと並んでいる数字の羅列。まるで統一感のないそれらは、しかし見慣れたものだった。
憎々しげに数字を睨みながら、かりかりと爪を立てて軽くひっかく。当然、それで数字が代わるはずも無い。いや、インクが滲み代わることがあるかも知れないが、それで現実が代わるわけでは無い。
薄汚れた椅子にテーブル、あとは床に壁と、ついでにベッド。どれも年期が入っている事だけが取り柄の部屋。いくら大型都市とは言え、裏通りに位置する最低限の安全だけ保証された安宿。ついでに言えば、一階は安っぽい酒場でこちらを夜に利用すれば、ケンカに巻き込まれない事を期待できるほど安全では無い。はっきり言ってしまえば、いくら立て付け悪かろうと、テーブルがあるだけでも感謝すべきだろう。
が、だからと言ってやはりその内容にまで感謝出来るはずも無く。やるせなさを抱えたまま、青年――ウィリアム・ウィルソンは頭を抱えた。
金髪碧眼で顔立ちも一般的。二十代半ばの容貌は、幼さこそ消えているものの、甘さまでは抜けきっていない。金持ちそうではないが、安宿に似合わない程度にはきちんとした身なり。小綺麗な服装の下には、見た目よりもがっしりした肉が詰まっている。
ウィリアムは抱えた頭を起こして、もう一度散乱した紙に目を通した。胸の中で、信じた事も無い神に祈りながら。
並んだ数字は、当然だが何の変化も無い。幾度も計算し直したのだから当然だ。だから、テーブルの上に投げられたアバカス(そろばん)を手に取る意義も感じられなかった。木の珠が不揃いになっている――つまりは何度も使用された後だ――それ。今更もう一度確認したところで変化などありえない。仮にあったとして、それは今回の計算間違いを疑うのだから、やはり無意味だ。
「はぁ」
わざとらしくため息を漏らす。
少し前に戻れたら――あるいは独立など考えなければ。こうして思い悩む事も無かったのだろう。その時はその時で、やはり機を逃したと後悔するのだから、結局悩み続けることで得られる御利益などない。
何にしろ、こんな辛気くさい、小さな魔術灯だけが照らす部屋で悩み続けるのは建設的ではない。建設的で無い行為は避けなければいけなかった。これから独り立ちをしようとするならば尚更。
「行くか……」
自分にしか届かない言葉を小さく漏らして、彼は立ち上がった。
ベッドに投げ捨ててある、くたびれたぺしゃんこの鞄を手に取る。最低限の安全は保証されているとは言っても、宿にはそれ以上の保証も保障もない。バカが暢気に私物を置いたまま出かけて、物が無くなってもそれはやはりバカの責任だ。望んでバカになりたいのでなければ、やはり保証は自分ですべきである。
思い悩んで意味は無い。かといってじっとしていられるほど平静でもいられない。つまりは、呑んで忘れようと言うことだった。
(本当なら、この程度の出費も惜しむべきなんだが)
今日は記念すべき門出だ。まあ、誰に興味が無くとも自分自身がそれを許して罰は当たらない程度には。
だから、と言い訳をして。彼は部屋の扉を開いた。
ウィリアム・ウィルソン新人輸送商人。
有り体に言って、彼には金が無かった。