世の理から切り離された陽炎の世界。崩れた瓦礫に塞がれた地下通路で、桃色の炎が薄く灯る。
人ならざる女は傷む身体を無理矢理に起こし、口に溜まった血の塊を吐き出した。
「ったく、派手にやられたなぁ」
「あっちが封絶を使ってくれてるのが、不幸中の幸いってところだね」
「バカ言え、これも含めて“何かの準備中”って事だろうが」
彼女に言葉を返すのもまた、人ではない。ブレスレット型の神器に意識を表出させる紅世の王である。
そのどちらもが、既にこの形勢が覆らない事を悟っていた。
「不本意な封絶を使ってまでする準備か。僕らを逃がしてはくれそうにないね」
「んじゃ、見事に逃げ切って悔しがらせてやろうぜ。で、次は殺す」
命を懸けるべき場面ならば、喩え死ぬ事になっても立ち向かう。しかし恐らく、この襲撃は更なる災厄に繋がる布石に過ぎない。
今すべきは、勝てない相手に挑んで犬死にする事ではなく、逃げ延びてこちらも準備を整える事だ。それすら難しい状況だが……
「(タイミングさえ合わせりゃ、“どっちか”は逃げられるだろ)」
そう判断して、呼吸を整える。生き残ったのは自分だけではない。きっともう一人、セコい詐欺師が生き残っている。
彼の能力を考えると、いつまでも地中に隠れている訳には……と、そこまで考えたところで、一体の燐子が“射程に入った”。
「っよし、行くか!」
燐子が踏んだ『地雷』を炸裂させ、一拍も待たずに別のルートから地上へ飛び出す。
見つかったのは百も承知だが、だからと言って自棄になって上空を飛んだりはしない。ビルの合間を縫うように低空飛行し、その間に幾つもの『地雷』を設置する。
追って来れば纏めて吹き飛ばしてやろうと考えての自在法だったが、敵は馬鹿正直に追って来ない。
彼女……『輝爍の撒き手』レベッカ・リードに近付く事なく上空から彼女に併走し、数多の燐子による炎弾の雨を降らせて来た。
「(貰った!)」
連鎖的な爆発が市街地を蹂躙する。建物などでは到底 防ぎ切れない威力に、レベッカは動じない。
逃げるどころか、正面に展開した瞳のような自在式で受け止めた……だけではなく、その力を圧縮した。薄白い炎が桃色の炎へと変色し、
「そーら、よ!!」
特大の炎弾となって投げ返される。灼熱の業火が天に伸び、居並ぶ人型に直撃する。
―――寸前、縦に開いた碧玉色の瞳に遮られた。自在式は炎弾を一瞬も受け止める事なく、全く同じ軌跡に『反射』させる。
「ッ!?」
すぐ後方で弾ける炎弾の爆火を受けて、大量の車と一緒にレベッカは飛ばされる。
『反射』を予測していたわけではない。炎弾を投げ返すと同時に、既に逃走体勢に入っていたのだ。無傷とはいかないまでも、取り敢えず直撃は避けられた。
だが、
「う……」
受け身を取ったレベッカは、そこに待ち受けていた光景に息を呑む。
立ち上がった彼女の周囲を、統率された燐子の軍勢が取り囲んでいたからだ。
それぞれの掌に薄白い炎が燃えるのを見たレベッカは、それを上回る速さで数多の光球を全方位に生み出して……
「――――――」
そこで漸く、燐子の攻撃を囮にして彼女を狙う、斜め後方の気配に気付いた。
―――避けられない。
そう悟った時だった。
「伏せろ!」
彼女の後ろの地面の中から、一人の青年が現れる。
きっと生きている。そしてコソコツと逃げていて貰わなければ困るとレベッカが思っていたフレイムヘイズ……アーネスト・フリーダー。もちろん、今更それに文句をつける暇など無い。
敵の指先が引き金を引く。しかしフリーダーは割って入った時点で既に己の身体を『骸躯の換え手』の能力で『硬化』していた。
鋼鉄より遥かに堅牢な身体が、放たれた銃弾と衝突し……
「あ―――」
―――レベッカの視界を、鳶色が埋めた。
未だ夏を抜けたとは言えない、日射しの強い九月の御崎高校。夏の思い出や宿題をやったかどうかなど、定番の話題で盛り上がる一年二組には、それに加えてささやかなサプライズも待ち受けていた。
(カッ、カッ、カカッ)
始業式が終わった直後のホームルーム。軽快にチョークで黒板を叩いた少女が触角を揺らして振り返り、
「一身上の都合でこちらのクラスに転入する事になった平井ゆかりです。どうぞよろしく」
満面の笑顔で挨拶した。言わずと知れた、平井ゆかり。転入して来たというより、戻って来たというべきだろうか。当の彼女にとっては、夏休みに入るまで普通に通っていた場所である。
もっとも、かつてのクラスメイトはその事を覚えていない。彼女に集まる視線は、あくまで初対面の転校生に向けられるものである。
「(んー、やっぱり来たかー)」
そんな中で、夏休みの内に何度も遊んだ緒方真竹は冷静であった。事前に聞いていた訳ではないのだが、流石に三度目となるとサプライズにもならない。
所謂、転校生=坂井悠二の知り合いパターンである。他のクラスメイトもすぐに気付く事だろう。
「(美少女三人が坂井君を追い掛けて、って言うのは……流石に現実味ないけど)」
ここまで重なると、偶然で片付ける方が不自然に思えてくる。しかしまあ、緒方からすれば友達が増えるのは大歓迎だし、悠二の秘密を詮索しようとも思わない。
が、それは緒方に限った話……
「(一美は正直、複雑だろうなぁ)」
悠二に想いを寄せる吉田の反応を、緒方は横目でさり気なく窺う。どうせまた狼狽しきっているに違いない……と思いきや、
「(あれ?)」
「…………」
平井の登場に、吉田は何の反応もしていなかった。と言うよりボンヤリと宙を見つめていて、明らかに上の空。まるで数学の授業中の田中のようである。
吉田らしくない様子を訝しんでいる間にも、転入イベントは進む。
「ん? どうした近衛」
空いた席に座るように、という担任の言葉に平井が返事するより早く、ヘカテーが動き出したのだ。
無言でグイグイと平井の手を引き、“何故か空いている”悠二の後ろの席に座らせる。これには初対面のクラスメイトだけでなく、悠二や平井も驚いた。
ヘカテーがこんな風にワガママを示すのは珍しい。平井の思いつきに便乗したり興味本位でフラリと居なくなる事は多いが、自分から他人を引っ張り回す事は多くないのだ。
「えーっと……」
おまけに少し、様子がおかしい。まるで子どもたちが拗ねているような頑なな主張が感じられる。
よく解らない……が、平井としては悪い気はしない。
「先生、悠ちゃんの後ろの席で良いですか!」
「悠ちゃん言うな!」
『またお前か!?』
平井が挙手し、悠二が叫び、クラス全体が打てば響くようにハモる。
予定調和にも似た騒がしい教室で、
「はっ!?」
些か以上に遅れて、吉田一美は我に帰った。
そんな彼女を―――池速人はジッと見つめていた。
まだ日の高い佐藤家の室内バー、冷房の効いた部屋で昼間から酒を呷るマージョリー・ドーの許に……今日は客人が来ていた。
「先の一件に関する情報操作と隠蔽は完了。“探耽求究”の『撹乱』が一般人の意識を妨げていた事もあり、今後への影響は無いと考えて良いのであります」
「事後報告」
同じくフレイムヘイズ、ヴィルヘルミナ・カルメル。以前からの飲み友達という事もあり、彼女はしばしば佐藤家を訪れていた。
もっとも、根が実直な仕事人間であるため、その話題はシリアスなものになりがちである。
「ヒャッヒャッ! そいつぁゴクローサン。毎日毎日ダラダラやってる我が怠惰なる相棒マージョリー・ドーとは大違ブッ!?」
「事後処理の心配なんて最初からしちゃいないわよ。で、あのミステスはどうなわけ?」
耳障りな声で余計な皮肉を言うマルコシアスを、マージョリーは平手で乱暴に黙らせる。
『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーにとって、坂井悠二はやっと見つけた仇敵の手掛かり。その動向を気にするのは至極当然なのだが、
「……坂井悠二については、自在法の上達と近接戦闘技術の停滞以外に特筆すぐき変化は無いのであります。先の戦闘で発現した姿も、“彼の炎”と関連する現象ではなかったようでありますから」
ヴィルヘルミナには、その関心が上辺だけのものに感じられてならない。
常は自堕落に、徒を前にすれば苛烈に、というのはマージョリーの基本スタイルだが、これは彼女にとって平常であってはならない案件の筈なのだ。
案の定と言うべきか、マージョリーは「ふぅん」と鼻を鳴らすだけで、それ以上言及して来ない。らしくない……とは思うものの、ヴィルヘルミナの方から口を出す事は無い。只でさえ複雑な坂井悠二……『零時迷子』の問題を、不用意に荒立てる事はしたくない。
「大きな変化という意味では、むしろ平井ゆかり嬢の方が顕著でありましょうな。“頂の座”の助力あってのものとはいえ、一月前まで人間だったとは思えない成長であります」
「ヒラ? ……あー、あの子か。素質はともかく、“二人共”ってのは流石に珍しいわね」
いずれ敵に回る可能性がある平井に対する関心も薄い。
ただ、ヴィルヘルミナとてマージョリーの事ばかりは言えない。教授は必ず近い内に再び現れる。『零時迷子』に刻まれた自在式の正体を知る日も遠くない。
それが……彼の、彼女の今を、どんな未来へと導くのだろうか。
「…………」
その時 自分は―――どんな選択をするのだろうか。
新学期……と言っても、登校初日は始業式とホームルームのみで、昼を待たずに解放される。夏休みの宿題をしていなかった一部の生徒以外には気楽な日なのである。
転校生たる平井も、小一時間ほど質問責めの嵐に見舞われてから近場のファミレスに繰り出していた。無論、悠二やヘカテーを始めとする『いつものメンバー』と一緒に。
しかし昼頃という事もあって店内は混んでおり、少し離れたボックス席に男女別で座る形となっていた。
「ふー……」
そしてこの成り行きを、吉田一美は大いに大いに有り難がっていた。「息が詰まっていました」と言わんばかりの溜め息が、彼女の心中を如実に物語っている。
そしてこのタイミングでこの態度は、流石に平井の触角に引っ掛かる。
「どったのKY?」
「イニシャルで呼ばないで!?」
「じゃあ……D?」
「それもヤメテ!」
軽いジャブに対する反応は良好。女子だけになった途端にこれならば、取り敢えず自分が原因ではなさそうだと平井は安堵する。
しかし入学当初ならともかく、今さら吉田が悠二らと居る事に緊張するとも思えないのだが……
「まーまーメニューでも見なさいな。あたし的にはイチゴミルクかき氷とか推してみる」
敢えて平井は追及しない。吉田から見れば知り合って一月足らず、悩み事に無遠慮に踏み込める関係ではない。
「(うぅ……何か、気付かれてる?)」
一方の吉田も、自分の態度が不自然な事くらいは理解していた。
解っていても、繕えない。何もなかったかのように振る舞う事など彼女には不可能だった。
「(池君が、私を……)」
そう……夏休みのある日、吉田にとっては初めて平井に会った日に、彼女は池告白にされたのだ。
吉田からすれば、想像すらしていなかった異常事態である。何しろ池は、これまで何度も吉田を助けてくれていたのだから。
―――悠二を振り向かせようとする、吉田を。
『返事は要らない。ただ、知っていて欲しかった』
もちろん、それで吉田の気持ちが変わる訳ではない。しかし、だからと言って何も感じずにいられる筈もない。
気まずさ、申し訳なさ、後ろ暗さ、嫌でも浮かんでしまう、「どうして私を好きになんてなったんだ」という手前勝手な気持ち。
『だからもう、吉田さんの背中は押せない。自分で頑張って……って言うのも無理かな』
冗談めかして笑う横顔が……別人のように大人びて見えた。
「来週には実力テストだけど、また勉強会とかする?」
「んー……池さえ良けりゃ頼みたい」
「へぇ、意外と乗り気なんだ?」
「追試と補習が無い解放感を知っちまったからなぁ~」
その池はと言えば、離れた男子の方の席でごくごく自然に融け込んでいる。吉田には会話の内容までは知りようがないが、和気藹々とした雰囲気は遠目にも見て取れる。
あの告白は本気ではなかったのか? という疑念が僅かに浮かぶが……そんないい加減な事をする少年では断じてない。
「(これから、どんな顔してれば良いんだろ……)」
自分の想い、池の想い、ヘカテーの想い、平井の想い、そして未だ掴めない悠二の想い。四方から壁が押し寄せて来るような困難な恋に、吉田は弱々しく頭を抱えた。
「……………………」
そんな吉田を不思議そうに見つめる平井や緒方とは違い、ヘカテーの目は警戒に細められていた。彼女にとって、吉田はある意味でシャナ以上に油断ならない敵なのだ。
基本的に興味の無い事に無頓着なヘカテーだが、吉田の動向には必要以上に敏感である。
「………………」
そんなヘカテーは、隣りのシャナに横目で観察されている事に気づいていない。
今は黒く冷えた瞳が、紅世の巫女を静かに見つめていた。
「(こいつがこの街に来た理由は、今でも解ってない)」
シャナが御崎市に留まっている最大の理由は、ヘカテーと悠二の監視だ。もっとも、シャナとて今ここでヘカテーが暴れ出すなどと考えている訳ではない。
“壊刃”サブラクを相手に命を懸けて戦った事実。擬態では有り得ない危険な行為が、ヘカテーの『今』への執着を証明していた。故に今、シャナの眼に映るのは警戒以外の色。
「(だけど……)」
転校して来た平井を、半ば強引に“彼女の席”に座らせたヘカテーの態度が、シャナには少しだけ理解できていた。
「(存在の、欠落……)」
シャナはフレイムヘイズとして、ヘカテーは紅世の徒として、『この世の本当の事』を理解している。しかし、だからこそ、それは彼女らにとって己の世界に大きな影響を持つ事のない“他人事”にしかなり得なかった。
それが人の暮らしに紛れ、馴染み、奪われた事で、漸く己が喪失として実感出来ているのだ。
あの時の態度は、その一端の現れ。自分の日常に侵入して来た『現実』に対する、怒りにも似た拒絶だった。
「(悪い傾向じゃ、無いんだろうけど……)」
心の機微に疎い自分が、何故ヘカテーの感情をここまで察する事が出来るのか。その理由を解っていながら―――シャナは気付かないフリをする。