(ピピピピピピピピッ!!!)
目覚まし時計の不快な音が、睡眠中の悠二の意識を揺さ振る。
教授の襲撃、ヘカテー達との合宿、暫く続いた非日常から開放されたいつも……と、少しだけ違う日常の朝。即ち、夏休みの朝だった。
「(あと、十…五分……)」
朝の鍛練は相変わらず続くものの、時間が遅れて学校に遅刻するという心配も無い。そんな気の緩みが、少年を覚醒から遠ざける。
無意識の内にノロノロと右手が目覚まし時計を探し……始めたところで、何故か音が為り止んだのでペタンと力尽きる。
それに疑問を持つ事もなく、再び夢の世界に逃げようとする悠二の頬に、何か柔らかい感触があった。悠二は、当然のように目覚めない。
それからたっぷり十秒ほど経ってから、
「ふーっ♪」
「どわぁあ!?」
耳の穴に、勢いよく息を吹き掛けられた。一瞬にして覚醒する。
「ゆ、ゆゆ、ゆかり!?」
「あっはははは♪ おはよ悠ちゃん。目覚めはいかが?」
ケラケラと笑いながら、逃げるようにベッドから離れるのは、平井ゆかり。寝起きの悠二は頭がついていかない。
「もうシャナとカルメルさん来てるよ。メイドにリボンで投げられたくなかったら、そろそろ着替えて降りて来たまえ」
返事も待たず一方的に告げた平井が、触角を揺らして階下へと降りて行く。閉まったドアを呆然と見つめる悠二は、今更ながらに彼女が家に泊まっていた事を思い出した。
「……順応、早すぎ」
いくら千草の性格を熟知しているとはいえ、よくもまぁ忘れられた直後にあんな提案が出来るものだと素直に感心する。
前向きなのは元々だが、最近は特に勢いがある……と、冷静に分析出来る程度には気持ちが落ち着いた。
「僕も、少しは見習わないとな」
背負ったものの大きさと先の見えない未来を思って、悠二は意外と軽い溜め息を吐いた。
(モグモグ)
朝の鍛練を終えたリビングで、目玉焼きの乗ったトーストをヘカテーが齧る。半熟の黄身が割れて汚れた口元を、平井が狙い済ましていたかのようなタイミングで拭いてやる。
ちなみに、千草はまだ帰って来ていない。本日の朝食は平井の担当である。
「今まであんまり知らなかったけど、ゆかりも料理上手いんだ」
「ふふん、あたしだって女の子だもん。大体、ネタみたいな料理オンチが三人も四人も居るわけないしね」
悠二の率直な感想に平井が得意気に胸を張り、ヴィルヘルミナの肩がギクリと揺れる。
そんな珍しくもない光景の中にあって、ヘカテーの心中には小さな変化が起きていた。
「(女の子、料理……)」
ミサゴ祭りの前、吉田一美の宣戦布告に対して、半ば開き直りに近い決意表明をしてから、人知れず起きていた変化。悠二に対するヘカテーの気持ち……というより、心構えだ。
「(おば様には出来る。ゆかりも、吉田一美も……)」
吉田一美に挑まれて、引き下がる事が出来なかった。“壊刃”サブラクに追い詰められても、命を懸けて戦った。
『仮装舞踏会(バル・マスケ)』としてではなく、この街で彼と暮らす一人の少女として。
その事実が、ヘカテーに以前とは違う勇気を与えていた。悠二が復調した今になって、漸くそれが表面化してきたのだ。
「(……料理)」
以前、平井に読ませてもらった少女漫画のワンシーンを思い出す。
少女が少年に料理を作る、ただそれだけのエピソードが描かれていて、周囲の登場人物もそれだけで何やら納得したように話が進んでいた。
よくよく考えれば、あれは吉田一美の日常風景と繋がるものがあったのではないだろうか。悠二を好きな、吉田の。
「……………」
未だ理解したとは言い難い行為に、今の自分に重大な何かを感じて、ヘカテーは瞳に静かな火を灯す。
「何だ、別に告白されたわけじゃないのか」
「あー……うん、好きとかハッキリ言われたワケじゃない……はず」
「……どっちだよ」
人の混む直前のファミリーレストランの一画に、悠二と池が向かい合って座っている。
千草と貫太郎が堂々の朝帰りを果たして暫くした後、悠二は理由も告げられぬまま八月の猛暑に締め出された。理不尽な話である。
悠二としてはこの炎天下で一人鍛練に励む気にもなれず、池を誘って手近なファミレスに避難した次第だった。注文はドリンクバーとポテトフライだけだが。
「で、お前の方は相変わらず、と」
カリカリとシャーペンを走らせるノートから目を離さずに池が言う。
彼の手元にあるのは勿論、夏休みの宿題などではなく予備校の予習だ。痛いところを突かれて、悠二の顔が露骨に渋くなる。
「しょうがないだろ。何て言うか、こういうのは考えて解が出るようなもんじゃないし」
吉田の気持ちに、平井の気持ちに、悠二は気付いている。気付いていて明確な答えを出していないのは、肝心の悠二自身の気持ちが不鮮明だからだ。
好きか嫌いかで言えば好きに決まっている。だが、それが……“彼女らと同じ好き”なのかどうか、悠二には解らない。
「誰を選んでも構わないけど、中途半端に流されるなよ。『よく解らないけど振りました』じゃ、振られた子が不憫すぎる」
「っ……解ってるよ」
困った子供を嗜めるように眼鏡を直す池に、悠二は罰が悪そうに顔を背けた。
……実際、考えなかった訳ではない。恋愛感情の有無はさておき、もう悠二が平井と離れる事は有り得ない。こんな状態で吉田の好意を受け取り続ける事は出来ない、と。
池の言い分は全くもって正しい……が、相変わらずのメガネマン的な発言が悠二には引っ掛かった。
「(誰を選んでも構わない、だって?)」
まるで第三者の視点からアドバイスしているような口振りだが、池にとっても決して無関係な話ではない。
「そう言う池はどうなんだよ。今の僕に言いたい事だってあるだろ」
そっちも本音を出せとばかりに反撃し、
「ああ、プールの帰りに告白した」
「っっっ!?」
予想だにしないカウンターを貰って、椅子から綺麗に滑り落ちた。飲みかけていたコーラが気道に入って激しく咳き込む。
「ゲホッ、ごふっ……こ、こく…告……!?」
「返事は要らないとも言ったけどな。恋人になろうと思って告白したわけでもないし」
動転する悠二とは対称的に、池はシャーペンを指先で回していたりする。玉砕したばかりの男とは思えない。
「だったら何で告白なんて……気まずくなるだけじゃないか」
池が玉砕した最大の原因は自分と知りつつも、ついそんな言葉が出てしまう。池は特に腹を立てるでもなく、可笑しそうに薄く笑った。
「気まずいくらいで済むんなら、それで良いんだよ」
初めての恋。
今回ばかりは、池も無難に立ち回る自信が無かった。……或いは、無難に立ち回る事をこそ怖れたのか。
一人ではきっと間違える。吉田を騙し、自分を偽り、後悔するような選択をしてしまうかも知れない。
だが、二人ならば話は別だ。吉田は既に池の気持ちを知っているから、騙す事も偽る事も出来ない。
池らしくもない、駆け引きも何も無い選択だが、悪くはない気分だった。
「……………」
当然、悠二にはそんな池の心中など解らない。ただ、大人びた顔で曖昧に笑う池の姿に、少年として憧れと劣等感を抱かずにはいられない。
「(何だよこいつ、勇者か……)」
自分の気持ちを知って間もなく、好きな女の子に真っ正面から告白して、受け容れ難い結果を受け容れて、それでも笑う。
恋愛感情すら自覚出来ない悠二とは、まさしく雲泥の差だった。こんな自分が吉田の好意を受け取っている事に、申し訳なさすら感じてしまう。
打ち拉がれる悠二を見て、池は呆れたように半眼になった。
「……お前って変な奴だよな。化け物相手に何度も死線を潜り抜けてる癖に、こういう事では物凄い悩むし」
池からすれば、悠二の方こそ格好良く見えるのだ。
自分が知らぬ間に食われたと聞かされ、人から外れてなお化け物に宝具を狙われ、それでも我を保って立ち向かっている。
正直、とても真似できる気がしない。
「単なる成り行き。自分の身と縄張りを守るくらい、動物でもやるだろ。……僕自身は何も変わってないよ」
そして悠二は、そんな憧憬をあっさりと否定する。シャナのように信念を持って戦っているならともかく、悠二の場合は狙われるから撃退しているだけ。これで成長したなどと思えるほど悠二は厚顔無恥ではない。称賛されても居心地が悪くなるだけである。
「(こんな調子じゃ、いつか旅立つ日が思いやられ―――)」
何気なく、本当に何気なく思考を巡らせて……ふと、悠二は自身の心の変化に気付いた。
「(いつか、旅立つ)」
繰り返し思って、確認する。確認してやはり、変化があると自覚する。
坂井悠二は……いつから自分の運命と向き合えるようになった? 人間を捨て、故郷を離れ、外れた世界で生きていく未来を怖れて、なるべく考えないようにするばかりではなかったか?
「……はは」
ゴツンと、テーブルに額を落とす。少しは変われたのかと一瞬気持ちが浮かれたが、切っ掛けに気付いてすぐ消沈した。
「(“独りじゃなくなった途端にこれか”。僕って奴は……)」
本当に情けない。
だからこそ変わらねばと、幾度となく繰り返して来た誓いを、もう一度自らに刻みつけた。
『はあっ……はあっ……!』
混乱と恐怖に苛まれながら、田中栄太はどこへともなく走る。いつも通りの、何の変哲もない朝だった筈だ。
『何でッ……こんな……!』
起きて、顔を洗って、台所に辿り着く。何の気なしに行なったその行動に……実の母親が悲鳴を上げた。
「誰だ」「出ていけ」「泥棒」。まるで空き巣にでも遭遇したような態度を取られ、何を言っても聞く耳を持たれなかった。挙げ句に警察に電話を掛けられそうになって、靴も履かずに飛び出した。
走る先に、幾つもの人影が現れる。
佐藤、悠二、池、吉田、ヘカテー、シャナ。前方に現れた彼らは、逃げる田中を怪訝な目で一瞥してから、すぐに視線を外す。
『おい、ちょっと待ってくれよ!』
大声で呼び掛けても、誰一人振り返ろうとしない。自分が呼ばれたのだと、誰も思っていない。友達である筈なのに……。
『ちょっと、みんな待てよ!』
愕然とする田中の脇を、一人の少女が小走りに追い抜いた。その姿を認めた瞬間、田中は殆ど無意識に彼女の腕を掴んでいた。
『オガちゃん!』
強過ぎる力で女の子の腕を掴んでいる、という事に気付く余裕も無い。
得体の知れない恐怖の中から、縋りつくように呼び掛けて………
『あの―――誰ですか』
逆に、怯えた声を返された。
自らの意識が闇の底に墜ちていく錯覚の先で……
「うわあぁ!!?」
田中栄太は、悪夢から目覚めた。見慣れた自分の部屋を見渡して、それでも安心出来ずに机の上を漁り、いつかの試験の用紙を見つけて漸く溜め息を吐いた。
我知らず左胸に手を当てる。そんな事が人間の証明になどなりはしないが、脈打つ鼓動はそれだけで生きている実感を与えてくれる。
「この世から……消える……」
切っ掛けは判っている。こんな夢を見る理由も解る。だからこそ、田中は己自身に苦悩する。
「佐藤は今頃……どうなってんのかな」
自分と同じように悩んでいて欲しいのか、それとも相棒の奮起に引っ張り上げて欲しいのか、それは田中にも判らなかった。
ベッドに寝転がったまま、佐藤啓作は自室の天井を見上げる。朝から食事も採らず、部屋からも出ず、起きてから一歩も動いていない。
「……くそっ」
何に向けてのものなのか、口汚い言葉が静かな部屋に響く。全ては昨日の、平井ゆかりとの会話が原因だった。
「(……俺達じゃ、マージョリーさんの所まで行けない)」
漸く見えた夢への懸け橋は、少年にどうしようもない現実を突き付けただけだった。マージョリーと同じフレイムヘイズには、なれない。彼を衝き動かすマージョリーへの憧れでは、フレイムヘイズには届かない。
それでも、佐藤はまだ諦めてはいなかった。
「(あれは、平井ちゃんがそうなったってだけだ。俺までそうなるなんて決まっちゃいない)」
平井に聞かされた、外れた世界の怖さ。それを十分に理解していながら、佐藤の心を占めているのは怖さではなく悔しさだった。
その心の動きこそが、佐藤に強く確信させる。やはり、そう簡単に諦められる夢ではないのだ。
「(フレイムヘイズだって元は人間なんだ。こうなりゃ片っ端から訊いて回ってやる)」
打ちのめされてなお強く、少年は己が夢を目指す。
フライパンから火柱が上がる。至近距離から迫る炎の猛威を、ヘカテーは絶妙なスウェーバックで躱した。
攻撃はそこで収まらない。弾けた油に炎が引火して胴体を襲う。千草が用意してくれたエプロンを守るべく、ヘカテーは飛んで来る一滴一滴を全てフライ返しで防いでみせた。
一見ヘカテーの優勢に見えるが、現実は甘くない。彼女が防戦に回っている今も、彼奴は炎に蝕まれているのだ。
「二人目いたぁぁーー!」
切実な悲鳴を上げて、控えていた平井がフライパンに蓋をする。突貫するのも躊躇われる火力だったが、平井には火除けの指輪『アズュール』がある。この場には千草もいるが、これくらい地味な力ならバレはしないだろう。
「ヘカテーちゃん、大丈夫!?」
慌てて駆け寄る千草を無視して、ヘカテーは平井からフライパンをふんだくった。
期待と不安、3:7の気持ちで蓋を開けると……そこには、かつて卵と呼ばれていた食材が凶々しく黒光りしていた。味見などするまでもない。
「……………」
三角巾を被った小さな頭を落ち込ませて、雰囲気だけで沈み込むヘカテーに、平井も千草も掛ける言葉が無い。
「(ようやくヘカテーが前向きに頑張りだしたって言うのに……)」
そう、吉田や平井の行動に思うところがあったのか、ヘカテーは千草らに料理の指南を願い出たのだ。悠二が一人追い出されたのはその為である。
しかし、結果はこの通り。ヘカテーは真面目な生徒だったし、多少危なっかしい所もあったが、手順は概ね間違ってはいなかった。千草らも目を離さずに監督していたと言うのに、何が起こったらこんなプチ火災に到るのか。
「……よし、まずはおにぎりから行ってみよう」
「(……コクッ)」
へこたれないヘカテーの頷きを以て、少女らの戦いは続いていく。
そんな女の戦場をリビングから眺めていた貫太郎に、千草がお茶を持って近付いて行った。
「悠二のやつ、少し見ない間に隅に置けない男になっている。平井さんの事は、電話で話してくれなかったね」
「私も先日知り合ったばかりなんですよ。悠二とは、以前からお友達だったみたいですけど」
居候のヘカテーの事はもちろん、シャナや吉田の事も貫太郎は伝え聞いている。ただ、ほんの二日前に千草に会った平井の事は知らない……否、忘れていた。
これだけ可愛らしい少女らに好意を寄せられるようになった息子の成長に、素直な感心と何とも言えない寂しさを感じる両親である。
「誰かと付き合ってる風でもなかったが、この分だと彼女達は苦労する事になりそうだ」
「大丈夫ですよ。少なくとも、私たちの時みたいな事にはさせませんから」
「ああ、もちろん」
自分たちの過去を振り返って、二人は静かに、固く、誓いを立てる。
何があろうと、どんな道を選ぼうと、自分たちだけは味方であろうと。
時刻は正午を回り、池を予備校に見送った頃になって、漸く悠二に帰還許可のメールが来た。居候と半居候が人の家で何をコソコソしているのかと訝しみつつ、悠二もさっさと帰途に着く。
高校に入ってから何かと多忙だったので、急に一人放り出されてもやる事がなくて困る。
「(理由もなしに除け者にされた訳じゃないと思うけど)」
女性は女性で色々とあるのだろう、と物分かりの良い男的な心境で納得する悠二。
メールが来る前から何となく家に向かって歩いていたから、大した時間も掛からずに到着する。
「ただいまー」
そうしてドアを開いた直後、仄かな焦げ臭さが漂って来た。それだけで『料理の失敗』と連想出来るシチュエーションである。
「(……失敗? 母さんやゆかりが?)」
不穏な気配に、悠二が小走りでリビングに辿り着いたらば、
「おかえりなさい」
三角巾とエプロンを装着したヘカテーが、文字通り待ち構えていた。ドアから1メートルも離れていない。
「あ、うん、ただいま」
危うくぶつかりそうになる足をギリギリで止める悠二。突然の事に、ヘカテーの珍しい格好に気付く余裕も無い。
そして、悠二の様子を冷静に観察する余裕が無いのはヘカテーも同じだった。
「お昼ご飯です」
まるで敵将に剣先を突き付けるような仰々しい雰囲気で、手にした皿を悠二の顔に伸ばす。
ご飯、という単語で、やっと悠二の中で一本の線が繋がった。
「(ヘカテーが、料理?)」
異臭の原因も、ヘカテーの格好も、他に考えようがない。
それ自体は別におかしくはない。最近のヘカテーは色んなものに興味を示すし、平井や千草の真似をしたがるのも頷ける。
しかし……それをなぜ悠二に隠していた?
「……………」
何故こんな、途轍もなく緊張した面持ちで、それでも悠二から目を離さない?
「(……ヘカテー、が……?)」
調子の良い妄想を、と笑い飛ばすには、悠二はヘカテーという少女に慣れ過ぎていた。
こんな冗談を言う性格では無いし、平井に何か吹き込まれていたら、こんな態度にはまずならない。
明らかに、下手な料理を悠二に見られたくなかったのだ。他でもない、悠二だけには。
「(いや、でも……)」
妄想というレベルでなら……これまでにも考えなかったわけではない。ミサゴ祭りでヘカテーが吉田を敵視し出した時、ほんの僅かに頭を過った。
あれは嫉妬だったのではないか、と。
「……………」
あまりの不意打ちに前後不覚になる悠二の前で、水色の瞳がみるみる内に不安に彩られていく。その雰囲気を敏感に感知して、悠二は慌てて目の前のおにぎりを手に取った。
「あ、ありがと、ヘカテー」
ちゃんとテーブルに着いて食べたい所だが、ヘカテーの瞳が今すぐ食べろと言っている。少し行儀が悪いが、このまま立って……
「(……食べられるのか?)」
改めて、手にしたおにぎりを見る。とても……三角形だ。
いや、普通おにぎりは三角形なのだが、これは少しレベルが違った。前から見ても横から見ても上から見ても三角形、とても手で握って作ったとは思えないほどの完璧な三角錐である。
外見だけで判断するのは失礼千万だが、立ち込める異臭と併せると言い知れない迫力があった。
「……あぐ」
まあ、どちらにしても食べるのだが。ほど良く水分を含んだ白米が、塩と海苔にスパイスされて舌の上を転がり……
「うん、美味しい」
ちゃんと美味しかった。塩の代わりに砂糖が入っているくらいは覚悟していたが、そんなベタなミスも見受けられない。こんな形なのに固く握り過ぎているという事もないし、お世辞ぬきで評価できる。
「…………!」
目に見えて、ヘカテーの雰囲気が明るくなった。微かに見開いた瞳の奥で、温かそうな水色の炎が揺れている。
桜色に上気した頬が、言葉より雄弁に彼女の感情を表していた。
「……………」
隠す気がない……と言うより、これで悠二に気付かれるとは微塵も思っていない、という風情だ。ヘカテーの心境を考えると、あまり大げさなリアクションは良くないだろう。
「これ、全部もらってもいい?」
新たに肩にのしかかる重さに情けなく冷や汗を流しながら、悠二は二つ目のおにぎりに手を伸ばした。
世界の何処かを彷徨う常夜の異界、星明かりに照らされたテラスに立って、一人の女性が溜め息を吐いた。
一見すれば普通の美女。しかしその額には人ならざる金眼が光り、左目は眼帯に隠されている。もっとも、この浮遊要塞に人間など一人も居はしないが。
「なるほど、やはり“壊刃”の言葉に偽りは無かったわけだね」
その女怪の言葉を受けて、後ろに控えていた悪魔が身じろぎする。悪魔と言っても、翼や角や尻尾以外は見るからに冴えない中年男性である。
「魔神憑きに戦技無双、殺し屋に九垓天秤までとは……なぜ大御巫は、このような危険な任務を御一人で……」
額の汗をハンカチで拭いながら、中年は出来るだけ選んだ言葉で返す。「こんな事は巫女の役目ではない」などと、思ったまま口に出来る訳が無かった。
その本心を当然のように察して、女怪は困った風に肩を竦めて笑う。
「任務ではないという事さね。道楽ばかりの将軍に比べれば可愛いものだが、このまま捨て置くわけにもいかんか」
いくら『零時迷子』があの天才に繋がるとしても、巫女の行動にしては不自然な点ばかりだ。報告の内容だけでは断言できないが、十中八九そのミステスが原因だろう。
よりによって人間の蛻とは、何だかんだ言っても、あの酔狂な神の娘というわけか。将軍あたりが聞いたら暴走しそうな話である。
「(あれで頑固な娘だ。下手に押さえつけても逆効果だろうねぇ)」
同じ三柱臣(トリニティ)でありながら、あの妹にばかり過酷な運命を強いている。その引け目を策謀に差し込む事なく、三眼の女怪は顎先を撫でる。
どう転ぼうと、その先に在る結果を次に活かす。逆境に挑む事をこそ己が本質に持つ彼女は、今も儘ならぬ道をどう拓いていくかを考えていた。
「久々に、デカラビアに働いてもらおうか」
避けられない運命の歯車が、音を立てて回り出す。少女の想いも、少年の迷いも、容赦なく巻き込んで。