赤い夕陽に照らされて、二つの影がアスファルトに伸びる。
ヘカテーやシャナほどではないが元から背の低い吉田の影は、実像よりも更に小さく見えた。
「はぁ……私なんて、どうせ……」
カップル騎馬戦で悠二とペアになれなかった。カップル騎馬戦で悠二とヘカテーが優勝した。しかも優勝したヘカテーは、その賞品を悠二の両親に譲った。そして吉田は……悠二とヘカテーが二人で素敵なレストランに行かない事に安堵してしまった。おまけに、今日いきなり現れた平井ゆかりまでが坂井家に泊まるという始末。
「まぁ、ほら、その……男はか弱い女の子の方が好きって奴も多いから」
劣等感と自己嫌悪で沈み込む吉田に掛ける池の慰めも何処か頼りない。
……無理もない。言っている池自身も、吉田の勝ち目が薄いと思ってしまっている。
「(やっぱり、厳しいよな)」
いつか、池は平井に訊いた。「吉田が振られる」と思うのかと。
『そんな単純な話でもないんだけど……ううん、そういう事に、なるのかな』
あの言葉の意味が、今ならば理解できる。
吉田がどれだけ悠二に好意を示そうと、どうしてもそこには『何も知らないから』が付く。悠二の真実を知らない吉田の想いは、あの朴念仁の心の奥までは響かないだろう。
「(……そう思うのも、僕の願望なのかもな)」
そこまで思ってから、呆れたように溜め息を吐いた。吉田と悠二が結ばれるのが嫌だからこんな考え方になっている、という可能性を否定出来ない。
「あー……やっぱり、駄目だ」
投げやりに呟いて天を仰ぐ。公明正大を掲げるメガネマンも、今回ばかりは自分を客観視できる自信が無い。
「……池君?」
「いや、吉田さんが駄目なんじゃなくて、僕の事」
こんな状態で何を言っても、全てが欺瞞になってしまう気がする。きっと気付かない内に、吉田か自分のどちらかを騙してしまう。
ならば何も言わずに口を閉ざして目を背ければ良いのか? それこそ欺瞞だ。
「……はぁ、それだけ本気って事だよなぁ」
本気だからこそ嘘は吐けない。本気だからこそ悩む。だったら、意地でも後悔だけはしない道を選びたい。
「……よし」
言い聞かせるように呟いて、池が足を止めた。不思議そうな顔をして振り返る吉田の顔を、池は真っ直ぐに見つめる。
「池く―――」
「吉田一美さん」
吉田の声を遮って、改まって名前を呼んだ。呼ばれた側に否応なく本気を悟らせる、そんな声で。
「僕は、貴女が好きです」
―――手提げのバッグが、軽い音を立てて地面に落ちた。
悠二とヘカテーに千草、貫太郎、そして自分の荷物を預けた平井ゆかりは、一人夕食の買い出しに向かっていた。
悠二やヘカテーも付き合うと言ったのだが、今回は坂井家の食卓を預けられた平井の使命感が勝った。
元々自炊していた平井にとって、買い出しくらい大した手間ではない。さっさと買って坂井家に帰宅したいところだった。
「ククク、逃げずに来た事だけは褒めてやるゼ」
「……いや、呼んだの俺らだし」
のだが、現在平井は御崎大橋下の河川敷に来ていた。
やって来た平井を待っていたのは二人の少年、佐藤と田中。何やら微妙に緊張した面持ちである。
「電話じゃ話せない事って? わざわざこんな呼び出し方したって事は、悠二やヘカテーにも聞かせたくないって事だよね」
あまりふざけるのも良くなさそうな空気だったので、さっさと本題に入る。
平井の主観だとコロッと忘れそうになるが、今の二人にとって平井ゆかりは『友人だったらしい“ミステス”』なのだ。
……となると、用件も自然と限られてくる。
「あー……うん。ヘカテーちゃんはともかく、あんまり坂井にゃ聞かれたく無いな」
前置きのように長い相槌を打ってから、佐藤が意を決したように口を開いた。
「平井ちゃんはさ、人間だった時から“坂井の事”知ってたんだよな?」
「うん」
佐藤がわざと短くした部分も正確に読み取った上で、平井はあっさりと即答する。
やはり、今の彼らが敢えて平井にする相談となると、こういう内容になる。
「俺たち、マージョリーさんに憧れてるんだ。あの人に付いて行きたい、でも今のままじゃ力が足りない……!」
柄にもなく熱く、佐藤が自分の想いを吐露する。対称的に、人の良い田中は気まずそうに視線を逸らした。田中には、佐藤ほどの確信が持てない。
「……平井ちゃんも、同じだったんだろ?」
真っ直ぐに、どんな嘘でも見破ると言わんばかりに、佐藤は平井を見つめる。
そう、佐藤は確信していた。平井は元々、自分たちと同じだったのだと。自分が人間であるが故に外れた存在に近付けない絶望を知っているのだと。
短絡的で視野狭窄のきらいはあるが……あながち的外れでもない。
「……ミステスになる気は無かったけどね」
それを直接口に出すほど佐藤は無神経ではないが、平井にはその意思がハッキリと伝わった。つまり……異能者になる方法を教えろ、という事だろう。
「ミステスは身体に宝具を持ってるだけのトーチだからね。基本的に自分一人じゃ存在を保てない。“今のあたしも”、悠二がいないといつか燃え尽きて消える」
ミステスの儚い運命、それがすぐ目の前にいるのだと教えられて、空気が僅かに張り詰める。
この二人はマージョリーの子分を、自称している割に、マージョリーから大した情報を貰っていないらしい。それもまた優しさなのかも知れないが……生憎と平井は彼女ほど優しくない。
「あたしは―――フレイムヘイズになりたかった」
悠二やヘカテーにさえ伝えていない、伝えるつもりのない過去を、平井は語る。
「外界宿(アウトロー)に関わって紅世と接し続ける事で、いつか契約の機会を掴めると思ってた。……でも、駄目だね」
過去の自分を嘲うように、平井は両手を上向けて肩を竦める。
佐藤と田中からすれば、ようやく見えた具体的な希望を否定された気分だった。
構わず、平井は続ける。
「フレイムヘイズは、紅世の徒を憎む人間と世界の安定を願う紅世の王が契約する事で生まれる。でもあの時……死にかけてたアタシに在ったのは、自分を殺した徒への憎しみでも、世界のバランスなんて立派なものでもなかった」
忘れる事など出来ない記憶を、想いを、言の葉に乗せる。
「一緒に居たい、それだけだった」
聞いていた二人の顔が赤く染まるのを見て、平井は両手を後頭で組んで背中を向けた。
偽るつもりも誤魔化すつもりもないが、流石に少し恥ずかしい。
「馬鹿だよねー……こんな気持ちで、フレイムヘイズになんてなれるわけない。だってあっちに何のメリットも無いもん」
自分自身を茶化すように笑ってから一転、真面目な顔で振り返る平井。視線に射貫かれるように、二人はビクッと震えた。
「力を求める理由がマージョリーさんなら、二人もフレイムヘイズになれないよ」
「っ」
無理だと、一番言われたくない筈の言葉を受けて、佐藤は即座に言い返せない。
平井に懸けた希望が、全てそのまま絶望へと反転していた。
同じ境遇の平井に無理だったのだから、自分たちにも無理だ、と。
「仮に契約出来たとしても、それで生き残れるとも限らない。封絶の中で動けないのも、悪い事ばっかりじゃないよ。あたしが死んだ時、佐藤君達もグチャグチャだったし。止まってなかったら助からなかったね」
「「……え?」」
みるみる内に、二人の顔が青ざめていく。懸けた希望を否定されるどころか、目指していた目標の残酷さを突き付けられている。
夢を追う少年には些か酷かも知れないが、平井はやはり容赦しない。
「それに、フレイムヘイズになること自体が死ぬ……ううん、消えるって事なんだよ。過去、未来、現在、自分が確かに存在していた世界から欠落する。ピンと来ないなら、あたしを見てみて」
同じように外れた存在を求め、同じように苦悩したからこそ、躊躇わない。
進むか戻るか、それは全てを知った上で決めるべきなのだ。
「……憶えてないでしょ? なーんにも」
寂しそうに苦笑する平井に……二人は何も答える事が出来なかった。
ウォーターランドから真っ直ぐに帰宅したヘカテーが、リビングのソファーにうつ伏せに寝転がる。
悠二はヘカテーと入れ替わりにシャワーを浴びている。プールにも当然シャワーはあったが、ああいう人を待たせかねない場面ではゆっくりと身体など洗えない。
「……………」
テーブルのグラスを眺めながら、今日の出来事を振り返る。
楽しかった。それは間違いない。……でも、何か許容できない違和感が、常に何処かにこびりついていた。
……いや、何かでも何処かでもない。理由などハッキリ解っている。
「(ゆかり……)」
当たり前のように輪の中にあった存在が、まるで異物のように扱われる違和感。ヘカテーからすれば、平井をそんな風に見る級友達こそが異質に見えた。
外れた人間は世界から欠落する。とっくの昔に理解していた筈の現象を目の当たりにして、何故か大きな衝撃を受けた。
「(存在を奪われた、人間……)」
解っているつもりで、解っていなかった。理解はしていても、感じ取れていなかった。
徒の巫女として生きてきたヘカテーにとって、それはどこまでも他人事でしかなかったのだ。
それが自分の日常に侵食して来るなど、想像した事も無かった。
「(この世に徒が在る限り続いていく、世界の理)」
人間の生活に混ざり、同じように大切な人を奪われて初めて、それがどれだけ残酷な事か思い知らされた。
ヘカテーでさえこうなのだ。当の平井は、一体どんな気持ちで今を……これからを生きていくのか。
だが、胸を苛む痛みと同時に、不可解な疑問も湧いて来る。
「(どうしてゆかりは、笑っていられるの?)」
胸の内に解がある事に気付かぬまま、巫女の少女は微かに震えた。