金色に燃える数多の蔓が、八方から弧を描いて向かって来る。逃げ場など無い。そして逃げる必要も無い。迫る蔓に等しい数の白条が仮面の縁から躍り出て、一瞬にして絡め取る。
「舐められたものでありますな」
瞬間、攻めていたはずの植物の大群が木の葉を散らすように舞い上がった。巨大な花が見えない穴に吸い込まれるかの如く渦を巻いて殺到し、一纏めになるや否や万条の槍衾によって串刺しとなる。貫かれたリボンの表面に桜色の自在式が浮かび上がり、花の魔物は内側から爆火を撒いて砕け散る。
破壊が得意とは言えない『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルだが、それはシャナやメリヒムと比べての事。いくら天使の眷属と言えど、燐子風情ならばこの通りである。
「急がなければ」
「迅速救援」
ほんの少し前まで、ヴィルヘルミナはこの森の真ん中で一人の王と対峙していた。
───“逆理の裁者”ベルペオル。
ヘカテーやシュドナイと同じく、『三柱臣(トリニティ)』に名を連ねる創造神の眷属である。……もっとも、ヴィルヘルミナはその実力の片鱗すら見たとは思っていない。牽制程度の攻撃しか仕掛けず、徹底した防御と回避。あげく燐子を残して姿を消してしまった。明らかに時間稼ぎを目的とした戦い方だった。
そして、そのベルペオルが燐子を残して去ったという事はつまり……そういう事なのだろう。既に手遅れである事を半ば覚悟しながら、ヴィルヘルミナは全速力で元の温泉旅館まで飛翔する。真っ先に思ったのは、「やはり封絶は解けている」。次に思ったのは、「修復されているなら、恐らく彼らは無事だろう」だった。
結果は半分アタリで、半分ハズレ。
「友人の一人が、連れ去られた?」
悠二と平井は手酷く痛めつけられたものの命に別状はなく、しかし彼らの友人である池という少年が攫われた。はっきり言って、意味が解らない。
「不可解」
身の回りの友人を御崎市の外に逃がす。
ヴィルヘルミナからすれば大して意味の無い、しかし悠二の立場を考えれば十二分に理解できる提案に乗ったのは、あくまで悠二が心置きなく戦えるようにと配慮しての事だった。『三柱臣』の内二人までもが、わざわざ何の力も持たない一般人を狙って来たなどと、いざ目の前で起こっても現実感が湧かない。
「……わざわざ攫ったって事は、少なくとも今すぐ危害を加えたりはしないはずだ。取り戻す相手が一人から二人になっただけさ」
当の悠二は、憤怒とも焦燥ともつかない真顔で、気を失った平井に回復の自在法を掛けている。とはいえ、彼の場合非日常に関わる時にこういう“不自然なまでに平静な”態度をとるのはいつもの事である。残念ながら、ヴィルヘルミナにその胸中を察する事は出来ない。
だが、
「まさか、本当に人質に使うなんて事はないだろうしね」
身近な友人を、自分を遥かに凌駕する強敵に連れ去られた男の姿には、とても見えない。憤り一つ見せる事なく決戦を見据える黒い瞳は、頼もしいを通り越して不気味ですらあった。メリヒムがここにいたら、間違いなく面白そうにほくそ笑む事だろう。
「………………」
“まさか”という気持ちと、“こいつならやりかねない”という気持ちが鬩ぎ合う。何度も共に死線を潜り抜けてきたヴィルヘルミナでさえこうなのだ。フレイムヘイズ兵団や『大地の四神』に命を狙われるのも納得である。
「(まったく、いつもいつも)」
非常識な輩の規格外な行動に振り回されるのは、いつだって自分だ。
何百年経っても変わらない厄介極まる世の不条理に、ヴィルヘルミナはわざとらしいほど大きな溜息を吐いた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
日本という小さな島国を緩やかに進む『星黎殿』。
攫った人間を燐子の見張る客室に放り込んだ二人の天使が、
銀の散りばめられた道ならざる道を歩く。数千年の悲願成就を前にして、その足取りはどこか重い。
「こうも容易く事が運ぶなら、我々自ら出るまでもなかったかねぇ」
「『タルタロス』による完全な気配隠蔽からの奇襲。魔神さえ屠った戦法が上手く嵌まっただけだ。“本番”ではこうはいかんさ」
池速人の誘拐はもちろん、こうして連れてきた今になっても、ヘカテーは彼に会おうとはしない。『大命詩篇』の最終調整に追われているという事もあるが、それ以上に……御崎市での日常を想起させるものに触れたくないのだろう。
「本番、ねぇ……。開戦直前にあれだけ手酷くやられても、やはり来ると思うかい」
「残念ながら確実だろう。出来ればヘカテーの視界の外で片付けたいが、そう上手く行くかどうか」
これだけ圧倒的な戦力を持っていながら、シュドナイもベルペオルも敵を一切侮っていない。何せ、神をも殺すと呼ばれた天罰神を殺してみせたのは他でもない彼らなのだ。創造神が目覚めようと、どれだけの軍勢を引き連れようと、絶対などあり得ない。
まして楽園創造は敵の土俵で行わなければならないのだ。いかな『三柱臣』でも、余裕と呼べる程のものは無い。
「残念ながら、というのはどうかねぇ。来なければ良いと、本気で思えるかい」
或いはそれは、願望でもあったのかも知れない。
「ヘカテーは己が使命に準じて自ら消える。───かつての“頂の座”女媧がそうだったように。だがヘカテーは……もう使命の為に使命を果たそうとしてるわけじゃない」
ヘカテーにこれほど想われている男が、この程度で尻尾を巻くような腑抜けであって欲しくない。
ヘカテーにこれほど想われている男が、都合の良い未来だけ受け取ってヘカテーの死を享受するなど許せない。
坂井悠二が来ればヘカテーが苦しむ事など判りきっているのに、そう思わずにはいられない。
矛盾した願いと晴れる事なき葛藤に苛まれながら、
「だからこそ、大命は必ず成就する」
二人は決して、歩みを止める事は無い。
「坂井悠二がヘカテーを求めれば求めるほど、ヘカテーの想いは大きくなる。そしてその想いこそが、ヘカテーを大命へと衝き動かす最大の原動力になるのさ」
将軍も、参謀も、神さえも、いつも創造の対価を、巫女だけに背負わせている。故にこそ、己に課せられた領分は何があっても完遂する。ヘカテーが消えても、ヘカテーが傷付く事になっても、ヘカテーの望んだ楽園は断固として実現させる。
それが同じ眷属として、ヘカテーの覚悟に応える敬意だった。
「(……遺せるものが増えたというなら、それに越した事はない)」
サングラスの奥の眼を細くして、シュドナイは健気な妹の胸中を思う。
神威召還の供物として、ヘカテーは消える。そんなものは生まれた時から解っていた事だ。だがそんな運命に彼女の細やかな我が儘を乗せる事が出来るなら是非もない。
「この上、ヘカテーの決意を強める必要もないだろう。奴らが来るなら、俺は全力で排除するだけだ」
シュドナイも、ベルペオルも、自分達が負けるなどとは露ほどにも思ってはいない。それは慢心というより、何が来ようと何が起きようと目的を完遂させるという決意の現れだ。
そして、その決意を誰より強く持っているのは、他ならぬヘカテーだった。
「(あのヘカテーにそこまで想われているお前が、心底憎たらしいぞ)」
必ず再び対峙する銀の影を思い浮かべて、最強の徒は知らず拳を握り固める。やり場の無い虚しい怒りは、その命が尽きるまで消える事はないのだろう。
───その時の彼は、そう思っていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
飲み物を買ってくる。そう言って部屋を抜け出して来たのが何分前だっただろうか。
月光に照らされた旅館の庭を、佐藤は一人でトボトボと歩いていた。
「………………」
池が攫われてすぐに、悠二と平井とヴィルヘルミナは行き先も告げずに発った。それ自体に文句はない。むしろ、今もここでグズグズしていたら感情任せに怒鳴りつけてやるところだ。
しかし当然、これで緒方や吉田が納得する訳がなかった。いきなり温泉旅行に連行されたかと思えば、今度は悠二と平井とヴィルヘルミナと池がいなくなったのだ。説明の一つも求めない方がおかしい。
最初は知らぬ存ぜぬを貫いて全部悠二に丸投げしてやろうかと思っていた佐藤だが、如何せん田中の状態が悪すぎた。誰とも目を合わせず顔面蒼白で黙りこくる田中の隣で、何も知らないは通らない。
だが結果的に、それが緒方の追求の手を止めた。あまりにも深刻な田中の様子が安易な質問を躊躇わせたのだ。或いは、緒方や吉田も思ったのかも知れない。
“この異常な状況は既に、得体の知れない大きな事件に巻き込まれた結果なのではないか”と。
「(……田中みたいな態度になる方が、よっぽどまともだよな)」
佐藤には、田中ほどの動揺は無い。池を心配する気持ちも、悠二を応援する気持ちもある。だが……抗いようもなく湧き上がる別の気持ちが、佐藤に奇妙な冷静さを与えていた。
「(俺って一体、何なんだ?)」
何も言わずに悠二は消えた。協力も相談もなく、この旅館に自分達を残して。
徒は、池だけを連れて去って行った。ただの人間な筈の池だけを連れて、佐藤には見向きもせず。
ヴィルヘルミナも、敵が池以外には無関心と見るやフレイムヘイズも残さずに放置した。この旅館も外界宿(アウトロー)の息が掛かった施設なのだろうが、それだけだ。
何の脅威にもならない。何の役にも立たない。どこまでも無力で、どこまでもちっぽけな餓鬼。それを言葉などより遙かに雄弁に突き付けられて、腸が煮えくり返る。
「(俺って奴は……)」
そして、友人どころか世界の一大事にこんな気持ちを捨てられない己に、強烈な自己嫌悪も感じていた。傍目にはどうしようもなく重症な田中が、今は無性に眩しく見える。
一人でフラフラと抜け出して来たのも、緒方の追求から逃げたというよりは、今の自分の浅ましい内心を悟られたくなかったからだ。
「(で、俺がこうやって悩んでるのも無意味ってわけだ。……ハッ、笑える)」
人目を避けるように林道に進むにつれて、佐藤の心もまた己の暗がりへと向かって行く。
どうせ誰もいないのだからと、開き直りに近い感覚で自身の心を吐き出す。そうでもしなければ、燻った気持ちをいつまでも内に収めておけない気がした。
「(力不足? 身の程知らず? 解ってんだよそんな事は! だから強くなりたかったのに、誰も切っ掛けをくれなかったじゃねぇか!)」
限界まで握り絞めた拳を、目の前の樹の幹に叩きつける。皮が裂け、骨が軋み、腕が痺れる。決して小さくはない痛みの代償に、かっこ悪い自分を少しだけ追い出せたような錯覚を得る。
「……もう、やめよう」
今までずっと抗い続けたものを、佐藤の中の冷静な部分が受け入れ始める。
「悩んだって意味ねーし、頑張ったって何も出来ねーし、どうせ何一つ変えられないなら、苦しむだけ損ってもんだ」
諦めてしまえば、楽になれる。自分は無力な人間だと受け入れて、帰ってきた友人を出迎えてやるだけで良い。
手始めに、消沈している田中を励まして、混乱している吉田と緒方を安心させる。今は池すらいないのだ。これは自分にしか出来ない大切な役割だろう。
「大体、もう俺が出しゃばる必要なんて───」
流れるような自虐。厳然たる事実の怒濤が、不意に止まる。自らが口にした言葉によって。
「理由が、無い……?」
言葉にされても、姿の消えた写真を見ても、誰もいないあの部屋を見ても、実感出来なかった“それ”が今、去来する。
───足掻く意味など無い。追い掛ける背中は既に無いと、それを認めてしまった事で。
「マージョリーさんは、いないんだから……?」
ハリボテが崩れて、そこに大きな孔が空く。
「あぁ……あ、ぁ……」
その孔を掻き毟るように数秒呻いて、漸く襲って来た途方もない痛みに、
「ウォオオオアアアアァァァーーーーーー!!!」
無力な少年は慟哭した。悲鳴とも怒号とも聞こえる混沌とした声の奔流が、林の静寂を裂いて木霊する。
「(ああ……俺は、俺は……)」
普段はだらしがなくて、でもいざとなれば誰よりも獰猛で鮮烈で、強さの象徴のような彼女に憧れた。
そう……憧れでしかなかったのだ。だからこそ、マージョリーが死んだという“あり得ない”事実を、いつまでも認める事が出来なかった。
坂井悠二は、マージョリー・ドーを死なせた事を、謝った。きっと彼には解っていたのだ。マージョリーが……誰にも負けない無敵の英雄などではないという事を。
「(マージョリーさんの事を、何も知らない)」
子分だの付いて行くだのと身の程知らずに喚いておきながら、肝心のマージョリーの事を何も知らない。“自分の理想”しか見ていなかったという事実が、言葉にならない後悔に混じって我が身を蝕んでいく。
「何が子分だ! ただのファンじゃねぇか!」
彼女と過ごした日々も、それを追おうと重ねた覚悟も、何もかもが薄っぺらい虚構のように思えてしまう。泣いても喚いても治まらない。苦しくて苦しくて仕方ない。
「(何でこんなに……辛いんだ……ッ)」
マージョリーはもういない。失った存在が、それを目指した想いが、本物ではないというのなら少しは楽になってもいい筈だ。
苦しみから逃れたくて過ぎった思考は、しかし何の慰めにもならない。胸を苛む痛みは誤魔化しようもなくそこにある。
「ああ、そうか……」
その痛みに、ほんの少しだけ、救われた。
自分にとってマージョリーが、マージョリーを追いかけた日々が、取るに足りないモノに成り下がった訳ではない。それだけの事が、佐藤の心をギリギリで踏み止まらせた。
大切だから……大切だったから、痛いのだ。
「……だっせぇ」
誰を守ろうとした訳でも無い。どうしようもない理由など何も無かった。ただ目の前の姿に憧れて、その強さの意味も解らずに追い掛けた。
確かに……小さい。小さくて、薄っぺらくて、格好悪い。だが───本気だった。
「どうすれば、よかったんだよ……」
後悔も自己嫌悪も、今になっては意味を為さない。既にマージョリーはいないのだから。
胸に渦巻いた負の感情は解に至る事なく巡り続ける。あまりにも無力な少年の、あまりにも救いのない絶望に───
「ッ……!?」
応えるようなタイミングで……パキリと、小枝を踏む音が聞こえた。
別にここは佐藤の部屋でも庭でもない。人気のない場所を選んだつもりでも、誰かに見られても何の不思議もない。しかし佐藤の胸に去来したのは、無様を見られたかも知れないという羞恥の感情ではなかった。
「あれ、は……」
目を凝らしても何も見えない闇の奥。振り返った視線の先に在ったものが、佐藤の目を釘付けにした。
「銀の、炎……?」
打ち拉がれた少年を闇の底へと誘うかのように───この世ならざる淡い灯火が揺れていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「このタイミングでツレを攫われた、ね。あれだけデカい口を叩いた直後に何やってんだか。こっちの士気にも響いてくるぞ」
「あの“千変”に不意打ちされて、生きてるだけでも大したものだよ。あっちにその気があったらの話だけどね」
他人事のような調子でサーレ・ハビヒツブルグがブランデーの入ったグラスを鳴らし、契約者たるギゾーが気取った口調で答える。
「それってやっぱり、『仮装舞踏会』にとっても坂井さん達が重要人物って事ですよね」
「ここまで来て“頂の座”にヘソ曲げられちゃたまんないって? “千変”の奴、お姫様にだけはダダ甘だからね~」
「ま、あいつらに振り回されてるって意味では私達もそんなに変わんないけど」
大真面目に唸るキアラ・トスカナ・ハビヒツブルグにウートレンニャヤとヴェチェールニャヤが姦しく相槌を打つ。
「ああ、善戦してくれるに越した事はありませんが、いずれにしても我々のすべき事は変わりません」
「ふむ、まかり間違って勝ってもらっても困るしの」
相も変わらず淡々と言ってのけるカムシン・ネブハーウに、ベヘモットが更にハッキリと断じる。
「つーか何でこの場にヴィルヘルミナがいねーんだよ。見張るだけなら他の奴でも良かっただろうが」
「彼女も色々複雑な立場なんだよ。君、判って言ってるでしょ」
ふて腐れるレベッカ・リードを腕輪からバラルが宥める。
「あの娘は確かに優秀だけど、それ以上に優しすぎる。兵団の一人ではなく、彼らの味方として扱ってあげた方がいいわ」
「こちらの意向を伝えたところで、素直に聞き入れてくれる保障もありませんからな。どう転んでも悪者は我々のみ。彼女には蚊帳の外にいて貰いましょう」
眼を伏せて十字を切るゾフィー・サバリッシュと同じく、タケミカヅチもまたレベッカの不満を一蹴する。
御崎市から十数キロ離れた外界宿の一室で、世に名だたる五人のフレイムヘイズが顔を付き合わせていた。恐らくは最期の最期まで意思統一する事の出来ないフレイムヘイズ兵団から離脱した彼らでも、この程度の融通は利かせられる。或いは、こうして堂々と外界宿を利用する事もまた、自分達の正当性を示す行為の一環なのかも知れない。
「ハッ、こんなバラバラに戦って勝てる相手かよ」
彼らを始めとしたフレイムヘイズ数百人は、ただ座して大命の遂行を見守ろうという保守派でもなければ、楽園に逃げられる前に己が仇を討たんと暴走する強硬派でもない。
楽園創造を容認しつつも己が信念を貫くべく、坂井悠二の号令に乗った者達である。
「だからせめて、僕達だけでも一致団結しようって事さ。気持ちはよく解るけど」
使命を奪われ、大義を失ったフレイムヘイズ達にとって、悠二の提案は甘く、魅力的だった。あまりにも都合が良く、理想的で、それでいて坂井悠二がいなければ成立しない作戦だった。
もはや大半が敵と言っても過言ではないフレイムヘイズを誑かす発想。それを実際に体現してみせる能力。その双方に薄ら寒い感嘆を覚えさせられる。既に彼は、ベルペオルやシュドナイとは別種の“怪物”として周知されていた。
「出来る事なら敵対したくないってのは、俺達だって同じなんだけどな」
作戦自体に不満は無い。結果として得られる未来も、彼がつい最近まで人間だった事を考慮すれば妥当なものだろう。しかしレベッカらには、無条件で悠二の味方になれない理由があった。
それは、悠二の提示した作戦に於いても“頂の座”ヘカテーの消滅は避けられていないからだ。その一点だけで、悠二の裏を疑うには十分すぎた。そして当の悠二は、それを公然と認めてすらいるのだ。
『知っての通り、僕はヘカテーを連れ戻す為に命懸けで星黎殿に乗り込んだ。大命の内実を知った今でも、その気持ちは変わらない。だからこれは、ここにいるフレイムヘイズを焚き付ける為の提案だ』
レベッカ達も、楽園の創造自体を否定している訳ではない。故に当然、その礎となるヘカテーの生存を望んではいないのだ。
『共同戦線って言うより、三つ巴になるのかな。貴方達の奮闘に期待してるよ』
坂井悠二は“頂の座”ヘカテーの奪還を諦めていない。必ず『祭基礼創』を阻みに掛かって来る。レベッカ達は、そこに至る為の露払いとして集められたのだ。抗い難い餌と、確かな光明によって。
一同の結論は、『敢えて乗る』というもの。
何せ餌そのものは本物な上、一番分が悪いのはどう考えても悠二の方なのだ。むしろ生意気な小僧に吠え面をかかせてやろうという者が多かった。……或いは、そうやって反発を生む事すら悠二の思惑通りなのかも知れない。自軍の何倍もいる敵に挑むという絶望的な戦況は変わらないのだ。気迫の種は一つでも多い方が良いだろう。
「理想としては、こっちの作戦は成功して、坂井悠二は間に合わずに秘法が発動。俺達はそのまま新世界に徒と一緒に離脱……かな」
この場にいる誰もが……否、恐らくは坂井悠二自身でさえも、言葉にせずとも理解していた。
「本当に……そう出来れば、良いですね」
もし本当に、坂井悠二が大命を阻止しそうになった時は───フレイムヘイズがその背中を撃つのだと。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
決戦を控えた真冬の空の下、ビルの屋上からホテルの一室を覗く二つの影があった。
一人は桜髪のメイド・ヴィルヘルミナ。一人は銀髪の執事・メリヒム。フレイムヘイズや徒にとって睡眠は不可欠な行為ではないとは言え、それでも決戦前夜の行動としては不自然に過ぎた。
見下ろす視線の先、窓の向こうで抱き合う男女の存在を考慮しなければ、の話だが。
「何をやっているんだかな」
対象は言うまでもなく、坂井悠二と平井ゆかり。他の討ち手に推され、ヴィルヘルミナ自身も快諾したのがこの監視任務である。因みに、監視対象には隣にいるメリヒムも含まれている。
「ななな何をも何も、見たままでありましょう。貴方ともあろう者が何をわわ、童のような事を」
「錯乱」
「見たままと言うならまず焦点を合わせろ。何のための監視だ」
無表情のままカタカタと全身を揺らすヴィルヘルミナの頬を、メリヒムが雑に叩く。
あの二人の関係を思えば連想するのも無理はないが、よくよく見ればそれが情事などではない事くらいは判るのだ。
「(シャナがいなくて良かった)」
しかしまあ、遠目にはイチャついてるように見えるのも確かである。可愛い可愛い娘の心中を思うと、今すぐあの部屋に特大の『虹天剣』を撃ち込みたくなる。
「んん…………あれは、恐らくは彼女の自在法であります。敢えて警戒する程のものでもないかと」
「小事」
「ん? ……ああ、なるほど。つくづく不憫なものだな。好き放題に振り回されて」
咳払いと共に再起動したヴィルヘルミナが、一つの経験則から彼らの様子を看破し、メリヒムが他人事に肩を竦めた。
何の事はない。決戦に際して何かを企んでいて、それは外からは解らないようになっている、というだけだ。大体、このタイミングで堂々と手の内を晒すほど馬鹿ではないだろう。監視している、という事実によって行動を制限していればそれで十分なのである。
そして、その程度の任務にわざわざヴィルヘルミナを指名した理由にも、大凡察しがつく。
状況次第でフレイムヘイズは坂井悠二の敵に回る。そして、その意図をヴィルヘルミナに伝える気は無いと、そういう事だ。
「(随分と、余計な気を遣わせているようでありますな)」
「(妥当采配)」
ヴィルヘルミナには坂井悠二や平井ゆかりを討つ事は出来ない。しかし、彼らに弓を引いたフレイムヘイズの敵に回る事もまた出来ない。そう考えられているのだろう。……実際、それほど外れてはいない。もっとも、彼女らの思っているような結末にはならないだろうが。
「(せいぜい、上手く出し抜くのでありますよ)」
仮面の討ち手は少年の真意を知らず、それでも掌上で踊ると決めた。この先に待ち受ける未来を思い描く事もなく。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
何度も何度も、繰り返す。いざという時に失敗しないように、辛くて挫けてしまわないように、何度も何度も繰り返す。
泣いてはいけない。嘆いてもいけない。自分の望む未来を、自分の意志で、自分の為に掴み取る。誰が憐れむ必要もない、完全で完璧な結末を迎える為に。
「(……大丈夫。怖くない)」
満天の星空を仰ぐでもなく、両手を組んで背中を丸めて、“頂の座”ヘカテーは思い描く。───自由な徒の楽園と、それによって訪れるこの世の安寧を。
「(これで、いい)」
神の放逐から数千年。使命遂行を待ち続けた永い歳月も、彼と出逢って過ごした人間としての日々も、育んだ想いも、生まれてしまった生への未練も……何一つ無駄ではなかった。
怖いという事実が、そう思える尊さが、より強い確信となって背中を押してくれた。
「(思い残す事は、何も無い)」
一方的に言い捨てた言葉だが、約束だと信じている。いや、約束などしなくても、何の心配も要らないだろう。
「(悠二の事を、頼みます)」
───彼女ほど彼を想っている者など、この世のどこにもいないのだから。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
何度も何度も、繰り返す。いざという時に失敗しないように、辛くて挫けてしまわないように、何度も何度も繰り返す。
泣いても良い。嘆いても構わない。けれど……折れる事だけは、絶対に許されない。歩みを止めれば全てが終わる。終わらせたくなければ、勝つしかないのだ。
「ゆかり!!」
力任せの抱擁と、絶叫にも似た呼び掛けが、平井ゆかりを夢想から現実へと引き戻した。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
バラバラになりそうだった心が、急速に元の形に収束する。今ここに在るモノを確かめるように、弱く強く縋りつく。とっくに濡れていた冷たい頬の上を、今度は暖かい涙が滑り落ちて行く。
「悠、二……」
身体の震えを隠す事もなく、自分を抱き締める愛しい少年に身を預ける。これで……良いのだ。いくら覚悟を決めていようと、この辛さに慣れる事など出来はしない。それでも、必ず“ここ”に帰って来ると刻み付けておけば……耐えられる。
「……ごめん、こんなやり方しか出来なくて」
15分程だろうか、抱き締めたまま背中を擦り続けてから、悠二は腕の中の少女に謝った。頬を寄せるほど近くにある悠二の顔は、今の平井からは見えない。それでも、その表情が傷ましく歪んでいる事はハッキリと判った。
「……ま、確かに主人公の発想じゃないよね」
悠二が傷付く事を望んでいる訳ではないのに、今……悠二が胸を傷めている事が平井は嬉しかった。
ただ優しいだけでも、ただ非情なだけでもない。本当は優しいのに、本当は辛いのに、歯を食いしばって戦う事が出来る強い少年にこそ、惹かれたのだ。
「誰も彼も敵に回して、色んなもの犠牲にして……て言うかもう、神様じゃなくて悠二がラスボスだよね」
「………………弁解はしない」
身を捩って彼の左腕だけに背中を預けて、両手を首に回す。罰の悪さと気恥ずかしさで赤くなった困り顔が可愛らしい。この悪辣な少年を可愛らしいなどと思える女が、世界に何人いるだろうか。そう思うと、奇妙な誇らしさが湧いてくる。
「でも……いいんじゃない?」
優しくて、悲しくて、多分どこか歪んでいるこの人には、あたしがついていてあげないと。
「普通の人生なんてとっくの昔に外れてるもん。ここまで来たら、魔王の花嫁も悪くないよ」
思った通りに、吹き出すように悠二は笑った。こんな時でも、そんな事で楽しそうに笑う事が出来る平井に引っ張られるように。
どちらからともなく指を絡めて、ベッド脇の灯りを消す。温かい橙に照らされていた寝室に青い月光が差し込んだ。冷たくも優しい夜空の光は、自然と明日対峙する少女を思い浮かばせる。それがまた来るべき戦いを、その先の光景を想起させて、絡めた指を強く握る。
「(ヘカテー、あたしも覚悟決めたよ)」
命を懸けて戦う事でしか互いの望む未来を掴めないと言うのなら、それ以上を懸けてでも受けて立つまで。どれだけ危険であろうと関係ない。
「(あたしは悠二を、信じてる)」
一人の少年を想う二人の少女。似て非なる恋は異なる形を以て顕現し、世界を闘争の渦へと巻き込んでいく。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
───12月24日。雪の降りしきる聖夜だった。
いつかの大戦とは比較にならない大群勢。全世界から終結した世界中の紅世の徒の気配が、鋭敏な悠二の感覚を狂わせる。
『日本』としか伝えられていなかった大命遂行の地が、『御崎市』とされた事で、その気配の密度を爆発的に高めていた。単純に数だけで見れば悪夢としか言い様がないが、あれを整理する為にほぼ全ての人員を割いているせいで『仮装舞踏会』の軍団もまともに機能していない。
あちらはあちらで物凄く大変そうだ。
「(勝っても負けても、天変地異か)」
この数を捌く為か、単純に秘法発動に膨大な時間が掛かるのか、それとも悠二の生存率を僅かでも上げようというヘカテーの配慮か、何にせよ一番の懸念だった時間稼ぎは何とかなりそうだ。
「(色んな事が、あった)」
8ヶ月と少し。時間にすればたったそれだけの、しかし間違いなく人生で最も濃密な日々が、否が応にも蘇る。
楽しい事ばかりだった訳じゃない。辛い戦いの記憶や、消える事の無い心の傷も確かにある。だがそれら全てがあったからこそ、今ここに在る想いを信じる事が出来る。
「(ヘカテー)」
勝てば全てが変わるだろう。負ければ全てが終わるだろう。
普通に考えれば、こんな馬鹿な話は無い。外界宿の御偉方がそうしているように、安全な場所で楽園の創造を見送るのが一番賢くて無難な選択だ。そんな考えを鼻で笑い飛ばせる自分が、何だか少し誇らしかった。
「(僕も少しは、変われたのかな)」
理不尽な運命から、ただ自分の日常を守るだけの日々は終わった。今から自分達は、運命を破壊してでも望んだ未来をもぎ取りに行く。
「(変わって、良かったのかな)」
振り返ればそこには、ただ安寧を受け入れる事を拒み、命懸けで抗うと決めた数百人の誇り高きフレイムヘイズ。中でも、敵地の真ん中に飛び込む数人が目に付いた。歴戦の英雄ばかりと言えど、一体何人が生き残れるのか。今さら引き返す気など毛頭ないが。
「(本当に、感謝しないと)」
ヴィルヘルミナ、メリヒム、そしてこの場にいないシャナには、悠二がフレイムヘイズの思惑を越えた何かを企んでいる事を勘付かれている。気付いてなお、何も訊かずに悠二のシナリオ通りに動こうと努めてくれているのだ。いくら使命に忠実だった以前の姿を装っても、それくらいは解る。
「(せめて勝たなきゃ、顔向け出来ないな)」
これから起きる……いや、起こす事を考えると、心臓を締め付けられるように胸が痛む。いざ向かい合った時、自分が本当にそれを出来るのか。絶対の自信などありはしない。
それでも──────やろうと思った。
「行こう、ゆかり」
「オッケ」
掛け替えのない無二のパートナーと共に、世界から外れて歩んで来た、これまでの全てを背負って、
「始めよう、この世の運命を賭けた戦いを」
どうしたって変えられない事を、今度こそ変える為に。