冷たい風の吹き抜ける御崎大橋の歩道を、坂井悠二は一人歩いていた。平日の午前という事も手伝ってか、橋の上には他に誰もいない。
「(運が良かったと、そう考えるべきなのかなぁ)」
自分が黙っていれば、恐らく大した問題もなくこの街は……否、“この世”は安息を手に入れるのだろう。その事への罪悪感と、それでも全く止まる気のない自らに苦笑しながら、悠二は無造作に親指を弾いた。
見えない何かは緩やかに弧を描いて水面に落ち、見えない波紋を広げながら解けていく。
「(何もかもがぶっつけ本番。勝算は少ない割りにリスクは特大。我ながら馬鹿げた事してるな)」
理屈っぽい自分らしくない動機と信念。だが、そんな今の自分を悪くないとも思う。
今までずっと受け身だった自分が好き勝手に状況を搔き回してやるという気概が、罪悪感と等量の高揚となって、口元を自然と歪ませる。そして即座に、その過程で生まれるだろう必然に消沈する。
いかにも情緒不安定な忙しい百面相を、
「学校サボって何してるんだ? 不良少年」
ある意味、今一番見られたくない人物に見られてしまった。
「……帰ってたんだ、父さん」
神に仇なす反逆者も、この時ばかりは見た目通りの少年のように引き攣り笑いを見せるのだった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
生まれて来る事が出来なかった子供。それでも確かに存在した子供の分まで生きて欲しいと、生まれて来る事が出来た子供に名を付けた。
名を───悠二。
この真実を、貫太郎は今まで悠二に話した事は無い。あまり子供に聞かせられる話でもないし、良いきっかけもなかった。
しかし今、貫太郎は悠二にそれを話して聞かせた。
「だから次に生まれて来る子供に、“三”の字を付けようと思ってる」
もう子供は出来ないだろうと言われていた千草が、この度めでたく懐妊した事が判ったからである。
「……そっか」
滲み出るような穏やかな息子の笑顔は、自分よりも妻に似ていた。
「ごめんね。大事な時に傍に居られなくて」
「千草さんに顔は見せないのか?」
「連れて帰るって約束したからね。次に帰る時は、ヘカテーと一緒だよ」
学校を休み、家を飛び出し、事情すら一切話さない息子に対して、貫太郎もまた一切の詮索をしない。
こうして向かい合っているだけで、我が子が“非常識な何か”に、本気の決意で挑もうとしている事くらいは解る。ならば責める気も止める気も無い。
「順調なのか?」
「全っ然。凄く大変だし、勝っても負けても地獄。始めてもない内から気が滅入ってるよ」
悠二の方も、一切事情を知らない貫太郎に、伝わりもしない愚痴を零す。どちらにとってもこれで良いのだ。
少なくとも、今はまだ。
「けど……決めたからにはやってやる。僕だって、これでも結構怒ってるし」
見慣れた息子の横顔が、見慣れぬ酷薄の色に染まっている。見慣れない筈のその表情が意外と似合っていて、貫太郎は何とも言えない気分になった。
「………………そうだ、父さん」
少し考える素振りを見せてから、悠二は黒い瞳で父を見る。
聞く前に既に、答えは決まっていた。
「頼みたい事があるんだけど」
「いいぞ。困っている人を助けるのが、私の仕事だからな」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ヘカテーの失踪。シャナの消滅と復活。坂井悠二の旅立ち。フレイムヘイズ兵団の敗北。マージョリー・ドーの死。
激動の裏側で、少なくとも傍目には変わらず流れ続ける日常の中で、こんな時間を夢見ていなかったと言えば嘘になる。
……が、それがこんな形で実現するとは思っていなかった。
「何この状況」
軽快に峠を走り抜けるワゴン車の中で、池速人は困惑塗れの呟きを零した。
「保護者同伴、二泊三日の温泉旅行。費用は全額こっち持ち」
それに淡々と事実のみを返す、“助手席の坂井悠二”。左右には同じく困惑顔でいる佐藤啓作と田中栄太。後ろの席では、吉田一美や緒方真竹と一緒に平井ゆかりも座っている。そして無表情にワゴン車を運転しているのはフレイムヘイズ、ヴィルヘルミナ・カルメル。
あまりにも理解を超えた展開に、池はついさっきまでの日常を振り返ってみた。
いつものように目を覚まして、いつものように顔を洗って、朝食を食べて、歩いて登校してみれば……校舎が爆破されていた。
校門に貼り出された『臨時休校』の紙を前にざわつく生徒達に混じって……何故か、旅立った筈の平井ゆかりがいたのだ。彼女はそのまま「皆の家族には説明済み!」と言いながら登校してきた『いつものメンバー』を来た端から拾い上げ、このワゴン車に押し込めた。
せっかく休校になったから皆で温泉旅行に行こうという事らしい。
「………………」
思い返してみても、やっぱり脈絡がなさ過ぎて意味が判らない。ある程度事実を知る池、佐藤、田中はもちろん、吉田や緒方も只ひたすらに困惑顔である。感動の再会も何もあったものじゃない。
しかも吉田や緒方がいるこの状況では、問い詰めたくても問い詰められない。
「(……少しは自分で考えるか)」
納得のいく説明でなければ、いつかのように顔面に渾身の右をぶち込んでやると決意しながら、メガネマンはワゴン車に揺られながら思索の海に耽っていった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
車で3時間ほど移動して辿り着いた、学生が泊まるには豪華な旅館。その男湯にて、
「悪いな、突然」
必然的に男だけに……つまりは事情を知る者だけになった温泉に浸かりながら、悠二は吐き出すように謝った。
控え目に言っても辛気臭いその表情を、佐藤が快活に笑い飛ばす。
「ま、俺は正直良い事尽くめで何の不満も無いからな。田中クンはオガちゃんとクリスマス二人きりになれなくて残念だろうけど?」
「ばっ……お前変な事言うなよ! 別に予定とか無かったし!」
余計な冷やかしまで入れた佐藤に、田中のヘッドロックが炸裂する。空元気にしか見えないやり取りに、悠二はそれでもクスリと笑う。笑って、しかしはぐらかさない。
「今回の事だけじゃない。………………マージョリーさんの事だって、そうだ」
それどころではないと先延ばしにしていた言葉を、一瞬にして冷え切った空気の中で、構わず続ける。
「僕らが助けを求めなければ、きっと彼女はあんな無謀な作戦には乗らなかった。覚悟を決めたつもりだったけど……心のどこかで、あんな強い人が死ぬわけないって思ってた」
フレイムヘイズ兵団との協定も、敵対も、互いの利害に基づいた必然的な成り行きだった。だが少なくとも、『星黎殿』に乗り込むメンバーにマージョリーが選ばれたのは悠二のせいだ。マージョリーが足止めを担ったのも……悠二らが一因だったのかも知れない。
何より、マージョリーの子分たる佐藤と田中にとって世界の命運や討ち手の思惑など関係ない。
悠二がマージョリーを巻き込み、そして死なせた。それが全てなのだ。
「だから、ごめん」
そう考えているのは……
「「……いや、何で?」」
“悠二だけ”、だった。
「お前と平井ちゃんとシャナちゃんが無事なだけ良かっただろ。もっと胸張れよ」
田中がバシバシと肩を叩き、
「今のセリフ、多分マージョリーさんに聞かれたらぶっ飛ばされるぞ。自意識過剰にも程がある」
池が呆れたように眼鏡を擦り、
「んー……いやまぁ、そういう事になる、のか?」
佐藤が、イマイチ整理できていない顔で首を捻る。
あまりにも予想外の反応に、逆に悠二の方が困惑した。
死んだのが、例えば平井だったとしたら、三人はそれを悠二の責任だと考えたかも知れない。だが……マージョリーは違う。
この場にいる誰一人、『マージョリー・ドーは坂井悠二が守るべき存在』などと考えてはいないのだ。当然、何も出来ず安穏とした日常にいた自分を棚に上げて悠二を責める筈もない。
むしろ……
「(……死ん……だ……ああ、死んだん、だよな……?)」
最も消沈している筈である佐藤啓作の胸中には、本来あるべき悲哀や悔恨の感情が、無かった。
「(解ってる。坂井がこんな悪趣味な嘘つく訳ないし、写真に映ったマージョリーさんも消えた)」
彼にとってマージョリーが、どうでもいい存在だったという事では、断じてない。
頭では理解している。理解しているのに……心が、納得出来ていない。
「(なのに何で、俺は悲しくなれないんだ?)」
身の程知らずに追いかけた背中が、今も色褪せない純粋過ぎる憧れが、現実を未だ受け入れられていないのだ。
「………………」
そんな自分の心を掴みきれずにいる佐藤を、隣の池が、細めた裸眼で見ていた。
今日再会したばかりの悠二とは違う。マージョリーの死を知ってから今日まで、佐藤の様子をずっと見てきた池には、彼の胸中にもある程度察しが着いていた。
「(……その内ひょっこり帰って来るって、心のどこかで思ってるんだろうな)」
純粋で、盲目で、愚劣なまでの憧れが、マージョリー・ドーの死を今も拒み続けている。
誤魔化しようがない現実を本当の意味で実感した時、どうなってしまうのか。……残念ながら、これは佐藤自身に乗り越えてもらうしかない。
「それで、坂井」
今はきっと、“それどころではない”のだから。
「───その話をする為に、こんな所に連れて来た訳じゃないんだろ」
問い質す声には、疑問の響きすら混じっていなかった。
ここに来るまでの間に、池も池なりに思考を巡らせた。それは既に確信に近い。
「……どういう意味だよ」
「今の坂井達に、旅行なんてしてる暇があるわけない。もっと言えば、“僕達一般人なんか”に構ってる場合ですらないはずだ」
非日常に人一倍敏感な田中が強張った声で聞き返し、既に整理をつけた池が淡々と返す。
「───御崎市なんだろ? 次に“戦場”になるのは───」
静かに告げられた言葉に、田中が、佐藤が凍り付く。
二人と同じく、しかし全く別の意味で沈黙する悠二の態度が、それを肯定していた。
「最初は僕達を安全な所に逃がす為かと思ったけど、それだと“僕達だけ”逃がしても仕方ないんだよな。それこそテロリストの真似事でもして住人全部追い出すべきだ」
それこそ、学校を爆破した時みたいに。重々しく告げる池を、悠二は少し感心したような顔で見返した。事実、池の状況判断は間違っていない。
「それでも僕達だけわざわざ連れ出したのは……人質対策か?」
楽園創造の障りになると、『仮装舞踏会』は現在日本に於ける人喰いを、世界中の徒に対して禁じている。
自儘に世界を放埒する紅世の徒がどこまでこの宣布に従うかは疑問だったが、どうやら楽園はあらゆる徒にとってこの上なく魅力的に映ったらしく、今のところはしっかりと守られているらしい。
「人……質……?」
現実味のない、しかし確かに自分達に向けられた脅威に、佐藤が擦れた声を出した。
本当ならば、池だってそんな物騒な事を考えたくはない。だが、一介の学生に過ぎない自分達を、今から神と殺し合おうという坂井悠二が連れ出す理由など、他に考えられない。
「わざわざ僕達だけ連れ出したのは、他の一般人とは別に僕達に危険があるからだ。そして僕達が“外れた世界”に少しでも影響を与えるとしたら、個人的な付き合いがあるお前と平井さんくらいだ」
湯を掬って、顔に当てる。
自分が今なお晒されている危険に対して、心の中でスイッチを入れ替えるように。
「万が一、僕達が『仮装舞踏会』の人質に取られたりしないように、お前は僕達を逃がしたんだ。千草さんだって、今頃お前のお父さんが海外にでも連れ出してるんだろ」
そして、改めて悠二に向き直ろうとした時、
「───人質か、その発想は無かったな───」
見知らぬ男が、水面の上に立っていた。
「………………は?」
全く、意味が解らない。
ダークスーツに身を包んだサングラスの男が、瞬間移動でもしたのかという唐突さで、温泉に“立っている”。
混乱のままに視線を巡らせれば、
「さ、坂井……?」
温泉の端、男女を仕切る柵に背中を預けて……いや、叩き付けられた姿で、血塗れの坂井悠二が倒れていた。
「な、なん……なん……」
歯の根の合わない田中の声に目を向ければ……湯船の中から、ズブ濡れの平井ゆかりが立ち上がってくる。
悠二は緋色の凱甲と竜尾を、平井は赤い軍服を纏っていて、一目で今の今まで戦っていたと判る装いだった。
「ま、だ……っ終わってない!!」
平井が吼えると同時、目の前で鈍い音がする。振り返るとそこには、化け物としか表現できない異形の右腕に握られた剛槍を振り上げた体勢の男がいて、
「あ……っ」
天高く弾き飛ばされた平井が、遥か上空にいた。槍の一撃どころか、平井の突撃すら、池には全く見えなかった。
「(や、ば……い……)」
封絶が張られた。
戦いが起きた。
悠二と平井が……負けた。
慣れた者ならばすぐさま理解できる現実を、池はようやく理解する。
その瞬間に、平井の突撃に引っ張られた湯が津波のように池に打ち付けられ、顔を拭う間もなく首を片手で掴まれた。
「む……これでも辛いか。力加減が難しいな」
気付けば、首を掴まれたまま宙にいた。呼吸困難どころか、そのまま首をへし折られるのではと思うほどの激痛。無論、眼下の悠二らを見る事など出来ない。
「(───死ぬ、のか───僕は、ここで───?)」
まともな思考など出来ない。
ただただ死の恐怖に支配された池の意識に……
「(吉田、さん……)」
最後に届いたのは、鼓膜どころか全身を震わせるほどの、激しい轟音だった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「はあっ……はあっ……」
天に翳した右の掌。その先に張られた銀の鱗壁が、紫の業火を完全に防ぎ切ったのを見届けてから、坂井悠二は力無く崩れ落ちた。
「二対一で、この様か……」
意表を突かれたとはいえ、ここまで一方的に負かされたのは少なからずショックである。
つくづく本番が思い遣られる。
「……悪いな、池」
トラウマレベルで怖い目に遭っている親友に、少なからず自分のとばっちりで巻き込んでしまっている親友に、悠二は心の底から謝った。