「一度触ったクジは必ず引く事。後で交換とかも禁止ね」
水中カップル騎馬戦。吉田が見つけたこのイベントに、皆も彼女のやる気に牽引されるように参加を決めた。運動音痴の吉田がここまで気合いを入れているというのに、黙って見物など有り得ない。
通常の騎馬戦との違いは、四人ではなく男女一組、つまり騎馬と言うより肩車である事。そして舞台がプールの中である事だ。優勝商品は『ペアで夜景の見えるレストラン』、高校生が狙うには少々場違いにも思えるが……吉田は頗る本気である。
「これ、田中と組んだ人が断然有利よね」
「そんなの判んないだろ。大体、それ言ったらヘカテーちゃんとシャナちゃんも反則みたいなもんだ」
「だから公平にクジ引きなんだろ。負けても余っても恨みっこなしだぜ?」
そして今、池が握るクジの束を皆が囲んでいる。男子四人に女子が五人、女子一人が必然的に余ってしまう形だ。当然、組み合わせも完全な運任せ。
「……自分のハチマキを保持したまま、より多くのハチマキを他者から奪えば良いのですね」
「……そりゃそうだけど、あんまり無茶な事はダメだよ?」
「水中騎馬戦かぁ……パートナー次第じゃ、シャナに雪辱も果たせるかもね」
「挑んで来るなら容赦しない、やるからには勝つ気でやる」
「夜景の見える、レストラン……!」
楽しむ者、心配する者、燃える者、受けて立つ者、気負う者、それぞれの指先がクジの先を掴み、
『せーの』
運命は静かに分かたれた。
【さー、いよいよやって参りました! 水上を駆ける幾つもの愛! この夏、最も暑苦しいカップルは誰か!!?】
カップルひしめく広大なプールに、テンション高くアナウンサーの声が響き渡る。夏の日照りにも負けない異様な熱気が、彼ら彼女らの戦場に満ちていた。
その中に、いつもの面々の姿もある。
「ヘカテー、くれぐれも相手に怪我とかさせないようにね?」
(……コクリ)
軽快に拳を振るヘカテーと、彼女を肩に乗せた悠二。
「……今更だけど、良かったのか? オガちゃん。これ一応カップルって見られるんだけど」
「ク、クジで決まったんだから仕方ないでしょ! それより、ちゃんと本気でやりなさいよ!」
申し訳なさそうに呟く田中と、彼の髪を上からグシグシと掻き回す緒方。
「……坂井悠二にだけは負けない。お前、しっかり動きなさいよ」
「シャナちゃん、目が据わってるんだけど……」
密かに灼眼を燃やすシャナの下で、重圧に圧し潰されそうな佐藤。
「ふふふ……うん、偶々だよね……くじ引きだもん。そうだよね……」
「……勝てたら券あげるから元気出してよ」
虚ろな瞳で宙を眺める吉田の下で、何とも言えない顔で慰める池。
そして……
「行けぃモノドモォ! 道半ばで力尽きた儂に代わり、御崎高校の名を天下に知らしめてやるのじゃ!!」
ハズレを引いたが為に、一人プールサイドで大漁旗を振り回す平井である。
もちろん参加者は彼らだけではない。中学生のマセたカップルから子供連れの夫婦まで、様々な男女が目を光らせている。
【相手にハチマキを奪われれば負け! 騎馬が崩されても負け! 制限時間内により多くのハチマキを手にしたカップルが優勝となります! それでは……】
審判の右手がゆっくりと上に伸びる。その人差し指がオモチャの鉄砲の引き金を引き、
【はっじめぇ!!】
戦いの火蓋は切って落とされた。
「先手必勝!」
「もらったぁ!」
ハチマキの数を競うこのゲーム。自分より弱そうな相手を狙うのは至極当然の作戦だ。
よって、開始と同時に周囲の攻撃が殺到したのは……ヘカテーとシャナ。その性急さこそが彼らの敗因だろう。
「「遅い」」
二人の手が素早く動き、ある者はプールに引き倒され、ある者は何が起きたかも解らぬ内にハチマキを奪われる。その先制に合わせて悠二と佐藤が走り、呆然とする後続を二騎三騎と仕留めて行く。
その一方で、池は早々と密集地帯から逃れていた。
「池君、ヘカテーちゃんとシャナちゃんスゴいよ!」
「わかってる! 僕達もやられる前に離れるんだ!」
吉田は、ヘカテーやシャナと違って本当に弱い。そして池も、さほど運動神経が良い方ではない。彼女らのように一斉に狙われたら一溜まりも無いのだ。
「とにかく生き残る事を優先しよう。正直、僕らにヘカテーちゃん達の真似は出来ない」
無難な戦法を迷わず選ぶ池の胸に去来するのは、義務感だけで動く虚しい自分への落胆。
「(仮に勝てたとして、それに意味なんてあるのかな……)」
万一優勝出来ても、池と吉田が二人きりでディナーに行く事など有り得ない。……いや、今こうして悠二以外の男子とカップル騎馬戦に出ていること自体、吉田にとっては不本意だろう。
それは解っている。勝ったら券を譲るという言葉にも嘘は無い。
たとえそれが……吉田と悠二を近付ける引き金になったとしても。どこまで行っても独り善がりに生きられないのが、池の美徳であり……弱さだった。
「(どっちにしても全力でやろう。勝てたら勝てた時だ)」
池にも自覚があるからこそ、心は迷う。吉田の背中を押す今の自分すら道化に思えて、それでも止められない。
そんな心理状態だったからか、或いはどちらでも同じ事だったのか……
「池君、後―――」
「え―――」
不意に伸びた細い右手に、呆気なく吉田のハチマキは奪われた。
「六本目ぇ!!」
横から現れた緒方の両手が、掴み合っていた二組の騎馬から同時にハチマキを奪い去る。
「ふふん、騎馬戦は頭使わないとね」
緒方・田中ペアも池・吉田ペアと同様、ヘカテーやシャナとの対決を避けていた。しかし池達とは違い、緒方らは他のカップルからハチマキを奪う実力がある。
「よーし、このままガンガン稼ぐわよ。田中、走って!」
「おう!」
緒方には勝算があった。
「今度こそ沈めます……!」
「出来るものならね」
遠方に、早くも火花を散らすヘカテーとシャナの姿が見える。
シャナがライバル視する悠二の上に、シャナと犬猿の仲のヘカテー。この激突は容易に想像出来る展開だ。
【何という事でしょう! プール中央、二人のちびっこが凄まじい攻防を繰り広げております! 周りのカップルは近づく事も出来ない! こんな展開を誰が予想したでしょうかぁーー!?】
二人の実力が拮抗している事も知っている。そして如何に実力があっても、決着のつかない勝負を続ける限りハチマキの数は増えないのだ。
「もっらいー!」
ヘカテーとシャナが主役となっている間に、七本目のハチマキを手にする緒方。数だけならば、既にヘカテーやシャナを上回っている。
「大成功だな。このまま時間いっぱいまで潰し合っててくれたら楽なんだが」
「流石にそれは無理でしょ。熱くなってる二人はともかく、佐藤や坂井君が気付くって」
そう、緒方が数を稼いでいると気付かれれば、二人は躊躇なくハチマキを奪いに来るだろう。
それでも、緒方に負ける気は無い。
「いざって時は頼むわよ、田中」
これが個人によるハチマキの奪い合いなら、緒方に勝ち目は無かっただろう。しかしこれは水中カップル騎馬戦。このルールの、この組み合わせならば、緒方は二人に負けない自信があった。
「(そう、私と田中なら……)」
その根拠は、リーチと高さ。誰から見ても長身の田中の肩に、女子にしては長身の緒方。このコンビより高いカップルはそうはいない。小柄なヘカテーやシャナなど完全に見下ろせる。
腕の長さも同様。どれだけ運動神経が良くても、届かなければハチマキは奪えない。
地上で足を使えたなら、こんな優位も二人はあっさり潰してしまっただろうが、今の二人の足は佐藤と悠二、おまけにプールの中で人を肩車した状態である。
条件は同じだが、田中が佐藤や悠二に遅れを取るとは思えない。リーチと騎馬の違いで勝てると、緒方はそう踏んだのだ。
もっともそれは一対一の話であり、同時に複数から狙われて捌ける自信はあまり無い。だからこそ今、ハチマキを稼ぎながら横槍を入れてくる可能性のある相手の数を減らしている。
後はヘカテーとシャナ、どちらかが脱落してくれれば御の字である。
「よぉし次は……」
勢い込んで次の標的を探す緒方。だが、そこでふと異変に気付いた。
「……あれ? 一美は?」
「って言うか、いつの間にこんなに減った?」
ハチマキを奪うべきライバルの数が妙に少ない。大勢が入り乱れてぶつかり合っているのだから、それほど可笑しな話でもないのだが……などと考える緒方らの目に、
「「ん?」」
見知った女性が、見知らぬ男性の肩に乗り、向かって来る姿が見えた。
「こっ……の……!」
「ふ、んぬ……!」
傍から見れば上半身だけとはいえ常人ならざる体術を魅せるヘカテーとシャナが目を引くだろうが、その下で悠二と佐藤も頑張っている。
攻守に合わせた前進と後退、少しでも騎手が有利になるよう懸命に努めていた。
「(つ、疲れた……)」
日々鍛練を続けて来た悠二の経験も、水中でヘカテーを肩車した状態では全くと言って良いほど活かせない。
それどころか、悠二の肉体的成長は四月の時点で止まっている。体力ではむしろ佐藤の方が有利なのだ。
「(勝てる……坂井に勝てる……!)」
その手応えに佐藤も、いつの間にか熱くなっている自分を自覚していた。
佐藤はマージョリーに……外れた世界で戦う勇者に憧れている。自分と同じ普通の高校生だったにも関わらず、彼女と肩を並べられる場所に居る悠二に対して……思うところは確かにあった。
少なくとも、こんなお遊びにムキになってしまう程度には。
「(これじゃ退くに退けないぞ)」
不味い展開に悠二は顔には出さず焦る。
これ以上シャナ達と争っても時間の無駄だと判ってはいるのだが、シャナだけでなく佐藤まで燃えている。いま背中を向ければ、間違いなく後ろからハチマキを奪われるだろう。逃げ切る自信もあまり無い。
【スゴい! スゴ過ぎる! 互いにあれだけ攻めているのに一向に勝負が着かない! この蒼海大戦争(アクアウォーズ)を制するのは果たしてどちらの幼女なのかーーー!!?】
……ついでに言うなら、既に退却を許されない空気が出来上がってしまっている。ここはヘカテーに頑張ってもらうしかない。
「シッ!」
佐藤の前進に合わせて、シャナの右手が鋭く伸びる。ヘカテーをブリッジよろしく上体を反らしてこれを躱し、すかさずその右手首を掴んだ。
それを強引に引き寄せる動きに合わせて悠二も後退。シャナのバランスを崩そうとするが、それを察した佐藤が勢いよく悠二にタックルして怯ませる。
それと同時、引かれる勢いそのままにシャナの左の掌底がヘカテーの鳩尾を打った。悠二に肩車された状態でこれは躱せない。
「ぐ……っ」
「ヘカテー!」
バランスを取ろうと右に左に悠二が揺れる。ここぞとばかりに佐藤が背後に回った。
「終わりよ」
真後ろからシャナの手が迫る。ヘカテーからは完全に死角だ。
伸ばされた腕は、無防備な後頭部に結ばれたハチマキを掴み……呆気なく抜き取った。
「え―――」
しかし抜き取られたのはヘカテーではなく、“シャナのハチマキ”。
「ふふ、油断大敵よシャナちゃん。ちゃんと後ろにも気をつけないと」
油断などしていない。シャナは常に自分に向けられた“殺し”の気配を逃さぬよう感覚を研ぎ澄ませている。 しかしその手に在るのは殺気でも戦意でもなく、まるで子供の頬っぺたに付いた御飯粒を取るかのような穏やかさ。
だからこそ、シャナは反応出来なかった。
【これは意外! ちびっこ対決が決着するかに見えた瞬間、隠れたダークホースが黒髪ポニーのハチマキを奪ったぁーー!!】
シャナが佐藤が振り返る。ヘカテーが悠二が目を見開く。平井がポテトを飲み下す。
そこにいたのは、茶色い髪を首の後ろで束ねた優しげな女性。
「おば様……!」
悠二の母、坂井千草だった。
そして、これはあくまでカップル騎馬戦。当然ながら彼女一人ではない。
千草の下で一人の男性が、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべていた。
普段から海外を飛び回っている坂井家の大黒柱。居候のヘカテーでさえ一度も会った事の無い千草の夫。
「父さん……!?」
悠二の父・坂井貫太郎。堂々の帰還であった。
「悠ちゃん達と入れ違いに帰って来たのよ。貫太郎さんったら、どうせならビックリさせてやろうって聞かなくて」
「いや申し訳ない。しかし、高校生の夏にはこれくらいのサプライズがあった方が面白いだろう?」
呆気に取られる悠二らの顔を見て、二人仲良くニコニコと笑う。悠二の父、千草の夫、今まで伝聞でしか聞いていなかった貫太郎をまじまじと見るヘカテーの下で……我に帰ったように悠二が動き出した。
「悠二?」
「話に付き合っちゃダメだヘカテー。もう時間が無い!」
言われて、ヘカテーは横目にタイマーを確認する。残り時間は……40秒。いつの間にかプールには坂井家の四人しか残っていない。ハチマキの数は……どうやら僅かに千草らが勝っている。
「あら、バレちゃった」
「うん、成長しているようで何よりだ」
悪戯レベルの作戦を看破されて、坂井夫妻は朗らかに笑う。時間稼ぎをしようとしていた割りに逃げようともしない。
【父さん? いま父さんと言いましたか!? ここに来てまさかの嫁姑対決!! テレビのチャンネル権を手にするのは果たしてどちらかぁーー!!?】
好き勝手に喚く実況の声を背に、一騎討ちが始まった。手捌きはヘカテーが上、しかしリーチは千草にある為、なかなか反撃に移れない。押された分だけ退き、退かれた分だけ押す。貫太郎の間合いの取り方も絶妙だった。
ヘカテーが正面からハチマキを奪われるとは思わないが、このままタイムオーバーになれば自動的に敗北が決定してしまう。
「(こうなったら、一か八か……!)」
肚を括って悠二が駆け出す。貫太郎でも咄嗟に距離を取れないほどの、だからこそ無防備な突進。迎撃される危険も大きいが、ここは勝負だ。
「ん……っ!」
案の定、千草の手が伸びて来る。こちらから向かっている分、常の倍の速さにも感じられるが……
「むっ……!」
流石にヘカテーも甘くない。間一髪で受け流し、間合いに入った瞬間 反撃に移る。
二組の騎馬がすれ違い………
「(ここだ!)」
―――高い水飛沫が、カップル騎馬戦の終結を告げた。
「と、言うわけで……」
脱落したシャナ、池、吉田、佐藤、田中、緒方。応援だった平井も含めた一同が着替え終わり、集まった場で、貫太郎はゴホンと小さく咳払いする。
「挨拶が遅れてしまったね。私は悠二の父、坂井貫太郎だ。息子がいつもお世話になっている」
子を成して十六年とは思えない外見と、それに不似合いなほどの柔らかい貫禄。夏場に背広にコートという格好も、彼だと不思議と暑苦しく感じさせない。
「は、はじめまして」
「やっぱ若ぇ〜」
「坂井君の、お父さん……」
池と平井以外は……いや、今や平井も初対面という事になる。各々が挨拶をする中で、悠二だけは両親を半眼で見ていた。
思春期の少年として、あまり居心地の良い空間ではない。
「それで、何でこんな回りくどい事を?」
「さっきも言っただろう。いつもは家に居られない分、こういう形でサービスしようとな」
「……もしあれで父さん達が勝ってたら非難轟々だったと思うけど」
悠二の一言に釣られるように、ヘカテーは二枚の券に目をやった。
ペアで夜景の見えるレストラン。この場合は、悠二とヘカテーである。
「でも、本当に優勝しちゃうなんて……」
自分の作戦が完全に裏目に出た吉田から、隠し切れない落胆が漂う。
そう、悠二らは見事に坂井夫妻を撃破し、勝利の栄冠を掴んだのだ。
「結局あれ、最後どうなってたの?」
「悠二が千草さんのハチマキ引っ張ったんだよ」
交錯の瞬間、千草はヘカテーの手を確かに躱した。上体を柔らかくしならせ、すれ違うヘカテーの手が届かない一瞬を作り出した。
しかし、身体を斜め後方に反らせてヘカテーの手を避けた瞬間、騎馬である悠二にハチマキを掴まれ、プールに落とされたのだ。
無論、頭に巻いたハチマキに届くワケが無い。掴まれたのは千草の肘に重ねられていた戦利品(ハチマキ)の方である。
「作戦勝ちか咄嗟の反応か、どちらにしろ私たちの負けだ。成長したな、悠二」
「……よく言うよ。その気になれば、時間いっぱいまで逃げ回る事も出来たでしょ」
「それは無理だ。父親としては、あまり格好悪い姿は見せられない」
「だったら最初から参加しなければ良いんです。若い子に混ざって恥ずかしかったんですからね」
貫太郎が屈託なく認め、悠二が照れ臭そうに誤魔化し、千草が困った風にはにかむ。その千草に、平井がウリウリと肘を押し付けた。
「そんなこと言ってぇ、千草さんも結構ノリノリだったじゃないですか。ちょっと学生時代を思い出してたんでしょ? ん?」
「もぉやめてゆかりちゃん、本当に恥ずかしかったんだから」
夕陽に隠して顔を朱に染める千草に、悠二が小さく嘆息する。普段から日課の如く惚気ている癖に、何を今さら照れているのか。
「では帰ろうか。千草さんの手料理も久しぶりだ」
「え? 帰るんだ?」
自然にそう言う貫太郎に、悠二は思わずそう訊き返していた。
貫太郎は普段は家に居ない。だからか、たまに帰って来た時は殆どの場合、貫太郎と千草はデートに出掛けるし、朝まで帰らないパターンも多い。
今回のも、イタズラ込みのデートだとばかり思っていたのだが……。そんな悠二の耳に、小さく貫太郎が耳打ちする
「(流石に、お前とヘカテーさんを二人きりには出来ないだろう)」
「な……っ!?」
反射的に大声を出してしまう悠二だが、言われてみれば確かにそうだ。以前ならば二人が出掛けても悠二が一人で留守番するだけ、出前でも取って貰えば話は済む。
しかし、今はヘカテーという居候がいるのだ。表向き年頃の男女である悠二とヘカテーに間違いが起こらないとは限らない……と、思われても仕方がない。
その一連のやり取りを察したのか、やおら平井がシュビッと挙手する。
「あたし今日、坂井家に泊まってきます。晩御飯とかもオマカセを!」
次いで、軍人よろしくキビキビと敬礼。そんな平井の行動を、ヘカテーが無言で見ていた。
「……………」
ヘカテーは平井と違って、千草らの心中を察している訳ではない。
ヘカテーの考え方は実に単純なものだった。
「(おば様たちは、これが欲しい?)」
カップル騎馬戦に参加した千草らが、賞品たるこの券を欲しがっているのではないか……という、一連の会話とは関係ない思考である。
正直なところ、“男女一組(カップル)”という名称がどういう意図を持って使われていたのかさえ、ヘカテーは気付いていない。
だが……
「(おば様は、夫と二人で……)」
千草がいつも、自分の夫の事を嬉しそうに話しているのは知っている。大好きな人と一緒に居たいという気持ちは……ヘカテーにも解る。
まして千草は、普段は一緒にいられない。
「……おば様」
気付けば、ヘカテーは自らの勝ち取った券を千草に差し出していた。
「……ヘカテー?」
幼い。誰もがそう思っていた少女の行動に、何とも言えない温かな沈黙が場を支配する。
周りのそんな評価に気付いているのかいないのか、ヘカテーは無言でグイグイと券を押し付け続けていた。
「良いんじゃない? 貰っとけば。僕とヘカテーには場違いな店っぽいし」
珍しく困っている千草に、もう一人のチャンピオンたる悠二までもが助け船を出す。
こうまで背中を押されると、断る方が却って悪い気になってくる。千草は貫太郎に視線を向け、彼が頷いたのを確認すると、ヘカテーを包むように抱き締めた。
「ありがとうね、ヘカテーちゃん」
夕陽の差し込む中の抱擁。娘を慈しむ母そのものの声音が、巫女の耳を心地好く震わせた。