遡る事、三日前。『仮装舞踏会(バル・マスケ)』から世界中へと二度目の宣布が行われた。楽園創造の地は日本。人間の乱獲は大命の妨げとなるので控えよ、という簡素な内容。御陰様で、フレイムヘイズが大命の邪魔をする理由がまた一つ潰れたというわけだ。
大勢など無視して復讐に逸る者。そんな独断専行を止める者。あまりの戦力差に諦める者。楽園創造の妨げとなりかねない一人のミステスを追う者。
フレイムヘイズ兵団が見るも無残に瓦解したタイミングで、それは起こった。
『──────』
天空を覆う銀の蛇鱗から降り注ぐ、少年の声。落ち着いた声音にも関わらず、「言う通りにした方が良い」と自然に思えてしまう、不思議な安心感を抱かせる声。
それが、日本の本州。フレイムヘイズの脳裏だけに響いたのだ。
「………………」
その、荒唐無稽にして堪らなく胡散臭い演説を、外界宿(アウトロー)第二総本部から程よく離れたバーのカウンター席で、『鬼巧の繰り手』サーレ・ハビヒツブルグは聞いていた。
もう幾度となく兵団から追っ手を差し向けられている少年の大胆不敵なパフォーマンスに、呆れを通り越して感心してしまう。
「どういう、つもりなんでしょう」
隣で、キアラ・トスカナが困惑した声を出す。それも当然。たった今聞かされた……坂井悠二の計画では、“頂の座”ヘカテーは助からないのだ。
「どうもこうも、単純に戦力が欲しいんでしょ」
「目的が何にせよ、あの二人だけじゃどうしようもないからね」
その声に、キアラの髪を両側で結った鏃に宿る契約者達が答える。
現時点で、坂井悠二の味方と呼べるのは平井ゆかり唯一人。『仮装舞踏会(バル・マスケ)』に挑むには、考えるまでもなく戦力が足りない。
「と言っても、全くのデタラメでもないだろうけどね」
気障な声が、サーレの腰の操具から発せられる。坂井悠二は当然、彼を知る者にこの提案がどれだけ白々しく聞こえるか理解しているはずだ。
その上でなお実行したという事はつまり、そういう事だろう。
「……まったく、どこまでも舐めたガキだ」
このゲームへの招待状に乗るか、否か。何となくもう決めてしまっている事をそれでも思索するように、サーレはウイスキーを呷った。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
未だ雪に至らぬ冷たい雨が、人の住めない樹海全体に降り注ぐ。その奥で歪に切り立った崖の上で、
「よっし」
平井ゆかりは、軽く左拳を作った。強化した右手の人差し指で、強化していない左の手首を浅く切る。手入れする必要さえない短い爪は、まるでカッターナイフのように血管を断つ。
雨と混じってダラダラと流れる鮮血を眺めた平井は、両腕を眼前で交叉させる。その両脚を銀の蛇鱗が這い上がるように覆い、両腕を払うと同時、
「はあああぁぁーーー!!」
その全身から、尋常ならざる存在の力が炎となって迸った。常の平井では為し得ない力の発露、明らかに自分を上回る存在感を目にして、
「……もうちょっと、欲しいな」
後ろから見守っていた坂井悠二は、そう辛口に評した。
荒ぶっていた少女はその一言に肩を落とし、捨てられた仔犬のような顔で振り返る。構わず降り続く雨がいい感じに悲愴感を感じさせる。
「ダメ?」
「相手が相手、だからね」
妥協など有り得ない。そう判った上でわざとらしく甘やかして貰おうとする平井に、悠二は苦笑しながらNOを突きつけた。
「ん~……どうすれば出力上がるかなぁ」
間近に迫る決戦。相手は創造神とその眷属。悠二は『グランマティカ』で複数の自在式を掛け合わせる事で、次から次に新しい自在法を編み出している。
しかし当然、平井にそんな真似は出来ない。自在法は苦手だし、ヘカテーがいない今、近接戦闘技術も急激に伸びたりはしない。故に平井は、己が本質の顕現たる自在法・『ラーミア』に懸けた。
「やっぱり反復練習しかないんじゃないかな。何度もやってる内にコツとか掴めてくるよきっと」
「う~、これ痛いからあんまし好きじゃないんだけど」
血を失うほど自身を強化する自在法。限定的ながら絶大なその自在法の効力を更に高める為の特訓である。
限界まで失血すればあのサブラクにさえ抗し得る『ラーミア』だが、逆に言えば……そこまでしなければ『三柱臣(トリニティ)』とは戦えない。今のままではたとえ強敵を一人倒せても、そこから先は足手纏いになりかねないのだ。事実……中国の大戦ではそうなった。
「よーし、それじゃもう一丁」
必要最小限の失血で勝つ。その為に、あっという間に塞がった傷口を再度裂こうとする平井の手を、
「待った」
悠二が止めた。彼方を鋭く睨む真剣な顔つきに僅か見惚れてから……平井も気付いた。
隠しようもない大きな気配が二つ、こちらに向かって近づいて来ている。
「うっわぁ……これ強いなぁ」
これは、二人にとって慮外の事態ではない。むしろ封絶も張らずに『ラーミア』の練習をしていたのは半分はこれが狙いだ。
以前の“募集”を受けたフレイムヘイズが、こうして二人を訪ねて来てくれるのを待っていた。
問題なのは……敵か味方か。今までも散々フレイムヘイズに襲撃されてきたのだ。あんな真似をして味方だけが集まると思うほど楽観的ではない。
「けど、気配も隠さないで近づいて来るって事は───」
まだ十分に距離がある。その事に僅か余裕を持った声を出す平井の、そして悠二の、
「───本当に待っているとは思いませんでした──」
“後ろから”、声が掛かった。
いつの間にか背後を取られたという事実、そして今も肌に突き刺さる凄まじい存在感に少なからず動揺する平井とは対称的に、
「悪戯であんな大仰な真似はしないよ」
悠二は、全く涼しい顔のままで振り返る。これからやろうとしている事を考えたら、こんな程度で一々心乱してなどいられない。
「あなたは?」
そこにいたのは、。存在感の大きさや、それに似合わぬ静かな圧力は、あのカムシンにも引けを取らない。
これだけ強大な力を持つ、ネイティブ・アメリカンのフレイムヘイズ。という時点で、早々に察しは着いた。
「はじめまして、“踊る霞”、“空泳ぐ人魚”。」
「私は『雨と渡りゆく男』センターヒル。そして我が御憑神“殊寵の鼓”トラロック」
───『大地の四神』。
かつてフレイムヘイズとの間に『内乱』を引き起こし、以降は戦いから離れて外界宿の管理者となった異端の討ち手達。
先の大戦の直前に『仮装舞踏会』の襲撃を受けた四人の怪物の生き残りだった。
「(仮装舞踏会を恨む理由は、十分ある……!)」
願ってもない人材の登場に、悠二は内心で喝采を上げた。
同じく四神だった『星河の喚び手』と『滄波の振り手』は『仮装舞踏会』に殺されている。おまけに、彼らは既に一般的なフレイムヘイズの使命とは無縁の存在。従来の使命とは掛け離れた悠二の提案にも乗ってくれる可能性はある。
そんな心を見透かすかのように、
「───貴方の、“本当の目的”は何ですか───」
古代の神官の眼が、悠二の眼を捉えた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
神さえ無力な世界の狭間。そこに創られた『詣道』という異界に足を踏み入れ、そこからこの世を捉えて初めて気付いた事がある。
この世に於いて、存在とは常に変動するものであるという事。破壊、腐食、忘却、死滅、再生。自在法など使わずとも移り変わるのが摂理であり、そこに徒の干渉があろうと世界は大きく歪みはしない。
しかし、徒の干渉なくしては起こらない現象がある。それは、存在の力という歪なエネルギーだ。どんな形であれこの世の存在として在るべきモノを存在の力というエネルギーとして保持し続けるという行為こそが、最も大きく世界を歪める。
そして、それはこれから生まれる楽園に於いても変わらない。
「楽園創造。その瞬間に危険は無くとも、そこで徒が存在の乱獲を続ければいつか『大災厄』の危険は再び起こり得る。それが貴方の大義名分でしたね」
センターヒルが並べ立てた言葉は、悠二がフレイムヘイズに対して無差別に発信したそれと同じもの。
このタイミングでわざわざそれをなぞる意味に、悠二は早々に気付いた。
「それは、嘘ですね」
つまりは、バレていると。
「(まあ、そう都合良くはいかないか)」
初対面の相手に、こういう観点からバレるとは思っていなかったが、それでも十分に想定の範囲内である。
「そこに在るはずの存在が在り得ない存在に奪われ、在り得ない不思議が起こされる事で世界は本来の姿から“ズレて”歪みは起こります。貴方の理屈では、どれだけ存在の喰らっても、それを保持せず使い続ければ世界は安定する事になる……そのような事は有り得ません」
「……はぁ。内容の胡散臭さは同レベルなのに、やっぱり“祭礼の蛇”みたいにはいかないね。神様ってのは不公平だ」
元よりバレても構わないつもりでばらまいた招待状である。悠二はあっさりと認めて肩を竦めた。
「けど、作戦の内容自体は嘘じゃない。少し前まで人間だった子供としては、そこまでおかしな願いじゃないだろ?」
「嘘ではなくとも、全てではないでしょう。『星黎殿』に乗り込んだ貴方が、今になって“頂の座”を諦める筈がありません」
言葉を交わす内に、確信する。恐らく、この会話自体に意味は無いのだと。
「貴方が『詣道』で気付いた事は、“全く逆の真実”なのではないですか」
眼前のこの男は、悠二の虚言も真実もある程度見抜いた上で、“反応を”見ているのだ。
「さあ、どうかな」
そして、それが判ったからと言って、数千年を生きる古代の神官を欺けると思うほど悠二は演技力に自信がない。努めて平静を装おうとするが、本当の計画を隠しているのが事実である以上限界がある。
「……直接会って、貴方という人間を確かめたかった」
悠二には悠二なりに、フレイムヘイズを募るこの作戦に勝算があった。だが、これは、もう駄目だ。
「そして、確信した。『仮装舞踏会』より、『三柱臣』より、“祭礼の蛇”より、“貴方が一番危険だ”」
悠二の真意など解る筈も無いのに、その言葉は鋭く真実を抉る。
瞬間───
「(来た!!)」
象牙色の炎弾が、悠二らの立っていた崖を一撃で吹き飛ばす。
既に遠方とも呼べない距離にまで来ていたもう一つの気配。センターヒルとは裏腹にゆっくりと近付いて来ていたフレイムヘイズから狙撃を受けたのだ。
「うわっ!」
「もー! クジ運ワッルいなぁ!!」
『アズュール』の結界を広げた平井が、悠二を抱いたまま爆炎を裂いて飛翔する。
そのまま超速で離脱しようとする彼女の目の前に───いきなりセンターヒルが現れた。
「ッ!?」
「く……っ」
全身の力を集約させた重い掌底が平井の横っ面を張り飛ばし、次の瞬間には至近からの炎弾が火除けの結界から離れた悠二を撃ち抜く。
翻る竜尾で瑠璃色に輝く炎を払い、
「ああ、本当にツイてない」
緋色の凱甲を纏った悠二が、センターヒルに斬り掛かった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『星辰楼』。
壁も天井もない、床と柱だけで構成された純白の祭壇に膝を下ろして、漆黒の巫女が祈りを捧げていた。
「(私は……)」
この祈り自体に、意味は無い。出来うる限り“いつも通り”の体を装いながら、乱れる心を落ち着けようと懸命に努めているのだ。
「(……どうして)」
悠二による決意表明は、フレイムヘイズにしか聞こえない。だが、それを聞いたフレイムヘイズが内容を他者に話す事は制限出来ない。
この情勢下に於いて必然の如く、その内容はフレイムヘイズの口から『仮装舞踏会』の耳にも届く事となった。
「(悠二は一体、何を考えて……)」
呆れる程に、お粗末な話だ。こんな杜撰な作戦が成功するなどと、あの悠二が考えるわけがない。これは嘘だと初めから前置きしているようなものである。
そう、頭では解っている。
「(どうして、私は……)」
覚悟だって、決めている。
だと言うのに……
「(こんなに、心が寒いの)」
情けない自分の心に、ヘカテーは冷たい怒りを覚える。
“悠二が私を切り捨てた”と理解する事が、それが偽りだと判っているのに、辛いのだ。自ら彼の許を離れた癖に、全てを投げ出してでも楽園を創ると決めた癖に……この惰弱な意思が、許せない。
許せない……が、紛れもない事実だった。
「(……認めましょう)」
“頂の座”ヘカテーは、怖れている。自らの喪失が坂井悠二に少なからぬ傷を与えると知って、それでも、彼にとって自分が何の価値もない存在に堕ちる事を怖れている。
そう認めて……その上で、ねじ伏せる。怖いのならば、覚悟しよう。覚悟が鈍れば、研ぎ直そう。
「(貴方が何を想い、何をしようと、私が必ず叩き潰す)」
愛しい少年と戦ってでも、幼い少女はそれを求める。
───彼と彼女が、いつまでも二人で生きていける……徒のいなくなった世界を。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
強化と加速。二つの特性を持つ黒刀『草薙』が、悠二自身の怪力と相まって重い斬撃を軽々と繰り出す。
紅世の王でも容易には受けられない剛撃が、黄金の仮面を被った土塊の化け物を捉えて、
「くそ……!」
その胴体を両断する事なく、半ばで止まった。すかさず両手で柄を握り、渾身の力で斬り裂いた。
その背中に迫る別の亡者を、竜尾で思い切り叩き潰……せない。地面に這い蹲った怪物は、土塊をボロボロと崩しながらも立ってくる。
こんな化け物が、“群れを成して”襲って来るのだ。
「(思ってた以上に、ムチャクチャに強い)」
無作為に群がってくる亡者の動きを自在法で把握しながら、僅かな隙間を縫って悠二は跳び上がった。すぐさま追い掛けてくる亡者の群れ、比較的直線に並んでくれた標的を、
「喰らえ」
銀炎の大蛇が正面から直撃した。土塊の塔とも見える亡者の群れが爆炎に巻かれて崩れ落ちる。
───その下から、新たな亡者が追ってくる。
「(今ので倒しきれないのか……!)」
驚愕しつつも竜尾で全身を球状に覆う悠二に、亡者の群れが次から次に食らい付く。
漆黒の球は見る間に巨大な土の塊に包まれ、激しい音を立てて墜落した。
「壊せないなら!」
中心に在る竜尾の球。悠二はその漆黒の表面に『グランマティカ』を展開する。
溢れ出した水銀が濁流となって一帯の森と亡者の大群を呑み込み、そして凝結する。
森を呑み込んで現れた銀色の大地から、悠二だけが銀塊を裂いて飛び出してくる………が、その足下からガリガリと銀を齧る音が聞こえて来た。
「……いやいやいや」
とりあえず空に逃げる悠二の眼下で、銀の大地を食い破って亡者の群れが姿を見せる。
ただ突破してきた訳ではない。銀を喰らって肥大した亡者が分裂し、一気にその数を倍以上に増やしていた。
「ははははは! 次から次に見事なものだ! 自在に踊る銀の具象! 何とも美しいものじゃないか!」
「如何にも如何にも! 極東の島国にまで足を運んだ甲斐があったというものよ!」
必死になって逃げ回る悠二を見て、ややの遠方から笑声を投げ掛ける者がいる。
センターヒルと同じく『大地の四神』。細く尖った体格と容貌を、ポンチョと山高帽で飾った少年。『死者の道を指す男』サウスバレイである。黄金の輿に据えられた椅子に悠然と腰掛け、左の義足をプラプラと揺らしている。
「すっかり分断されちゃったなぁ」
そんなサウスバレイと、今なお地面から迫り来る亡者を他人事のように眺めて、悠二は顔を濡らす雨を拭った。
封絶を張って戦っているというのに止まないこの雨も、少なからず不気味である。
「(って言っても、人を気にする余裕もないか)」
一体一体が王にも迫る力を誇り、喰らった力を変換・増殖して襲い来る亡者の大群。これだけの数と力を行使する統御力と器の総量は尋常ではない。地力では明らかに悠二を上回っている。
「(気は進まないけど)」
力でねじ伏せる事は不可能。ならば、全霊の一撃で隙を突くしかない。
「悪く思うなよ」
一切の躊躇をかなぐり捨てて、悠二も即座に覚悟を決める。
鋭く睨んだ黒い瞳に───淡い銀光が宿った。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
両脚に銀鱗を纏う平井ゆかりが、血色の炎を引いて空を翔る。凄まじい速さで豪雨を弾き飛ばしながら、的を絞らせない稲妻状の軌道を描き、
「はっ!」
『吸血鬼』の斬撃が繰り出される。血色の波紋を揺らす刃は容赦なくセンターヒルの眼前に迫り───空を切った。
「か……っ」
空振りした隙だらけの背中を、いつの間にか背後にいたセンターヒルが蹴り飛ばす。
息を詰まらせ落下する平井を瑠璃色の炎弾が追撃し、『アズュール』の結界に阻まれて消えた。危うい所を宝具に救われた平井は、墜落直前に持ち直して地面スレスレを飛翔する。
「(瞬間移動? あれじゃいくらスピード上げても……)」
思索に耽るも一瞬。逃げる眼前にまたしても唐突にセンターヒルが現れ、低空飛行する平井の頭に足裏が迫る。
「たわっ!?」
慌てて身体を捻った平井はそのまま地面をバウンドして巨木をへし折り、藪に突っ込んだ。間一髪で難を逃れた平井の代わりに、大地が蜘蛛の巣状にひび割れる。
その光景に雨とは別の水滴を流しつつ、平井は障害物を嫌って自由な空に逃げた。
「(やっぱり、このままじゃ勝てない)」
どれだけ必死に動いても、こちらの動きを捕捉している限りセンターヒルの近距離転移からは逃れられない。
ならば、目にも止まらぬ速さにまで“上げる”しかない。
「(一気に決める!)」
横一文字に構えた『吸血鬼』が血色の波紋を揺らし、平井自身を切り刻む。浅く、しかし全身を刻んだ傷口から流れた鮮血が雨と混じって滴り落ちる。
頭を擡げる不快な虚脱感を強引に無視して、平井は全身から炎を噴き上げた。
「ゴー!!」
血を失うほど、『ラーミア』の効力は強くなる。先程とは段違いの速さで突撃してくる平井に虚を突かれたのか、僅か早いタイミングでセンターヒルは転移し、
「む」
背後を取った、と思った時には既に平井の姿は無く、
「そこぉ!!」
逆に、後ろ手に放った平井の炎弾が直撃した。軽く放った火球が大爆発を巻き起こし、弾けた業火がセンターヒルを炙り、吹き飛ばす。
その間にも、平井は次の攻撃に移っていた。足裏に爆発を起こして反転、宙を舞うセンターヒルに刃を突き立て
「いっ……!」
ようとして、またしても見失う。
魔剣を突き出した平井の後頭部に掌底が迫り……左肘でそれを受け止めた。返す刀で振り下ろす魔剣は躱されるも、その勢いのまま身体を一回転させた踵落としがセンターヒルを捉えた。
「(もう少しで、勝てる!)」
確かな手応えを感じて、平井は指先を強化して自ら首を切った。水鉄砲のような勢いで血が飛び出し、一気に意識が遠くなる。
だが、これで良い。人間ならば死んでしまう傷でも、今の平井ならばその前に傷が塞がる。
「あああああああぁぁーーーー!!」
咆哮と共に平井は飛んだ。
サブラクをも上回る最速の飛翔が、一直線に古代の神官を追った。
そのスピードを逆手に取ろうとしてか、センターヒルは周囲の雨粒を雹の弾丸に変えて放つ。全速力の突撃の最中、向かって来る雹に対して、平井は止まらない。
「うりゃあ!」
左掌から炎弾を繰り出し、全ての弾丸を飛沫の如く消し飛ばした。加速する平井から放たれた極大の火球は神速の閃光となって大地に突き刺さる。
血色の爆炎が森を焼き払い、大地を抉り、空を照らした。渦巻く炎の中に巨大なクレーターを認めて、しかしセンターヒルの姿は無い。
「(わかってる)」
慌てず、動じず、平井は大剣を振り抜いた。
「後ろでしょ!」
視認もせずに繰り出された魔剣は狙い通りに背後にいたセンターヒルを捉えて───逆に弾き飛ばされた。
「ぇ…………」
勝利を確信した直後の、信じられない光景に、平井は不覚にも自失する。自失して、鋭いボディブローを食らわされる。
鈍い感触と共に肋骨が一本折れる激痛に僅か遅れて、横っ面に掌底が叩き込まれた。
「か……あっ……」
視界が真っ赤に染まり、飛翔すらも覚束ない身体を、冷たい雹弾が容赦なく撃ち抜く。
混乱する頭で辛うじて顔と胸を庇いながら、平井は轟音を立てて地面に墜ちた。
「なん……で……」
理不尽とさえ思える反撃に、平井は倒れたまま奥歯を軋ませた。
平井の『ラーミア』は、最大限に発揮すればサブラクとも渡り合えるほど平井を強化する。いくら『大地の四神』と言えど、身体能力で敵う訳がない。現にさっきまでは明らかに優勢だったではないか。
それが、いとも容易く素手で大剣を弾き、一撃で肋骨をへし折るなど納得出来ない。
「絶対……おかしい」
痛む身体に鞭を打ち、膝に手を当てて立ち上がる。その動きの途中で、気づいた。
さっきまで確かに平井の両脚を覆っていた銀の蛇鱗が、無い。『ラーミア』が解けている。
「大結界『トラロカン』。これが御憑神トラロックより授けられし自在法です」
「この雨の結界内の自在法を阻害し、強制的に解除する力よ」
唖然とする平井の前に、センターヒルがゆっくりと降り立った。もはや勝負を急ぐ必要もないと、その悠然とした態度が物語っている。
「平井ゆかり。ミステスとなって数ヵ月、戦闘経験は数えるほど、固有自在法は失血に応じて自身を強化する『ラーミア』」
センターヒルが口にするそれは、一つの事実。
「人間であった頃から外界宿に出入りし、『鞘持たぬ剣』の撃退にも貢献した逸材。その勇気と機転には敬意を払います」
この恐るべき敵が、自分達の事を綿密に調べ上げて来ていた、という事実である。
「貴女のような“賢明な未熟者”は、自らの経験の浅さを自覚しているが故に勝負を急ぐ傾向がある。長期戦になればなるほど、手札の少なさや実力差が顕著になるからです。貴女のように速さが武器の使い手ならば、尚更に」
今となっては、それも納得出来る。この戦いの運び方は、明らかに平井の性質を掌握したものだ。
「わざと劣勢を演出して、あたしが『ラーミア』を使う為に自分から血を流すよう誘導して、弱り切ったところで『ラーミア』を強制解除する。素人相手に随分慎重だね」
能力どころか、頭の中まで見透かされている。歴戦のフレイムヘイズの底知れない器の前に、平井は怒りも悔しさも吹き飛んだ。
「“踊る霞”は、貴女にだけは計画の全容を明かしているのでしょう。それを知った上で止めようとしない貴女も、十分に危険な存在です」
悠二の計画は、いくら頭が良くても推察出来る類の内容ではない。にも拘わらずこうも見事に危険を見抜くのも恐ろしい。実際、図星なのだから反論も難しい。
「(さーて、どうしたもんか)」
話している間も常に不意打ちを狙ってはいたが、やはりと言うべきか、隙など無い。
実力は下回り、切り札も封じられた。おまけに失血でコンディションは最悪に近い。センターヒルが勝利を確信して余裕を見せるのも無理からぬ状況である。
だが、
「(だからって、誰が諦めてやるもんか)」
絶望的な窮地など、今に始まった事ではない。今から飛び込む先に待っているのは、こんな生易しい戦場ではない。
“こんな程度”で怯んでいては、神に挑む資格などないのだ。
「(考えろ、考えろ)」
無論、気迫だけで勝てるほど世の中甘くない。まして今は窮地にこそ力を発揮する『ラーミア』が封じられているのだ。何かしら、今ある武器で勝機を掴むしかない。
基礎能力は相手が上。ダメージは色濃く、『ラーミア』も使用不可。『吸血鬼』の力も知られているだろう。
唯一知られていないだろう手札は、指輪型宝具『コルデー』に装填した自在法だが、間が悪い事に今入っているのは戦闘用の式では……
「(ん?)」
不意に、気付いた。
確かに戦いの為に用意された自在式ではない。悠二もこんな使い方を想定していた訳ではないだろう。だがこれは……使えるのではないだろうか。
「はは……」
諦めた、と受け取るには不穏な笑い声が零れて、センターヒルの顔が僅かに引き攣る。
「(まだ、終わっていない……!)」
油断などしていない。隙など見せない。何が来ようと対応できる。
そう自分に言い聞かせ、実践していたセンターヒルの警戒が、唐突に危機感に塗り潰される。
「(“今やらなければ、やられる”!!)」
この時、危機感のままに逃げ回れば、或いは勝機もあったかも知れない。
しかし彼は、瞬間移動による死角からの一撃で勝負を決める選択をした。
「さっきの、訂正……」
視聴覚を妨げる豪雨の中で、零れるような小さな言葉を、確かにセンターヒルは聞いた。
「───運が無いのは、そっちだったね───」
雨降りしきる陽炎の世界に、鮮血の華が咲く。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
降る筈のない雨が、上がる。
それがパートナーたる少女の勝利の証だと知る坂井悠二は、二重の意味で安堵の溜息を吐いた。
ほとんど同時、
「“あっちも”終わったか」
土塊の亡者達が、ボロボロと崩れ落ちていく。一歩間違えれば群がられ、貪り喰われていた化け物共の消滅を見届けてから、悠二は一っ飛びに地上に降り立った。
見下ろす先には……胸に風穴を開けて倒れるサウスバレイの姿。こんな状態でも息があるようだが……間違いなく、直に死ぬ。
「はは、ははは。油断したつもりは、なかったが……これは一本、取られたようだ……」
「『仮装舞踏会』対策のとっておきだ。加減できる相手じゃなかったからな」
訳が解らない内に殺された。そう感じる筈の攻撃を受けたサウスバレイは、どうやら自分が何をされたのか明確に理解しているらしい。恐らく二度は通じないだろう。……二度目など、訪れる事は無いが。
「どうして二人だけで来たんだ? 少し数の有利を作るだけでも全然違った筈だろ」
「我々は……とうに、フレイムヘイズと袂を分かっている。口先だけの連中を引き連れて、背中を刺されても敵わん……」
「異端はお互い様ってわけだ」
道を外れて、覚悟を決めて、それでも往生際の悪い悠二の理性が、得も言われぬ昂揚と混じって渇いた自嘲を零させる。
「お前は、気付いているのだろう。フレイムヘイズとなる人間が、本当は……どういう存在なのか」
「ああ、解ってる」
その真実は、悠二が『詣道』で手に入れた大きな副産物だった。
フレイムヘイズとは、それに選ばれる人間とは……“徒という異物に対するこの世の抗体”なのだ。ゆえに、彼らは理屈や感情以前に徒を許せない。許さないのではなく、存在の在り方として許せない。
あれだけ完璧な楽園を謳う『仮装舞踏会』が、何故あの場面まで大命の内実を秘匿してきたのか? 本当に人間やフレイムヘイズにさえ理想的な世界を創れるなら、最初から戦う必要すらなかった筈だ。その根本的な理由が、これである。それぞれの都合や信念によって個人差は出るだろうが、結局最後にはフレイムヘイズは徒の前に立ちはだかる。
悠二が今回のような破天荒な“募集”を掛けた理由も同様。大義名分さえ与えてやれば、僅かな勝機を見せてやれば、『仮装舞踏会』に挑むフレイムヘイズが少なからず現れると確信したのだ。
「世界の狭間で……“楽園の創造にさえ耐えられる世界の狭間”を使って、お前は何をする気だ……“踊る霞”」
「協力してくれたフレイムヘイズを出し抜いて、ヘカテーを取り戻す。それだけさ」
「はは、ははは……戯れるな。それで満足するような、殊勝な男ではあるまい」
恐らく、この二神は『仮装舞踏会』の大命さえも、その実体を見定めようとしたはずだ。
それが、今回は悠二の真意を見極めるまでもなく排除しようとした。そうさせるのは、全てが神の掌上で解決しそうな状況のせいか、或いは神に比べて悠二の“底が浅い”からか。
「……我らはかつて、世界の理に反して人間の戦に介入した。フレイムヘイズさえも敵に回し、この不条理な世界を変えようと立ち上がった」
サウスバレイの身体から生気が薄れ、淡く象牙色に輝き出す。
「その結果は凄惨なものだ。母なる大地を救う事も出来ず、いたずらに血を流し、更なる悪霊共の跋扈を許す事となった。残されたのは、討ち手の使命も世界を守る熱意も失った抜け殻だけ」
肉体が、器が、限界を迎えて内なる炎を吐き出している。
「お前は、どうなるかな?」
神官とは思えない悪辣な笑みを見せ付けながら、サウスバレイは燃え尽きた。象牙色の炎は膨張する事なく、神を名乗った強大な王は紅世へと還っていく。
「どうなる、か……」
自信がある訳では無い。それどころか、過去に類を見ない前代未聞の大博打になるだろう。
「それでも僕は……」
完全な独り言。覚悟とも決意ともつかない傲慢な意思を自分に言い聞かせる為の言葉に、
「───やめるつもりはないんでしょ───」
全く予期せぬ声が、被せられた。
「(……最悪だ)」
その声を、気配の一切も感じずに背中を取られる感覚を、悠二はよく知っている。
よりによってフレイムヘイズを殺した直後に再会するなど、間が悪いにも程がある。
「……久しぶり、シャナ」
振り返る事なく、悠二は少女の名前を呼んだ。その声に、微かな恐れすら滲ませて。
「(逃げられる、かな)」
大命の宣布で自失したシャナが、いつまでも眠り続けている訳がない。
その性格から、そして悠二の性格をよく知っているという事実から、まず味方にはならないだろうと踏んでいた。
そんなシャナに、これ以上なく最悪のタイミングで再会してしまった。ただでさえシャナは自在師の天敵な上、悠二は力をかなり消耗している。……というより、今この瞬間にも背中から突き刺されてもおかしくない。
とりあえず竜尾を強化しながら逃げる策を考え続ける悠二を、
「心配しなくても、戦うつもりなんて無い」
「……へ」
予想だにしないシャナの言葉が、止めた。平然と、何の警戒も見せない無防備な仕草で、シャナはいつまでも振り返らない悠二の前に回り込む。
「あんな派手な事をしたら、敵まで呼び寄せるって思わなかったの?」
「いや、それも覚悟の上って言うか……」
靡く黒髪も、左のみの灼眼も、何故か愛用しだした巫女装束も以前のまま。違いと言えば、彼女の核である大太刀を鞘に納めて背負っている事くらいだが……何か、違う。
外見はまるで変わらないのに、目の前にいる少女が別人であるかのようにさえ感じられる。
そんな悠二に対して、
「……悠二、変わった?」
「えっ」
シャナの方こそが、不思議そうに小首を傾げた。悠二と全く同じ感想を、シャナもまた抱いていたのだ。
「(ああ、そりゃそうか……)」
悠二がそうであるように、シャナもまた、大きな運命の中に身を委ねているのだ。彼女も、自分の中で一つの壁を越えたのだろう。
「どうかな……。変わったと言えば凄く変わったけど、変わってないと言えば変わってない。多分……僕は元々こういう奴だったんだ」
「そう」
それだけ言って、シャナは薄く頬笑んだ。訊きたい事も、解せない事も山ほどある筈なのに、それを口に出す事はない。
訊いても答えは貰えないと、判っているからだ。
「貴方にやりたい事が見つかって、それを貫く意志があるなら、それで良いと思う。使命が無くなった今、私もやりたいようにやる」
強気な笑みを見せ付けて、シャナはまたも無防備に近付いてきた。小さな拳が、緋色の凱甲をコツンと叩く。
「“あれ”がただの餌だって事は判ってるけど、それでも私は叶えたいと思った。悠二が何を企んでても、きっと出し抜いて叶えてやるから」
魔神と契約した偉大なる者。神通無比の大太刀を携えた最凶のミステス。
その挑戦を受けているというのに……何だろうか、妙に可愛らしい。
「…………何を考えてるんだ?」
思わず、無駄と判りきっている質問が口を突いて出る。案の定、シャナは答えない。
「今はまだ教えない」
悪戯っぽく笑顔を見せて、悠二からピョンと逃げた。
何となく、納得する。
『───私もやりたいようにやる───』
使命を失い、存在意義を失い、それでも己の意思一つで戻って来たからこそ、別人に見えたのだ。
『炎髪灼眼の討ち手』で無くなっても、儚いミステスの身になってでも世界の安定を目指した少女が、それほどに全てを使命に捧げた少女が、その喪失を乗り越えて立ち上がったのだ。以前と同じである筈がない。
「何にしても嬉しい誤算だ。せいぜい利用させて貰おうか」
引っ掛かる部分はあれど、そんな贅沢を言える状況では断じてない。かつて仲間だった少女に、かつて憧れた戦士に、悠二はせめて露悪的に右手を伸ばす。
「嬉しい誤算になれば良いけどね。せいぜい足元掬われないように注意すれば良い」
シャナも同じく、心底楽しそうにその手を取る。
己の傲慢を自覚して、故に少年は仲間にはならない。
己の慕情を自覚して、故に少女は仲間にはならない。
欺瞞と葛藤だけを結び付けて──二人の戦士は共に一つの戦場を目指す。