星空に包まれた『星黎殿』にはあり得ない陽光の中、穏やかな庭を一人の少女が歩いていく。
『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女、“頂の座”ヘカテー。その足が踏み締めるのは、『星黎殿』と対を為す宮殿『天道宮』。先の大戦において、フレイムヘイズ兵団から奪い取った宝具である。今や『星黎殿』と融合して一つの宝具となったこの場所に、今は少女が二人。
一人はヘカテー。もう一人は、
「坂井悠二にあの自在法を教えたのは、貴女ですか」
“螺旋の風琴”リャナンシー。
「無理にそんな呼び方をしなくてもいい。どうせ私達しかいないのだ」
『詣道』で坂井悠二一行と交戦したヘカテーは、当然のようにそこで一人のあり得ない姿を目にしている。以前ヘカテーが『三柱臣(トリニティ)』と共に罠に掛け、消滅させた『炎髪灼眼の討ち手』───シャナの姿を。
「はぐらかさないで下さい」
この世から欠落した存在を蘇らせる自在法など、ヘカテーの知る限り一人しか使えない。もし使える者がいたとしても、それは“彼女の教えを受けた自在師”くらいのものだろう。
「元々、彼に自在法の手解きをするよう頼んだのは君の方だろう。今更になって苦情を言われても困る」
元より隠す気もなかったのか、リャナンシーは悪びれもせず肯定した。確かに、毎夜回復する悠二の力の譲渡と引き替えに自在法の手解きを頼んだのはヘカテーだ。
まさかそれが、こんな形で『仮装舞踏会』に甚大な被害を齎すとは思っていなかったが。
「………………」
元を正せば自分のせいだからなのか、ヘカテーはそれきり追求を止めて黙り込んむ。千々に乱れる心を無理やり押さえ込めるように、ドレスのスカートを握り締めた。
「(これで……良い)」
大嫌いだった少女の復活を、心の中だけでヘカテーは受け入れる。別に、ヘカテー自身のちっぽけな罪悪感が少しばかり和らいだ事を喜んでいる訳ではない。
あんな頭が固くて気位が高くて融通の利かない討滅の道具でも……いなくなったら、悠二が悲しむからだ。
「(彼の世界から、もう、これ以上は……)」
───マージョリー・ドーが死んだ今になったからこそ、強く、そう思う。
「…………ふん」
聞こえよがしな溜息が聞こえて、ヘカテーは振り返る。そのリアクションを待っていたように、リャナンシーは一枚の絵をヘカテーに差し出した。
「これは……」
それが何なのか、ヘカテーは知っている。撃破した『敖の立像』から溢れ出した存在の力を回収する事で遂に甦ったリャナンシーの悲願。失われ、復元された物体。だが、内容を見るのは初めてだった。
お世辞にも上手いとは言えない、妖精のような少女の絵。
「その絵を描いたのは、人間の青年だ。何度も何度も私に神の教えを説く癖に、私の自在法を見る度に目を輝かせる可笑しな男だった。馬鹿な事で笑い合い、馬鹿な事で喧嘩する、他愛ない時間が、ずっと続くと思っていた」
何の関係もない筈のリャナンシーの言葉が、何故か……ヘカテーの心に刺さった棘を揺さぶる。
「だがそんな日々も、ある日……呆気なく終わった。私が人を喰っている事を知られて、嫌という程に否定されて……私は全てから逃げ出した」
「……何故そんな話を、私にするのですか」
話しているリャナンシー自身が一番辛い筈だと判っているからこそ、ヘカテーは疑問に思う。
自分と彼女は、違う。そんな心の中を読んだかのように。
「私は彼を、愛していた」
「っ」
リャナンシーが、ヘカテーの目を真っ直ぐに見ながら、告げた。
「逃げ出した事を後悔した私に残ったのは、一つの約束だけ。それを取り戻す為に、数百年の時を費やした」
告げて、ヘカテーから絵を返して貰い、そっと撫でる。嬉しさと淋しさの同居した笑顔を見ていられなくなって、ヘカテーは思わず顔を背けた。
「嫌われるのが怖くて、怖いから逃げ出して、逃げ出して後悔した馬鹿な小娘の話だ。嗤ってくれて構わんよ」
「………………」
意地の悪い物言いに、ヘカテーは踵を返して歩き出す。歩いて、しかし、断固として言い返す。
「私は貴女とは、違います」
悠二は最初から、目の前の小さな少女が人食いの化け物だと知っていた。嫌われるのが怖くて逃げ出した訳では断じてない。
そして、後悔などしない。自分が遺すのはあんなちっぽけな絵画ではなく、徒の楽園……それによって生まれるこの世の安寧だ。
逃避ではない。後悔もしない。だから絶対に止まらない。
「(……悠二)」
愛しい少年の姿を思い浮かべ、だからこそ決意を固く結び直して、
「(どうか二度と、私の前に現れないで)」
自ら思った言葉に───傷ついた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
中国から日本へと向かう飛行機。フレイムヘイズ兵団の用意した、フレイムヘイズだらけの飛行機の一室で、包帯まみれのヴィルヘルミナ・カルメルは座り続けていた。
ガッチリと固定された視線の先には、彼女の娘たる可愛らしい少女の寝顔があった。
「………………」
少女……シャナは、あれからずっと目を覚まさない。坂井悠二に任せた結果、暴走や自壊こそ免れたものの、泣き疲れて眠りに落ちてから人形のように静かに眠り続けていた。
無理もない。彼女が全てを捧げて目指したフレイムヘイズの生き方……その存在意義を、粉々に打ち砕かれたのだから。
「(我々は今まで、一体、何のために……)」
他のフレイムヘイズでさえ、戦争中に半狂乱になって暴れ回ったのだ。復讐など無関係に、ただ純粋にフレイムヘイズの使命に生きたシャナの喪失感は計り知れない。
そして、それ以上にヴィルヘルミナを苛んでいるのは───マージョリーの死である。
「(気付く事は、出来た。そのヒントはいくらでもあった筈なのに、私は……)」
十人足らずの少数精鋭で『星黎殿』に乗り込むなどという無謀な作戦に、あのマージョリーが平然と協力してくれた時点で、気付くべきだった。
マージョリー・ドーは、決して無敵のフレイムヘイズではない。狂気にも似た仇敵への憎悪と執着が、彼女を何百年という戦いの日々の中で生き残らせてきたのだ。
「(以前の彼女ならば、あんな行動にはでなかった! 復讐を終えた彼女の空虚に気付いていれば、もっと別の───)」
後悔と自罰心の渦に落ちていくヴィルヘルミナ。
の頭を、
「っ!」
上から、硬い拳が、割と強く小突いた。
見上げた先に、視線をシャナに固定したままのメリヒムの姿があった。
「隙だらけにも程がある。目覚めないシャナの横で沈み込むな鬱陶しい」
「……余計なお世話であります」
殴られた頭をさすりながら、無感情にヴィルヘルミナは言い返す。
“彼女”と真逆の弱い姿はメリヒムには見せられない。長らく見栄を張り続けた末の、条件反射に近い反応だった。
「『弔詞の詠み手』がいなければ、俺達も無事では済まなかった。よもや全滅した方がマシだったなどというつもりではないだろうな」
「だから、余計なお世話であります」
今日に限って突っ掛かってくるメリヒムを、ヴィルヘルミナは横目に睨む。
「誰がお前の世話などするか。鬱陶しいから陰鬱な空気を撒き散らすなと言っている」
「っ貴方は……!」
思った傍から、ヴィルヘルミナは自らの不文律を破る。“優しい言葉を掛けてくれない”嫌な奴に、八つ当たりのように掴み掛かった。
「貴方のような男には、解らないのであります! 数少ない友を失うという事が、どういう事か!」
「お前がそれを俺に言うか。俺の相棒を殺したお前が」
掴まれた手を無理矢理に振り解こうと力を込める。掴めない。投げられる。背中を強かに床に打ち付けられる。
投げられて床に倒れても、メリヒムの口は止まらない。
「出来もしないのに強がるな。お前はマティルダじゃない。どこぞに失せてみっともなく泣いてこい」
「うるさいうるさいうるさい!!」
倒れたメリヒムを力いっぱい踏みつけてから、ヴィルヘルミナは逃げ出した。
「意外」
頭を小突いた拍子に外れていたのか、床に転がったヘッドドレスが声を発する。
メリヒムはそれを無造作に拾い上げて、軽くシャナの枕元に放り投げた。
「勘違いするな。この狭い部屋であいつと二人でシャナを看たくなかっただけだ」
椅子に腰掛けて、背もたれに倒れ込む。長身のメリヒムには、少しばかりサイズが合わない。
「……どいつもこいつも、馬鹿ばかりだ」
シャナではなく、天井を睨んで、メリヒムはつまらなそうに吐き捨てた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
神の帰還と共に崩れ去った狭間の異界。既に役目を終えた天地の欠片。打ち捨てられた瓦礫の一つ、その上で……黒く、長い何かが蠢いた。
それは、漆黒の鱗に被われた竜尾。“壊刃”サブラクとの死闘の最中に切り落とされた、坂井悠二の本質の一部である。
それが生き物のようにグニャリと動き、膨らみ、そして弾けた。
「……よし、成功」
その内から現れたのは、竜尾の持ち主たる少年───坂井悠二。茶色のジャケットにジーンズというありふれた姿で、具合を確かめるように握り拳を作る。
「流石に少し“接続”が悪いけど、いけるな」
無論、これは坂井悠二本人ではない。悠二の意思総体と力の一部を宿した分身体である。
この世と、狭間。分かたれた世界で力を振るうのは決して楽ではなかったが、秘法『久遠の陥穽』で感覚を封じられていた“祭礼の蛇”に比べれば大した荒業でもない。
大変なのは、ここからだ。
「急がないとな」
馬鹿げた夢を、文字通り手探りで、それでも諦める事なく坂井悠二は目指す。
暗さも明るさも無い狭間の世界で───見えない星に手を伸ばすように。