どれだけの時間が経っただろうか。
最初から勝ち目など無い戦。坂井悠二が“頂の座”ヘカテーを説き伏せ、連れ去るまで、敵を引き付けるため、ただ只管に戦い続ける耐久戦。
「……遅ぇ。あの鏡の向こうでやられちゃいねーだろうな」
「今の台詞、兵の前では言わないで欲しいね。只でさえ下がってる士気に関わるから」
誤算は、二つ。
一つは、恐らく両界の狭間に続いているだろう中天の黒鏡。坂井悠二らがあの奥に向かったという事は、“頂の座”も狭間だろう。あの先に何が在るのかは知らないが、『星黎殿』で決着をつけるより時間が掛かる事はまず間違いない。当然、稼がねばならない時間も長くなる。
「予定とは違ったが、あいつらが鏡に入った時点でこっちの役目も半分は果たせてる。理由は知らんが、『仮装舞踏会』の徒も鏡の中には入ろうとしないしな」
「後は待つだけ、ですね」
そしてもう一つの誤算は、『仮装舞踏会』の軍の配置である。
坂井悠二一行によって撃退された東方征圧部隊。その凄絶な敗北を“目撃した”総司令官デカラビアは、東西に差し向けた軍をいち早く呼び戻していた。
結果、見つけられる訳の無い『星黎殿』に突然現れた筈のフレイムヘイズ兵団は、
「ああ、死ぬまで戦う。ただそれだけですね」
予測を遥かに上回る短時間で、『星黎殿』直衛軍と外界宿(アウトロー)征圧軍による挟撃を受けていた。奇襲によって一時的に引き寄せていた形勢は見る間に覆り、本来の戦力差が浮き彫りになっていく。
「(……ヴィルヘルミナ)」
それでも、撤退は出来ない。
既に敵軍を引き付ける事に意味は無いが、だからと言って全てを突入部隊に任せる訳にはいかない。
何故なら、仮に“頂の座”ヘカテーの説得に成功したとしても、それだけでは意味が無いからだ。離反したヘカテーを、『仮装舞踏会』がむざむざ逃がす訳がない。まず間違いなく、ヘカテーを討滅して新たな巫女を創造しようとする。
それを阻止する為、フレイムヘイズ兵団はヘカテーをこの戦場から確実に逃がさなければならない。だからこそ、いくら劣勢になろうとも……否、劣勢ならば尚更、退く事は出来ない。
……だが、それらは全て、悠二らの作戦の成功を前提とした上での方針である。
「(そう長くは、持ちませんよ)」
神の眷属を、たった一人のミステスの手で神から引き離す。そんな荒唐無稽な作戦を、全軍の命を懸けて信じなければならない。極限まで追い込まれたフレイムヘイズ兵団を、
「何だ、これは……!?」
───天地を巻き込む不可解な震動が、襲った。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
自らが創造した道を崩壊させながら、巨大な蛇身が向かって来る。蛇の這った後に広がるのは、音も光も介在しない両界の狭間。
その蛇行に巻き込まれるだけで、荒れ狂う因果の大海に墜とされる。
「ヘカテー!!」
その脅威を理解して、悠二は一も二も無く飛び上がった。僅かに遅れて、ヴィルヘルミナらも続く。
止められるとは思わない。しかし、あの驀進に背中を見せて逃げる事もまた自殺行為だ。
「見事」
深淵から響くような深い声が、蛇の口から零れ落ちる。巨大な顎門がゆっくりと開き、
「! 後ろにつけ!」
全てを塗り潰す黒き炎が、濁流の如く吐き出された。一切の輝きを持たない闇に向かって、悠二は迷わず飛び出す。そのすぐ後ろに続く仲間ごと、平井の『アズュール』が、火除けの結界が包み込み、何事も無かったかのように炎を押し退けた。
「……どれくらい寝てた?」
「五分も経ってないよ」
悠二が『アズュール』の力を借りようと思っていた腕の中から、火除けの結界を張った平井が呻く。
覚醒してすぐ悠二の腕から平井が離れるのと、黒炎の奔流を抜けるのは同時だった。
───その眼前に、神が迫っていた。
「摑まるのであります!」
「緊急回避」
止められない。逃げ切れない。故にヴィルヘルミナは『三柱臣(トリニティ)』に倣う。即ち、巨大な蛇身に万条を絡めて貼り付いたのだ。当然、他の仲間達にもリボンを伸ばして。
「こ……のっ……」
戦うどころではない。振り落とされただけで狭間に墜とされてしまう。
「……やれやれ、まさか本当にこんな所までやって来るとはねぇ」
だがそれは“祭礼の蛇”の背中に立つ『三柱臣』も同様。故に蛇は、自身に摑まる討ち手やミステスを払い除けようとはしない。
いや、そもそも悠二らを敵だと思ってすらいない。先程の炎も、文字通りの挨拶代わりだ。
「見事、か。本当に……盟主殿の言う通りだ」
称賛と悲哀を等しく乗せた溜め息が、シュドナイの口から紫煙と共に吐き出された。
『仮装舞踏会(バル・マスケ)に、』『星黎殿』に、フェコルーに、サブラクによって守られていた筈のこの『詣道』に、坂井悠二がいる。その意味を……可愛い部下の犠牲を思えば、無邪気に褒める気にはならない。そして同時に、尋常ならざる壁を乗り越えてここまで辿り着いた敵に対して、敬意を払わずにもいられない。
「………………」
ただ一人、蛇の額に立つヘカテーだけが、蛇身にしがみつく敵の姿に視線すら寄越さない。
一歩間違えれば狭間に墜ちる、誰もが戦いを避けるこの状況で、
「ヘカテー!」
悠二だけが、ヘカテーの前に飛び出していた。
『グランマティカ』で風を操り、通常では考えられない飛翔で以て。
「「──────」」
黒刀と大杖が、ぶつかり合う。鍔迫り合う刃の向こう、寄せれば触れる程の距離で、視線と視線が絡み合う。
数秒とも数分とも思える沈黙を経て、
「……何をしに、来たんですか」
ヘカテーが、口を開いた。
何の感情も読み取れない、冷厳極まる表情と声音で。
「決まってるだろ、ヘカテーを連れ戻しに来たんだ」
同じ無表情でも、まるで別人。願って、目指して、漸く辿り着いたというのに……再会できた気がしない。
その姿に、怯まなかったと言えば嘘になる。
「言葉の意味が解りません」
戸惑う少年に眉一つ動かさずに、少女は返す。
「私は“頂の座”ヘカテー。創造神の眷属であり、『仮装舞踏会』の巫女」
攻撃と呼ぶには余りに力の抜けた刃を弾いた『トライゴン』が円を描き、
「私の居場所は、最初から“こちら側”です」
無防備な悠二の側頭を叩いた。鮮血を散らせて身体の軸をズラした悠二の脇腹を、反対側から石突きが打つ。
だが、膂力なら悠二に劣るヘカテーの、『莫夜凱』の上からの打撃だ。打たれながらも、悠二は叫ぶ。
「だったら───」
しかしヘカテーは、それすら言わせない。
身の丈を優に越える大杖を、自身の身体を軸に自在に回転させ、多彩な打撃を次々と繰り出していく。
「(くそっ! やっぱりこうなるのか!)」
簡単に説得できる程度の覚悟なら、最初から何も言わずにいなくなったりはしないだろう。
解っていた事だが、実際に拒絶されるとやはり堪える。今という状況と併せて、焦燥ばかりが先に立つ。
「がっ!?」
防御の隙を縫って、大杖の先が悠二の顎を跳ね上げた。
重い斬撃を高速で繰り出す悠二の『草薙』も、悠二の太刀筋を熟知しているヘカテー相手では効果が薄い。初見にも係わらず、みるみる内に斬撃を捌き始めている。
「『儀装の駆り手』から話は聞いた。『神威召還』を使えば、ヘカテーは死ぬんだろ!」
「私はその為だけに数千年の時を待ち続けたんです。そこに疑問も躊躇もありません」
高速で進み続ける蛇の上、墜ちれば下は世界の狭間。窮屈な接近戦しか許されない状況で、『トライゴン』に繰り返し全身を打たれながら、悠二は叫ぶ。
「その為だけに? だったら、僕らと過ごした御崎市の時間は何だったんだ! 『仮装舞踏会』から離れてあんな所で過ごして、戦って、あんなのが『大命』なんて言うのかよ!」
「全ては『天罰神』を滅ぼす為のベルペオルの計略。あの街で見せた私の姿は、偽りでしかありません」
「嘘つくな!」
「嘘ではありません」
理論武装していたと言わんばかりの、しかしミエミエの即答に悠二は呆れた。
一般人に毛が生えた程度の知識や経験しかない悠二でも、あれがイレギュラーにイレギュラーを重ねた綱渡りだった事くらい流石に判る。
「(……やっぱり、ヘカテーだ)」
冷たく固められた表情の奥から、当たり前の事実が、言葉を交わす事で染みていく。
無愛想で、自分勝手で、不器用で、頑固で……やっぱり、間違いなく、悠二の取り戻したいと願ったヘカテーが、ここにいる。
そう……ヘカテーに演技など、最初から出来る訳がないのだ。
「ぶ……っ!」
知らず弛んだ横っ面を、『トライゴン』が打ち据える。怯んだ所を無駄の無い突きが二度三度と強打する。
しかし、これだけ一方的に戦いを運びながら、ヘカテーは悠二を吹き飛ばさない。本当に悠二がただの邪魔者だと言うなら、さっさと蛇から突き落としてしまえばいいのだ。
「(だけど……)」
それでも、ヘカテーが御崎市での全てを捨てて『仮装舞踏会』に戻った事もまた事実。
「(どうすればいい……?)」
御崎市を発つ時、覚悟は決めた筈だった。だが、心のどこかで思い込んでいた。
『仮装舞踏会』の企みなど、きっと碌でもないものだと。自分や平井には絶対に受け入れられないからこそ、ヘカテーは何も言わずに姿を消したのだと。
───だが、違った。確かに納得は出来ない。納得は出来ないが……理解は出来る。
そして坂井悠二という少年はその特異な性質ゆえに、理屈で認めてしまったものを感情だけで否定する事を極めて不得手としていた。
今に限って言えば、むしろ大命の内容を知らない平井の方がマシな説得が出来るかも知れないが、平井を含めた仲間達は全員シュドナイとベルペオルを挟んだ向こう側だ。
疾走する蛇身の上、墜ちれば狭間に真っ逆様という状況で、互いに牽制以上の戦闘はしていない。
「……要らぬ心配だったらしいな」
悠二相手に戦うヘカテーを“背中の眼で見て”、眼前の敵から目を離さぬまま、シュドナイは隣のベルペオルに呟く。
そのあからさまな気休めに肩を竦めて、ベルペオルは敢えて別の……しかし無視出来ない異常について口にする。
「おかしいね」
ここまで幾度となく『仮装舞踏会』の徒を驚愕させてきた、ミステスの姿を。
「あれは……消えた『炎髪灼眼』の娘じゃないか」
既に炎髪は燃えず、灼眼も左目一つきり。それでもかつて最も恐れた敵の姿を、ベルペオルが忘れる筈がない。
「可能性があるとすれば、坂井悠二か?」
「一時期“螺旋の風琴”に自在法の手解きを受けていた筈だから、恐らく。とはいえ、『天壌の劫火』が蘇った訳じゃない。厄介な敵が一人増えた程度に考えておけばいいだろうさ」
狼狽する事もなく、受け入れ難い現実を受け入れる神の眷属。その的確な状況把握に、シャナではなくメリヒムが眉尻を吊り上げる。
別にベルペオルがシャナを侮っている訳ではない。『三柱臣』にとって、『炎髪灼眼』かそうでないかという一点はそれほど重要な事なのだ。
「“狩人”との戦いの後、言った事を憶えていますか」
それら、優劣のハッキリした睨み合いを背に、ヘカテーは大杖を振るう。
「紅世の徒が人を喰らう。それはどうしようもない事なのかと、貴方は言った」
日常を生きる少女としてではなく、創造を導く巫女として、言葉を連ねる。
「受け入れられないならば、神に祈れと私は言った」
敵と味方を乗せて『詣道』を猛然と突き進む神は、あっという間に“それ”を抜けた。
「ッオオオオオオォォーーー!!!」
躍り出た空に、懐かしきこの世に、神たる大蛇が歓喜の咆哮を上げる。
見上げれば曇天の空が、見下ろせば炎に彩られた戦場がある。
粉々に砕けた黒鏡の破片を撒いて、
「───今こそ、神に祈る時です」
『創造神』“祭礼の蛇”が、数千年の時を経て帰還を果たした。