円の中に五芒星を、五芒星の中に瞳を浮かべる自在式の奥深く、暗い水中と見える異空間の中を、無光沢の大魚が泳いでいる。
『仮装舞踏会(バル・マスケ)』征討軍総司令官・デカラビア。誰にも読めない無表情の奥で、彼は(彼にしては)大いに驚愕していた。
「(『星黎殿』に、侵入者だと?)」
彼は己の魚鱗たる『プロビデンス』を介して己が知覚を、そして自在法を世界中に広げる事が出来る。総司令官たる今も勿論、各隊長に鱗を持たせる事で自軍の全状態を完璧に把握していた。それは、同等の権限を持つ要塞総司令官であるフェコルーにもだ。
「(早過ぎる。いや、“こんな真似”が出来るなら、なぜ今まで使わなかった)」
外からの敵襲をこそ最も警戒していたデカラビアでさえ、まるで接近に気付けなかった。あるいはそれも、当然なのかも知れない。
「(いずれにせよ、現実としての脅威だ)」
『星黎殿』を守る戦線は、定石から外れた“極めて離れた”布陣となっている。『秘匿の聖室(クリュプタ)』に隠された『星黎殿』の周りに大規模な陣など敷けば、敵に本拠地の場所を自ら教えるようなものだからだ。
そうして広く長く、たとえ突破されても『星黎殿』の位置など掴めないよう計算された戦線の内側に───見紛う事なき兵団の姿がある。
突如として燃え広がった銀の煉獄の中から、虚ろなる幽鬼のように、『フレイムヘイズ兵団』が顕れていた。
信じがたい事だが、紛れもない事実。あのミステスは軍を丸ごと『転移』の自在法で運んでみせたのである。
だが、問題はそこではない。こんな荒業を使えたところで、肝心の転移先を指定できなければ意味が無い。どういうわけか、“敵は『星黎殿』の位置を知っている”。それも、少数精鋭を『秘匿の聖室』内部に直接転移できるほど正確に。
こうなってくると、『星黎殿』の位置を悟らせない為に敷いた防衛線は全くの逆効果。本拠地の周囲をガラ空きにした馬鹿げた布陣でしかない。
「(間に合う、か……?)」
幸い、東西の外界宿(アウトロー)征討軍は既に撤退を開始している。虚を突かれたのは間違いない、万全などとは程遠い……が、絶望的という程ではない。
「(最も憂慮すべきは『星黎殿』内部だが、“嵐蹄”フェコルーさえ健在なら何も問題は───)」
東西の征討軍司令官に指示を出す『プロビデンス』と、『星黎殿』内部の現状を探る『プロビデンス』を同時に起動したデカラビアは、
「──────」
天を貫く虹の奔流に撃ち砕かれる、鉄壁と夜空を見た。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「おーっ、ホントにやりやがった!」
「あの色からしてプランAだね。一時はどうなる事かと思ったけど」
遠方……ではあるものの、視認出来る程度には近く、『輝爍の撒き手』は割れ砕ける『秘匿の聖室(クリュプタ)』を眺める。
「“虹の翼”メリヒム。味方に付けるとここまで頼りになるか」
「逆に言えば、敵に回すとこの上なく恐ろしいがの。果たして、いつまで気紛れに身を委ねてくれるものか」
同様に、『剣花の薙ぎ手』も嘆息する。「『マグネシア』を破ってみせる」というのは、大した根拠も無い大言だった。強者の驕りと笑い飛ばして然るべき過信だったが、こうして実現されてしまうと言葉も出ない。
「ああ、彼らは託された役割を果たしてくれました。我々も存分に励むとしましょう」
「ふむ、見る限り“祭礼の蛇”が帰還した様子もない。それだけでも抗う甲斐はあるというものじゃな」
対照的に、別段驚いた風もなく『儀装の駆り手』は鉄の柱を地に突き立てる。正直なところ、既に神の帰還が為っていたら戦況は極めて絶望的だった。
「実際どうなんだ? 実力はともかく、巫女を口説き落とすって話の方は」
「さあ? 少なくとも君みたいな ひねくれ者には難しいだろうね」
こんな状況でもマイペースにぼやく『鬼功の繰り手』は、ホルスターに納めた操具からの皮肉に眉を顰める。どれだけ戦術で優位に立っても、肝心の神の企みを阻めなければ意味が無い。
「今更ですけど、本当に坂井さん達だけで大丈夫だったんでしょうか。相手が相手だし、もう少し戦力を裂いた方が……」
「ホントに今更ね」
「人の心配してる余裕は無いわよ。少し距離があるって言っても、敵地のド真ん中に『転移』されたんだから」
『極光の射手』が難しく唸る。最低でも『三柱臣(トリニティ)』とフェコルーとは、彼らが戦う事になるだろう。これでもし“頂の座”ヘカテーを味方に引き入れられなければ、はっきり言って勝ち目が無い。
「仕方ありません。ヴィルヘルミナとマージョリーの同行が、互いに譲歩できるギリギリの条件だったのですよ」
「何せ、彼らにとって最大の目的は“頂の座”の奪還。場合によっては我々が敵となる可能性もありますからな」
『震威の結い手』が十字を切って、なかなか抜けない癖に嘆息する。フレイムヘイズ兵団にとっての最善は神の帰還の阻止、次善は巫女の説得による『神威召還』の封殺だ。
だが、坂井悠二と平井ゆかりは違う。今は利害が一致しているから共同戦線を張ってはいるが、神の帰還を阻止する過程でもし目的が食い違ったら……この戦いは三つ巴になりかねない。彼らがフレイムヘイズの同行を二人しか認めなかったのも当然である。逆にフレイムヘイズ兵団は『トリガーハッピー』の一件を含めて散々彼らの力を借りている。これ以上無理な要求など通せる筈もない。
何より……今や彼らこそがフレイムヘイズ兵団の頼みの綱だ。どのみち危ない橋を渡るなら、小賢しい保険よりも信頼を得る方が良い。特に、あの少年を相手するには。
「さあ皆さん、ここからが正念場ですよ」
既に彼らが『星黎殿』に入った以上、肝心要の作戦は彼ら頼みだ。だが、異変に気付いた軍勢が『星黎殿』に押し寄せたら、巫女の説得どころではなくなる。
その為の、フレイムヘイズ兵団だ。
「世界の在り様にまで手を伸ばす邪神の企み、必ずや叩き潰してみせましょう」
一兵でも多くの敵を引き付ける為に、フレイムヘイズ兵団は開戦の狼煙を上げる。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『マグネシア』に覆われた暗闇の中、松明の光すら届かない通路の奥で……薄白い人影が揺れている。違和感に溢れ返った要塞の中、まるで幽霊のように浮かび上がった その姿に、悠二はギョッとなって剣を構えた。
「こっちだ」
揺らめく影が、どこかで聞いた声で通路の奥に悠二を呼ぶ。敵意も“違和感”も全く無いが、だからといって不用意に付いて行く事など出来る訳が無い。
だから───“準備万端で付いて行く”。
「ほう」
床を、壁を、天井を、『グランマティカ』が覆っていく。銀火を灯す半透明の蛇鱗が、通路の奥にいた人影を照らす。
「やあ、『革正団(レボルシオン)』の時は入れ違いだったから、半年ぶりになるかな」
自在法で四方を囲まれながら、そこにいた美青年……“狩人”フリアグネは平然と笑った。
この狡猾な王がここにいること自体に驚きは無い。突入する前から、敵として遭遇する事も覚悟の上だった。問題はその後ろ、純白の花嫁に抱えられて気を失っている───平井ゆかり。
「(人質、か……)」
冷や汗が一筋、悠二の頬を撫でる。あの花嫁姿の燐子が平井を傷付けるより先に、『グランマティカ』で腕を落とす。そのタイミングを狙う悠二の前に、
「命に別状はありません。彼女なら、少し休めば戦線に復帰する事も可能でしょう」
「……え、あ、うん?」
燐子の花嫁は、当たり前のように平井を差し出してきた。逆に面食らう悠二は、おっかなびっくり、一瞬も気を抜かずに手を伸ばし、そして……本当に何事もなく受け取った。
「……どういうつもりだ?」
無事に平井を取り戻せたのは何よりだが、とても手放しで喜べない。いや……実のところ、全く心当たりが無い訳ではない。
「私に敵対する意志が無い、という事を理解して欲しかっただけさ。あまり時間も無い事だしね」
そう、そもそもフリアグネは『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の構成員ではない。『革正団』の時も今回も、フリアグネが『仮装舞踏会』に手を貸していた理由の方こそ判っていないのだ。
『トリガーハッピー』を他の徒に使わせていた事もフリアグネの本意とは思えない。ある程度の摩擦は予想できていた。
「私が『仮装舞踏会』に協力していたのは、“君に殺された”マリアンヌを復活させる為だった」
「………………」
一方的に、フリアグネは語り始める。
最初にフリアグネと戦った時の、悠二の最後の一撃。あれは確かにフリアグネを仕留め損ねていたが、その燐子たる花嫁……マリアンヌは別だったらしい。目を細めたフリアグネは、隣のマリアンヌの肩をそっと抱いた。
「いくら私がオリジナルの自在式を持っていても、燐子はこの世の物質をベースに作られるからね。『マリアンヌになる前の人形』が無ければ、再びマリアンヌに命を吹き込む事は出来なかった。だからどうしても、『仮装舞踏会』と“螺旋の風琴”の力が必要だった」
「そのアンタが、何でまだ『仮装舞踏会』にいるんだ?」
仇だと言われたところで、悠二は罪悪感など覚えない。命懸けだったのはお互い様だ。対するフリアグネもまた、穏やかな口調のまま続ける。
「マリアンヌの復活は確かに危ない綱渡りだったが、これでもまだ振り出しに戻ったに過ぎない。私達にはまだ、『都喰らい』で叶えようとしていた悲願があるのだよ」
どこまでも勝手な言い分にも、御崎市に暮らしている悠二は腹を立てない。嫌な方向に感覚が麻痺してきている。
スッと、フリアグネは指を差した。悠二の腕に抱かれて眠る平井、その左手中指に光る『アズュール』を。
「“螺旋の風琴”が編み出した『転生』の自在式。掛けた対象をこの世に定着させ、確たる一個の存在に変える秘術が、その指輪に刻まれている。私はこの自在法で、マリアンヌを燐子などという儚い存在から昇華させたいんだ」
努めて表情に出ないようにしながら、悠二は冷静にフリアグネの言葉を整理していく。
大方、今度は大命に協力する代わりに『転生』の自在法の発動を報酬として受け取る契約になっているのだろう。『アズュール』を奪われても、開発者であるラミーさえいれば再現は容易な筈だ。
……だが、腑に落ちない。
「『アズュール』が欲しいなら今さっき ゆかりから奪えば済んだんじゃないか」
「『都喰らい』を狙っていた事からも判るだろう? 『転生』の自在法には莫大な存在の力が必要だ。いま指輪だけ取り戻しても、また一から力を手に入れる算段をつけなければならないし、成功率も高くはない。だったら、より確実な手段を得たい」
確実な手段、と口にしながら、フリアグネは真名通りの“狩人”の眼で悠二を見据える。獲物を狩る……というよりは、貴重なアイテムを見つけたコレクターの眼だが。
「……なるほど」
目的と立ち位置が判れば、自然と状況と要求も見えてくる。つまり、取り引きがしたいらしい。
「シャナを、見たんだな」
「御名答」
判断材料は、まずそれしかない。いくら気配が無いといっても、別にシャナは透明人間ではない。感知能力に長けている訳でもないし、死角から一方的に姿を見られる事もあるだろう。
「私もマリアンヌを復活させて貰う時に『復元』の自在法を目の前で見ているが、あれはまともなやり方では到底集められないほど莫大な存在の力が必要だ。君があれを成し遂げたという事は……既に持っているんだろう? 『零時迷子』を核とした、存在の力の精製法を」
……完全に、バレている。いつまでも隠し通せるとは思っていなかったが、こんな形で目を付けられるとは思わなかった。
「(いや、悪くはないのかな)」
相手が相手だ。これくらいの事は予想されているかも知れないとは思っていた。しかし「シャナを見たのか」と開き直って見せた時のフリアグネの反応から見るに、フリアグネがこの事実に気付いたのは ついさっきだ。準備万端で備えられているよりは遙かにマシである。
「信じられないな。『アズュール』だけじゃ駄目なのは判ったけど、僕に取り引きを持ち掛ける動機としては弱すぎる。より確実な手段って言うなら、このまま『仮装舞踏会』に協力してた方がよっぽど確実な筈だ」
全く合理的にフリアグネの矛盾を指摘する悠二に、
「それは、『仮装舞踏会』が勝った場合の話さ」
ごく当然といった風に、フリアグネは答えた。逆に悠二の方が面食らう。
「『革正団』の時も、私は状況に合わせて どちらの味方にもなれる用意をしていた。あのまま そこのお嬢さんが“戯睡郷”に乗っ取られ、『革正団』が勝利するようであれば、私は『トリガーハッピー』を“螺旋の風琴”に渡す事なく、『革正団』の協力者として『敖の立像』の余剰エネルギーを貰い受けるつもりだったからね」
「……それをよく僕の前で言えるな」
「元々、全面的に協力する気はないんだよ。私が『仮装舞踏会』と手を切って君たちに味方する、なんて言っても冗談にしかならないしね」
「そりゃそうだ」
要するに、『仮装舞踏会』が勝っても悠二達が勝っても、マリアンヌを『転生』して貰える。そういう状況をフリアグネは作りたいのだ。
いっそ天晴れなまでのコウモリ主義だが、一応筋は通っている。この場で細かく追求する気はないが、恐らくベルペオルが信用出来ないという事もあるのだろう。直接話した事はないが、恐ろしく悪辣な策謀家という話である。
だが、やはり、腑に落ちない。
「それにしても……僕たちが勝ったら、か。随分高く買ってくれたもんだ」
悠二達が勝利する可能性を考慮して敵と内通するなど、博打にしか思えない。悠二達には分の悪い賭けだと知っても命を懸けて臨むだけの理由があるが、フリアグネは違う。
しかし、
「もちろん、買うさ。現に君はこうして、踏み入る事など出来ない筈の『星黎殿』に現れた」
フリアグネはまたしても、理屈に合わない確信で返した。
「愛というものは、時としてあらゆる“絶対”を覆す途轍もない力になる。私の可愛いマリアンヌが、今ここに存在しているように、ね」
「フリアグネ様……」
蕩けるような瞳で傍らの花嫁の頬を撫でて、見つめ合う。
その言葉に、その姿に、悠二の背筋がゾクリと粟立つ。口先の誤魔化しや冗談では有り得ない、彼と彼女だからこその重さがそこにはあった。
危うく吞まれそうになる感情を制して、悠二は努めて冷淡に話を進める。
「で、僕がその要求を飲んだ場合のメリットは?」
「私が知る『仮装舞踏会』の情報全て。それに、君たちに奪われた『アズュール』と『コルデー』もそのまま譲ろう」
「へえ、太っ腹だな」
「そうでもないさ。『仮装舞踏会』の情報なんて私には何の価値も無いし、マリアンヌを『転生』させられるなら指輪くらいは安いものだ。君達が殺されるような事があれば、回収させて貰うしね」
「……ああ、そう」
悠二はしばし、考える。
普通に考えれば、フリアグネは信用ならない。もし自分が『仮装舞踏会』の立場なら、こんな部外者に重要な情報は与えない。フリアグネの持つ情報全てと言っても高が知れているだろう。
……だが、今は完全に未知数のまま飛び込んだ敵の本拠地の中。正直なところ、僅かな情報だろうと喉から手が出るほど欲しい。それに何より、ここでフリアグネと戦うのは避けたい。只でさえ神やその眷属に挑もうというのに、その前にこんな厄介な王と矛を交えるなど御免である。
「(だったらいっそ)」
悠二の中で、答えが出る。それを口に出そうとした刹那───空が砕けて、陽光が降り注いだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「な、何という事だ……!」
貫かれる『マグネシア』を、砕かれる『秘匿の聖室』を、フェコルーは自在法に映し出された光景の中で見ていた。
まさに前代未聞、かつてない失態に目眩を起こして蹌踉めく。決して自惚れていた訳ではない。破られてしまうのではないかという緊張と常に戦っていた。
それでも、結果として、破られた。
「(いやっ、『虹天剣』の威力に戦慄しておきながら『マグネシア』の防壁のみで対処しようとした私の失態……!)」
気弱な悪魔は、大いに、大いに後悔する。気を抜けない、と考えながら、防げる前提で備えていた。知らず驕っていた己の慢心に、常ならば滅多に感じない憤激が湧き上がる。
「(しかしまだ、護るべき物は残っている!)」
『秘匿の聖室』を砕かれた事も、『星黎殿』の守護者として許されるものではない。だが今は自罰心に沈んでいる暇など無い。『秘匿の聖室』より、『星黎殿』より大切な『神門』がまだ残っていて、今やいつ砕かれてもおかしくない危機に曝されているのだ。
こうしている間にも、“虹の翼”が『神門』を狙っているかも知れない。もう迷っている暇は無かった。
「(防げぬならば、元から断つ他ない)」
松明型の宝具『トリヴィア』を起動させ、空間に『銀沙回廊』を作り出す。『星黎殿』内部を自在に繋げる特殊な通路の続く先は、『星黎殿』要塞部。
「私自身が責任を持って、“虹の翼”を排除する」
生まれて初めてと言っても過言ではない決意と使命感を持って、“嵐蹄”フェコルーが戦場に舞い降りる。