触れるもの全てを消し飛ばす虹の奔流が、眼下の近衛軍には向けられずに天を衝く。光輝の塊が偽りの夜空を砕く寸前、臙脂色の嵐が空を包んだ。七色の爆発が鮮やかな火の粉を夜空に舞わせる。
そう……『虹天剣』に直撃されてなお、『秘匿の聖室(クリュプタ)』は、そして『マグネシア』は健在だった。
「あれが“嵐蹄”フェコルーの『マグネシア』か。流石に鉄壁と謳われるだけはある」
瞬く間に臙脂色の粒子を凝結させた防壁が、球状に展開する『秘匿の聖室』を、そして中天の黒い鏡を覆い隠した。星光すら失った暗闇の世界に次から次へと灯火が広がり、暗夜の戦場の如き物々しい情景が出来上がる。
それら懐かしい戦場の風を肌身に受けて、銀髪の執事……“虹の翼”メリヒムは獰猛に笑った。とりあえず、自分に向けて燐子の砲口を構えている一部隊にサーベルの切っ先を、
「ん?」
向けるより一拍早く、血色に燃えて吹き飛んだ。見上げれば、例によって炎弾の砲火を無料化しながら飛び回る小娘の姿。人の事を言えた立場でもないが、少しばかり派手すぎる。
「何を気負っている」
警告の意味を込めて、先程より力を込めた『虹天剣』を飛来する少女にお見舞いしてみた。必死に避けた少女の背後で、破壊の虹は再び『マグネシア』に防がれる。
「……なるほど、な」
喚いている少女……平井ゆかりは無視して、メリヒムはサーベルを握る手に力を込めた。
「退屈せずに済みそうだ」
鉄壁を誇る嵐の壁に、最強の矛は矜恃を燃やす。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
両脇に二列の円柱を並べる五廊式の大伽藍。天井に広がるのは、中央をのたうつ黒い大蛇と、絡み合わず掴み合わず、噛み合わず噛み砕かれず、どこまでも広がる“紅世の徒”のパノラマだった。
『天道宮』で暮らしていたシャナは、これに似て非なる大伽藍を知っている。だからこそ、ここを傷付けたくないと封絶を張った王の意図も判った。さぞや厳かで神聖な空間として扱っているのだろう。
「(これが徒の自在法。悠二にもいっぱい見せて貰ったけど、やっぱり今の私には見破れない)」
無数の蜂も、埴輪の鎧も、自在法である以上シャナには通用しない。一方で、シャナも逆転の一手を探していた。喋っているのは蜂や埴輪だが、どう見ても敵の本体ではない。感覚を共有させた自在法で敵を攻撃し、自分自身は安全な場所に姿を隠しているのだろう。
この王自体は脅威にこそならないが、このまま情報を与えて逃がすのは美味くない。
『シャナは僕たちの切り札だ。出来ればギリギリまでは隠しておきたい』
至極当然の事のように言っていた少年の言葉が思い出される。
「(仕方ない)」
あちらから封絶を張ってくれたのは都合が良い。少しばかり消耗が大きいが、封絶の中を丸ごと焼き尽くしてやろうと力を込め……
「ッギャアァアアアァァーーー!!」
た所で、壁の一画から群青色の火柱が飛び出した。直立するヒトコブラクダ、という姿の紅世の王が転がり出て来て、シャナは間髪入れず大太刀を突き立てる。
『星黎殿』の留守を預かる王の一人たるウアルは、鮮血のように桧皮色の火花を噴いて絶命した。
「勝っ、た」
初の実戦、初の勝利、思っていたほどでもない感慨に包まれるシャナの前に、隠し扉の奥から一人の女性が歩み出る。
「相っ変わらず凶悪ねぇ。自在師相手なら無敵じゃない」
「こーりゃ怒らせねーように気ィつけとかねーとな、ッヒヒ」
炎の色で判ってはいたが、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドー。ついさっき別れた筈の味方が、得意気な顔でそこにいた。
「一人で大丈夫だって言ったのに」
気配を隠してシャナと戦っていた敵の背後を、逆に気配を隠して襲う。まるで囮のような自分の扱いに、少しシャナはむくれる。
「別に狙って助けに来たワケじゃないわよ。あちこち回ってたらここに出たの」
現在、『星黎殿』の外で暴れているのは平井、メリヒム、悠二。そして内部を探っているのはシャナ、ヴィルヘルミナ、マージョリー。当然の事ながら『星黎殿』の内部構造など知る由も無いから、探索は運と勘だけが頼りの一発勝負になる。
「外はどうなってる?」
「思ってたよりは控え目ね。少なくとも『三柱臣(トリニティ)』は出て来てないわ」
「アテが外れちまったなぁ。あの判りやすい巫女さんなら、ユージ見せびらかしゃスーグ飛び出して来ると思ったんだが」
悠二らの役割は陽動と、『三柱臣』を引き摺り出す事。シャナらの役割は、敵の計画にとって重要な『鍵』を探す事。
「だったら、私達が引っ張り出すだけ」
最優先捜索対象は───“頂の座”ヘカテー。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「メリヒムの奴、あれだけ偉そうなこと言ってた癖に……」
『虹天剣』を以てしても破壊できない『マグネシア』の堅牢さを、坂井悠二は細長い主塔の屋根の影で見上げていた。
予定では開戦から僅かに遅れて『秘匿の聖室』を破壊、敵軍全体に動揺が広がったところで“始める”予定だったが、これ以上は敵に落ち着く時間を与える事になりかねない。
「(そっちは、頼んだよ)」
指先を擦って、パチンと鳴らす。事前に仕掛けておいた大規模な『グランマティカ』が発動した実感を得て、悠二は改めて眼下の戦況を見下ろした。どちらにとっても、こちらの作戦の方こそが本命なのである。
「(ヘカテー、いないな)」
ヘカテーは『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女にして、『大命』の要だ。いくら強くても、そう簡単に敵の矢面に立たせる訳にはいかないのは当然だろう。しかし、それを差し引いても、『星黎殿』近衛軍の抵抗は苛烈さに欠けているように思えた。
事前に覚悟していた敵の最大戦力は、五人以上。だが実際に視認できるのは“嵐蹄”フェコルーの『マグネシア』のみ。『星黎殿』に敵が現れたというのに、『将軍』“千変”シュドナイが出て来ないのも妙な話である。
「(下手すりゃ侵入した途端に創造神に遭う可能性だってあったんだから最悪って程じゃないけど、これはやっぱり……)」
ヘカテー……いや、『三柱臣』は今、『星黎殿』にいないのではないかという疑問に悠二は行き着く。
そもそも、神の帰還と言われて真っ先に思い付くのは、『神が自分で戻ってくる』と『神を誰かが迎えに行く』の2パターンだ。加えて『マグネシア』に覆われる前に見た、あからさまに怪しい巨大な黒鏡。素人考えだが、あれが“狭間に続く扉”なのではないだろうか。もし本当にヘカテーがここにいないとするなら、一番怪しいのは あの鏡だ。
「(どっちにしろ、『マグネシア』を何とかしないと始まらない)」
カンッ、と靴音を立てて屋根を打つ。そこから広がる半透明の蛇鱗が主塔を這い回り、それら全てが銀に燃え上がった。噴き出す炎が飴細工のように変質していき、燦然と輝く鎧の軍勢となって戦場に飛び出した。
同様に自分自身も参戦しようと黒刀を握る悠二の耳に、
「(もう少し様子を見て、ヘカテーが出て来る気配が無かったら、僕も中に───)」
一際大きな轟音が、届いた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「はあっ!!」
仮にヘカテーがいたとしても、彼女がこの程度でどうにかなる筈がない、という前提の下、平井ゆかりは特大の炎弾で城を丸ごと一つ吹き飛ばす。
アピールは十分と判断した彼女に、炎弾は通じないと察した近衛軍が様々な武器を、あるいは爪や牙を以て襲いかかる。
「……遅い!」
平井の剣技が未熟と言っても、それはシャナやメリヒムのような同等以上の力を持つ者を相手にした場合の話だ。並の徒では、まず彼女の身体能力に対応出来ない。
円を描いて繰り出される大剣の斬撃が、四方から迫る徒を抵抗なく両断する。即座に地を蹴って加速、弓を構えていた射撃部隊へと斬り込んだ。極めて高い機動力と大剣の間合いを活かした速攻が、雑草を刈るように徒達を屠っていく。
敵陣の中に斬り込めば、敵も下手な飛び道具は使えない……と思いきや、弓兵は躊躇いなく矢を放った。見当外れの、上空へ。
「うぇ!?」
その矢の全てが放物線を描いて、寸分違わず平井に吸い寄せられる。見た目には燃え盛る炎の矢だが、今さら本当に炎で攻撃してくるとは思えない。十中八九、『アズュール』では防げない“物質化した炎”だろう。
「こっの!」
敵に囲まれた状態では逃げられない。平井は練り上げた炎を全身からガムシャラに放出して矢雨を力任せに弾き飛ばした。
───瞬間、血色の炎に穴が開いた。
「──────」
自ら放った炎の中、塞がれた視界で大剣を構えたのは、単なる反射だった。
(ドッ!!)
見えない何かが、幅広の刃を盾にした『吸血鬼(ブルートザオガー)』ごと平井を吹き飛ばす。
身動きどころか声すら出せない衝撃は、そのまま少女の華奢な身体を城壁に叩きつけた。というより、城壁を二枚突き破って反対側に突き抜けた。
「か……っ……は……」
冷たい地面が頬に当たる。右腕と左足にのし掛かる瓦礫が痛い。詰まる気道を無理やり広げて息を吐き出せば、一緒に血の塊まで飛び出した。
「(音の、衝撃波……)」
敵陣のど真ん中で悠長に苦しんでなどいられない。そう判っているのに、身体が言う事を聞いてくれない。歯を食い縛って身を起こそうとする平井は、
「……え?」
仰ぎ見た空に、自分へと向けられる喇叭を見た。
「謳え、『ファンファーレ』!!」
天空から打ち下ろされる破壊の咆哮。目には映らない音の暴力が、動けない少女を容赦なく撃ち抜いた。
床と呼ぶにはあまりにも分厚い石畳が貫かれて、階下の通路がガラガラと崩れ落ちる。駄目押しとしても十分と見える威力を見せて、なおも喇叭は次なる一撃の為の力を練り上げ───横合いから現れた銀蛇に喰われた。
術者は無論、一撃目の轟音を聞いて急行した坂井悠二。
「喰らえ」
その左手を、城壁の屋根の一画へと鋭く差し向ける。導かれるように銀炎の大蛇が旋回し、そこに立っている、派手な宮廷衣装を着た獅子頭の男に牙を剥いた。
黄金の獅子は逃げない。大きく息を吸い込み、不可視の衝撃波で以て迎え撃つ。
「ッゴァアアアァァーーー!!」
大蛇の顎門が歪み、裂けて、二人の中点で銀が爆ぜた。爆炎が広がる視界の下端で、平井が叩き落とされた穴へと向かう坂井悠二を獅子は捉える。
間髪入れず破壊の咆哮で狙い撃つが、少年の影が不自然なほど急激に加速した事で空を切る。
「ゆかり!」
自在法で加速した悠二は、後頭の竜尾を発条にして柔らかく着地する。『グランマティカ』で目の前の瓦礫をフワリと浮かび上がらせる……が、
「(いない?)」
そこに少女の姿は無い。外れた者が死ねば、亡骸は跡形もなく消滅する。忘れたくても忘れられない、茜色の悪夢が脳裏を掠めて、
「っ」
すぐ、現実に引き戻された。
悠二の正面、通路の奥、地上からは死角となる その場所に───薄白い影が揺らめいていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「(馬鹿が。力を出し切る前にやられるとは)」
平井や悠二の戦いを一瞥し、数百年ですっかり染みついたコーチ感覚でメリヒムは舌打ちする。一番未熟で強さにムラがあるのは判っていたが、こういう時は予想を越えて貰わないと指南役としては不満なのだ。
「(まあいい、こっちはこっちの仕事をするだけだ)」
幸い、悠二の方は平井のような失態は見せていない。それどころか、銀の傀儡が無秩序に暴れ回ってくれているおかげで、メリヒムへの注意は予想よりかなり控え目である。
……あるいは、『マグネシア』が破られる訳がない、だから最優先で殺す事もない、と高を括られているか。
「(舐められるのも、気に入らないしな)」
サーベルの切っ先を、天に向ける。七色に輝く“虹の翼”が光背の如く広がる。
「(もっと強く、もっと鋭く、もっと力を研ぎ澄ませろ)」
思えば、今まで『より強力な破壊力を』などと思った事など、数える程しかない。何せ、メリヒムの『虹天剣』は“当たれば消し飛ぶ”中世最強の自在法だ。当てる為の努力はしても、威力そのものを上げようとは考えなかった。
しかし、“千変”シュドナイに防がれ、『敖の立像』に耐えられた。そして今、“嵐蹄”の『マグネシア』が目の前にある。
「(一撃に)」
全身全霊の力を、剣先に乗せる。限界の壁を越える為に、新たな領域に到る為に。
「(全てを、込めろ!)」
渾身の『虹天剣』が立ち上る。肌に突き刺さる迫力に比して細い、破城槌ほどの太さの閃虹が、臙脂色の障壁に突き刺さった。七色の火花が暗闇を眩しく照らし、凝結された粒子がボロボロと崩れ落ちる。
「こ、これは……」
『星黎殿』下部の岩塊部の中心に位置する司令室『祇竈閣』に在るフェコルーの両目が見開かれる。『マグネシア』を制御する両手が小刻みに震えだす。
『星黎殿』の誇る鉄壁の護りに、這うように亀裂が広がり……
「砕けろォ!!」
闇夜に咲いた虹翼の剣が───偽りの空を撃ち砕いた。