前にも、後ろにも、左右にも上下にも、大地が在る。古びた石柱群、崩れかけたドーム、精緻な細工を施された身廊、鋭く複雑に天に伸びる尖塔。この世ならざる異様な空間の中を、三人の神の眷属が進んでいく。
両界の狭間に這うこの道の名は、『詣道』。放逐された“祭礼の蛇”と、彼の持つ“旗標”、それらと彼の眷属らを結ぶ因果そのものを、神の剛力によって実体化された、創造神へと至る道である。
本来であれば、こんな道は必要ない。この世から、紅世から、異界に続く因果を頼りに形無き狭間を渡るだけで良いのだ。しかし今の創造神“祭礼の蛇”には、それが出来ない。その元凶が今、彼の眷属の前に立ちはだかっていた。
「狭間に堕ちて数千年、時という概念すら失っているだろうに、よくもまあ精神が保っている」
それは、薄く色づく人影の集団。かつて秘法『久遠の陥穽』によって神と共に両界の狭間に落ちたフレイムヘイズの成れの果てである。
「こいつらの執念こそが『久遠の陥穽』を不帰の秘法たらしめていた根源さ。忌むべき愚行には違いないが、その意志の強さには敬意を以て応えようか」
押し寄せる刃の群れに、ベルペオルが拘鎖『タルタロス』を踊らせる。数も威力も関係ない。因果を断絶する理の壁が、全ての攻撃を小揺るぎもせずに受け止めた。
「ベルペオル、防いで下さい」
それを見届けるや、ヘカテーが大杖『トライゴン』の遊鐶を鳴らす。黒い流星が不気味に踊り、ベルペオルの眼前の影に降り注いだ。
至近で弾けた黒い爆炎に曝されながら、拘鎖に守られたベルペオルには火傷一つ無い。
「意志の強さも、ここまで来ると憐れだな。敬意というなら、終わらせてやるのが せめてもの敬意か」
広がる黒炎の中に、剛槍を担いだシュドナイが躊躇なく飛び込む。振り上げた『神鉄如意』の太さが数倍、長さが十倍ほどに変じ、大質量の一撃が後続の影を叩き潰し、溢れた炎が跡形もなく霧消させた。
「………………」
そうして生まれた僅かな猶予の中で、ヘカテーは『トライゴン』に意識を集中させる。集中させて、一先ずの安全地帯を探す。
あの人影は、本来であれば神の創造物たる『詣道』には立ち入れないフレイムヘイズらが無理矢理に因果を繋げて現出したものだ。そして、その干渉力には限界がある。『詣道』内部の因果の隔絶が強力な場所まで行けば、あの影は立ち入る事は出来ない。
「いっその事、全員まとめて掛かって来てくれれば手間が省けて助かるんだがな」
『久遠の陥穽』は、異界の因果を辿る感覚を遮断して狭間に墜とす究極の“やらいの刑”だ。神を放逐する為、数多のフレイムヘイズ自滅同然の……否、世界の揺らぎを加速させるため実際に何人かは自決して、秘法を発動させた。
そして放逐に自ら巻き込まれた数多の討ち手は、狭間に落ちてからずっと“秘法を発動させ続けている”。神さえ無力な世界の狭間の中で、“無限に回復するフレイムヘイズという器を使って”。
死よりも辛い永遠の地獄。それを自ら選んで、やり遂げてきた討ち手の執念。それを、“祭礼の蛇”は逆手に取った。
「こいつらは秘法を維持する為だけに自らの存在を純化させた連中だよ。本能のままに我々を襲いはしても、全滅して秘法を解く様な真似はしないさ」
逃れ得ぬと悟った瞬間、正に神の御業たる権能によって自らに作用し続ける秘法の力の一部を自身へと取り込み、蓄積する事に成功したのだった。
その力で自らを縛る討ち手らを始末できれば話は早かったのだが、狭間には物理的な距離や方向という概念は存在しない。感覚を遮断された創造神がどれほどの力を振るおうと、まず討ち手らには届かない。
故に“祭礼の蛇”は自らに流れ込む力を、自身の帰還、その為の創造に注いだ。それこそが神へと至る『詣道』であり、巫女たるヘカテーにこの世で神の権能を振るわせる『大命詩篇』なのだ。
「……見つけました」
太古のフレイムヘイズらも、最初の内は異変に気付く自我を持っていただろう。だが……だからと言って何が出来る訳でもない。自分達の力が利用されていると判っても秘法を止める事だけは出来ない。神そのものを殺せるならば最初からこんな手段は採っていない。結局彼らは、帰還へと歩を進める神を縛り続けながら、その精神を緩やかに薄れさせていった。
そして今、唯一残された“神の帰還を防ぐ”という本能に従い、こうして神の眷属を阻んでいる。
……もっとも、阻む事など出来はしないが。
「ヘカテー、先に行ってくれ」
シュドナイの右手が巨大な虎の頭に変化する。その顎門から吐き出された灼熱の咆哮が、眼前の一団を焼き払う。
視界の端でヘカテーが割れ砕けた窓の一つに飛び込むのを見届けたベルペオルが、『タルタロス』の鎖輪を一つ砕いた。溢れ出た金色の炎から植物型の燐子に後ろを守らせて、ベルペオルとシュドナイも悠々とヘカテーに続く。
「思っていた以上に時間が掛かるな。ここまでで丸二日、といったところか」
ヘカテーの背中を追う途中で、何の気なしにシュドナイが呟いた。返事を求めていたのかも定かではない言葉に、ベルペオルは答える。
「如何にここが『詣道』の中とはいえ、微かな共振を頼りに進むのは簡単な事じゃないのさ。この共振がそれほど確かなモノだったら、盟主御自身が狭間を渡って帰還する事も出来たんだが」
ただの愚痴に懇切丁寧に返されて、シュドナイは煙草の煙を苦く吐き出す。その様を面白そうに眺めながら、ベルペオルはそっと右眼の眼帯に触れた。
「判っているさ。嫌な予感がするのは、私も同じだ」
ヘカテーの意志の強さを、二人はもう疑ってはいない。気掛かりなのは、“この世の方”だ。
「フェコルーやデカラビアが出し抜かれるとは思わんが、ここではあちらの戦況も判らんからな」
天罰神は死した。もはや創造神を止められる者はいない……という前提は、事実としては決定的に矛盾している。
殺せない筈の天罰神を殺したのは、他でもない『三柱臣』だ。神殺しは不可能ではないと、自分達自身の手で証明しているのだから、楽観など出来る筈もない。
脳裏に焼き付くのは、『革正団(レボルシオン)』の生み出した怪物───『敖の立像』。元凶たる“探耽求究”ダンタリオンこそ討滅されたが、核となった『零時迷子』は“敵”の手にある。万が一、あれを再現される様な事があったとすれば……倒せるのは“『神威召還』された創造神”くらいのものだ。今、神も眷属もいない『仮装舞踏会』にあれが差し向けられたら……などと、考えるだけで怖ろしい。
「心配は無用です」
不意に、決して近くはない距離の二人の会話に、背中を向けたままヘカテーが割り込んだ。
「どれほど資質があっても“彼”はまだ子供。おじ様の真似事など出来はしません。『敖の立像』を射抜いた『七星剣』も、私の能力抜きでは再現できない。今の彼らは、一介の王と同程度の戦力でしかありません」
彼女らしい静かな声で、しかし彼女らしからぬ長く早い口調で。
その、家族から見れば露骨だとハッキリ判る反応に、シュドナイもベルペオルも押し黙った。
言っている言葉にも理はある。一介の王などという評価以外は事実でもある。だが発する声の裏側から、“彼ら”を軽視して欲しいというヘカテーの私情が手に取るように伝わった。
「(だが、それでいい)」
ベルペオルは、ヘカテーの想いを否定しない。
その想いがあるからこそ、ベルペオルは『零時迷子』に手を出せない。だが、その想いがあるからこそ、ヘカテーは必ず大命を果たすだろう。
「(私はもう、迷わない)」
水色の少女は、か細い因果の糸を必死で辿る。硬く、固く、紡いだ決意を胸に抱いて。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
悠二、平井、メリヒムの三人に『トリガーハッピー』を奪われ、フレイムヘイズ兵団に追撃を受けた『仮装舞踏会』東軍が敗走した翌日、東西を攻めていた外界宿(アウトロー)征討軍は撤退し、兵力の全てを『星黎殿』の防衛に回すべく動いていた。
「(この判断の早さは、流石と言うべきでしょうか)」
たった一度の敗走から敵の戦力を読み取り、敵戦力の削減より自軍の損耗と『星黎殿』の守護を優先したのは、征討軍総司令官たるデカラビアの判断だ。
彼は自在法『プロビデンス』によって全ての戦場の一部始終を“視て、知っている”。『神門』へ向かったシュドナイが全軍を託したデカラビアが、その上で撤退を指示したのだ。『仮装舞踏会』の動きは迅速だった。
「(元より兵力はこちらが上。防衛に徹すれば破られる心配は……)」
要塞司令官として『星黎殿』近衛軍を統括する“嵐蹄”フェコルーもまた、彼の采配によって盤石の防衛線が敷かれる事に一片の疑問すら持たなかった。
───だからこそ、驚いた。
「っ!?」
突然……そう、全く突然、要塞を襲った正体不明の震動に。
「なな、何事です!?」
情けない声を上げて竈型宝具『ゲーヒンノム』を覗き込む。どす黒い灰が要塞の全体像を形作る……より僅かに早く、部下から自在法による映像が送られて来た。
【た、大変です! “虹の翼”が、あの『両翼』の右が!】
映し出された光景の中で、七色の閃虹が尖塔を薙ぎ払い、また要塞が揺れる。一瞬にして滝のような汗を流すフェコルーは、確かめるように傍らの松明・『トリヴィア』を見る。
やはり、『星黎殿』を守る『秘匿の聖室(クリュプタ)』が破られた形跡は、無い。
「(馬鹿な! 一体どうやって……!?)」
『秘匿の聖室』に隠された『星黎殿』の位置は、何者にも捉えられない。『神門』の創造によって隠しようの無い気配の発現こそあったものの、正確な位置まで知る事は出来ない。
先んじて東西に軍を出したのも、『星黎殿』から相当に離れた位置に防衛線を敷いているのも、全ては『星黎殿』の位置を知られていないという前提あってこそだ。
その『星黎殿』に敵が潜入してくるなど有り得ない。否、有ってはいけない。……だが、今は原因究明よりも直面している危機への対処が先決だ。
「プルソン! 状況は理解していますね? 部隊を率いて敵を迎撃して下さい。ウアルは要塞内の侵入者を捜索、潜入経路を探って下さい!」
【【はっ!】】
指示を出しながら、自身は指揮者のように両手を広げて自在法を行使する。
ここではない屋外で臙脂色の粒子が渦を巻き、瞬く間に『秘匿の聖室』と、そして『神門』を覆い隠した。その直後に粒子の壁に虹が着弾して、またも肝を冷やす。
「(これが、『虹天剣』)」
『マグネシア』。
粒子の嵐を自在に操り、あらゆる攻撃を払い除ける攻防一体の自在法。フェコルーを『星黎殿』の守護者たらしめる鉄壁の守りである。
その『マグネシア』で受けてなお、かつてない衝撃を生む破壊の虹に、フェコルーは戦慄する。
「(あれがもし、全力ではなかったら……)」
フェコルー自身は、『マグネシア』を鉄壁の自在法だと誇った事は無い。『とむらいの鐘(トーテン・グロッケ)』の『両翼』より自分が上だなどと考えた事も無い。
それでも……たとえ何が襲って来ようと、『星黎殿』を、そして『神門』を護るのがフェコルーの使命だ。
「(プルソン、ウアル、頼みましたよ)」
自分はきっと、『秘匿の聖室』と『神門』を護るだけで手一杯になると、フェコルーは確信に近い予感を抱いた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
桧皮色の炎を纏った埴輪型の鎧の群れが、次から次へと侵入者に襲い掛かる。剣が、槍が、斧が、矢が、華奢な身体を容赦なく貫き、
「(な、何が……何が起きている……)」
隠し扉に身を隠した“駝鼓の乱囃”ウアルは、ただ怯えていた。自在法『ビト』……埴輪型の鎧を通じて眼に映る光景に、ガタガタと歯の根を鳴らす。
「(話が、話が違う……!)」
侵入者は足を止めない。身体に突き刺さった“かに見えた”刃を幻のように擦り抜けて、右に左に視線を巡らせる。
───自在法の効かない、“ミステス”。
「『天目一個』は、死んだ筈ではなかったのか!」
それは……紅世の徒、フレイムヘイズ、双方から恐れられた怪物の名前。その姿を見て生き残った者はいないという史上最悪のミステス。
凶悪な伝説と目の前の光景が重なり、ウアルは堪らず叫ぶ。
埴輪の鎧、その内から溢れた黒い雲が膨れ上がり、視界を埋め尽くす程の大群となって“少女”を呑み込んだ。
それが、内側からの爆炎で弾け飛ぶ。燃え盛る炎は、全てを焼き尽くす───紅蓮。
「紅蓮の、炎……? “天壌の劫火”は、確かに死んだと……」
死んだ筈の怪物の力。死んだ筈の魔神の炎。にも係わらず気配の欠片すら感じない不気味なミステスの姿に、紅世の王であるウアルは、どうしようもなく恐怖した。
「そう、アラストールは死んだ。お前たちに、殺された」
その身は黒衣を纏わない。その髪は紅蓮に染まらない。
「貴様は、一体……!?」
左にだけ残された灼眼を光らせて、黒髪の戦巫女は大太刀を振るう。
「強者よ」
───神の帰還と世界の命運を懸けて、『贄殿』のシャナは初陣に臨む。