最初は、気に入らないと、抑えようもなくそう思った。
それはそうだろう。信奉する『三柱臣(トリニティ)』の巫女を、“人間の残り滓”が惑わせている。しかも参謀や将軍までが、そんな子供を敵として警戒しているのだから。ベルペオルの側近としての実力と矜恃を備えたリベザルが、これを面白く思う筈が無い。
『トリガーハッピー』をチラつかせて坂井悠二を“可能な限り引き付けておけ”という命令にも、疑問も反発も抱きはしないが、心中は穏やかではなかった。
だが、実際に力を目にしてそんな悋気は吹き飛んだ。戦士として培ってきた意識が、安っぽい意地を上回ったのだ。
「くそっ、強ぇなぁ……ッ!!」
だが今になって、とうに捨て置いた筈の意地が、形を変えて再燃しているのをリベザルは自覚していた。
自在師の補助を受けているとは言え、感覚的には一対一という状況が、そうさせているのだろうか。
「(いや、それだけじゃねぇ……か!!)」
二つの右拳を同時に突き出し、その一つを左腕でガードさせ、もう一つを滑り込ませて頬骨を打つ。確かな手応えを拳に感じて、しかし眼前の少年は一瞬も怯まずに打ち返して来る。鋭い踏み込みでリーチの差を潰し、右の拳をリベザルの腹に打ち込……もうとして、左手でガードされた。その左手ごと拳が腹に突き刺さり、リベザルは僅かに蹌踉けた。
「おりゃあ!」
さらに悠二の左アッパーが巨体を跳ね上げ、浮いた巨重を回し蹴りで吹っ飛ばす。砂埃を上げて倒れるリベザルに対して、悠二は両の拳をぶつけて見せた。
「(こいつ、だ)」
自在法も使わず、黒刀も納め、坂井悠二はその肉体のみで紅世の王に立ちはだかる。黒い眼は銀光を受けてギラギラと燃え立ち、口元は漏れ出すような喜悦に歪んでいた。
その姿が、炎が、言葉よりも雄弁に語り掛けてくる。掛かって来いと、受けて立つと、まるでリベザルの秘めていた闘争心を汲み取るかのように。それが、どうしようもなく、戦士の本能を駆り立てる。
「(こんな子供に招かれた勝負から、この俺が逃げる訳にはいかねぇよなぁ……!)」
リベザルが感情に任せて行動する愚者ならば、司令官など任されてはいない。ここで背中を見せれば、悠二はリベザルどころか東方軍そのものに壊滅的な打撃を加える。そう確信しているからこその対峙だった。
そして司令官としての判断と合致しているからこそ、リベザルは戦士としての激情を隠さない。
「(俺の力の全てをぶつけて、この存在を乗り越える! 俺の力を、俺の意志を、一滴残らず見せ付けてやる!!)」
リベザルの全身が弁柄色の光に包まれる。自在師の加護は受けても、自身の自在法は使わない。悔しいが、何でもありの勝負では敵わない。せっかく肉弾戦を受けてくれているのだ。ぶつけるのは、己の肉体のみ。
「行くぞ!!」
「おう!」
拳と拳が衝突する。踏み締めた大地に亀裂が広がる。その一撃を皮切りに、力任せな打撃の応酬が始まった。
腕の長さも、“手数”も、体術もリベザルが上。にも関わらず、悠二は一歩も引き下がらない。パワー、スピード、タフネス、極めて単純な身体能力の差である。
「(熱いカブトムシだな)」
感情剥き出しで繰り返される硬い連撃に対して、悠二もまた小細工抜きの打撃戦を挑む。リベザルの熱気に当てられた、という訳では……少ししかない。
自在師としての本領を見せれば、リベザルを圧倒する自信はある。だが、恐らく決定的な劣勢になればリベザルは即座に撤退するだろう。そして悠二は、幾多の修羅場を潜り抜けてきた王を、確実に仕留める自信は無い。となると、もう暫くはここに居て貰った方が良いのだ。
そういった理性による判断の下、悠二は本質の外にある自身の感情を客観的に見つめてみる。
「(何ていうか、意外と感化されやすいんだよなぁ)」
マージョリーと戦った時にも、似たような気分になった憶えがある。相手は敵だというのに、その凄まじい激情に正面から応えたくなってしまう。とことん付き合ってやろうという気になってしまう。
感情に引き摺られる性分ではないから実害こそ出ていないが、難儀なものだと自分でも思う。
「(悪い気分じゃ、ないけどさ!)」
迫る拳撃を額で受け止める。咲くように散る血飛沫も意に介さず、歯を剥いてボディブローをお見舞いした。
「ぐ……ぉ……」
呻き声を上げて悶絶するリベザルを、前蹴りで突き飛ばす。並みの王なら一溜まりもなく潰されているだろう一撃を受けて、リベザルはそれでも立ち上がる。
「まだまだぁ!」
「ああ、とことん付き合ってやる」
互いが互いを少しばかり買い被る二人の殴り合いの遥か空を、見えざる影が進み続ける。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『トリガーハッピー』は、東軍のみならず『仮装舞踏会(バル・マスケ)』全体から見ても非常に強力な宝具だ。
故に当然、リベザルは『トリガーハッピー』の効かないミステスが大規模な攻撃を開始した時点で、狙撃手を真っ先に後退させた。半端な距離ではあの自在法からは逃げられない。一度完全な安全圏まで撤退させる必要があった。実力の差を理解しながら、リベザルが命懸けの時間稼ぎに身を投じている最大の理由がここにある。
そして───
「逃げる様すらキビキビしてんなぁ」
悠二がリベザルを撤退させないように戦っている理由もまた、ここにあった。
リベザルの奮闘によって十二分に距離を稼いだ東軍。その移動型の封絶の天から、一人の女が降って来る。
圧倒的な存在感を隠そうともせず、桃色の光球を周囲に巡らせる、女。地上を照らす光の色を、東軍の誰もが知っていた。
凶悪な爆弾の自在法で戦場を蹂躙し、徒を羽虫のように焼き散らすフレイムヘイズ、『輝爍の撒き手』レベッカ・リード。
「撃てぇーーー!!!」
炎弾の豪雨が、阻むもの無き天へと昇る。間断なく放たれる猛火の弾幕、普通ならば躱す事など考えられない窮地の中を、レベッカは常識外れの超速を以て縫うように翔け回る。
「どうしたどうしたぁ! リベザルがいねーとこんなもんかよ!?」
躱しながら、光球の輝きをより一層強くする。
だが、『仮装舞踏会』は只の徒の群れではない。強大な王の下に束ねられ、統率された軍である。
「今だ!!」
部隊長の合図と同時、放たれた炎弾が一斉に起爆し、灼熱の雲が空を埋めた。直撃はせずとも この数だ。余波だけでも途轍もない威力になる。
しかし、“狙撃手”は一切楽観してはいなかった。
「(下で戦われては自軍にも被害が出る。遥か上空にいる内に、確実に仕留める……!)」
『遠視』の自在法で炎海を睨み、銃口を突き付ける。ピクリとも揺れない指先は正確にタイミングを測り、
「「(来た!)」」
敵が炎から飛び出すと同時、迷いなく引き金を引いた。この長距離にも係わらず吸い込まれるように実体の無い弾丸は突き進み、頭から降って来たレベッカの眉間を見事に撃ち抜いた。
撃ち抜かれて───砕け散った。
「…………は」
レベッカ・リード…………の“姿を見せていた幻が”。
「ハズレだよ」
女性にしては短い黒髪、美貌を歪める獰猛な笑み、黒のスラックス、着こなしたジャケット、全てが鏡のように砕けて、霧のように融け消える。
その奥から現れたのは、赤い軍服と紺色のスカートを身に着けた、触角頭の少女───の、“ミステス”。
「……見っけ!」
その少女が、受けた弾丸の軌道を追って、狙撃手を鋭く睨んだ。少なくとも、狙撃手はそう感じた。
「(“二人目の”、ミステス!?)」
少女……平井ゆかりが、一直線に落下する。迎撃として変わらず飛んで来る炎弾に対して、もはや避ける素振りすら見せず、その一切を火除けの結界で掻き消しながら。
「嬉しい誤算、っぽいね」
平井の右手に炎が燃える。幻術で見せていた桃色の炎ではない、彼女本来の血色の炎が。
「当っったれぇーーーー!!」
加速を味方につけた豪速球が、眼下の一団に容赦なく炸裂する。
レベッカに扮してまで『トリガーハッピー』の銃撃を誘ったとはいえ、実のところ平井は狙撃手の姿をハッキリと視認できた訳ではなかった。何せ相手は遥か下方の大群に紛れていたのだから。
だが、大まかな位置さえ判れば十分。
「くっ……そ……!」
木を隠した森ごと焼き払え、と言わんばかりの一撃。数多の兵を枯れ葉のように焼滅させる炎の渦から、一人の男が飛び出した。
もはや隠れてなどいられる状況ではない。跳び上がった長身の男は中空で姿を変え、四枚の翼を持つ鷹となって加速した。
「(あれがユカリ・ヒライか!? 馬鹿な、幻術が使えるなんて情報は無かったぞ!)」
彼の取った行動は、一瞬の迷いすらなく逃走。だが、それは臆病風に吹かれての事ではない。
彼に与えられた最大の役割は、何があっても『トリガーハッピー』を守り抜く事。敵がフレイムヘイズではない以上、自分の安全が確立されていない以上、彼には交戦という選択肢自体が最初から無いのだ。
逆に、
「掛かれぇ!!」
他の将兵は、身を挺してでも彼を守る役目を持つ。先程の炎弾に耐えた、部隊長を含めた数人の徒が、一斉に平井に襲い掛かった。
「(『トリガーハッピー』を餌に“奴ら”を可能な限り足止めする?)」
それに振り返る事もなく、異形の鷹は一心不乱に飛ぶ。リベザルからは引き離され、敵の戦力も予想を越えて大きい。姿を見られてしまった以上、もはや兵に紛れて逃げようなどと甘い考えは持たない。只ひたすらに速く、どこまでも速く飛ぶ。
「(不可能だ! だが、この光景は総司令官も見ている! 逃げ延びる事が出来れば、編成を組み直して───)」
どこまでも速く飛んだまま、“二つに割れて絶命した”。
全速力で飛行する背後から、己を優に上回る速度で斬り殺されたのだと、彼が理解する事はなかった。
「これ、没収ね」
火の粉となって霧散する徒の傍に落ちた銀の拳銃を、平井は手早く拾い上げる。正直 成功する自信など殆ど無い作戦だったのだが、思いの外うまく行った。
「(『トリガーハッピー』だけあって、“狩人”がいない。あんまり信用されてなかったりして)」
拾って、即座に飛び上がる。こんな大群の真ん中で上空に逃げるなど良い的だが、『アズュール』を持つ平井に炎弾は効かない。加えて、飛行が得意な使い手というのも そう多くはない。
さらに───
「よし、逃げる!」
ポケットから取り出した大量の指輪を放り、血色の炎を目眩ましとして周囲に燃やした。
一瞬の爆炎の後に現れたのは、“十人のレベッカ・リード”。その全員が全員、全く別の方向に加速する。
「(ま、ちょっとくらいは保つでしょ)」
『革正団(レボルシオン)』との戦いの最中、平井は“狩人”フリアグネの左腕を吹き飛ばした。その時 腕と一緒に飛ばされていたのが この指輪───宝具『コルデー』だった。
自在法を込めて弾丸として飛ばす、悠二やマージョリーのような卓越した自在師には大した恩恵は無い宝具だが、平井のように自在法が苦手で、自在師をパートナーに持つ者にはもってこいの代物である。
今『コルデー』に込められているのは悠二の『幻術』。フレイムヘイズのフリをして狙撃手を誘き出す為の選択だったが、多少は逃走の役にも立つ筈だ。
───不意に、
「わっ……!」
戦場が、割れる。
街も、人も、徒も、遮る全てを跡形もなく消し飛ばす、七色の虹によって。
「……あたしの位置、ホントに判ってるのかな」
これまで目撃情報が無かったとはいえ、平井らは当然“狩人”フリアグネと戦う事も想定していた。だからこそ、平井一人で行かせるような無謀な作戦は立てていない。
狙撃手を誘き出す為に最初は平井一人で突入し、時間差をつけて援軍が駆け付ける手筈だった。
その援軍が、これである。
「久しぶりだな、こういう感覚は」
銀髪の執事が口の端を引き上げる。
この日『仮装舞踏会』は、開戦以来初めての、決定的な敗走を喫する事となる。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「(強い。これほどとは……未完成という事実が逆に脅威だ)」
深く、昏い、底知れぬ闇の底で、彼はその光景を見ていた。
「(もし“狩人”とリベザルが揃っていても、あの三人は止められはしなかった。『仮装舞踏会』の将兵の中にも、あれに敵し得る者が何人いるか)」
フレイムヘイズ兵団の、恐らくは切り札。出来る事なら こちらも余計な被害が出る前に最大戦力に出陣願いたい所だが、現状ではそれも叶わない。
予想以上の強さ……だが、『トリガーハッピー』を奪われた事を除けば予想を越える事態ではない。やはり坂井悠二は現れた。
フレイムヘイズ兵団の危機に姿を現したのは、あのミステスもまた、兵団の力を借りねば『星黎殿』には到れないという事だ。そして『トリガーハッピー』を奪った今、次はまず間違いなく中国に上陸してくる。貸しを作ったフレイムヘイズ兵団と共に。
「(予定を早める他ないか)」
当初の作戦では、第一段階で東西に軍を向けてフレイムヘイズの反抗の余力を奪い、第二段階で勢力圏内に軍を引き揚げて守勢を固めて創造神の帰還を待つ、という予定だった。
だが、その攻勢で逆にこちらが戦力を削られるようでは意味が無い。それで敵の切り札を止め得るなら話は別だが、東軍だけではそれも不可能である。
【全軍に通達する】
鉄色の炎を揺らし、細長い魚身を震わせ、彼───外界宿(アウトロー)征討軍総司令官・デカラビアは命を下す。己が鱗を介して世界中に意識を巡らせる、自在法『プロビデンス』へと。