鮮やかに燃える炎の雨が、緩やかな放物線を描いて降って来る。都会の街並みが砂礫のように崩れ去り、轟音と粉塵が一帯を包み込んだ。
悲鳴も絶叫も上げず、しかし迷わず撤退するのは、この世の安定を守る討ち手……フレイムヘイズ。背中を見せた敵に容赦なく雪崩れ込むのは、紅世の徒最大の軍団……『仮装舞踏会(バル・マスケ)』。
走る討ち手の一人が、低く呻いた。肩を押さえて躓いた男は、数秒と待たずに燃え上がる。己が身に余る炎を、器を砕く程に弾けさせて、周囲にいた同胞すらも巻き込んで。
そんな異様な現象が、一度きりでは終わらない。撃ち抜かれた者は抗う術もなく、爆炎を撒き散らして四散する。味方の傍にいれば味方ごと。強い者であればあるほど、より凄惨に。それを恐れて孤立すれば恰好の的となり、陣形の乱れは致命的な隙となる。
何度となく繰り返されてきた、敗北の図式。完全に崩壊した討ち手の軍勢に、徒の群れが文字通り牙を剥いて襲い掛かる。
───瞬間、大地が軋んだ。
逃げる討ち手を庇うように、迫る異形を遮るように、銀の鱗が瞬く間に聳え立つ。ビルよりも高く、城壁よりも厚く、街を区切る程に遠くまで。
異能を以て世を荒らす紅世の徒らが、有り得ない光景に言葉を失う。そんな彼らを、鱗壁の頂から見下ろす少年の姿があった。
緋色の凱甲に、同色の衣。後頭より髪のように伸びるのは、自在に蠢く漆黒の竜尾。人ならざる証たる灯火が、儚く淡く、胸の中心で揺れている。
黒い双眸が戦場を睥睨し、少年は右の掌を上向きに開く。
「始めようか、『仮装舞踏会』」
───銀の炎が、燦然と輝いた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「おーおー、のっけから飛ばしてんなぁ。へへっ、こりゃ痛快だぜ」
“天壌の劫火”アラストールの消滅に端を発する、『仮装舞踏会』と『フレイムヘイズ兵団』の大戦。度重なる外界宿(アウトロー)の襲撃という形で密かに始まって居たこの戦いは、中国中南部より発生した世界規模の違和感を合図にして盛大に火蓋を切った。
「僕らと戦った時より、また一段と凄いね。あれからまた成長したのか、あの時は力を抑えてたのか」
かつて両界の狭間に放逐された創造神による、世界の在り様すら変質されかねない企て。何を於いても急行し、一丸となって阻止しなければならない。
……と、誰もが考えるが、現実はそう上手くは行かない。『仮装舞踏会』は正体不明の違和感を発生させると同時、東西に夥しい規模の将兵を進軍させたのだ。
フレイムヘイズ兵団は攻勢に出るどころか、各地の拠点を守るのに手一杯という事態に陥っていた。
「……なるほど、実力も性質も申し分ない。この状況でこれ以上の適任はおるまい」
元より兵力差は承知の上。フレイムヘイズの側も劣勢は覚悟の上で、それでも死守しなければならない戦線を維持するつもりだったのだが……その東軍の拠点が、予想を遥かに上回る早さで突破されてしまった。
その最大の原因が、“味方を巻き込んで爆発するフレイムヘイズ”である。
───宝具『トリガーハッピー』。
王の休眠を破り、討ち手を強制的に自爆させる“狩人”フリアグネの切り札。この宝具が使われていると悟った討ち手らは、強行な抗戦は避け、ただ遠距離から敵の進軍速度を鈍らせる事に徹した。
何せ強い者ほど大規模な自爆を起こされ、数多の討ち手を巻き込んで消滅するのである。フレイムヘイズを殺すという一点に於いて、これほど恐ろしい宝具は無い。追い詰められたフレイムヘイズ兵団は、こんな状況で使うつもりなど無かった切り札を呼び寄せた。
フレイムヘイズでも人間でもない、正確には兵団の一員ですらない、ミステスの少年を。
「だが、気に入らんな。子供の色恋に大戦の命運を預けるなど、まともな判断とは思えん」
『剣花の薙ぎ手』が細く、長く、息を吐く。彼女が言っているのは、“こちら側からだけ透けて見える鱗壁”の向こうにある戦場の事ではない。
『仮装舞踏会』の巫女をあの少年……坂井悠二を使って味方につけようという、あまりにも馬鹿馬鹿しい方針の方にである。
「ハッ、判ってる癖に らしくもねぇ愚痴だな、虞軒」
『輝爍の撒き手』が快活に笑い飛ばす。上辺だけの笑みは、すぐに隠そうともしない苦笑へと変わった。
「───その馬鹿馬鹿しいモンに縋るしかないほど、勝ち目が無いってだけの話だろ」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
限界まで伸ばした左腕を、右から左へ鋭く切る。円形の自在式が波紋のように広がり、氷結からなる銀世界が一帯の徒を覆い尽くす。
「(“狩人”の位置は……ダメだ。気配がゴチャゴチャしてて全然わからない)」
ビルも家屋も瓦礫も道路も凍り付かせた銀の結界に、怯む事なく踏み込んで来る異形の大群。見た事もない数の怪物を前にして、坂井悠二は黒刀を片手に悠然と構えた。
「(紅世の、徒……)」
巨大な牛が、角を立てて突進して来る。その胴体を真っ二つに断ち切って、悠二は大きく飛び退いた。最初の一人が間合いに入った時点で、引きつけとしては充分。最初から、この数を剣で一人ずつ相手する気など微塵も無いのだ。
「(人間を喰らい、この世を荒らす、異界の存在)」
切っ先を薄氷に突き立てる。僅かな亀裂が蛇鱗となって銀世界に這い回り、氷結した街が眩しい程に発光し───爆発した。
景色を一変させるほどの銀炎の中に在って、半球状の蛇鱗に守られた悠二だけは、無傷。溢れかえる業火が天空で渦を巻き、恒星の如き巨大な火球を形作る。
「(ヘカテーと、出会ったからかな)」
鋭く向けられる指先の動きに導かれるまま、火球は遠方の山肌へと奔った。迎撃として放たれる数多の炎弾を弾き返し、自在師の一団が張った障壁を突き破り、射撃舞台の真ん中で炸裂する。
圧倒的な強さで戦場を蹂躙する悠二の胸には、愉悦も狂気も無い。自分が紛れもなく“戦争”に身を投じているという、決して小さくはない恐怖と……そして、受け入れ難い違和感が心中を占めていた。
こうして戦う事にも意味はある。フレイムヘイズを助けるというだけでなく、日本という地に坂井悠二がいると敵に印象付ける事。それが本命の作戦……ヘカテーの奪還にも繋がる筈だ。
頭は冷静に状況を把握し、身体は淀みなくそれに対処している。しかし感情は、何かが違うと頻りに訴えていた。
何よりも、フレイムヘイズの側について、数え切れないほどの徒を虐殺し続けている自分自身に。
「(……今は、余計な事は考えるな)」
戦争が起ころうと、創造神が相手だろうと、必ずヘカテーを取り戻す。固く決めた筈の覚悟が揺らいだ気がして、それを無理矢理に押し込めた。
「ヘカテーに、会うんだ」
決意も新たに歩き出す悠二の頭上から、炎弾の雨が弧を描いて降って来る。
燐子砲兵───この大戦の為に『参謀』ベルペオルが用意していた道具タイプの燐子である。起動と同時に消滅するまで強力な炎弾を放つ、自我の無い兵器。その一つ一つが下手な徒が自前で放つ炎弾より遙かに凶悪な破壊力を秘めていた。
事前に備えていなければ、これだけでも相当に厄介だったろう。
「邪魔するな」
悠二の周囲を、『耐火』を無数に連結させた『グランマティカ』を包み込んだ。その表面に、周辺に、砲撃が着弾して瞬く間に火の海が燃え広がる。
これだけの数、これだけの威力で放たれる炎弾の斉射だ。普通に考えれば一個人に対する攻撃ではないが、銀の鱗壁は小揺るぎもしない。
人の戦と徒の戦。その最大の違いが、これだろう。場合によっては、“個人の力で”、戦況が容易く覆る。故に、強者同士が戦う前にどれだけ相手の力を削れるか、というのが勝利の鍵となる。
「む……」
不意に、砲撃が止んだ。爆煙と砂塵に埋め尽くされた戦場で、悠二は『グランマティカ』を解除する。晴れない視界の先、そう遠くない位置に魔軍が迫っている気配を感じて、黒刀を強く握り締める。
「(かなり派手に自在法を使ったし、そろそろ……)」
更なる襲撃に備えて軽くバックステップして……“足を縺れさせた”。
「……あれ」
少し蹌踉けた悠二は、調子を確認するように足を踏み締める。足は問題ない。が……何だろうか、この浮遊感にも似た薄い違和感は。
「……あ」
その疑問の解は、殆ど視界の全てを埋め尽くす黒煙の中に在った。
いつの間にか、煙の中に混じって、菖蒲色の靄が漂っている。
「(これが『ダイモーン』って奴か)」
『仮装舞踏会』屈指の『捜索猟兵(イェーガー)』、“蠱溺の杯”ピルソインの使う悪名高き自在法。吸い込んだ者を酩酊・錯乱させる悪魔の靄、らしい。
フレイムヘイズの中の王までも毒し、発狂、暴走、酷い時には失神する程の凶悪さと聞いたが……そこまで大袈裟な変化が自分に起きている感じはしない。理由は判らないが、どちらにしろ好都合だ。
「(試してみるか)」
開戦前からやってみよう、と思っていた事を実践する。『グランマティカ』で複数の自在式を組み合わせ、
「はっ!!」
大気全てを掠うような竜巻を呼び起こした。黒煙も、砂塵も、そして『ダイモーン』をも支配し、突風に変えて前方に……
「──────」
放とうとした眼前に、象ほどもある巨大な甲虫がいた。
「ッオオオオオーーー!!!」
旋風をモノともしない重厚な突進から繰り出された三本角の一撃が、悠二の身体を軽石の如く弾き飛ばす。
「っ~~~!?」
衝撃に息を詰まらせ、自由の利かない空中に飛ばされる悠二。巨大な甲虫は間髪入れずに、四本の腕で練り上げた渾身の炎弾を放り投げた。
式を連結させる悠二の『グランマティカ』は、こういう連続攻撃に弱い。おまけに悠二は平井ほど飛行に長けてはいない。
「っこの!」
後頭から伸びる漆黒の竜尾が、迫る炎弾を全力で叩いた。爆炎が弾けて、弁柄色の猛火が悠二の身体を一呑みにした。
燃えながら落下してくる、子供と見える体躯目掛けて、甲虫は尚も畳み掛ける。タイミングを合わせて跳躍し、硬く握り締めた拳を容赦なく振り抜いた。
───その拳と、少年の拳がぶつかり合う。
「あんたが、リベザルか」
衝突の余波で大気が爆ぜ、悠二を燃やす炎が吹き飛んだ。直撃こそしなかったとはいえ、火焔の下から現れた悠二には衣の端々を焦がす程度の変化しか見られない。
「っ……流石は」
「お返しだ」
逆に、至近距離から炎弾を受けて、甲虫……『仮装舞踏会』東部方面主力軍司令官・リベザルが吹き飛ばされた。
「(やっぱり、一筋縄じゃいかな───)」
墜落する巨体を見届けて、悠二もまた着地する。
その足下に───見慣れない水晶の数珠玉が転がっていた。
「いかぁーー!!?」
その数珠玉に弁柄色に光り輝き、連鎖的な大爆発が悠二を襲う。『グランマティカ』どころか竜尾すら使う間が無く、今度こそまともに貰ってしまった。
「立て、坂井悠二。これで終わりな訳があるまい」
「いや、倒れてないし」
それでも一切油断せずに、リベザルは歩み寄って来る。悠二の方も、内からの銀炎で弁柄色の炎を押し返してみせた。
「“ミステス風情”とか思ってくれてた方が、こっちとしては有り難かったんだけど」
「あれだけ派手に暴れておいて、油断してくれってのはムシの良い話だろ」
少年の調子の良さを笑い飛ばしながらも、強大なる王は密かに冷や汗を流していた。
“天壌の劫火”亡き今、『零時迷子』のミステスこそが最大の脅威。身命を捧げた『三柱臣(トリニティ)』にそう告げられ、彼が油断する道理など無い。
だが、それでも、甘く見ていたと認めざるを得ない。完全に不意を突いた宝具の連撃をまともに受けて、この程度のダメージしか負っていないというのは少なからずショックである。
「(兵の損耗に目を瞑ってでも、もっと力を削いでおくべきだった。大御巫のお気に入りってだけはある)」
このミステスの方が、明らかに格上。屈辱的な事実を冷静に受け止めて、リベザルは数珠型の宝具『七宝玄珠』を起動させる。遠巻きに陣取った自在師の一団が、予め渡されていた数珠玉を介して十重に二十重にリベザルを『強化』していく。
そんなリベザルの威圧感……ではなく、確かめた事実の方にこそ悠二は落胆していた。
「アンタさっき『ダイモーン』中を突っ切って来てたけど、あれって徒には効かないのか?」
「毒す相手を選べるだけだ。でなけりゃ、集団戦で使い物にならんだろう」
「まあ、そうか。良いアイデアだと思ったのになぁ」
事実は、少し違う。ピルソインの『ダイモーン』は敵味方を選べるのではなく、一度に一つの種族しか毒せないのだ。しかし勿論、それを馬鹿正直に教えてやるリベザルではない。
味方のサポートを一身に受けて、消耗した難敵を砕くべく、弁柄色の輝きを四つの拳に纏わせる。
瞬間───
「うお……!?」
自在師特有の茫漠とした波を漂わせていた悠二の気配が、爆発的に膨れ上がった。力の充溢が炎となって総身から漏れ出している。
「まだ力を隠してやがったのか!?」
「力を隠してた……か。確かに、そういえなくもないかな」
強大な敵を引き摺り出す為に形振り構わず使った力……“たった今とり戻した全力”を、坂井悠二は思う存分練り上げる。
「悪いけど、持久戦は得意なんだ」
───時計の針は、いつしか零時を回っていた。