「……よし、こんなもんか」
暫くぶりに掃除した部屋を眺めて、悠二は満足そうに一人呟く。厚手のジャケットに袖を通し、掃除しながら必要な物を『収納』しておいたタロットカードをポケットに突っ込んだ。
「……こんなもんか」
ドアノブに手を掛ける段になって、悠二はもう一度自室を見て、同じ言葉を別の意味で重ねる。不思議と……寂寥は無かった。そんな自分の心中を掴みかねながらも、少年の足は一段ずつ階段を降る。足取りは、澱まない。
「悠二」
階段から限界までの短い廊下。その途中で、開きっぱなしになっていたドアの向こうから……母、千草の声が掛かる。
「行くのね?」
振り向けば、常の笑顔とは違う、真剣で……それでいて不安を微塵も感じさせない母の姿が、そこに在る。
「……うん」
悠二は、ただ肯定する。肝心な事は、何も言えない。そして千草は、答えられない事は訊いて来ない。そんな母の強さに、甘える事しか出来ない自分が歯痒かった。
「母さん」
それでも、
「ヘカテーを連れて、帰って来るよ」
本当に大切な事だけは、約束する。少女が消えた事情すら語らず、手段も勝算も口にせず、言葉自体には何の根拠も無くても、それでも。
「……そう」
不安が無い訳がない。心配しない訳がない。それでも千草は、決意と共に発つ息子の、何よりも欲しかった約束を受け取って、微笑む。
「いってらっしゃい」
受け取って、送り出す。
「いってきます」
別れる為ではなく、帰って来る為に旅立つ───二人目の息子を。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
必要以上に ゆっくりと、坂井悠二は御崎市を歩く。ずっと暮らしてきた、大して変わり映えのしない故郷。毎日学校に通って、放課後は寄り道をして、休日には遊びに出たり、家で寛いだりする……どこにでもある、ありきたりな、でも掛け替えのない、日常。
そこに今は……確かな、放っておけない欠落がある。
「(……うん)」
自分の決断に、後悔は無い。その事を僅かな誇らしさと共に自覚して、悠二は少しだけ歩を早める。準備に手間取ったせいで、池との約束の時間が迫っていた。
「(直接会って話したいなんて、あいつらしくないな。……まあ、こんな時に らしくしてろってのが無茶なのかも知れないけど)」
こういうタイミングでこそ、電話で軽口でも叩いて送り出すのが、悠二の知るメガネマンである。もし池に「絶対生きて帰って来いよ」などと真顔で言われたら、気合が入るどころか気持ち悪いだけだろう。実際、佐藤と田中からは背中に平手打ちをお見舞いされていた。
「(いや、どっちかって言うと これは───)」
そうして歩く先、約束の御崎大橋に差し掛かる手前の路上に、
「坂井君」
ほんの三週間足らず、だが随分と久しぶりに思える吉田一美の姿が、あった。
「吉田さん……久しぶり」
動揺も数瞬、悠二はすぐにいつも通りの……否、“いつも通りだと思っている”笑顔を浮かべて見せた。
「池からは、どこまで聞いた?」
対する吉田は、いつものようには微笑まない。誰が見ても張り詰めていると判る顔を、それでも悠二から逸らさない。
「詳しい事は、何も。ヘカテーちゃんがいなくなって……坂井君や ゆかりちゃんも今日、いなくなるって事だけです」
「……そっか」
池や田中に任せたフォローの内容を、悠二は知らない。余計な事は喋るまいという信頼もあったが、何より“そっち”にまで気を配っている余裕が無かったのだ。
何も言って貰えなかった。その事実に苛まれ続けていた少女は、それでも言葉を重ねる事なく……
「ヘカテーちゃんの為、ですか?」
それだけを、訊いていた。それだけを、訊きたかった。
悠二の表情は変わらない。繕っているのではなく、自分で自分の気持ちを掴みかねているような不透明な笑顔のまま、茜に染まる夕焼け空を見上げる。
「いや……違うね」
胸の空白を、そっとなぞる。
「ヘカテーが何を考えて出て行ったのかは、今でも解ってない。だけど……ヘカテーは全てを理解して、自分の意思で出て行った」
巫女の使命、世界の真実、聞いてしまえば危険や恐怖を齎す事は伏せて、それでも、出来る限りの本心を言の葉に乗せる。
「そんなヘカテーの事情や気持ちなんか お構いなしに連れ戻しに行くんだ。ヘカテーじゃなくて、自分の為にする事だよ」
そう……神の帰還も巫女の使命も知った事ではない。
「ヘカテーは勝手に決めて勝手に出て行った。だったら僕だって、ヘカテーの都合なんか知らない。勝手に乗り込んで、力ずくでも連れ戻す」
固い決意、それに裏打ちされた純然たる怒りまでもが、つい漏れ出た。
と同時に、今まで真っ直ぐに悠二を見ていた吉田が、急に下を向く。
「吉田さ───」
「どんなに危なくても、ですか」
気遣う悠二の言葉を、俯いたまま吉田は遮る。か弱い少女の、か細い声に、悠二は否応なく動きを止めた。……踏み込んでは、いけない。
「……自分でも、変だと思うよ」
ただ、問われた言葉に本音を返す。
「最初は、いるはずのない……いちゃいけない存在だった」
異界からの来訪者、人間を喰らってこの世に生きる紅世の徒。
「いつかは別れの時が来るって、頭では解ってた筈なのに……」
些末な日常を全力で謳歌する、無垢な少女。
「いつの間にか、傍にいる事が当たり前になってた」
右手を伸ばし、そして握る。そこには無い何かを、それでも掴もうとするように。
「自分でも呆れるよ。この期に及んでも、僕は何も変われちゃいないんだ」
平井の想い、シャナへの憧れ、ヴィルヘルミナの私情、マージョリーの憎悪、メリヒムの矜恃、サラカエルの悲願……ヘカテーの、覚悟。
これだけの生き様を見せつけられても、悠二の選択は変わらない。即ち……己が大切なモノを守る為に、戦う。
「そう……ですか」
言葉の割には、以前とは別人のように澄み切って見える悠二の横顔を、顔を上げた吉田が見る。
そこにはもう、俯き隠していた表情も、張り詰めた固い表情も無い。ただ、穏やかな微笑だけがあった。
「こんな言い方しか出来なくて、ごめん」
悠二もまた、穏やかに微笑み返す。少しだけ、申し訳なさそうに。巻き込まないように、傷付けないように、近付けないようにして、何も話さず、ただ謝る。
そんなズルい少年を、
「私、待ってますから」
少女は笑顔で、送り出す。
「坂井君が……ヘカテーちゃんと一緒に帰って来るのを、待ってますから」
少しだけ、寂しい笑顔で。
「………………」
切ないエールに背中を押されて、坂井悠二は歩き出す。足を止めず、躊躇いを残さず、力強く。
すれ違い様に……
「───ありがとう───」
小さく、けれどハッキリと囁いて。
優しい声に、心地好い風韻に、吉田は一度だけ振り返る。振り返って───絶句する。
歩き去る悠二の向こう、御崎大橋を背に、五つの影が立っていた。
赤い軍服と紺色のミニスカート、黒のベルトブーツという姿の平井ゆかり。
白い衣と緋色の袴、つまりは巫女装束を纏う見知らぬ少女・シャナ。
見た事はあっても詳しくは知らない二人の美女、ヴィルヘルミナとマージョリー。
長い銀髪を首の後ろで束ねた執事、メリヒム。
知った顔が、知らぬ顔が、坂井悠二と同じ異質な空気を纏って彼を待っていた。
「行こう」
悠二が彼女らと合流するか否か、というタイミング。瞬きの内に彼らの姿は忽然と消えていた。まるで、最初からそこにいたのは幻でしかなかったかのように。
「坂井、君……」
誰もいなくなった真南川脇の道路を、冷たい風が通り過ぎる。現実感を持てずに、空虚な喪失感に打ちのめされる吉田は、
「言いたい事は、言えた?」
そのまま、やって来た池速人に声を掛けられるまで、呆然と立ち尽くしていた。
「言いたい、事」
ただ、声を掛ける切っ掛けとして池が選んだ無難な言葉。それが予想外に核心を突いた事で、吉田の瞳は揺れた。
無様に歪む顔を両手で隠して、傷付いた少女は首を振る。
「言え、なかった」
上擦った声で、己の弱さを少女は嘆く。
「わたしは、何も知らない。坂井君の事……」
吉田一美は、ただの人間だ。池や佐藤、田中のように、真実に触れる切っ掛けを得る事も無かった。
もし、ほんの少しでも歯車が違えば、悠二が抱える苦悩や決意に近付けたかも知れない。だが……吉田は真実を隠した池を責めようとは思わなかった。
「だけど、一方的に伝える事なら、出来た筈なの……」
何も知らない。その事を言い訳にはしない。……否、出来ない。
「無知でも、無謀でも、邪魔でも、迷惑でも、気持ちが本物なら、そんなもの無視出来た」
訊いたところで答えては貰えない。ついて行きたいと言っても拒まれるに決まっている。だが、それは問題ではない。
「力になりたいとか、支えになりたいとか、そんな行儀の良い気持ちじゃない! 相手の気持ちだって無理矢理に変えてみせるくらいの強引で傲慢な想いが、私には無かった!」
かつて人間だった平井ゆかりがそうしたような、今、坂井悠二が選んだような、想いの強さ。
踏み込む事で拒まれる。押し付ける事で枷になる。そんな遠慮と理性を、吉田は越える事が出来なかった。
「近付こうとして拒まれたんじゃない! 私には、近付こうとする事も出来なかった!」
想いを告げて、行かないでと引き留めて、それを拒絶されたなら運命を呪う事は出来た。吉田は……それすら出来なかった己を許せずにいる。
「………………」
傷付き、嘆き、涙を流して慟哭する愛しい少女を、池は……抱き締めたいと、そう思った。
「僕は今、吉田さんを抱き締めたい」
「っ……!」
思ったままを口にして、しかし決して実行に移さない。
顔を隠すのも忘れてハッとする吉田の顔を見て、曖昧に笑う。
「だけど、それをして吉田さんの傷に付けこむ事が、正しいとは思わない。正解なんて……無いんだよ」
自らの言葉を、自らの結果として、池速人は思い知る。彼女を傷付けまいと、こうして何も隠さず向き合う事が、本当に正しいと言えるのか? いやそもそも、こんな風に本心を見せられる事自体が、恋の在り方として正しいのか?
正解など、在りはしない。あるのは只、結果だけ。
「ご、めん……私……ッ!」
好きな少女が、別の少年への想いの弱さを嘆く。そのあまりにも無神経な現実に気付いて、再び吉田は顔を隠す。
「……いいよ、それで」
池はそんな吉田の想いも弱さも解った上で、今まで通りそこにいる。
抱き合わず、寄り添わず、恋に迷う少年と少女は同じ距離のまま、寒空の下で向かい合い続けていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
広大な中国の中南部、分け入る者の無い深山幽谷の地に、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』が本拠・移動要塞『星黎殿』の姿はあった。
「………………」
その上階、全てを眼下に納めるテラスに、巫女たる少女は進み出る。両脇に立つは、彼女と同じ神の眷属『三柱臣(トリニティ)』。
見下ろす先で静まり返るのは、種々様々な異形異装を見せ付ける紅世の徒。前代未聞、史上を遡っても前例が無いほどの徒の大軍勢である。
「(ここから、始まる)」
漆黒のドレスに身を包むヘカテーは、何も語らず、語るまでもなく注目を遺漏なく集め、練り上げた莫大な力を放出する。
溢れ出した炎は、全てを塗り潰す───黒。天に昇る黒炎は頭上一円の星空を染め上げ、一切の輝きを持たぬ闇が渦巻いた。天を裂き地を吞む程の絶大な力に驚嘆と畏怖が巻き起こるのも構わず、ヘカテーは自らの喚んだ黒い力、その中心を指で突いた。
「───命ず───」
その一点、空に穿たれた穴に炎が流れ込み、爆縮とも見える収束が星空を呼び戻し、真黒の球体を浮かべた。
「『神門』よ、在れ」
その球体が潰れ、広がり、円形の縁が銀に燃え上がる。そうして創造されたのは、何物も写さず返さない、巨大な黒き鏡。
「愛しき紅世の徒よ」
常と変わらぬ無表情で、しかしその内面までも寒々しく、黒の巫女は同胞に告げる。
「神の眷属たる我ら『三柱臣』は、これより我らが盟主……創造神“祭礼の蛇”を取り戻すべく、世界の狭間へと発ちます」
同行するは同じ眷属たるシュドナイ、ベルペオル、そして護衛の“壊刃”サブラク。
「『仮装舞踏会』の巫女として命じます。創造神の帰還まで、この『星黎殿』を守り抜きなさい」
大杖『トライゴン』を振り上げて、ヘカテーは無数の同胞を鼓舞する。神の巫女として、一人の少女として、目的を果たす為に。
「『神門』創造による世界の揺らぎは、討滅の道具らにも伝わっているでしょう。兵力差にも怯まぬ決死の侵攻が予想されます。ですが……」
迷いも躊躇いも在りはしない。これは……“誰にとっても素晴らしい事”なのだから。
「紅世の徒よ。神の御業にて我らが『楽園』を目指す同胞よ。共に新たな世界へと到らんが為、力を貸して下さい」
軍を鼓舞するには優しい言葉を投げ掛けて、ヘカテーはハッキリと“微笑んだ”。
瞬間、空気が弾ける。
『ッオオオオオオォォォーーー!!!』
熱狂が、歓呼が、咆哮が、狂喜が、音の怒濤となって木霊する。
既に治まる事なき狂乱に震える軍勢を見下ろすヘカテーの顔から、既に偽りの笑顔は消えていた。
「……行きましょう」
ベルペオルを、シュドナイを、サブラクを促して、ヘカテーは空に舞い上がる。
「(……やれやれ、やはりこの世は儘ならぬ、か)」
妹の悲痛な覚悟を知ってなお、変わらず大命を目指すベルペオルは、因果な運命に溜め息を吐く。
「(坂井、悠二か……)」
巫女として生き、そして死ぬ。大命の為に死へと向かう彼女を守り、そして見送る。己が使命に課せられた皮肉な運命を呪って、それでもシュドナイは繰り返す。
「(創造神、“祭礼の蛇”……)」
『仮装舞踏会』の構成員ではなく、あくまでも護衛として同行するサブラクの表情は、誰にも読めない。
「(未踏も遼遠も越えてみせる、今こそ……!)」
───神の創造せし鏡を抜けて、天使は世界の狭間を目指す。この先に在るべき理想の姿を求めて。