幾つもの炎が入り乱れ、かつてない戦火が陽炎の異界を壊していく。
この世に生まれた異端の徒、魔神さえも凌ぐ最強の徒が、猛然と襲い掛かって来る。
「(僕は……僕らは……)」
連なる光、束なる力、異色の虹が怪物を貫いた。
「(勝った、のか……?)」
絶望を乗り越えた安堵が胸を満たし───すぐさま凍り付く。
「(シャナ!)」
紫の炎を纏った巨大な槍が、魔神の内で眠る少女を砕く。
「(何なんだ、こいつらは……!?)」
消えゆく魔神を、三眼の女怪が嘲笑う。
そして、
「(ヘカテー!!)」
この世から外れてずっと、当たり前のように傍に居てくれた少女が……変わる。
───さよなら───
広がる“黒”が、どこまでも深い闇の底へと少年を誘い……
「ヘカテー!!」
己の叫び声に、坂井悠二は目を覚ました。
「……ゆ、め……?」
真っ先に目に入ったのは、夜空でありながら泣きたくなるほど明るく綺麗な、満天の星空。
「ここは……」
次に気付いたのが、寂れた遊園地のような懐かしい光景。忘れもしない、ヘカテーと二人でフリアグネと戦った依田デパートの屋上だった。
「あ……」
振り返れば、他の皆も同じく無造作に転がっていた。平井が、ヴィルヘルミナが、メリヒムが、マージョリーが、カムシンが、未だ意識を取り戻さぬまま倒れていた。
「あ……ぁ……」
動揺の極みにあっても何処かで冷静な心が気配を探る。それでも、やはり、いない。
「そん、な……」
平井はいる。ヴィルヘルミナもいる。メリヒムも、マージョリーも、カムシンもいる。跡形も無くなっていた街は元の姿を取り戻し、焼き消された脚もある。
だが、違う。
見慣れた時計塔が、無い。自在法の手解きをしてくれた師がいない。艶やかな黒髪の少女が、いない。
家族のようにいつも一緒にいた、いる事が当たり前の少女が、いない。
「ヘカテー……」
アスファルトに落ちた一粒の水滴が、現実を突き付ける。
いつか終わると知っていた、いつまでも続くと願い続けた優しい日々は───終わりを告げたのだと。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
何処か世の空を彷徨う『星黎殿』、常夜の異界を見渡す回廊を、二人の王が歩いていた。
「お前にしては随分と性急だったな。あの“天壌の劫火”を殺す為の仕込みが、たったの二ヶ月とは」
一人は『将軍』、“千変”シュドナイ。
「長い間 待っていた好機だからこそ、確実に間に合わせるよう動いたんじゃないか」
一人は『参謀』、“逆理の裁者”ベルペオル。どちらも、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の最高幹部『三柱臣(トリニティ)』に名を連ねる神の眷属である。
「大命遂行に於ける最大の懸念は奴だったからねぇ。その首を取れる千載一遇の機会となれば、多少の危険には目を瞑るさ」
そのベルペオルが、咽を鳴らして小気味良く笑う。常ならば人も徒もフレイムヘイズも掌の上で踊らせ嘲笑う鬼謀の王が見せる、安堵と興奮の同居した笑みである。
「(ヘカテーの気紛れに感謝しないとねぇ)」
“天壌の劫火”アラストール。
紅世に於ける世界法則の体現者にして、神をも殺す破壊神。その神威を召喚し全てを焼き尽くす『天破壌砕』こそが、『仮装舞踏会』にとって唯一にして絶対の障害だった。
だからこそベルペオルはその障害を事前に除く術を数百年の大戦以来探し続け……しかし、見つけられなかった。
器たるフレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』を破壊するだけなら、いくらでも手段はある。だが、それでは駄目なのだ。討ち手と契約した王は、器が壊れれば紅世に帰り、また新たな器と契約して この世に舞い戻る。ある意味これが、フレイムヘイズというシステムの最も厄介な所かも知れない。
一応、例外も存在する。それはフレイムヘイズが破壊された直後、器たる人間と契約を越えた絆を結んだ王が、仇敵を討つ為に容れ物も無いまま強引に顕現する“自殺行為”だ。契約に縛られた王が器も無いまま顕現すると、紅世に帰る事が出来なくなる。元々の使命から人を喰って顕現を維持するという事も出来ず、そのまま立ち枯れて消滅するしかなくなるのだ。
それでも命を捨てる覚悟で顕現する前例もいるのだが、あの天罰神に限ってそれは期待出来ないと───“思っていた”。
「(『大命詩篇』が完成する今という時節に、よもやこんな偶然が重なるとは)」
契約した王の休眠を破る『トリガーハッピー』、天罰神の顕現にすら耐えうる偉大なる者・シャナ、その顕現をせざるを得ない程の怪物を生み出す『革正団(レボルシオン)』の計画。収集した情報の全てが、一つの可能性を導き出していた。御崎市の者らを誘導できる立場にある“協力者”がいたのも、『仮装舞踏会』にとっては幸いだった。
「これでお前も“魔神殺し”の“千変”シュドナイだ。悪くない気分だろう?」
シナリオはこうだ。
まず『トリガーハッピー』を持つ“狩人”フリアグネに餌をちらつかせて味方に引き入れる。そのフリアグネに御崎市の使い手の細かい情報を持たせた上で『革正団』に送り込む。その情報を武器に『革正団』は御崎市の使い手相手に優位に事を運び、計画を成し遂げ、規格外の怪物を造る。まともに戦っても勝ち目が無い怪物を前にした『炎髪灼眼』に、『トリガーハッピー』の能力を説明し、“天壌の劫火”の顕現を促す。後は怪物と怪物を潰し合わせて、存分に消耗した所で潜んでいたシュドナイが器たる少女を粉砕する。
契約者が破壊された後に“天壌の劫火”が無謀な顕現をする事は有り得ない。だが、契約者が生きている状態で我が身を顕現させるという、普通なら考えられない選択肢ならば可能性は充分にあった。そして、器を破壊した後に魔神を顕現させるのは不可能でも、魔神を顕現させた状態で器を破壊する事は───不可能ではない。
不確定要素も多く、心臓に悪い場面もいくつかあったが、結果的には上手くいった。“天壌の劫火”アラストールは契約に縛られた身で器も無く この世に顕現し、その圧倒的な力ゆえに瞬く間に存在を枯渇させて、紅世に帰る事も出来ずに死んだ。もはや『天破壌砕』はおろか、『炎髪灼眼』の再臨すら起こり得ない。
「笑えん冗談だな。俺は用意されたトドメを刺しただけだ。魔神殺しはお前の方だろう」
「ふふ、嘘は言っちゃいないよ。それに、お前を英雄にした方が喜ぶ連中が多いのさ」
斯くして『仮装舞踏会』は最大の障害の排除に成功した最高の状態で、数千年の時を経た『大命』に臨む事が出来ている。
既に『革正団』の“準備”に紛れてフレイムヘイズの足と耳は削いだ。最凶の魔神なき今、最早この形勢は何者にも覆せはしないだろう。
「それで、ヘカテーはどうしてる?」
この、怖いほど順調な戦況を前にして、シュドナイは愛想笑いの一つも浮かべない。サングラスの奥の双眸は、常の彼からは考えられないほどに鋭く、重い。
その理由も百も承知で、己もまた同じ気持ちを抱いていて……敢えてベルペオルは言及しない。何があっても覆らない事を わざわざ口に出しても、互いに傷口を抉る事にしかならないからだ。
「『星辰楼』で『神門』を開く場所を探ってるよ。『秘匿の聖室(クリュプタ)』の天辺を開いてるのは、その邪魔になるからだ」
「……そうか」
一心に使命の遂行に耽る巫女の奮闘を聞いて、シュドナイは煙草の先端に紫の火を点す。深呼吸のように吐き出した煙が、夜の闇に広がって消えた。
「なら俺も、負けないように励むとしようか」
猛虎の瞳が彼方を睨む。守るべき巫女の決意に触発されるように、その牙は次なる標的を探す。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
前年より確かな盛況を見せた御崎高校『清秋祭』が終了してから三日が過ぎた今日、
「っりゃああぁーーーっぷ!?」
封絶に覆われた佐藤家の庭園で、思い切り突き出した右ストレートにカウンターを合わされた平井が、綺麗に宙を舞って吹っ飛んでいた。
「攻撃が馬鹿正直過ぎんのよ。いくら速くても、あんなバレバレの大振り貰う訳ないでしょ」
「やる気があんのは解ったがよぉ、ちーっとばかし力み過ぎだーなぁ」
鼻を押さえて立ち上がる平井を見下ろして、二人で一人の『弔詞の詠み手』が酷評する。最初は面倒くさい面倒くさいと文句ばかり言っていた癖に、いざ始めるとしっかり指導してくれる辺り、意外と面倒見が良いのかも知れない。
「了解!」
懲りずに地を蹴り、なおも平井は挑み掛かる。この異色のトレーニングは、ヘカテーが消えた翌日から毎日、朝から夕方までずっと続けられていた。
『彼女の目的が何なのか、ある程度想像はつきます』
あの場にいた中で誰よりも冷静だったカムシンは、言った。
“祭礼の蛇”。
アラストールと同じ紅世に於ける世界法則の体現者にして、『造化』と『確定』を司る『創造神』。そして、ヘカテー達『仮装舞踏会』の頂点に立つ盟主だった存在。
『支配という行為に興味を持った彼は、数多のフレイムヘイズの手で数千年前に滅ぼされた。今ではそんな風に話が変わっていますが、事実は少し違います』
ヴィルヘルミナやマージョリーにとってもお伽話と呼べるほど古い出来事だが、最古のフレイムヘイズたるカムシンは、その『神殺し』に加わった数少ない生き残りだ。
『我々は“祭礼の蛇”を討滅した訳ではありません。共振を遮断して紅世にもこの世にも行けなくした上で、両界の狭間へと放逐しただけなのです』
『久遠の陥穽』という秘法によって神さえ無力な狭間に墜とされた“祭礼の蛇”は、二度と再び姿を現す事は無い。永遠に無力化したという意味では討滅と変わらない。
だが、その“祭礼の蛇”の持つ炎の色こそが───“黒”だった。
『創造神の巫女が黒い炎を纏い、あんな手段で、神さえ殺す魔神を殺した。信じ難い事ではありますが、もはや間違いないでしょう』
即ち、創造神“祭礼の蛇”の復活。さらに、その蛇神の権能を以て途轍もない“何か”をしようとしている。それこそ、天罰神が看過する筈が無いと始める前から決め付ける程の、である。
『私は早急に、全世界のフレイムヘイズにこの事を伝えます。……貴方達も、自分が良かれと思う選択をして下さい』
必要最低限の説明だけして、またカムシンはさっさと何処かに行ってしまった。使命以外に頓着しない代わりに、他人に選択を強制しない。そんなスタンスが、今ばかりは有り難い。
「はああああぁぁーー!!」
今のヴィルヘルミナとメリヒムには頼れない。ヘカテーはいない。シャナもいない。悠二も今は自分の事で手一杯。それでも悠長に自主練に耽る気になれなかった平井は、今までロクに話した事も無かったマージョリーに頭を下げた。
「あ、ちょっとはマシになってきた」
復讐を遂げて気が緩んでいたのか、それとも元から女の子には甘いのか、マージョリーは平井の頼みを渋々と受け入れて今に至る。
「でも、今度は動きに懲りすぎて一発一発が軽い」
人間の胴体より太い『トーガ』の拳が平井を一撃、ガードの上から殴り飛ばした。踏ん張った両足がガリガリと削りながら十数メートル後退する。
「あんた、真面目にやってんの? “狩人”ぶっ飛ばした時は、こんなもんじゃなかったでしょうが」
「っ……そこまで言うなら」
呆れ混じりに言われて、これ以上なく本気で取り組んでいる平井は目の色を変えた。
「本気モード!」
その全身から血色の炎が噴出し、重心を落とした両脚を銀の蛇鱗が覆う。まだ使い慣れていない事、訓練で使うのは危険ではないかという危惧から使用を控えていたのだが、ここは一泡吹かせたい。
「怪我しても恨まないで下さいよ!」
気炎を巻いて平井が飛び掛かる。蛇鱗を纏った硬質の跳び蹴りが一直線にマージョリーへと繰り出され……
「ぎゃふん!?」
両手を組んだ『トーガ』による鉄槌の一撃を受けて、地面にめり込んだ。
「ま、その“狩人”も生きてるでしょうけどね」
「そうなんですか!?」
「当然でしょ。じゃなきゃ、あんな都合よくラミーの奴が“あの銃”を持って来る筈ないじゃない」
衝撃を受ける平井に、マージョリーは疲れた風に溜息を吐く。
魔神の顕現と消滅は、もはや疑いようもなくベルペオルの策略だ。となれば、鍵となる拳銃型宝具を持っていたフリアグネも当然『仮装舞踏会』とグルだったと考えるべきだろう。らしくないほど穴だらけの計画だったが、流石にそこまで偶然に頼ったなどとは考え難い。
「(……あのチビジャリも、運が無かったわね)」
『敖の立像』の力とアラストールの力が“共倒れさせるのに丁度良いほど”拮抗していたのは、ベルペオルとて確証と呼べるほど理解していた訳では無いだろう。何せ、当のサラカエルでさえ正確に把握できてはいなかった様子だった。
加えて……あの『七星剣』。あれを魔神の顕現より先に思い付いて実行していれば、もしかしたらアラストールの顕現なしでも勝てていたかも知れない。
一見すると狡猾な策謀に見えるが、実際はベルペオルにとっても博打に近い奇策だった筈だ。
「(そういう意味じゃ、この子の力も計算外ではあったのよね)」
あの時の平井の力は本物だった。たとえ元々やられたフリをして離脱する予定だったにしても、フリアグネはあの瞬間、間違いなく死を覚悟しただろう。
比べるまでもなく、こんな程度の力ではなかった。……というより、さっきまでと何一つ変わっていないような気さえする。
「……いいわ。ちょっと興味出て来たし、あんたの力を診てあげる」
「押忍!」
乗り気になってきたマージョリーに、平井はもう何度目かという突撃を開始する。
「(強くなる。今のままじゃ全然足りない)」
神の復活、大きな企み。フレイムヘイズにとっては看過できない異常事態なのだろうが、平井にはスケールが大きすぎてピンと来ない。シャナの仇討ち、などという柄でもない。そんな理由で強さを求めている訳では無い。
「(あたしがメアに乗っ取られなかったら、ヘカテーはいなくならなかったかも知れない)」
平井の身体を使ったメアの侮蔑も、ヘカテーの変心と全く無関係では無いだろう。自分の弱さが大切な妹を傷つけた事実が我慢ならない。
何より……ヘカテーは自分たちを殺さなかった。理由など、考えるまでもない。『仮装舞踏会』の目的も、創造神の偉大さも、平井の考慮の内には無いのだ。
『悠二を頼みます───“ずっと”』
あの言葉だけが、ずっと、耳の奥に残っている。
「やぁああああーーー!!」
想うだけでは何も変えられない。力が全ての世界で己が意志を通す為に、少女はより強く力を求める。
そんな少女と美女から離れた場所で、
「あー……くそっ、やっぱりカッコいいなぁ」
「……カッコいいか? あの着ぐるみ」
少年が二人、群青のリングに守られた状態で見物していた。一人はマージョリーに憧れる佐藤啓作。そしてもう一人は、これまで積極的に外れた世界に関わろうとはしなかった、池速人。
「こうして見てたって、自在法が使えるようになる訳でも無いんだけどな」
こういう機会を得られたのは、完全に平井のおこぼれだ。マージョリーからしても夢見がちな少年に現実を突き付けても良い頃合いかと思っていたので、要望は意外なほどあっさり通った。
何もなくとも佐藤は見学しただろう。が、池は違う。
「じゃあお前は何で来たんだよ?」
「そうだな……とりあえず、実感にはなるよ」
池は、佐藤は、そして田中は、“シャナの事を憶えている”。千草も、吉田も、緒方も、他のクラスメイトも忘れてしまった……死したフレイムヘイズの事を。
平井がミステスになって以来 外れた世界の事をより強く、頻繁に意識し続けていた影響か、この世の本当の姿を知覚できるようになっていたのだ。
そして……憶えているからこそ衝撃は大きかった。憧れるだけだった非日常が、遠ざけていたかった恐怖が、最悪の形で現実になったのだ。そう……友人の死という形で。
「(まだ会ってから半年も経ってないってのに……フレイムヘイズでさえ、こんな簡単に死ぬんだ)」
覚悟を固めて外界宿(アウトロー)を目指そうとしていた佐藤は、今まで以上の恐怖と……それとは別の感情を抱くようになった。
「(守って貰ってるから今は大丈夫。そんな風に甘えて構えてた結果が、これだ)」
この先の日常を生きる。その安寧すら絶対ではない事に不安を感じていた池は、佐藤とは真逆の、諦観にも似た立ち位置で友人達を眺めていた事を恥じた。
実際に何が出来るのか、という現実的な問題はともかく、二人の心境には大きな変化があったのだ。
「(魔神の消滅に、創造神の復活か……)」
ちっぽけな少年の葛藤とは裏腹に、世界は逃れ得ぬ運命へと進み始める。意味があるから足掻くのではなく、足掻く事に意味がある。少年達がそう思えるようになるには、まだ少しだけ時間が足りなかった。
───暗い部屋で、一人の少年が、
「……こんな事に、何の意味があるんだろうな」
誰にともかく、低い声で呟いた。