とにもかくにも、平井と正面から向き合おうと決めた坂井悠二。しかし、当の平井がかなり真剣に修行に勤しんでいるせいで、なかなか二人になる機会を作れないまま迎えた合宿四日目の朝。
「っりゃあ!」
「ふっ……!」
悠二は、当たり前の……しかしヘカテーと一緒にいると忘れがちになる事実を目の当たりにして、軽いショックを受けていた。
「なに呆けてるのよ」
「いや……別に……」
それは、坂井悠二は才能に溢れた天才などではない……という、ごくごく当たり前の事実だった。
「シッ!」
「なんの!」
間断なく繰り出されるメリヒムの刺突を、必死に竹刀で捌く平井。不恰好ながらも神速の攻撃に反応できる動きは、既に人の域を越えていた。
はっきり言って、悠二の時よりずっと上達が早い。
「よもや、これまでの成長速度は己の才能の結果だと思っていたのではないだろうな?」
「お、思ってないよ!」
アラストールに痛い所を突かれた悠二が、必要以上に強く言い返す。自惚れているつもりはなかったが……幾度かの戦いを経て細やかながら自信もついて来ていたのだ。この結果には些か動揺を隠しきれない。
「(真に恐るべきは、“頂の座”の能力か……)」
今度は言葉に出さず、アラストールも悠二とは違う意味で密かに息を呑む。
存在の力の統御は、最も基本的な……だからこそ最も重要な技術だ。ヘカテーほどの技をものにしようとするならば、それこそ極限の命のやり取りを幾度となく繰り返し、生き残り、存在の真髄を掴む必要があるだろう。
それをこうも簡単に他者に伝播してしまえるなど、完全に常軌を逸している。この力がフレイムヘイズの側にあれば、未熟な内に死する討ち手が一体どれだけ減るだろうか。
などと、栓なき事を思われているとは露知らず、ヘカテーがポソリと言う。
「ゆかりには元々、存在の力に対する適性がありましたから」
「へぇ……そういうの、人間の内から判るもんなんだ?」
自分は全く判らなかった、という実感と共に、悠二が返した。ヘカテーは続ける。
「以前、『リシャッフル』で私とゆかりが入れ替わった事がありました」
「? うん。憶えてるけど、それが?」
会話の内容が急に飛んだ、と悠二は感じた。対して、悠二を挟んでヘカテーと反対側に立つシャナが、何かに気付いたように横目を向ける。
「最初から器や代替物として造られるフレイムヘイズやトーチと、私たち紅世の徒は違います。本来“隣”の住人である徒にとって、『この世に在る事』それ自体が一つの異能……即ち“顕現”です」
淡々と語られるこの世の真実。その意味する可能性の一つに行き着いて、悠二の背筋がゾクリと冷えた。
「じゃあ、あの時ヘカテーの身体に入ってた平井さんは……」
「無意識の内に、私の存在で、人間程度の身体を顕現させていた事になります」
何でもない事のように言われて、悠二はゴクリと生唾を飲み込む。確かにあの時のヘカテーは、何かを気にして平井に確認を取っていた。
つまり、あの平和な日常の一幕が、実は一触即発の窮地だった。ヘカテーの身体と平井の意志総体が、ヘカテーの力に呑まれて消えてしまう可能性があったと、そういう事だ。
結果的に無事だったとは言え、引きつり笑いでも浮かべておくしかない。
「……ヘカテーはあれ、不用意に使わないようにね」
(コクリ)
外野がワイワイと分析を続けている間も、平井とメリヒムの太刀合いは続いている。
「(……確かに、並の資質ではないか)」
ちゃんと存在の力の通った、しかし避けて下さいと言わんばかりの袈裟斬りを、メリヒムは身体の軸を僅かに退いて避ける。
性格的に向いてないように思えるが、これでもメリヒムは、シャナを含めた“炎髪灼眼の討ち手候補”を数百年に渡って鍛え続けたコーチのスペシャリスト。言葉など使わずとも、対する動きの一つ一つが教え子を強者へと導いてくれる。
「(同じ時、同じ地に……)」
そんなメリヒムだからこそ、平井の資質をすぐに看破できた。
確かにヘカテーの能力は凄まじいが、それは上達速度に限った話。肝心の伸び代が無ければ、共有した感覚に実力が追い付きはしない(現に、悠二の体術はマージョリー戦前後から極端に伸びが悪くなっていたりする)。
そもそもヘカテーの能力など無関係に、ミステスとして彼女の持つ力の総量自体が、ヘカテーとフリアグネの力を吸収した悠二をも越えているのだ。才能を疑う余地が無い。
「(これだけの器を持つ人間が、二人)」
雑な攻撃を叱責するように、メリヒムが大きく強く踏み込んだ。そこから繰り出された一突きが平井の水月に鋭く減り込み、吹っ飛ばす。
「か…ッ……!?」
肺から空気を全て吐き出したような呻き声を上げて、平井がゴロゴロと地面を転がる。
「(偶然と言うより、むしろ必然か)」
痛みに悶えて動きを止める事がどれだけの隙を作るか、それを身を以て思い知らせるべく襲い掛かるメリヒム。
「っっのぉ~~~!!」
その竹刀を、間一髪の跳躍で平井が躱した。宙高く舞い上がった少女は、やおら竹刀を放り捨てて、両手を腰溜めに構える。
「さ…め…は…め……」
そこに存在の力を集中させ、炎のイメージに変えて……
「にゃぁーーーー!!?」
爆発した。
「平井さんんーーーー!?」
全身からプスプスと煙を上げる平井が、コミカルな擬音を立てて落下する。失敗を恐れない姿勢は立派だが、やる気に実力が追いついていない。
「体術に比べて、自在法は苦手なようですね」
こんがり焼けた平井を木の枝でつつきながら、ヘカテーが悪意なく評した。
「「はあ……」」
犬の散歩に出ていた吉田一美と、部活帰りの緒方真竹。道でバッタリと出くわした二人は、公園の東屋で缶ジュース片手に一休みしていた。
その表情は、夏の日差しで隠せないほどに暗い。
「……一美、あれから坂井君に会った?」
「……ううん、池君も予備校で忙しいみたいで、遊びの誘いとかも無いし」
理由は言わずもがな、先日のミサゴ祭りの一件である。
悠二達にとっては生死を懸けた非日常だったわけだが、吉田達から見れば当然違う。
吉田にとっては心機一転、恋敵に正々堂々と挑む決意を固めた矢先の一大イベント。吉田ほど大袈裟ではなくても、緒方もまあ似たようなものだ。
その結果が、『肝心な花火の最中に見知らぬ女性に想い人を連れて行かれる』という、名状し難い顛末。おまけに、その女性は頭に超が三つ付くほどの美女だった。一目でそうと判るレベルなのだから、実物は多分もっと凄いだろう。
「緒方さんはその、田中君とは……?」
「……電話はしたけど、何かあからさまに誤魔化された」
「いやっ、でも、その……大丈夫じゃないかな? 二人とも連れて行ったんだし」
ヘカテーやシャナも超が付くほどの美少女だが、何と言っても彼女らは色々と小さい。
あの時の美女は何と言うか……目の前に立たれるだけで女としての自信を根こそぎ奪い去ってしまうような、残酷なまでの破壊力を持っていた。
邪推するには情報が少な過ぎるのだが、あんな美女が想い人の手を握った、という事実だけで何だか凹まざるを得ない。
「まぁ……うん。あんな美人が、田中や坂井君を相手にするとは思わないけど」
「でも……だったらどんな関係なんだろ」
結局、非現実的すぎる彼らの関係を察する事など出来るワケがないのだ。
合宿という状況下にあっても、トレーニングのメニューは大して変わらない。悠二が蔵する宝具の性質上、零時前に少し大きめの力を使った鍛練を行い、悠二の力を喰らい、零時になったら全開、というやり方が最もリスクが少ないのだ。
「(正面から向き合うって言っても、具体的に何を話せばいいんだ)」
今は夕食のカレーを食べ、零時前の鍛練が始まるまでの束の間の自由時間。皆がペンションで寛ぐ中で、悠二はフラリと外に出ていた。
「本当は僕を恨んでたとしても、それを口に出すような娘じゃないし」
近くの川の上流まで足を運び、滝の音に紛れさせて、思ってもいない事を声にして発する。
……覚悟を決めたつもりで、どうしても、色々な事を考える。
平井があそこまで真剣に鍛練に取り組んでいるのは、何かに没頭する事で悲しみから目を逸らしているのではないか?
いや、そもそもこの合宿自体、本当に鍛練が目的なのか? ただ、彼女が御崎市から離れたくなっただけではないのか?
―――彼女の居場所が失われた、御崎市から。
「(……僕の心構え一つで、変えられるような事じゃない)」
自分は取り返しのつかない事をした。その事実を重く噛み締めて、それでも、今のままで良いワケがない。
「っ」
砂利の上を歩く悠二の足が、不自然に止まる。こちらに近付いて来る一つの気配を、自身の鋭敏な感覚で掴んだからだ。
徒……ヘカテーやメリヒムではない。平井か、シャナか……流石に平時では、力の大きさでどちらか判断できない。
「(もし、平井さんだったら……)」
その機会を待っていた筈なのに逃げ腰になる自分を自覚して、悠二は密かに自嘲する。
今のままではいけないと判っていながら、いざとなったら躊躇する。
「(結局……怖がってるだけじゃないか)」
彼女に拒絶を受ける事が、彼女から人間を奪った身で。つくづく自分が嫌になる。
「(いつまでも逃げてられないんだ)」
感情を理性で押さえ込む。いつも無意識に行なっている事を今また行ない、来訪者を待つ。
ジリジリと詰まる距離をもどかしく思ったのか、気配は異能者ならではの跳躍で以てあっという間に接近し……
「こんな所でどうしたの?」
平井ゆかりは、坂井悠二の前に現れた。
他に誰もいない、二人きりの空間。自分の不審は既に感付かれている、という前提の下、悠二は胸に手を当てて深呼吸した。
「……ちょっと、考え事」
「そっか」
ここに来て、漸く肚を括れた。それを証明するような落ち着いた声音に、平井も静かに相槌を打つ。
身体ごと水面を向いた悠二の隣に駆け寄って、平井も同じく水面を見つめる。森の夜は暗い。けれどこの川辺だけは、月と星の光に青白く照らされていた。
「平井さんは、これからどうしたい?」
悩んだ末に、出て来たのはそんな言葉。
「僕は取り返しのつかない事をした。どんなに望んでも、もう君を人間には戻せない。……だけど、何も出来ないわけじゃない」
時は戻せない。罪は消せない。それでも、少しでも報いる事があるのなら、それは平井に決めて欲しかった。……これ以上、自分の傲慢を彼女に押し付けたくはない。
そんな、悠二にとっては限界まで悩み抜いた結論を……
「それはつまり、あたしに全部の選択を押し付けようって事?」
遮るように、あまりにも厳しい一言で断じた。
「ッそんなつもりじゃない。けど、ミステスとして平井さんが生きていくには『零時迷子』が必要なんだ」
膨らみ続けた自罰心……誰でもない坂井悠二が抱く自らへの怒りが、知らず声を荒げさせる。
平井は人間には戻れない。けれど、ミステスとなった彼女がここにいる。
「今ここに在る君の未来まで、僕が縛る事なんて……」
断固として宣言するべく、振り返った。
否、振り返ろうとして……その動きが止められた。
「――――――」
頬に当たる柔らかい感触が、悠二の動き全てを、問答無用で止めていた。
「……はふ」
数秒ほどの硬直を経て、浮いていた踵が落ちて、熱い吐息と共に、触れていた何かが離れる。
恐る恐る視線を向けた先、近過ぎる場所から潤んだ瞳で見つめ返されて、悠二はやっと―――それが唇だったのだと確信した。
「…な……や……え……の……?」
瞬間、火が出るかと思うほどの熱が顔面を支配する。意味不明な声を発して後退ろうとする悠二。
(ポスッ)
を、平井は逃がさない。自ら悠二の胸に収まり、その額を押し付けた。
湧き上がる熱はそのまま、より大きな何かを予期して、悠二は混乱から逃げるのを止めた。
「……あたしは、嬉しかった」
囁くような小さな声が、この距離だからこそはっきりと届く。
「人間を捨ててでも生き延びたかったとか、そういう事じゃない」
これだけの近さにあって、平井は自分から手を伸ばす事はしない。
「死にそうな人間が目の前にいたって、それを勝手にトーチにしちゃいけない。“悠二”はそれを解ってた」
触れているのは額だけ。手を伸ばせば簡単に抱き締める事が出来るのに、自分からは決してしない。
「解ってたのに、した。優しさでも正しさでもない、貴方だけの願いで……あたしを求めてくれた」
あの時のように、彼自身の意志で動いてくれるのを……待っている。
「あたしは、それが嬉しかった」
熱に浮かされた頭で、悠二は自問自答する。
これが、優しさか? 本当にそう見えるのか?
「後悔なんて要らない。贖罪とか、責任とか、そんな理由で一緒に居て欲しくない」
……いや、もう、どちらでも構わない。とっくに、結論は出ていたのだ。
「悠二は……っ」
なおも言葉を重ねようとする少女の身体を、思い切り抱き締める。
呻きにも似た吐息の音を確かに聞いて、それでも力を緩める事はない。
「……ごめん」
我が儘な自分を知って、それでも変えられない頑なさを思い知らされて、悠二は小さく謝った。
「ありがとう…っ……」
「………うん」
ミステスに変えてでも、失いたくなかった……そんな悠二の傲慢を、受け入れてくれた事への感謝。
平井は、嬉しそうに頬笑んだ。抱き合う肩が嗚咽に震えている事には触れず、大きな背中を何度も撫でる。
「“ゆかり”……」
人から外れた自分が、これからどんな道を進んで行くのか……今はまだ解らない。
それでも、一つだけ心に決めた。
「(―――この娘と一緒に生きて行こう)」
たとえどんな道であろうと、彼女となら歩いていける。いつまででも、どこまででも。