軽やかに、激しく、柔らかく、鋭く、桜色の妖狐は舞い続ける。並の徒より遙かに強力な数多の燐子に四方八方から攻められながら、その舞踏は滞る事は無い。
炎ならば躱し、自在法で跳ね返し、距離を詰めれば自爆される前にリボンで切り裂き、或いは投げる事で逆に爆弾として使い、他の燐子までも巻き添えにする。
常に『トリガーハッピー』の銃口に注意を払いながらの戦闘は少なからず神経を削るものだったが、歴戦のフレイムヘイズたるヴィルヘルミナにこなせないものではない。着実に燐子の数を削って反撃の機を窺っていたヴィルヘルミナは、一つの異変に気付いた。
「(おかしい)」
警戒すべきは『トリガーハッピー』のみではない。統率された包囲攻撃の気配を感じ取り、燐子を爆発させるハンドベルの音を聞き逃さない事も重要だ。その聴覚が、違和感を訴えている。
「(ハンドベルが鳴っても、燐子が爆発しない時がある)」
最初はフェイントかとも思った。爆発を警戒させて別の攻撃で不意を突くのは悪くない。だが、本当に爆発したら危なかった場面もあったし、何より注意深く観察しても爆発する時としない時の違いを見出せなかった。フェイントだというなら、所作や力の集中に何らかの違いがあって然るべきだろう。
数百年の戦歴が、経験に裏打ちされた直感が告げていた。
「(何かを、仕掛けている)」
フレイムヘイズとの戦い。当たり前とも思える迎撃に隠して、この狡猾な王は何かを狙っている。
一つの疑念が、事前情報と、数百年前の光景と合わさり、
「(───御崎市のトーチ───爆発しない燐子───傀儡の“爆発”───オストローデ───)」
流れるような想念が一つの解へと辿り着いた時、
「粉砕しろ!!」
フリアグネの燐子が十体、同時に飛び掛かって来た。炎の集中すら見られない、ここまでの攻防から考えれば芸の無い特攻である。
いつまでも捉えられない相手に焦れたようにも見えるが、タイミング的に“気付いた事に気付かれた”のだろう。
「(相当に目聡いであります。しかしこれで……)」
「(確定)」
微かな焦りが、疑念を肯定する。今まで以上の危機感を覚えて、しかし焦らずリボンを伸ばすヴィルヘルミナの耳に………
「ッバオオオオオオオォーーーーー!!!」
ハンドベルの音ではなく、眼下からの遠吠えが届いた。それに応えるように……
『ッバオオオオオオーーー!!!』
「っ!?」
接近してきた燐子達からの、爆発的な咆哮が反響する。無茶苦茶な音の怒涛が一気に高音へと跳ね上がり、ヴィルヘルミナの聴覚を狂わせ、意識を揺らした。
「今……のはッ……!?」
何も聞こえないヴィルヘルミナの視界に、自分以上の苦痛に悶える燐子達の姿が映り、
「──────」
その燐子が、今度こそ、至近で一斉に弾けた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ちっ」
燐子の爆発を受けて落下するヴィルヘルミナを視界の端に捉えて、メリヒムは小さく舌打ちする。轟音に意識を揺らされながら、その隙を突かれまいと『虹天剣』を振り回す。
離れていた分、メリヒムにはヴィルヘルミナ程のダメージは無い。恐らくまともに食らっても、数秒程度の撹乱にしかならなかっただろう。だが、その数秒が勝敗を分けた。
「まだ駒が残ってたのか。未だに隠してるって事は、一発限りの隠し球だな」
先程の咆哮は、フリアグネの燐子の力ではない。マネキン人形の中に、別の燐子が隠れていたのだ。
その燐子の主たる徒は、今も眼下の街の何処かに身を潜めている。恐らくは、サラカエルの自在法で気配を隠してもらいながら。
「駒ではなく、同志です」
きっちり訂正しながら、サラカエルは『呪眼(エンチャント)』をメリヒムへと飛ばす。そこにどんな自在法が込められているかに頓着せず、メリヒムは『虹天剣』を放った。
極太の閃虹がいくつもの瞳を消し飛ばしながら驀進し、それが当たる寸前でサラカエルが消えた。
「貰った」
次の瞬間には、メリヒムの討ち洩らした『呪眼』の一つにサラカエルが『転移』している。その掌には新たな『呪眼』が貼り付き、『強化』された炎弾がメリヒムを一息に呑み込み……
「こっちがな」
一拍遅れて、内側からの『虹天剣』に吹き散らされた。申し分ないタイミングの反撃だったが、虹の奔流はサラカエルの二の腕を抉ったのみ。
「「(今のに反応するのか)」」
互いが互いを脅威と認めて、しかしメリヒムは不敵に笑う。その表情ともう一つの疑惑……なかなかフリアグネが加勢に現れない事を怪訝に思ったサラカエルの背後、変貌する時計塔の反対側で……
「うおりゃあああぁーーー!!!」
───猛々しい雄叫びが、木霊した。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
シャナが制止する暇も無い、復活直後の出来事だった。
「百倍にして返してやる!!」
ヒールを脱ぎ捨て、ドレスのスカートを短く破り捨て、血色の炎をジェット噴射のように放出して、平井ゆかりは飛び立った。
「悠二を……」
真っ先に向かうのは、変貌を続ける時計塔。加速の勢いそのまま、
「返せーーー!!」
大剣で斬り込もうとする。馬鹿正直な突入を迎えたのは、
【こぉーんな事もあろうかとぉー!!】
ハイテンションな叫びと……時計塔のあちこちから飛び出した、白けた緑炎を推進力とする“ミサイル”だった。
「いっ!?」
思わず平井は進路を変えて反転、縦横無尽に空を駆けるも、ミサイルは紐で固定されているかのように標的を追って来る。
「邪魔!!」
平井は振り返り、左手に生んだ特大の炎弾を放り投げた。血色と白緑がぶつかり、弾けて、凄まじい猛火を空に広げる。
「(やっぱり簡単には入れないか)」
『アズュール』の結界で炎を退けながら大剣を強く握り直す平井に、頭上からマネキン人形が襲い掛かる。
「むっ!」
戦斧の一撃を魔剣が受け止め、血色の刃紋が燐子をバラバラにした。それを囮に背後から突き出された細剣を間一髪で躱し、後ろ蹴りで粉砕する。続く二体の燐子も、振り返り様の炎弾が焼き尽くす。
誰より『アズュール』を知り尽くしているからこそ、爆発も炎弾も使って来ないのだろう。
「悪いが、教授は繊細な作業に追われていてね。集中力を乱されると困るんだよ」
純白のスーツを纏い長衣を揺らめかせる美青年、“狩人”フリアグネが平井の前に立ち塞がった。
───その後方から、紅蓮の大太刀が迫っている。
「まったく、歯車が一つ狂っただけで とんだ重労働だ」
その炎の前に燐子が数体飛び出し、『ダンスパーティー』の自爆によって相殺する。確認するまでもなく、『炎髪灼眼の討ち手』シャナ。
「予定通りなら、私と“戯睡郷”がサラカエルに加勢して“虹の翼”を三人掛かりで狩って終わりだったのだが……やはり何もかも思い通りとはいかないか」
気を入れ直すように深呼吸するフリアグネの言葉を聞き流して、シャナはジッと平井を見る。
怪我の功名というべきか、メアに乗っ取られる前とは比べ物にならないほどの力の充溢を感じる。意思総体の主導権を奪い返した事で、己の存在を顕現させる統御力をも掴んだのだ。使えなかった炎も問題なく出せるようになっている。
仮にも味方が多少なりとも使えるようになったのだから、これは喜ばしいのだが……
「(“狩人”は、どうして撃たなかった?)」
逆上して突撃した平井の行為はあまりにも不用意だった。燐子を倒す事は出来ても、フリアグネの銃口にまで意識を割けてはいなかった。撃とうと思えば……撃てたのではないだろうか?
「………………」
戦う前から、仮説はあった。悠二の話では、フリアグネはヘカテーと戦った時に『敵を自爆させる拳銃』を使わなかったらしい。
そんな強力な宝具を、なぜ使わなかったのか? もしくは───使えなかったのか。
「(アラストール)」
「(試してみる価値はありそうだ)」
契約者と一言で相談を済ませて、シャナはフリアグネから目を離さず平井に告げる。
「私はお前を助けない。それでも良いなら、戦いなさい」
「押忍!」
闘志をそのまま炎と燃やす二つの赤に、フリアグネは目を険しく細めた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「(くそっ、戦いはどうなってんだ)」
広い空間の床と天井を結ぶ鉄の大樹に埋まる坂井悠二は、激しく鳴り響く戦闘音に落ち着きなく奥歯を噛み締める。相変わらず、誰かが助けに来てくれる気配は無い。
「(ヘカテー達が簡単にやられるとは思えないけど……今のゆかりにどう対処するかな。『弔詞の詠み手』が何とかしてくれると良いけど)」
おまけに、悠二が居る時計塔そのものの違和感が強くて戦況が全く解らない。そんな不安と戦いながら、悠二は周囲の自在式の解析を続けていた。
もちろん今の悠二に『走査』の自在法は使えないので、肉眼と知識とフィーリングが頼りの作業だ。部屋中に広がる膨大な自在式の全てを理解するには時間が足りない。式の種類と組み合わせ、外と繋がる箇所と全体の流れ、把握しきれない部分は想像力で補い、要の用途を推測する。
「(性質的には、ヘカテーの同調に似てるな。僕の器とこの建物を同調させて、『零時迷子』の効果範囲を拡大させてる)」
あり得ない、という決めつけで視野を狭める愚は冒さない。この自在式と『零時迷子』の力から考えられる狙いを着けて……しかし、やはり、今は何も出来ない。
「(……自信も無いし、やらずに済むならそれに越した事はない。やっぱり零時前に助けて貰えるのがベストだ)」
微妙に要領が良い、というメガネマンの評価を思い出して、悠二は少しゲンナリとした。刺された脇腹が痛い。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『アズュール』を持つ平井には効果が薄いと判断したのか、それとも実力で警戒されているのか、ほぼ全ての燐子がシャナを集中的に狙って来る。
「はあっ!!」
しかしシャナはヴィルヘルミナほど厳しい戦いを強いられる事は無かった。二対一でフリアグネの注意がシャナのみに集まらなくなった、というのも勿論あるのだが、それ以上に大きいのは……フリアグネが、銀の拳銃を納めた事にあった。
「(何なんだろ)」
悠二、ヘカテー、そして平井に対して使わなかった事から、シャナは『フレイムヘイズにしか効かない宝具』なのではないかと睨んだ。だからこそサラカエルやメアが積極的に徒とミステスの相手をしたのだと思った。
しかし実際に平井と二人で挑んだ結果、まだシャナが残っているにも関わらずフリアグネは銃を納めた。
「(弾切れとかもあるのかも。単なるフリかも知れないけど、それくらいで油断すると思われてるかな。私たちの事、かなり調べてるみたいだし)」
むしろ、その逆。ポーズとして拳銃を持っていてもすぐにバレると判断された可能性の方が高い。
「(だったら、今が勝機!)」
何が理由で銃を使えなくなったのか解らないのだから、いつまた使えるようになるのかも判らない。今この瞬間こそが、最大最後の好機かも知れないのだ。
「燃えろ!!」
迫る燐子を紅蓮の炎が焼き尽くし、そのまま主たるフリアグネに向かう。
それが躱された瞬間に、
「っやあ!!」
平井が炎弾を炎にぶつけ、誘爆させた。至近距離の爆発に全身を焼かれて大きく距離を取るフリアグネを、無傷の平井が追っている。
「(相性も悪くない)」
炎を得意とするシャナと、炎の効かない、接近戦を得意とする平井。互いが互いの邪魔にならず、相手にとっては同時に対応し辛い組み合わせである。
燐子の数も残るは十数体。これを狩り取れば、一気に攻勢に移れる。
と、その時、
【聞こえるでありますか】
制服に入れていた連絡用のタロットカードから、シャナだけに届く声が聞こえた。
「(ヴィルヘルミナ!)」
先ほどフリアグネに爆撃を受けて墜落した筈のヴィルヘルミナの声だった。感覚を研ぎ澄ませてみるが、気配は未だ感じない。
「(無事だったんだ)」
【予め服の下に巻いていたリボンを咄嗟に『強化』しただけの事。無傷とはいかないまでも、十分に継戦は可能であります】
という割に、ヴィルヘルミナは戦線に戻って来ない。気配を隠している理由も含めて、シャナにはすぐに解った。
【私はこのまま気配を隠して時計塔に潜入し、『零時迷子』を奪取、もしくは“探耽求究”を討滅するのであります】
敵の狙いが『零時迷子』を要とした計画である以上、当然の判断だった。襲い来る燐子を捌きながら、シャナは傾聴する。
【ついては、“狩人”の相手を貴女に任せるに当たり、聞いて欲しい事があるのであります】
平井の『吸血鬼(ブルートザオガー)』を、フリアグネの剣が叩いた。それは変幻自在に形を変え、生き物のように動く炎の剣。
【奴の狙いは恐らく『都喰らい』。都市そのものを存在の力に変換する秘法であります】
以前、アラストールが仮説として口にした秘法。しかしそれには人口の一割のトーチが必要で、今の御崎市では数が全く足りていないと否定された筈だった。
【奴はトーチを分解するのではなく“爆発させる事で”、トーチの不足を補うつもりであります。鍵となるのは……】
「(あのハンドベル!)」
最後まで聞く前に、シャナも気付いた。傀儡を爆発させる宝具の力で、御崎市のトーチを一斉爆破、生じた歪みで都市そのものを存在の力として手に入れるつもりなのだ。
【『都喰らい』もまた、敵の計画に不可欠なものでありましょう。大きな企みには、相応の存在の力が不可欠でありますから】
もはや答えず、シャナは双翼を燃やして加速する。これまでの戦いでも、フリアグネは馬鹿の一つ覚えのように燐子を爆発させ続けていた。どの程度『都喰らい』の準備が整っているか判ったものではない。
その前に、またも燐子が立ち塞がった。
「ハンドベルを壊せ!!」
舌打ち一つ、シャナは怒鳴ると共に炎を放った。燐子も弾けて、爆炎と爆炎が鬩ぎ合う。
「ハンドベル?」
怒鳴り声を聞いた平井が、フリアグネの左手に視線を向ける。メアに乗っ取られた平井は、いつの間にかタロットカードを紛失しており、ヴィルヘルミナの伝言は届いていない……が、シャナの必死さは伝わった。
「オッケー」
もっとも、平井には戦法を選べるほど引き出しが無い。炎を撃ち、炎を防ぎ、近付いて斬るのみ。左手に持った小さな的を狙うよりは、まだ“狩人”本人を斬る方が簡単そうだ。
とにもかくにも、
「やっつける!!」
思い切り力を込めた炎弾を放つ。それは例によって燐子の爆発に防がれるが、平井は炎に紛れてフリアグネの直下へと高速で回り込む。
もっとも、
「甘い」
フリアグネはうつ伏せに浮かんで、平井を待ち構えていたりするのだが。
「『回炎剣(ラハット)』よ!」
フリアグネの右手に握られた柄だけの剣から、炎の刃が鞭のように伸びる。変幻自在の斬撃は非常に読みにくいが、平井はヴィルヘルミナとの鍛錬のおかげで辛うじて切り結ぶ。
だが、とても『吸血鬼』の能力は使えない。軽く柔らかい刃は、ぶつかる度に反動で離れてしまう。これが本当の鞭なら絡め取って存在の力を流す事も可能だったろうが、この刃はフリアグネの意のままに動くようだ。重さも慣性も無視してグニャグニャと動き回る。
「わっ……たッ……ち、近付けないぃ!」
斬り倒すどころか、斬られないようにする事で精一杯。そんな平井に向けて、フリアグネはハンドベルを持ったまま、器用に指弾を放った。
「当たるか!」
平井とて簡単には貰わない。放たれた金色の何かを大剣の腹で弾き、
「(コイン?)」
それが何であるかを視認すると同時、コインが磁石のように剣に貼り付いた。次いで、放たれたコインの軌跡が鎖となって刀身に絡み付いた。
予想外、だが……
「(チャンス!)」
『吸血鬼』を絡め取った鎖は、フリアグネの左手に繋がっている。ならば、剣に存在の力を送り込むだけで……
「あれ?」
“何も起きない”。
思惑が外れた事が、逆に平井の隙となった。
「え───」
『ラハット』の刃が鋭く長い錐へと変じて、平井の胴体を串刺しにする。
「『バブルルート』。武器殺しの宝具だよ」
刺さった錐から無数の牙が生まれ、そのまま引き抜かれる。
「うっ、あ……ああぁああぁーーー!!!」
貫いた傷口をズタズタに剔って、薄白い刃が鮮血を撒き散らした。戦闘用のミステスだろうと、間違いなく致命傷だ。
浮かぶ力すら失って落下する平井は、それでも『吸血鬼』を手放さない。絡めた『バブルルート』を手元に引き寄せ、念を入れて刃を振り上げるフリアグネに向かって、
「“狩人”!!!」
全ての燐子を始末したシャナが、紅蓮に燃える大太刀を差し向けた。平井と戦いながらもシャナへの注意を怠っていなかったフリアグネは、劫火の範囲から危なげなく逃れて……
「『レギュラーシャープ』」
無数のトランプに薄白い炎を宿して、一斉に飛ばした。
速く、多い。躱すのも捌くのも難しい。紅蓮の大太刀を放った直後で、全てを焼き尽くす程の炎を練り上げる余力が無い。
だが、軽い。
シャナは『夜笠』を幾重にも纏って防壁を作り、カードの怒涛を一枚残らず受け止めた。
そう……確かに止める事は出来た。
「(身体が動かない……!?)」
黒衣に包まれた身体が、何らかの自在法で固定されて動かない。『夜笠』を盾にしたシャナは、カードの雨に紛れて指輪が一つ、投擲されていた事に気付いていない。
「『コルデー』。自在法を込めて飛ばせる便利な指輪だ」
その間に、フリアグネは渾身の炎弾を練り上げている。先程の『レギュラーシャープ』とは訳が違う。とても『夜笠』で防げる威力ではない。
「吹き飛べ」
動けないシャナに向かって特大の炎弾が迫り、
「っやあ!」
斜め下からの火球を受けて、軌道を逸らされ、外された。
落下中の平井が、絞り出すように放った炎弾である。
「(……あたし、このまま死ぬのかな)」
真っ逆さまに墜ちながら、朦朧とする意識の中で、平井はぼんやりとそんな事を思う。
「(いや、もう死んじゃったんだっけ。あの時はちょっとは役に立てたのに、今回は散々だなぁ)」
あの時はあの時で、酷かった。何度も何度も止められたのに、懲りずに首を突っ込んだ挙げ句……死んだ。
そして───
「(……ああ、そっか)」
脳裏に蘇るのは、涙。自分がそうさせた、愛しい少年の悲痛な泣き顔。次いで、可愛らしい妹の泣き顔までもが浮かぶ。
どちらも、平井ゆかりの弱さが招いたものだ。
「(変わらなきゃ、いけないんだ)」
せっかくミステスになったのに、足手纏いでは意味が無い。このままずっと、この理不尽な世界で、彼の帰りを待つだけのか弱い女にでもなるのか?
「冗談じゃない」
こんなところで諦めるような弱い女に、彼の隣に立つ資格など無い。
「フンッ!!」
頭から落下していた平井は空中で反転、ギリギリで足から墜落する。アスファルトの路面が轟音を立てて割れた。
「護られるだけのお姫様なんて、ガラじゃない」
瀕死の身体から、火よりも赤くどす黒い血色の炎が立ち上る。
「強くなる。理不尽で、残酷な、この世の理だってねじ伏せられるくらい」
その両脚を、燦然と輝く銀の蛇鱗が覆っていく。
「ッッアアアアアァァーーー!!!」
獣でも出さないような咆哮を受けて、左右の建物の窓ガラスが残らず割れ飛ぶ。
瞬間、平井は翔んだ。
「「っ!?」」
『束縛』を解いたシャナ、対峙するフリアグネ、双方が思わず振り返る。
唐突に膨れ上がった気配が、無茶苦茶な速度で近付いて来たからだ。
「馬鹿な……! 立っても居られない傷の筈だぞ」
驚きながらも、フリアグネは指輪型宝具『コルデー』を数多、複雑な曲線を描いて飛ばした。
動きを止めた瞬間に狙いを付けて、『ラハット』に渾身の力を込める……が、その目論見は外れる。
超速が接近していた平井が、そこから更に加速して全ての指輪を躱したからだ。
「クソッ!」
しかも逃げ回った結果ではなく、稲妻形の軌道を描きながら接近して来ている。
(ビッ!!)
再び、フリアグネの手から『バブルルート』が放たれた。接近を待たずに『吸血鬼』を封じられた平井は、一瞬も躊躇わずに魔剣を放り投げる。
ただし、フリアグネに向けて。
「ぐっ!?」
砲弾じみた速度で飛んで来る大剣をフリアグネは紙一重で避ける……が、大剣に絡めた鎖があっという間に限界まで伸びて、フリアグネの右手を激しく引っ張った。
バランスの崩れたフリアグネを打ち砕くべく、平井は右の拳をギリギリと固めて、
(ドスッ!!)
“胸の中央に刃を突き立てられた”。咄嗟に『バブルルート』を手放して繰り出された、『ラハット』による長大な刺突である。
あれだけのスピードで突っ込んで来ているのだから、そこに鋭い切っ先を向ければ串刺しは必至、という見立ては間違っていないのだが……
「(この手応えは)」
『ラハット』の剣先は、平井の身体を貫けない。皮を裂き、肉を剔り、そして……胸骨で止まっていた。
「っがあ!!」
間髪入れずに、平井の膝蹴りが炎の刃を粉砕する。
異常なのは、スピードだけではない。
「(こいつは、何だ?)」
どこからどう見ても瀕死の筈なのに、一向に力が衰えない。それどころか、万全だった時でさえ考えられなかった力を発揮している。
追い詰められた者が形振り構わず全力を出している、などというレベルの力ではない。
だが、この距離でそんな思索が許される訳もない。
「はっ!!」
振り上げられた前蹴りが───ハンドベルを打ち砕いた。衝突の瞬間に爆炎が弾けて、左腕をも吹き飛ばす。
「(狩人を喰い殺す、獣)」
激痛も恐怖も抑え込んで、フリアグネは生きる道を探す。右手の『ラハット』を消すと同時に握ったのは……『トリガーハッピー』。
「(使えるの……!?)」
直撃すれば硬さも強さも関係なく自爆させる最凶の宝具。このタイミングでそれを出した事にシャナは戦慄する。
銃口が外しようのない距離で平井を捉え、そして……
(ガンッ!!)
引き金が動くよりも速く、平井の右拳がフリアグネの顔の真ん中を打ち抜いた。そのまま縦に一回転して繰り出した踵落としが、手負いの“狩人”を彗星のように叩き落とす。
「(退き時、か……!? 死んでは元も子もない。だが、今ここで退いたらマリアンヌは……)」
身動きが取れないままビルの屋上に墜落し、そのまま全ての階層を貫いてフリアグネは地に墜ちる。
その胸から、
「っ…………!」
軽妙な音が、聞こえた。
「っだあああぁぁーーー!!」
烈迫の気合いと共に、今までで最大の紅蓮がビルを貫通し、一拍の後、巻き起こる大爆発が街そのものに大穴を穿った。
「……勝っ、た……?」
その凄絶な炎を見届けた平井が、今度こそ限界を迎えて崩れ落ちる。別人のように軽くなった身体を、シャナが比較的優しく抱き止めた。
「これで『都喰らい』は止められたし、後は坂井悠二を回収すれば……」
形勢は完全に再逆転した。最も警戒すべき『都喰らい』も阻止した。事実上、勝敗は決したと、シャナでさえ思った。
その時───
『っ!!?』
シャナが、ヴィルヘルミナが、メリヒムが、敵であるサラカエルまでもが、走る怖気に表情を引き攣らせた。
「(これは、何でありますか……)」
それは、気配。
「『都喰らい』は、止めた筈なのに……!」
外れた存在なら……いや、生き物ならば本能的に畏怖を感じずにはいられない程の、絶望的な存在の力。
「……『都喰らい』の比じゃないな。貴様ら、一体何をした?」
ただ、サラカエルだけが笑う。
「ふ、ふふふ……これは、想像以上でしたね」
世界の革正。それを成し遂げられるだけの存在の大きさに、知らず表情が綻ぶ。
「この賭けは、私たちの勝ちですね」
時は既に───零時を回っていた。