「……完成です」
ヘカテーが両手で掲げた一品を見て、おぉ、と隣で見ていた平井が感嘆の声を上げる。
その手にあるのは、不自然なまでの三角形を誇るチョコバナナクレープ。中のバナナまでトライアングルカットである。
「……四度目にして成功かぁ。やっぱりお菓子だと上達早いみたいだね」
幸せそうにクレープに齧り付くヘカテーを見て、平井が感慨深く唸る。料理を始めて一ヶ月、未だに目玉焼き一つ満足に作れないものの、お菓子に関しては意外な上達を見せるヘカテーだった。作った物が漏れなく三角形になるのはご愛嬌。
「悠二に作ってあげられそ?」
「……………」
からかうでもなく、慈母のような笑顔で訊かれ、ヘカテーは顔を背けて頷いた。
ほんのり桜色に染まった横顔に芽生え始める花を重ねて、平井は更に笑みを深める。見ているだけで癒やされる可愛らしさだ。
「(うんうん、この調子なら、その内うまく役割分担出来そう)」
やや目的を履き違えている感もあるが、この練習は別に悠二へのポイント稼ぎではない。一年二組のもう一つの出し物がクレープ屋に決定したのだ。
勿論ヘカテーの担当は劇に集中するわけだが、劇が行われるのは二日ある清秋祭の初日のみ。本人の意向もあって、彼女は二日目の午前にクレープ屋を任される事となった。吉田に張り合って始めた事だが、今では純粋に料理を楽しんでいる節が見受けられる。
「よし、クレープはこれくらいにして晩御飯にしよっか。ヘカテー、そっちのボールとかお願いね」
まだクレープを齧っているヘカテーの肩を叩いて、平井はエプロンを装着する。本日は千草が町内会の付き合いで留守なので、夕食を作るのは彼女の仕事だ。そうでなくとも、最近は平井も千草の料理を欠かさず手伝っている。
「……………」
そして当然、ヘカテーはそんな平井の姿を見ていた。
「(……何故?)」
当たり前の疑問が、当たり前に浮かんでくる。平井がこんな風に坂井家の厨房を預かるようになったのは、八月後半……彼女がミステスとなって暫くしてからだ。
ヘカテーは悠二への想いを自覚し、同じく悠二に想いを寄せる吉田に対抗して料理を始めた。ならば……平井はどうして? そう思っていながら、何故かそれを口に出して訊ねられない。
自分でも不可解な心の動きに困惑していると、平井がヘカテーの視線に気づいた。
「あー……これ?」
ヘカテーは、ただ平井を見つめていただけ。その瞳の色に何を見たのか、平井は照れ笑いのような顔でエプロンを抓んだ。相変わらずの察しの良さが、今だけは妙に居心地が悪い。
「あたし料理はそこそこ出来るつもりだけど、まだ“千草さんの料理”はマスターしてないからさ」
スルスルとジャガイモの皮を剥きながら、訊いてもいない事を語り出す平井。イマイチ真意が掴めない。
「……あたしはもう憶えてないけど、やっぱり“お袋の味”って特別だと思うんだよね」
素早く『達意の言』を繰る。“お袋の味”とはつまり、自分を育ててくれた母親の馴染み深い料理を指すらしい。
確かに、坂井千草の料理はとても美味しい。習得できるなら、それに越した事は無いだろう。中途半端に納得しようと努めるヘカテーに、
「───いつかここを旅立っても、あたしが作ってあげられるようになりたくて」
あまりに優しい声で、平井は告げた。
その横顔が、あまりに楽しそうで、あまりに嬉しそうで……
「……………」
何だか平井が、遠く見えた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ヘカテーと平井が夕食の支度に励んでいる頃、自室のベッドで台本と睨めっこする少年の姿があった。言うまでもなく、坂井家の実子・坂井悠二である。
「意外にセリフが少ないのが、救いと言えば救いか……」
台本の『王子』……相談らしい相談も無く任された大役を思って、苦虫を噛み潰したような顔で唸る。
「(気が重い)」
外見ならば佐藤、要領の良さなら池、他にも悠二より王子に適任な男子はいくらでも居る。この人選は明らかに間違っている……のだが、実際には悠二は唯々諾々と大役を請け負った。
あの場で別の誰かに役を譲ろうとすれば男女問わず全てのクラスメイトを敵に回すのは解っていたし……正直、悠二自身も面白くなかった。
何はともあれ、引き受けたからにはやるしかない。隣に立つのは規格外の美少女だ。只でさえ不釣り合いなのに、そのうえ舞台でオドオドした姿を晒せば どれだけ無様に映る事か。
「(王子様……王子様……)」
イメージ作りの為にそれらしい姿を思い浮かべ……銀髪の傲慢王子が脳裏を過ぎって頭を振る。長身の美形は正直うらやましいが、外見は芝居の参考にならない。
まぁとりあえず威厳のある感じにやってみるか、などと思いながら台詞を読み上げようとした時、
(コンコン)
軽いノックがドアの方から聞こえてきた。台詞の練習を聞かれなかった事に安堵しつつ「開いてるよー」と気軽に答えると、自室のドアが開き───予想外の人物が入って来た。
「……へ?」
帽子と背広をキッチリ着こなした老紳士。こんな平凡な時間に出会うなど想像した事もない“紅世の徒”。
「暫くぶりだな、坂井悠二。元気そうで何よりだ」
悠二の自在法の師にして『グランマティカ』の名付け親、“屍拾い”ラミー……否、“螺旋の風琴”リャナンシーだった。
「ビックリした~。こんなに早く会えると思ってなかったから」
「本当は少し前から御崎市にはいたのだがな。『弔詞の詠み手』を警戒していたら遅くなった」
紅世の徒と言っても、リャナンシーは消えかけのトーチしか喰わない無害な徒だ。
紅世の徒 最高とまで言われる自在法の腕に加えて、性格的な意味での器も大きい この老紳士に、悠二は小さくない敬意を抱いていた。
「因果の交叉路で~なんて言ってたのに、こんな普通に会いに来るんだもんな」
「タイミングは悪くなかっただろう?」
「う……まさか見に来るつもり?」
再会の凡庸さを笑う悠二の手元を指して、リャナンシーもまた笑う。
何をしに来たのか。それを言わないし、訊かない。リャナンシーの途方もない旅の目的を知る者からすれば、わざわざ口に出すまでもなく判り切った事だからだ。
「とにかく、またよろしくお願いします」
「お互いに、な」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
日本の東北、居並ぶ建物の列に不自然に拓けた空き地……かつて外界宿(アウトロー)の支部の一つがあったその場所に、二人の討ち手が立っている。
「人間どころか、資材も建物も残っていませんね」
「ふむ……壊し損ねの一つもあれば助かったのじゃが、喰えぬ“物”まで丁寧に分解されておるか」
一人は“不抜の尖嶺”ベヘモットのフレイムヘイズ『偽装の駆り手』カムシン・ネブハーウ。
「……妙だね。やってる事が矛盾してる感じだ」
「ああ。正体を隠そうとしてる割に、暴れ方が派手過ぎる」
そしてもう一人は“糜砕の裂眥”バラルのフレイムヘイズ……『輝爍の撒き手』、レベッカ・リード。この一連の外界宿襲撃事件に於いて、恐らくは唯一の生き残りだ。
東京外界宿総本部にて『骸躯の換え手』アーネスト・フリーダーと共に敵と交戦したものの、敗走。怪我の功名と言うべきか、フリーダーにトドメを刺した最後の一撃、一発の銃弾の起こした途方も無い爆発が、彼女に瀕死の重傷を与えながらも生き残らせた。皮肉な事に、助かった事が信じられないほどの威力が、逆に敵の詰めを甘くしたのである。
カビと苔だらけの下水道で半日以上も生死の境を彷徨ったのは、まだ記憶に新しい。
「ああ、確かに。情報伝達の妨害と言うよりも、フレイムヘイズの戦力そのものを削りに来ているようにも思えますね」
「……最初から隠し続ける気は無いんだろうね。らしいと言えばらしいのかな」
「ふむ、おまけに実行すれば世界中のフレイムヘイズが黙っていない“何か”、という事にもなるかの」
「……にしてもなぁ」
カムシンが賛同し、バラルが推察し、ベヘモットが溜息を吐き、レベッカが眼を険しく細める。
それぞれが、もはや間違いなく起こるだろう厄災を思って陰鬱になる。外界宿の多くは、『テッセラ』という気配遮断の宝具によって隠されていた。その外界宿が幾つも落とされた今、『テッセラ』も相当数が敵の手に渡ったと見て良い。先んじて計画を阻止したくても、今から見つけ出すのはまず不可能だ。
つまり、後手に回るしかない。いつもの事ながら歯痒い限りである。
「私はこの地での調律を終えたら、また御崎市に向かいます。貴女はどうしますか?」
起こるであろう事態の規模と、後手に回るしかない現状を考え、カムシンは最も警戒すべき地での待ち伏せを選ぶ。即ち、数多の因果を引き寄せ、巻き込み、膨れ上がる闘争の渦……御崎市へ。
あの街には規格外の使い手が数多く揃っているが、それで楽観出来る事態ではない。戦力は多いに越した事はないのだ。
そんなカムシンに対して、レベッカは首を振る。
「俺はもう少し外界宿襲撃の方に探り入れて見る。連中の活動範囲の広さがちょっと気になるからよ」
レベッカは今回の敵の強さを、その身を以て知っている。しかし、それでも、『テッセラ』に隠された外界宿をこの短期間で次々と落としている事実には違和感があった。入念な準備があったにしても、あまりに効率が良すぎる。これまで彼女を生き残らせてきた直感が、このまま目の前の脅威に捕らわれる事に対して警鐘を鳴らしていた。
「ああ、わかりました。そちらの方が万一の時の危険は大きいでしょう。気をつけて」
「因果の交叉路でまた逢おう」
カムシンの方も、特に追求するでもなく背中を向けて去って行く。レベッカの抱いた違和感に、彼もまた気付いていた。気付いて、しかしカムシンはそれもまた御崎市に収束すると判断したのだ。
「……ヤバいのはこっち、か」
判りきった事実を噛み締めて、レベッカは拳を固く握り込む。いざ敵と遭遇した時、御崎市のフレイムヘイズと合流するカムシンと単身のレベッカ、どちらが危険かなど考えるまでもない。……こんな時こそ、慎重で、姑息で、口うるさい者が必要だというのに。
「……フリーダーの馬鹿野郎が」
吐き捨てるレベッカの独り言に、バラルは何も返さなかった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
御崎市の市街地から僅か外れたホテル。その一室で、窓際から街を見下ろす少女の姿がある。
金の髪に金の瞳、凝った意匠の深紅のドレス。これだけなら派手な外国人で済むだろうが、彼女の頭には一対の羊の角が生えていた。
当然、そんな人間がいる筈がない。彼女は人を喰らって世を渡り歩く“隣”の住人……紅世の徒だった。
「(……大丈夫)」
であるにも関わらず、街を見つめる彼女の表情は暗い。そこにあるのは捕食者というよりも、死地に赴く兵隊のような悲壮な覚悟である。
「(なんて、大きな気配なの……)」
少女は弱い徒だった。いま彼女が感じている気配の持ち主達から見れば、それこそ虫けらに等しい力しか無いだろう。それを判っていてもなお……いや、だからこそ彼女は挑む。絶対に覆せない現実を、己の手で覆す為に。
「っ」
目標の大きさに気負っていると、突然テーブルの上の携帯電話が鳴った。その液晶に映る名前を確認して、少女は生唾を飲み込んだ。
「……はい」
【数日ぶりです。守備はどうですか、同志メア】
電話口の向こうから、穏やかな声が語り掛けて来る。矮小な自分に向けられた確かな敬意、得難い信頼を、なればこそ少女は居心地悪く思う。
「私には、貴方に同志と呼んで頂く資格はありません。私は貴方方の思想に共感したわけではなく、ただ己の存在を誇示する為に戦っているのですから」
せめてもと、突き放すような本音で応えて……
【意志ある者が集うのですから、各々の立場が異なっているのは当然でしょう。立場に伴う理由も、また然り。しかし同じ志へと走りだした時、元居た場所は過去となり、理由は走らせる力へと変わっているのです。何より貴女は、どうしようもない現実を自らの手で切り拓こうとしている】
いともあっさりと、受け入れられる。少女は余計に居心地が悪くなって、早々に会話を切り替える。
彼の言葉が、ではない。自分を認めてくれる王の器にさえ嫉妬の念を抱いてしまう、己の小ささを自覚してしまったからだ。
「……標的の行動パターンと統御力は大凡 把握できました。私なら、機を見て接触する事も可能です。それより、貴方から連絡が来たという事は……」
【ええ、同志ダンタリオンの最終調整が終わりました。後は実行に移すだけです】
来るべき時が、来た。潜伏が長引けばそれだけ見つかるリスクが上がる。故にこれは待ちに待った朗報であるはずなのだが、それでも少女は顔を強張らせずにはいられなかった。
「タイミングは、私に任せて頂けますか?」
【ええ、いつでも動けるようにしておきます。御武運を祈っていますよ、同志メア】
駒ではなく、同志だからこその信頼の言葉を最後に、プツッと通話が切れた。
「……ええ、“私が”、必ず」
もう誰とも通じていない携帯に向けて、少女は誓いを口にする。
そう、必ず、成功させてみせる。この戦いを終えた後、誰もがその名を胸に刻む。あり得ない奇跡を起こした歴史的な徒の一人として。
───“戯睡郷”メアの名を。
逃れられぬ運命とそれぞれの想いを引き寄せながら───清秋祭、来たる。