「こんなに早く戻って来られるとは、思いませんでした」
開店直後で自分たち以外に客のいないレストランで、対面の席に座った男に、女が最初に掛けた言葉がそれだった。
袖の無い深紅のドレスを着た金髪の美少女と、硬い髪を逆立て、黒い外套を目深に羽織る男。異色過ぎる二人に店員は好奇の目を向けているが、当人らに気にした様子は無い。
女の問いに答えるでもなくメニューを広げる男に、女はさらに言葉を重ねる。
「今度の仕事は、また手応えが無かったとか? 依頼主から考えると、とてもそうは思えなかったのですが」
「……逆だ。あそこまで無茶苦茶な注文を繰り返されては応える気も失せるというものだ。今後は依頼主も選ばせて貰う」
不機嫌そのもの、といった声で男が応える。それも無理からぬ事だろう。男の姿を見てからずっと、女の声は隠しようもなく弾んでいるのだから。
「でも、貴方が助かったのも“探耽求究”のお蔭なのでしょう? 『非常手段(ゴルディアン・ノット)』……だったでしょうか」
そう、この女には彼の戦地に赴く前に一通りの内容を説明してある。
つまり、男の顛末を殆ど把握した上で何故か喜んでいるのだ。これで気分が良い筈が無い。
「かの発明品は巨大な貴方の全身を転移させるだけの力は無いとか。まさか貴方が、自分の身体を千切り捨てて逃げる日が来るなんて……想像した事もありませんでした」
男……“壊刃”サブラクは、異界からの来訪者“紅世の徒”の中でも飛び抜けた力を持つ『王』だ。しかし今の彼は、本来の百分の一の力も無い。
理由は彼女が言った通り、四肢を捨てて逃げの一手を打たねばならない程の窮地を経たが為。サブラクはその身体の性質上、逃走には向かないのだ。
「(こいつは、俺が敗北する姿が見たくて付いて来ているとでも言うのか)」
だが、別にそれで目の前の女……“戯睡郷”メアの力が増すわけでもない。サブラクには、なぜ彼女が嬉しそうにしているのか理解できなかった。
……いや、今に限った話でもない。
『貴方のように大きく強ければ、誰も彼も、己という渦に巻き込む事が出来るのでしょうね』
初めて会った時からずっと、不可解な事ばかり言う女だった。極端な話、今こうして一緒にいる事さえ……
そこまで思って、ふとサブラクは顔を上げる。
「けれど、貴方に傷を負わせるとなると、よほど強大なフレイムヘイズだったのでしょうね」
その理由は決して愉快なものではない。と言うより、そもそも未だ理由が良くわからないままだが……ここまで機嫌の良い彼女を見るのは初めてだった。
解らない、という事に対する無自覚な苛立ちを、やはり無意識に流して、サブラクはメアに言葉を返す。
「勝手な解釈で評価を下げられる憶えは無い。そもそも、あのイカレた絡繰り使いが余計な真似をした事が敗因なのだからな。初手から標的を狩る、殺し屋 本来の仕事であれば、この俺があんなミステス如きに遅れなど取るか」
そして、いつものように取り留めの無い文句を零す。
「宝具を奪うという当初の依頼には目を瞑るとしても、仕掛けた自在式を敵に利用されるなど失態という言葉では片付けられまい。あれがなければ我が『スティグマ』が破られるという事も無かった。いや、それを言うならあの自在式そのものが問題か。あの男はふざけた試みに己のみならず この俺までも巻き添えにしようとしたのだからな」
自身の失態によって変じていた会話の姿が、いつものものへと戻っていく。
いつものメアは何処か遠慮がちに、或いは怯えたように接する事が多い。サブラクの長口上に対して、メアが聴き役に回るのが日常的なのだ。
……だからこそ、サブラクは気付けなかった。
「…ミス、テス……?」
いつになく饒舌だったメアが黙り込み―――目の色を変えていた事に。
御崎市から新幹線で一時間、バスで40分、そして徒歩で二時間という場所に位置する森の奥で……
「はあっ!!」
「ぐあっ!?」
坂井悠二、ヘカテー、シャナ、メリヒム、そして平井ゆかりという面々が、山籠りという名の修行に明け暮れていた。
「メリーさん、まだシャドウしてなきゃダメですかぁ~」
「黙って続けろ」
この合宿が決行された理由は二つある。
一つは言うまでもなく、鍛練の為。特にミステスになったばかりの平井と、二つの生命線を失った悠二には不可欠だ。いくら封絶があると言っても、やはり無関係な人間を取り込んでしまう街中は好ましくない。
そしてもう一つは、平井ゆかりの住居を確保する為の時間潰しである。
平井は悠二と違い、代替物としてのトーチではなく、戦闘用のミステスとして生まれ変わった。必然的に この世との繋がりは断たれ、彼女が生きた痕跡は消滅した。
つまり平井が暮らしていたマンションは空き部屋となり、私物の一切が消え、口座の財産も失くなったという事だ。
それは現在、教授が“封絶を張れなくした上で起こした騒ぎ”の爪痕を修繕、鎮圧するため御崎市に残ったヴィルヘルミナが、片手間に用意してくれる手筈となっている。
この場所にしても、ヴィルヘルミナが外界宿(アウトロー)に掛け合って借用したものだ。数年前に『天道宮』から出てきたばかりだと言うのに、その有能さには頭が下がる。
「……ゆかり、少し拳に力を回し過ぎです」
悠二と平井が参加する以上、当然ヘカテーも参加を決めた。そして、悠二とヘカテーを監視する為に御崎高校に入学したシャナも同じく。
最初はバイトが忙しいと嫌がっていたメリヒムも、シャナと悠二が保護者もなく同じ場所で外泊すると知るや否や、一も二もなく参加を決めた。
「むっ、こんな感……じ!?」
そんなこんなで訓練の日々が始まり、本日は合宿二日目の昼。暑い夏の日差しに輪を懸けて暑苦しい封絶の中でトレーニング真っ最中である。
とはいえ、別段やる事に変化は無い。今まで朝と夜に少しずつやっていたメニューを、より集中的に詰め込むというだけの事だ。
「うりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃーーー!!!」
雄叫びを上げる平井の拳が、残像を残すほどのスピードで空を切り刻む。ここまでなら単なるシャドーボクシングなのだが、普通のシャドーとは決定的に違うものがある。
彼女の背中に貼りついているヘカテーだ。
「自然破壊!!」
平井の右ストレートが、罪もない巨木を粉々に打ち砕く。明らかに人間の枠を超えた力だが、これは実質 平井の実力ではない。ヘカテーの特殊能力である。
「とうっ! 空中十回転半ひねり!!」
呼吸同然に存在の力を繰るヘカテーの感覚を共有し、反復し、擦り込む事で、力を操るコツを掴む。以前は悠二もやっていたメニューだ。
超常の力を思う存分満喫する平井……を、遠目に見ていた悠二を、シャナの竹刀が容赦なく吹っ飛ばす。
「んぶぁ!?」
「鍛練の最中に余所見しない!」
頭から地面に叩きつけられそうになった悠二は、ギリギリで片手を着いて空高く跳び上がる。
その眼前に、炎髪を靡かせ、灼眼を燃やす紅蓮の少女が、炎翼を噴かせて踊り出ていた。
「ちょ、ちょっと待った! まだ『莫夜凱』出してないから……」
「そんなの敵は待たない」
こちらも、いつも朝にしているのと同じ格闘訓練。但し、人目のつかない環境ならば、いつものように手加減する必要が無い。
普段なら千草やクラスメイトの目があるので悠二に目立つ傷を残せないが、異能者しかいないこの場なら話は別。どうせ零時には全快するのだ。思いきり取り組む事が出来る。
「ふんっ!!」
縦一文字に悠二の竹刀が風を切る。シャナはこれを下に避け、そのまま悠二の足下を抜けて背後に回った。
間髪入れずに繰り出される一撃を悠二も竹刀で受けるが、返す二撃目を凌げずに脳天に貰ってしまう。
「く……っあ……」
クラリと視界が揺れる。その隙を見逃す事なく、シャナの刺突が身体の中心を打った。
叫ぶ事も出来ずに眼下の地面に叩きつけられた悠二を、足裏を向けたシャナが追って来る。
「うわっ……!」
慌てて跳び退いた場所が、ミサイルじみた両足蹴りで派手に割れた。それを見るでもなく体勢を立て直そうとする悠二……
「っ」
の首筋に、竹刀の切っ先が当てられた。これが実戦なら、あっさりと首を落とされている所である。
「……どういうつもり?」
呆れたと言うより苛立った声で、シャナが悠二を睨む。
この格闘訓練の主役は悠二だ。シャナにとっては格下相手の仕合いなのだから、それほど実りあるモノにはならない。
「お前、私が本気だったらこの二日で五十回は死んでるわよ」
「……ごめん」
ヴィルヘルミナ、シャナ、マージョリー、そして“壊刃”サブラク。素人同然の悠二が世に名立たる強者達と、曲がりなりにも戦って来れたのは、二つの宝具の力に因るものが大きい。
火除けの指輪『アズュール』と、魔剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』。
しかし今や、『吸血鬼』はミステスとなった平井ゆかりの核であり、『アズュール』もまた彼女に渡してある。
幾度もの戦いを経て実力を身に付けた悠二だが、同時に、今まで彼を支えて来た宝具を手放す事になった。ならば当然、より以上の実力で以て抜けた穴を補うしかない。
……のだが、結果はこの通り。
剣技でシャナに勝てないのは今に始まった事ではないし、それを理由に悠二を責めるほどシャナも理不尽ではない。
問題は、その内容。反応は鈍く、動きに精彩を欠き、攻撃には気迫が足りない。
要するに、全く集中出来ていない。はっきり言って、初めて会った時の方がまだマシという有様だ。
「ごめん……」
下を向いたまま、悠二は重ねて謝る。シャナが怒る理由は、悠二にも十分わかっている。
しかし、その、謝っていながら、気持ちは別の所に向いているとハッキリ判る態度が、シャナには非常に面白くない。
「(今は私が、目の前にいるのに……)」
剣を突き付けているのに、眼中に無いと言われている。戦士として……そう、あくまでも戦士として軽んじられている事実が気に入らない。
だが、いくら他者の心情を察する事が不得手なシャナでも、流石に今回は原因が判っている。
もっとも、原因以外は判っていない。そのもどかしさと歯痒さから、
「平井ゆかりの事?」
シャナは、一人の少女の名前を口に出していた。
悩んだところで取り返しはつかない。そんな事は解っている。だが、だからと言って、自分がした事から目を背けるなど出来る筈も無い。
あの日からずっと、坂井悠二はそんな自縄自縛に捕らわれ続けていた。
「平井ゆかりの事?」
周りにも気付かれている。その自覚はあったから、驚きは無かった。いずれ必ず訪れていた必然とでも言うべきものだ。
「(まさか、シャナに訊かれるとは思わなかったけど)」
この奇妙な状況を作り出した自分に苦笑して、悠二は近くの木の根本に腰を下ろした。
シャナは動かない。竹刀の石突きに両手を添えて立てて、真っ直ぐに姿勢を正した仁王立ち。見ようによっては詰問のようにも見える。
「シャナは……物心つく前から、フレイムヘイズになるって決められてたんだろ。それって、どんな気分だった?」
今までのシャナとの関係を思えば、些か踏み込み過ぎた質問かも知れない。
しかし悠二は、敢えて自分の罪に触れて来た少女に遠慮なく訊ねる事にした。案の定、すぐに答えが返って来る。
「別に、どうとも思わなかった。アラストール達が私に何を求めてるのかは知ってたし、それが当たり前の事だったから」
悠二の予想の域を出ない答えが。
「(やっぱり、シャナじゃ参考にならないか)」
赤ん坊の頃から“外れる”事を定められていたシャナと、悠二に巻き込まれて“外れた”平井では違い過ぎる。
悠二はそんな風に、シャナを“見縊っていた”。
「でも、それが理由でフレイムヘイズになったわけじゃない」
「え……?」
悠二が呆気に取られた顔を上げる。それを見て、シャナは得意気に頬笑んで見せた。
「私はお前が思ってるほど律儀じゃない。どれだけ望まれても、どれだけ愛されても……それが嫌なら絶対にしない」
いつかの宣誓は今も変わらず、この胸の内に在る。己が選択と生き方に誇りを持っているからこそ、シャナは悠二の見当外れな感傷を笑い飛ばせるのだ。
シャナの首から下がる『コキュートス』から、アラストールが続く。
「討ち手の使命も、我らの愛情も、何者も この者を縛れぬ。全てを決めるのは、ここにいる彼女なのだ」
己が娘を誇る宣言に、悠二の中にあったシャナへの偏見が溶け消えていく。
『他の事を何も知らないままフレイムヘイズにさせられた少女』という侮辱に等しい決め付けが、消え……
「……凄いな、シャナは」
強い憧れ、僅かな嫉妬すらも孕んだ羨望が湧き上がった。
フレイムヘイズの使命に共感したわけではない。ただ、自分で決めた生き方に誇りと信念を持って立っている……その心の在り方が眩しかった。
ミステスである自分に嘆き、戻る事も出来ない日常にしがみつき、未だ己の進む先すら見えない悠二とは雲泥の差だ。
その少女から、
「多分、平井ゆかりも同じよ」
「……何だって?」
思いも因らない発言が飛び出した。ちゃんと聞こえていたのに、思わず訊き返してしまう。
「シャナと平井さんは違うよ。だって、平井さんは僕が……」
自分の意志でフレイムヘイズになったシャナと、同じである筈が無い。
平井は悠二と関わったばかりに外れた世界に足を踏み入れ、悠二と関わったばかりに徒の凶刃に倒れ、そして……悠二の手によって人間を失ったのだ。
もう何百回と反芻して来た自分の罪を、今また噛み締める悠二の言葉を一顧だにせず、シャナは言う。
「平井ゆかりをミステスにしたのは お前でも、そうなると判った上で踏み込んだのはアイツよ」
クルリと翻した竹刀で、シャナはトントンと自分の肩を叩く。
「紅世に関わる以上……破壊に巻き込まれて死ぬ、存在を喰われて消える、そういう事態も覚悟してた筈。お前に文句の一つも言わないのが良い証拠でしょ」
不意に、一つの光景が脳裏に蘇る。
『……あたし、後悔してないよ。あなたと会えて、この道を選んで……』
炎と、笑顔と、涙と―――血に彩られた光景が。
『覚悟していた』、『後悔は無い』、『自分で選んだ』。それらは全て、既に平井から貰った言葉だった。
だが―――その言葉が彼女の優しさではないと、誰が言い切れるだろうか?
いや、仮に平井が全てを覚悟していたとしても、それで悠二の罪が消える事など有り得ない。
「……途方に暮れること自体に、意味は無い」
何かを払うように竹刀を振って、シャナは悠二に背を向ける。
「思い煩い、悩み苦しむ事も、同じ」
背を向けて、それでも静かに言葉を紡ぐ。
「“何があっても、立ち向かう”。そう心に決めていれば、きっと全てが拓ける」
不完全で、明確な形の無い……しかし何処か強く重い言葉を残して、シャナはその場から去って行った。
「何があっても、か……」
一人残された悠二は、自分の右手を広げて、握った。何を掴みたいのかも解らない掌が、実像以上に小さく見える。
「(……僕には何の覚悟も無かった。『零時迷子』が転移して来て、襲われるから戦ってた……ただ、それだけだ)」
何に向かって立ち向かうのか、シャナはそれを言わなかった。進む道は自分で決めろと、そういう事だ。
人から外れ、ミステスとなった自分が何を目指せば良いのか、それはまだ解らない。
「(いつまでも逃げてちゃいけないんだ。目の前の現実を、受け入れるんだ)」
それでも今、自分の罪と正面から向き合う勇気だけは、持つ事が出来た気がする。
「……………」
誰もいない深夜の屋上で、“壊刃”サブラクは空を見上げる。
その傍らに、金髪の少女の姿は無い。サブラクの話を一通り聞いた後、行き先も告げずに行ってしまった。
「一体なにを考えている。まさかとは思うが、この俺が遅れを取った相手に戦いを挑もうなどと愚劣な野望を抱いているのではあるまいな」
届かぬ声を、独り言として夜の闇に零す。
失った力を少しずつでも取り戻さなければならないのに、何故かサブラクは何をするでもなく立ち尽くしていた。
「……ふん、いずれにしろ、俺には関わりの無い事か。元より、なぜ俺に付き纏っていたのかも解らん女だ」
サブラクの力に恐れ、羨み、憧れ、なのに変わらず傍らに在った。力が欲しいと願いながら、力を与えてくれるわけでもないサブラクに付いて回る女。
無理だ、やめろと何度言っても、それに反発するように意欲を燃やしていた女。
全くもって理解に苦しむ。
「…………ふん」
大きな肩を小さく落として、サブラクは屋上の縁に座り込む。
―――その、背後から声が掛かった。
「やれやれ、ようやっと見つけたわ」
聞き覚えのある……いや、一度聞いたら忘れられない類の声に、サブラクは振り返る。
「お前ほどの王が、何とも酷い有様じゃないか。よほど教授は人使いが荒いという事かねぇ」
金の三眼、その右眼を眼帯で隠した女怪。紅世に携わる者なら誰もが恐れる鬼謀の王。
「“逆理の裁者”、ベルペオル」
少しずつ、だが確実に―――歯車は動き始めていた。