進星歴一九六年、六月四日、十七時三十二分―――マーダーに、人類最後の居住区イクリプスへの侵入を許してしまった瞬間であった。
軍の主要部隊はロッド3外壁部の迎撃ラインにて戦闘中。頼れるのは僅かに残った外壁防衛隊と、ロッド3内部にいる部隊だけだ。この状況を作り出してしまったのは軍の怠慢だ、と指摘する者がいるだろうがそれは的外れである。
そもそも軍の防衛システムは迎撃に重点を置いており、電磁結界にマーダーが接触した時点で迎撃部隊が駆け付けてくるように計算された位置に配置されているものなのだ。
ならば何故、こうして簡単にマーダーに電磁結界内部への侵入を許してしまったのか。答えは簡単だが、にわかに信じ難いものである。
彼らは空間を捻じ曲げて、電磁結界内部へとワープアウトしてきた。
内部を螺旋状に歪ませた巨大なマーダーが、ロッド3の眼前に出現していた。空間移動でき、そのうえこれほどまでに大きな個体は確認されていない。大きさで言えば、一般的な戦艦が七隻分ほどだ。
灰色の薔薇の花のようにも見えるその巨躯の、中心部の歪んだ空間から、ハヴタイプと呼ばれる巨大な戦艦型のマーダーが現れる。
そこから無数のマーダーが射出され―――その中には今までに確認されていない個体もあった―――防衛隊に襲い掛かってくる。
降り注がれる無数のマーダーを前に、防衛部隊のASは成す術もなく消滅していく。全滅まで一分もかからなかった。微細な粒子の残響のみが、宇宙に残っている。
その頃には、ロッド3の外壁部は破壊され、マーダーに内部への侵入を許してしまっていた。近隣スフィアへの連絡橋もへし折られ、ロッド3の人々は逃げ場を失った。
【戦況報告】
奇襲攻撃によりロッド3への侵入を許した。外壁防衛隊は全滅、内部のAS隊の戦況は不利。
迎撃部隊は帰還後、戦闘中のAS隊とともに内部に侵入したマーダーの掃討にあたれ。
「どうしてまた……奴らは……」
エーフィアの全身が震えていた。いつもは凛々しいその立ち姿が揺らぎ、地面に崩れ落ちる。彼女の覗き込んだ窓の外には、いつもの高層ビル群と青い空と、学園内の周囲にある緑の芝生とグラウンドと、人間と……マーダーの巨影。
人型のそれはティターンタイプと言うものだろう。その巨躯の足元に蠢いている蜘蛛のような形状のものは、ウォーカータイプと呼ばれている個体か。ティターンタイプの背中にある膨らみから出てきたもので、数えただけでも七匹はいる。
ちょうど校門の近くの車道におり、通行人をアリスラントの光で消し去っていた。ティターンタイプは一通り、ウォーカータイプを撒き終えると、翼を広げて人工の空へと飛翔していく。
「そんな……どうしていきなり……」
ロッド3の周囲には電磁結界が存在し、それによりマーダーの侵入を防いでいるのだ。万が一、破られるようなことがあっても、接近を知らせる警報を鳴らして避難誘導する時間はあったはず。
それがないということは、警報システムに何か不具合があったか、それとも電磁結界の内側に潜り込んで奇襲をかけてきたか。
早く逃げないと、そう思い、足元で崩れているエーフィアに声をかけようとしたアリサだが、寸前で言葉も手も止まってしまう。今までに見たことのないぐらいに、恐怖に染まった人間の顔を見てしまったからだ。
瞳の焦点が定まっておらず、口元が震え……何かに取り憑かれたように、エーフィアはかすれた声で、
「コンドハニガサナイ……ハァ……コンド……くるな、くるな、くるなぁああぁああッ!」
「エーフィア!」
自分でもこんな状況で冷静にいられるとは思っていないが、それでも錯乱している人間を鎮めるための行動をする余裕ぐらいはあった。両肩を掴んで、大きく揺さぶりながら叫ぶ。
「あの時と同じよ……また、またみんな……」
「しっかりしてください! 早く逃げないと!」
「死んじゃう!」
ブレザーの胸元を掴んで抱きついてきたエーフィアの体は、やはり震えていた。
こんな時、自分という存在は頼りになるものなのだろうか。そういった疑問が脳裏を駆け抜ける。生徒会室の外では生徒たちの悲鳴や足音が交差する混沌としたものが渦巻いており、自分の胸の中には恋焦がれていた人が恐怖に震えていた。
どうすればいい、どうすれば今を乗り切り、生き残れるのか。
最適解を考えろ。
嫌なほどにアリサの思考は冷静だった。いくらASパイロット養成学科の生徒でも、これほどまでに想定外の出来事の中で、頭脳がオーバーヒートしないほうがおかしい。マーダーを生で見たこともなく、人の死を見たことのある者も半分以下だ。
現に、廊下を駆け抜ける叫び声の中には、泣き声や罵声が飛び交っているではないか。生き残ろうと必死になる者から、恐怖に駆られて暴力を平気で行える者、諦めて泣き崩れる者。
そんな生徒たちと比べて、助かろうと冷静な思考を保っていられることに、アリサ自身が一番驚いていた。
(そうだ、私はいつも妄想していた……エーフィアに愛されている状況を妄想、自分がエースパイロットになって戦場を駆け抜ける妄想―――マーダーと呼ばれる殺戮者から、大切な人を守るために戦う妄想)
学校にテロリストが侵入してきた時のこと。生徒の一部がASで暴れ始めた時のこと。マーダーが突如現れた時のこと。いわば妄想と言う名の、脳内シュミュレーションを普段から繰り返してきたのだ。
だからこうして、冷静でいられる、と考えることにした。別に理由があるのかもしれないが、そんなくだらない自己分析を繰り広げている場合ではない。
生き残る。
アリサは三秒もたたないうちに脳内から今の状況に対する最適解を導き出した。それは、
「大丈夫です」
アリサは胸元で震える少女の体を抱きしめて、静かにそう言った。無責任な言葉という認識は存在しない。あるのは自らの心の中に浮かぶ、〝根拠のない確かな自信〟だけだった。
「私が、エーフィアを守ります。だから安心してください」
「アリサ……」
「みんな死ぬかもしれません。だけど、エーフィアだけは絶対にその〝みんな〟の中には入れさせないです」
どんなことがあっても守ろうと思える人なのだ。だからこそ、こうして冷静な思考の全てを彼女のために使っている。アリサのその言葉に、エーフィアの恐怖に固まった表情はほぐれ、辛うじて作ることができた微笑が代わりに現れてきた。
「ありがとう……強いね、君は……」
「あなたのためですから……ここにいる理由も、この学校にいる理由も、あなたです。今さら逃げ出しません」
「嬉しいな……本当に嬉しい。こんな私でも見捨てずにいてくれて……」
言葉だけなら誰でも言える状況ではなくなった。それでも何度でも言う自信があったから、アリサは……。
「お願い……ずっと、傍にいて。たとえ死ぬことになっても、独りにしないで」
「ええ、一人にはしませんよ、絶対に……ところで―――」
人間というものは冷静になればなるほど、嫌なところに気が付くものだ。いや、エーフィアのものならば一概に嫌なものとは言えないが、それでも膝付近にある違和感を放置しておくことはできない。
生暖かい感触、湿っている。
直接的な表現だけは避けようと、
「その……替えのパンツならありますから、安心してください」
「ひゃっ……あ、すすすす、すまない! で、どうして、持っているの?」
「乙女の秘密です!」
持っていた理由(使用目的ともいう)など、人様に言えたものではない。
ロッド3の外壁が突破されて三分が経過した。ようやく迎撃部隊のシエラたちが周辺宙域へと帰還した。遠方にて薔薇のような形のマーダー(おそらく、これを通じてマーダーたちはワープアウトしてきている)が佇んでいるが、今のところさらなる軍勢の投入は確認されていない。
他の迎撃部隊は既に破壊された外壁から内部に入り、他のAS隊と合流しているようだ。残った、シエラ・ミサキ・ナリア三名は本部からの指示に耳を傾ける。
『精鋭部隊の帰還を確認しました。既に敵のほとんどが内部に侵入した模様、三名も早く他のAS隊と合流して掃討をお願いします!』
「了解。みんな、想定外の事態だけど、よろしく頼むわ」
『ファルコン2、了解しました』
『ファルコン3、この作戦が終わったら隊長と結婚するんだ……』
「はいはい、死にそうなセリフ吐かないの!」
『これが意外と現実じゃアテにならないものなんですーっ!』
「そうかい……」
何だかんだでクスッとは笑ってしまったシエラは、自身の駆るディアクト・ザムドを外壁に空いた大穴に向かわせる。戦艦一つぶんが通れるぐらいに大きな穴の奥は真っ暗で、その中がどうなっているのかさえ分からない。
内部への侵入を許してしまったとしても、内部の環境は重力・酸素濃度ともに正常値を維持している。こうやって大穴が空いたとしても、周囲から展開される液状の黒い皮膜が外壁の代わりとなって、酸素の流入を抑えるのだ。いわばセーフティー機能といったところだろう。この機能がなければ、たちまち内部の人間は真空へと放り出されてしまう。
何度も皮膜が破られているようで、蜘蛛の巣のようにランダムな模様がうっすらと浮かんだ皮膜を通りながら、三機はついに重力のある大地にたどり着く。どうやら高層ビルが建ち並ぶ都市部に侵入してきたらしく、半ばから折れたビルや、その残骸がそこかしこにあった。
ひしゃげた車や、逃げようとしてアリスラントの光に溶かされた人間の残骸。ところどころに、ウォーカータイプの蠢く影があった。
「酷いわね……どうしたら、こんな……」
全長三百メートルもあるロッド3の象徴的な電子の巨塔に、虫の蛹(さなぎ)のようにまとわりつく巨影。それを見てシエラは思わず口元を抑えて、絶句した。
ハヴタイプと呼ばれるそれは、マーダーにおける戦艦のような存在であり、内部には無数のマーダーが格納されている。ハヴタイプを中心にマーダー群が現れていることは、おそらく格納していたマーダーを全て解き放った後なのだろう。
もちろん、この個体の撃破記録は存在しない。到達するまえに他のマーダーに撃墜されるし、射程距離に入ったところでマシンガンでは傷一つ付けられないだろう。
すでにロッド3内はマーダーで満ち溢れている。しかしいつまでも悲観的な感情に飲み込まれているわけにはいかない。本部を通じて、付近のAS部隊と連絡を取り、臨時の掃討部隊を結成する。
『こちらクロウザー2、行動可能なASは四機ですわ』
『こちらエクシリム6、こちらは二機だけよ……』
『こちらミネルバ3、こっちは七機……』
「了解、残った戦力でこの都市区画東の防衛にあたる」
ハヴタイプに侵入を許してしまった時点で、ロッド3の放棄は確実になったと言えよう。港の戦艦に民間人を避難させた後、ロッド3を人為的に崩壊させて、内部にいるマーダーごと消し去るという発想には容易にたどり着ける。
『ロッド3は放棄される……こんなにも綺麗な街なのに!』
ナリアは周囲に広がる破壊の爪痕を見て、やるせない気持ちを喉の奥から振り絞る。
「そうね。でも、民間人の避難が完了しない限り、放棄もできないのよ。私たちの任務は、民間人の避難が完了するまで、この防衛線を死守すること。重力下での実戦はみんな初めてだけど頑張って」
都市区画の後方には学園区画、自然区画を挟んで、軍の港がある。そこに停泊している宇宙船ならば、このスフィアの住人全てを収容できるはずだ。逆に言えば、ここを抜けられてしまえばロッド3の住民はノアの方舟を失ってしまう。
『了解! みんな、こういっちゃ何だけど、生きて帰ろうね!』
『クロウザー2、了解。この後ろには港があるのですわ。それじゃあ無駄に死んではいられないですの!』
『エクシリム6、了解。三時の方向から敵の砲撃を確認……ティターンタイプよ!』
レーダーに映るは一つの巨影。たった一つなのに、まるで死が迫ってくるような恐怖を抱いてしまう。人類が未だかつて撃破したことのない個体、ティターンタイプ。しかし今のシエラ、このディアクト・ザムドならば理論的には撃破することも可能な相手だ。
『八時上空からフライヤータイプ多数!』
「散開! 三十八区画の敵は、私たちの部隊でなんとかする! ナリサ、ミサキ! 行くわよ!」
ディアクト・ザムドを先頭に三機のASが荒廃した都市区画を駆け抜ける。窓ガラスの割れた高層ビル、リニア駅前には無数の人間の残骸があり、それを貪るウォーカータイプがいた。奴らのような下級種となれば、アリスラントの光の連射は不可能なため、こうして惨たらしい方法で人々を処理していくのだ。
やるせない怒りを噛みしめながら、ナリアは自らのディアクトに装備されたマシンガンを手に取って、ウォーカータイプに無数の弾丸を浴びせる。ローターリー付近にいたウォーカータイプは、弾雨の中で踊り狂いながらやがて微細な粒子となって消えていった。
マーダーは行動不能に陥ると、このようになって消えていく。逆に言えば、まだ生きている状態ならば、切り落とした部位はそのまま残っている。
『感情のないムシケラどもが……クソっ!』
「落ち着いて、ナリア」
『すみません。こうやって感情を口に出さないと、やっていられないので』
『ナリア、これは怒ってもいいことだよ』
『ありがとう、ミサキ』
次の瞬間、三人の機体の回線に他部隊の声が入ってきた。単なる戦況報告のはずなのに、それは恐怖に塗れていた。
『ティターンタイプが出現! 誰か応―――溶けていく、機体が……体がぁっ!?』
三機の目の前にある中規模ビルの影から、一機のディアクトの残骸が吹っ飛んできた。上半身をアリスラントの光で溶かされて、結晶化した切断面をシエラに見せつけるかたちで、リニア駅の建物に突っ込んでいく。
そのASがいたであろう中規模ビルの影から今度は、ASよりも一回り大きい人型の巨躯が姿を現す。また上空からは、戦闘機のような形をした個体―――フライヤータイプまでもが出現。
『これは良い囮になっているんじゃないの、私たち……』
「戦闘開始!」
今度こそ仲間を死なせない。そう決意を固めて、シエラはトリガーに力を込める。下半身のみとなったASが爆散。皮肉にもそれが、戦闘開始の合図と重なった。