転移の術式が起動し体の五感が消失、アルトリーゼは一瞬の間だけ身体が世界に溶けた感触を味わった。
この間術者本人は何も感じず、瞬きの時間だけ記憶のブランクを覚えているだけだ。噂では転移に失敗すると世界のどこかにすっ飛ばされる話を聞いた事があるアルトだが根も葉もない噂だと思ってる。さらに言えば、マジックユーザーとして高い技能を持てば失敗は万に一つどころか億に一つも無いと自負していた。
その自負は裏切られる事なく、起動した術式は今回も無事に術者を設定した座標へと跳ばした。
戦場になったジアトーの市街地から小綺麗な屋敷のような空間へ、まるで機械式テレビのチャンネルを変えるように、ガチャリとアルトの五感はシフトする。
アルトの鼻を突いていた硝煙、火事、死臭といった臭いはここには無く、代わりに品の良いお香の香りで満たされていた。
彼女は急に自分の臭いが気になり、思わず袖に鼻を近付けてスンスンと嗅いでみたりしたが、自分の臭いは分かりにくいのか納得いかない様子で眉を寄せた。
「ま、いっか。別にこれから恋人と会うわけじゃなし、向こうも臭いを気にする繊細な神経持っていないし」
戦いの後で気分が昂ぶっているせいか独り言のテンションも高い。この世界に来て以来アルトは戦いに楽しみを見出していて、どんな結果で終わったにせよ反省はしても後悔はしていないのだ。これもまた楽しみのひとつ、と一言で片付けて。
「でも今回は痛いなぁ。エコーがやられちゃったし、代わりの使い魔を用意するのも手間がかかるし、収支的には赤字だよね」
水鈴から受けた痛手に若干頭を痛め、半ばクセで軽く髪をいじりだした。手近にあった窓から外に視線を飛ばすと、撤退命令を受けて戦場から逃げてきた彼女の使役獣が窓の桟《さん》に止まっている。ちゃんと指示通りにここまで辿りつけたようだ。
野鳥のアリスイを模した使役獣が二羽並んで、窓越しに見える主人に対して直立不動の姿勢で命令を待つ姿勢を取っている。二羽……三羽ではない。これを見てアルトは初めて使役獣を失った実感が持てた。
ゲーム時代もそうだが、現在の殺伐とした世界にあって一緒に生き抜いてきたペットの消失に急速に気分が落ち込み、その後急速に怒りが噴き上がってきた。
「本来だったらこういう怒りってやった相手に向けるべきなのだろうけど、水を差した相手に向けるのもアリ、よねぇ?」
苛立ちの矛先はあの時戦闘中止の命令を出してきた男に向けられる。元々アルトは人に命令されるなど嫌いな性分だった。それでも彼の命令を聞いていたのは、その方が事態が面白くなるからだ。ただし、今回は一発ぐらい殴っても良いような気がしていた。
使役獣にはその場に休息しつつ待機と命じ、アルトは目的の人物が居る場所に向けて足を進めた。その足取りは怒りがこもっているせいで荒くなっている。
アルトリーゼの歩く場所は屋敷のような空間の廊下、通路である。転移した小部屋を出て目的地目がけてズンズン進んでいる。通路といっても床にはカーペットが敷かれて、壁には小さいながらも見栄えの良い絵画、壁紙まで全体の色彩を計算しており高級感が漂っている。丸窓《スカッツル》が無ければどこかの豪邸と間違えてしまいそうな調度の数々だ。
やがて通路の奥、両開きの重厚なドアを蹴破る勢いで乱暴に開いたアルトは、入るなり部屋の主に向って悪態をついた。
「おいヘボ軍師、あたしは納得していないからね。可愛いペットをやられたんだから、本来なら中断させたアンタをこの飛行船ごと丸焼きにするところよ」
「まあまあ落ち着いて。紅茶、飲みます? お茶請けに美味しいスコーンとフィナンシェがありますけど」
「オーケー、それがこの世に遺す最期の言葉ね。とりあえずバカの言葉として覚えて置いてあげるわ」
「待って待って、お客さんもいるんですから、落ち着いて下さいよ本当に」
扉の先には広いラウンジがあった。そこは一種の展望室で、壁の一面がガラス張りになって外の様子を楽しめるようになっていた。部屋の外は雲を下に見る高空の風景、ここは高度一万mを航行中の飛行船の中だった。
誰が見ても高級だと分かる内装のラウンジにはリーともう一人の人物がいて、それぞれ離れた場所でティータイムを楽しんでいるように見えた。テーブルには本場英国風のティーセットがあり、スコーンと紅茶の香りが混じって芳醇な匂いを出している。
そんな空間にアルトは乱暴に踏み込んで、戦闘中断命令を出してきたリーに詰め寄った。襟首を捕まえ、今にも攻撃呪紋を使おうとしているアルトに対して相変わらず飄々としたリー。こんなに騒がしいのにもう一人の人物は一言も無い。
アルトは客と言われた人物に目を向けて、怒りから一転して呆れたような表情に変わる。一時的にでも怒りを忘れてしまったらしい。
「……何がお客さんよ、ただの抜け殻じゃないアレ」
「一応は帝国軍の少将ですよ。今回の一件での協力者ですし、立派にお客さんじゃないですか」
二人から少し離れた場所、展望室のガラス窓のすぐ傍に椅子と小さなテーブルを寄せているのはアードラーライヒ帝国陸軍の少将だ。
今回の帝国軍の侵攻を指揮し、ジアトーを占領した後は街の支配者となっていた人物だったが、それもついさっきまでの話。現在は敗戦の将一歩手前といった危うい立場まで落ちぶれていた。
アルトリーゼが言うように彼の姿は抜け殻と表現するしかない。侵攻時にはあれほどあった活力が失せており、背中を丸めて椅子に椅子に座り眼下のジアトーを手にした双眼鏡で見下ろして「……ああ」とか「……おお」といったうめき声しか漏らさない。活力があった姿からは何歳も老けたように見える印象も相まって、痴呆老人のようにも見える。
敗戦濃厚になった段階で市庁舎からリーがここまで脱出させたらしいが、こうなってしまっては戦場で散らせてあげた方が幸せだったかも知れない。アルトリーゼはそんな風に思い、少将の今の姿を哀れんだ。
「偉そうだったオジサンもああなると可哀想。ま、明日辺りには忘れそうだけど」
「良いじゃないですか、今日だけでも人に想われるのは。コーヒーと紅茶がありますけど、どっちにします?」
「紅茶。あたしが泥水苦手なの知っているくせに」
「ははっ、少し待って下さい。美味しい一杯を用意しますから」
リーはしなやかな仕草で席を立つとティーポットを手にして紅茶を淹れ始めた。外見は集団に埋没するくらいに目立たない地味な容貌なのに、時折垣間見える仕草や雰囲気は外見とは正反対に人目を集める。まるで今の姿は真の姿を隠す擬態であるかのよう。
しばらく彼と行動を共にしていたアルトはそういう所感を持っていた。
何にせよ、当初抱いていた怒りの感情を上手く削がれたアルトは、リーの淹れる紅茶とお茶請けを堪能して溜飲を下げるようと心に決めた。あれでリーはお茶を淹れる腕は良く、玄人裸足の腕前は主にアルトを喜ばせている。
シンプルながら高級感ある部屋に負けないだけの品のあるカップとソーサーで出された紅茶。立ち昇る匂いは目の前に花束を差し出されたみたいに香り高い。
口にすると適度な渋味と酸味、砂糖の量も把握した上できちんとバランスが取られている。お茶請けも一緒に食べるのを考えたからか砂糖は控えめ、アルトの好みに直球でストライクだった。
「さすが軍師ね。このままどこかの茶坊主にでもなれば?」
「お断りします。やりたいことは山のようにありますから。差し当たっては、あそこのお客さんに引導を渡してあげないと」
「ふむん?」
お茶を淹れ終わったリーはティーポットを置いているカートの下の段から大きめの木箱を取り出し、ポットと並べるように上の段に置いた。
それは一種の電話だった。飛行船内の高性能で大型な通信機と有線で繋がっており、電話の子機のように使えて展望台に居ながら通話が出来る。通信端末が普及している現代の日本人の感覚からすると古めかしい骨董品ではあるが、この世界では先端技術の一つになっている。
電話を出したリーはそのまま電話線を引いてカートを押し、少将のところまで静々と歩いて行った。よほどショックなのか少将はリーが傍に来ても反応がなく、窓の外に見えるジアトーの戦場を双眼鏡で見下ろしたままだ。
声をかけたところでまともな返事一つ返ってこない。リーはそう判断するとさっさと行動を始めた。まずは電話の受話器を取って、飛行船の通信係へと回線を繋げる。
「真鍋さん? 前に話した帝国軍の陸軍参謀本部に繋いで下さい。私の名前を出せばすぐに向こうは応対してくれますから」
「…………参謀、本部?」
「おや、少将お気づきになりましたか。ああ、折角淹れたコーヒー一口も飲んでないとはもったいない。かなり良い豆使っているんですよ、コレ」
参謀本部という単語が耳に入ったせいか、ようやく反応を見せて双眼鏡から目を離した少将。けれど動きはぎこちなく、目はまだ濁って覇気は失せたままだ。ちょうど彼のテーブルにある冷め切ったコーヒーと同じく価値が失せたかのようである。
高価な豆を使い高い技量と適切な道具でその豆ポテンシャルを引き出し、最高の一杯を淹れたとしても飲む人間がこれでは価値が失せてしまう。
受話器を耳に当てたまま、少将のコーヒーを奪って一杯口にする。やはり冷め切って香りも飛び、渋いだけの泥水になっていた。本当にもったいない、とリーは顔を曇らせた。
受話器の向こう側では通信係のチームメンバーの一人が通信先へとコンタクトをとっている。リーが口にしたように彼の名前が出た時点から対応が迅速になり、それほど待たせずに通信相手の声が受話器に聞こえてくる。
耳には壮年男性の深みある声、リーはそれに対して朗らかに声をかけた。
「お久しぶりです閣下、いま少将の目の前で通信をしています。さっそく代わりますか?」
『頼む。お互い挨拶を交し合って云々という仲ではないのだ、簡潔にいこう』
「利害の一致によるビジネスライクは好みですよ。少将、お電話です」
「あ、相手は?」
「参謀副長閣下」
「か、代わってくれ! ――代わりました……はっ、いえ、そのような事は……そんな!」
リーの手から受話器をひったくった少将は通話先の相手に向って弁明を始めた。血相を変えて、見えるはずもないのに頭を下げている姿は謝罪している日本人の典型的姿を思い起こさせた。
通話先は帝国の参謀本部、そこのナンバー2参謀副長。今回の少将の独走を黙認していた人物で、これから独走の失敗を責める立場になる。
本来この部署は作戦遂行の補佐をする文字通りの参謀的部門のはずだが、現在の帝国では隠然とした権力を持っている。そのことを知ったリーは少将を利用して参謀本部と独自の繋がりを持つようになっていた。
参謀本部とリーの繋がりはすでに充分、後は不要になった古いパイプ役を切り捨てれば後腐れがない。今から見られるものはそんな作業風景だ。
「馬鹿な……私を更迭。帰国後は軍法会議……ですが閣下、私は……え? こいつに代われと? ……は」
通信先から伝えられる言葉に呆けた様子の少将は、力のなく受話器をリーに差し出す。代われ、と言いたいらしい。
「代わりました、リーです」
『少将には独断で軍を動かした罪で更迭し、処分する。軍法会議にかける予定はあるにはあるが、まず間違いなく銃殺刑だろう。彼には今のうちに自決しておけと言って置いた。君には介錯役でもしてくれると助かる』
「了解、では切りますね」
物事が思った通りの方向に転がった。根回しは充分済ませた上での話だったが、上首尾に終わった様子にリーは細い目をさらに細めて笑う。
受話器を置くと耳にカチリと金属音が入った。見ると少将が腰に差したピストルの銃口をリーへと向けている。金属音は撃鉄を起こした音だ。顔には怒りが充ち満ちている。
豪奢な彫金が彫られたピストルの銃口は震え、そこにどれだけの怒りが篭もっているか物語っていた。
「貴様、裏切ったのか! 閣下に密告し、売ったのか! どんなポストを用意されたんだ、ええ!」
「裏切ったもなにも、私は最初から貴方を喰いものにするつもりでしたよ。食べ物に対して裏切るもなにもないじゃないですか」
「――」
銃口を向けられて怒声を浴びせられてもリーは余裕だ。この程度は彼にとって全然脅威ではない。堂々と少将を利用していたと告白する。
少将は限界を超える怒りの余り上手く言葉が出て来なくなり、口をパクパクと開閉させた。それは肥え太った鯉がエサを求めている姿に似ていて、リーは可笑しくなって笑みをさらに深くした。
「第一、独走して侵攻した後に本国から一切の補給が無いのが気になりませんでしたか? 本当はあったんですよ、補給と資金。全部S・A・Sに回してしまいましたが。いや、参謀副長閣下は太っ腹な方だ。何かと暴走する貴方より、私を選んで下さって色々と便宜を図って下さいましたよ」
「ど、どういう事だ?」
「怒りすぎて血の巡りが悪くなっていますね。早い話少将、貴方と貴方の率いる部隊は帝国軍から切り捨てられたんですよ」
「……」
無情に突きつけられた言葉にさらに口をパクパクとさせる少将だったが、今度は怒りではなく絶望からだった。
何かと他国と衝突が絶えない帝国ではあっても、無闇矢鱈と戦争がしたいわけではない。充分なリターンが見込めたり、政治的アピールができたり、とそれなりに理由がなければいけない。リーに銃を突きつけている少将は、その点一切考慮できない人物だった。
帝国と人間種以外の殲滅にのみ動き、他を全く考えない少将は上層部から嫌われている。前線に送られていつ切り捨てられてもおかしくなかったのだが、リーの介入がそれを早めていた。
今回の帝国侵攻の一件は一部将校の暴走として片付けられ、大陸東側に版図を持つ第三国の王国の仲介で停戦。これまで通り緊張感はあっても表面上は穏やかな大陸情勢となる。参謀本部にはすでにそんなシナリオが用意されていた。
帝国は少将を始めとした軍部の跳ねっ返りをまとめて処分できるし、リーは今後帝国の支援を受けられる。両者はこうして秘密裏に手を結んでいた。
ようやくそれを察した少将。もうすでに自身が生きる余地はどこにも無い。
「う、うおおおおぉおぉぉ!」
追い詰められた少将が叫び、手にしたピストルの引き金に力を込めた。これが彼の生涯最期の自発的行動だった。
火薬が爆ぜる音がして、床には椅子ごと倒れた少将の体と体から切り離された首が転がった。これが帝国陸軍の少将の最期の姿になった。
噴き出た血はテーブルを汚し、床に敷かれた真紅のカーペットに湿り気を与えた。彼を手を下したリーは凶器のナイフを手にしたまま転がった生首を一瞥する。細い目のせいで分かりにくいがその目は冷え切っており、屠殺した家畜を見るよりも熱がない。
一瞬で終わってしまった殺害劇。その目撃者になったアルトリーゼは、表情は平静を繕ったが内心怖くなってきた。享楽主義の彼女でも周囲が不穏な空気になっていく中では楽しめない。
果たしてこのままリーに付いていって良いのか、もしかしたらどこかで見切りをつける必要があるのかもしれない。そんな事を考え始めていた。
ただ考えるのはいいが、黙ったままなのは変に思われる。とりあえず何か口にしなくては。
「軍師って、人を高いところに登らせて梯子を外すのが特技? 前に似たような事をしたと話に聞いたけど」
「んー、どうでしょう? ただ効率の良い方法を採っているだけなんですけど……おっと、閣下に報告しないと」
さっき通話を切ったばかりの通信機から受話器を取って「もしもし閣下、お待たせしました」と口にするリー。どうやら一度通話を切ったふりをして事が終わるまで待たせていたらしい。
一連の流れは滑らかで、最初からここで少将が処理されるのは確定事項だったのだ。それを察したアルトはリーの中に底知れないナニカを感じ、薄気味悪さを覚えた。
彼の姿からそれとなく目を逸らしたアルトリーゼは、自然と窓の外に広がる風景に視線が向いた。
雲と同じ高度から見る一大パノラマは、ここが血生臭くなければゆっくり観賞したくなる風景だ。
今日の空は雲量が多めで、絶景というには今一つ足りないけど陽の光に照らされ空色と雲の白がクッキリとしている。アルトが音楽ではなく絵画に興味があるなら絵筆とりたくなる色彩が広がっていた。
地上に目を向けると、海と荒野と森、そしてそれらに囲まれて小さくジアトーの街が浮かぶようにポツリとある。この高度になると地方都市のジアトーはとてもちっぽけに見えてしまい、街を巡っての戦いが現在進行形で行われているのが馬鹿らしく感じるほどだ。
プレイヤーならではの超人的視力のお陰か、双眼鏡なしでも立ち昇る戦火は見えた。砲火や大規模魔法の炎、街へと進撃する数多くの飛行船が羽虫に見える。
その羽虫の一匹が唐突に真っ二つに切れた。左右に綺麗に断ち切れた飛行船は中にあった燃料や弾薬が引火したのかすぐに爆発炎上、二つに分かれたまま地上に落ちていった。
小さく見えても実際には100m以上の巨大な飛行船。撃ち落すのではなく、斬り落とすなどという芸当が出来る人物をアルトリーゼは一人しか知らない。
きっと彼は戦場になったジアトーでも嬉々として駆け回っている。きっと最後の最期まで戦い、こっちに避難して来るつもりはないだろう。
一時期一緒に行動した時期があって彼の行動原理は知っている。戦いを楽しむアルトに対し、戦いに身も心も捧げる彼、震電はそんな男だった。
今頃さぞかし戦いを満喫していることだろう。リーに不信感を持ち始めたアルトリーゼには地上にいる剣士が羨ましくなってきていた。
「楽しんでいるんだろうな震電は。こっちはちょっと気鬱だよ、来ない方が良いかもね」
「報告終わりましたから移動しましょうか。後でここは掃除しないと」
「……はーい」
通話を終えたリーとアルトリーゼが連れだってラウンジを出ると、残されたのは少将の死体のみ。地上の戦いもこの高さまでは影響なく、扉が閉まるとラウンジは無人の静けさに沈む。
太陽は高さを増し、差し込む光はいよいよ強くなる。昼を前にして地上の戦いは終わる様子もなく続いていく。