「手を伸ばしても届きそうにないところが・・・・・・よく似てます」
ハヤテの口から、ふいにこぼれたその言葉。
普段の彼からは似つかわしくない、どこか諦めたようなその口調に、ルカはしばしの間呆然とハヤテの顔を見つめてしまった。
(―――・・・・・・なに、それ・・・・・・)
ハヤテの言葉を理解できず、ルカはただ立ち尽くす。
こんなに近くで、ほんの少し手を伸ばせばたやすく触れ合える距離にいるというのに、
ハヤテの瞳は遠くを見つめたまま、目の前にいるルカを見ようとしない。
(・・・私、ここにいるよ・・・?)
初めて出会ったその日から、少しずつ自分の胸に育っていった恋の灯火。
大事に、大事に温めて。ゆっくり、少しずつ育んできたその光。
消させないために、ゆるがせないために、自分なりに必死になって努力してきたつもりだった。
どうすれば彼に振り向いてもらえるのか。どうすれば少しでも長く、彼の瞳に、その心に、自分の姿を映してもらえるのか。
今回のステージにしたって、集の代わりにハヤテがマネージャーを引き受けると聞いた時、心のどこかで期待していなかったと言えば嘘になる。
アイドルとしての自分。今まで自分が必死になって築き上げてきた、“水蓮寺ルカ”のすべて。
自分が最も輝けるであろうその瞬間を見てもらえれば、たとえほんのわずかでも、彼の心を自分に向けさせることができるのではないかと・・・
そんな淡い期待を心の奥底に秘めながら、自分はあのステージに立っていた。
連日続く仕事のせいで、体も心もとうの昔に限界だった。
これ以上無理をすれば、いずれ本当に自分の体は砕けてしまうかもしれない。
・・・それでもいい。たとえこのステージを降りた後で自分の体がどうなろうと、たった一言、彼の口から自分を認める言葉をもらえたのなら・・・
それだけできっと、自分のすべては報われるだろう。
・・・・・・そう、思っていた。少なくとも・・・・・・
“手を伸ばしても、届かない”
そんな言葉が聞きたくて、自分はあのステージに立ち続けていたわけじゃない。
――――夜も深まり、辺りに人気もなくなった帰り道を、二人は肩を並べてゆっくりと歩く。
そこに会話はなく、先ほどまでとは一変して重い空気が二人を包み、ルカは俯いたまま一言も口をきこうとせず、ハヤテもそんな彼女を
困ったように横目で見ながら歩いていた。
“手を伸ばしても、届かない―――”
ふとハヤテの口をついてでたその言葉を聞いてから、ルカはずっと俯いたまま、ハヤテの顔を見ようとしない。
表情は見えず、声も聞こえないが・・・雰囲気だけでも、彼女が気落ちしているのが手に取るように分かる。
そして、それが他ならぬ自分のせいだということも。
「・・・・・・っ」
ハヤテは、ルカに気づかれないように自分の唇を噛み締める。先ほど自分の口をついてでたその言葉は、今この時点で明らかに
必要のないものだった。
一日限りとはいえマネージャーを任された自分にとって、彼女を心身共に護りぬくことが第一にこなすべき仕事であるはずなのに、
自分の私情混じりのくだらない一言のせいで、ライブを成功させ高揚していた彼女の気分を害してしまった。
普段の自分ならありえない失態。仕事に私情を挟むなんて、アマチュア以下の素人もいいところだ。
幼い頃から大人たちに囲まれあらゆる仕事をこなしてきたハヤテにとって、人気アイドルのマネージャーという仕事は、大役ではあるものの決して
必要以上に気負うほどのものではないはずだった。大抵のことは何でもそつなくこなしてきたという自信も自負もある。だからこそ集からこの仕事を
任された時も、自分ならその期待に応えられるという確信があった。
・・・だというのに・・・たった一度彼女のステージを見ただけで心を奪われ、ステージを降りたあとの彼女に心を乱され、
挙句の果てにその帰り道で、傍から聞けば皮肉や嫉妬にしか聞こえない言葉で彼女の気分を害する始末。
こんなはずじゃなかったのに。いつもならもっと、たとえ虚構と虚飾にまみれていようとも、彼女にとって都合の良い、完璧な“綾崎ハヤテ”を
演出できるはずだったのに。
彼女が絡むと、いつも自分は自分自身を演じきれない。
それがなぜなのか、自分でもよく分からない。
ここ最近彼女と接する時は必ず、自分の中で、ありえるはずのないノイズが起こる。いつもと同じ、“綾崎ハヤテ”を演じきれなくなる。
薄い膜を貼り続けた自分の心に、あってはならない感情が見え隠れしている。
その感情の正体がなんなのか、探ろうとするたびに心のどこかで警報がなる。これ以上進んではならないと、
必死で自分を留めようとするもう一人の自分に邪魔される。
まるでそれを知ったら自分が自分でなくなってしまうかのような漠然とした不安に、自然と足がすくんでしまう。
だから今をもって・・・自分はまだ、自分自身の気持ちに気付けていない。
「・・・・・・ルカさん」
やがて沈黙に耐えかねたように、ハヤテはぽつりと彼女の名を呼びかけた。
「・・・・・・」
隣を歩く少女は、ピクリと一瞬反応を示したものの、やはり何か言葉を発することなく、
ただうつむいたまま黙々とハヤテの隣を歩いていた。
「・・・寒く、ないですか・・・?」
口をついてでたのは、そんな当たり障りのない言葉。
どう考えても間をもたせるための時間稼ぎとしか思われないであろうその言葉に、
ハヤテ自身、何をやってるんだと自らを殴りつけたくなる衝動にかられた。
「・・・・・・」
隣を歩くルカはやはり俯いたまま、ハヤテの問いにこたえようとしない。
ただ黙ったまま歩き続けるルカの姿に、ハヤテがやや諦めの篭った息を吐いたとき、ぽつり、とルカが感情の読み取れない声でつぶやいた。
「・・・寒いって言ったら・・・どうしてくれるの・・・?」
あくまでこちらの顔を見ようとせず、まるで独り言のように漏らされたその言葉に、
ハヤテは一瞬ぽかんとしたものの、すぐにあわてて自分の着ていたコートを脱いでルカにかぶせた。
「・・・こ、これ着ててください!安物ですから、そんなに温かくはないかもしれませんが・・・ないよりマシなはずです」
意を得たように話し始めるハヤテをよそに、ルカはかぶせられたコートをきゅっと軽く握りしめて、はぁ・・・と諦めたようにため息をついた。
「・・・・・・それ、だけ・・・・・・?」
「・・・え?」
「・・・ほんと、分かってないね・・・ハヤテ君・・・」
呆れたように・・・けれど、どこかしかたないなという風に笑いながら、ルカがつぶやく。
「こういうのが嬉しいって子も、そりゃ中にはいるだろうけど・・・少なくとも私は・・・これだけじゃ足りないよ・・・」
なにを―――とハヤテが聞き返すより先に、トンっと、自分の胸辺りに軽い衝撃が走った。
目線を下に下ろしてみると、よく見慣れた青色の髪が、自分の胸元でたなびいている。
「女の子が寒いって言ったらね・・・黙ってこうすればいいんだよ」
突如として彼女の柔らかい体が押し付けられ、自分の背に、彼女の両手が回る。
「ル、ルカさん!?」
ようやく状況を把握したハヤテが、軽くパニックになりながらあわてて声をかけるも、ルカは何も言わずにただ黙ってハヤテの胸に顔をうずめている。
「・・・・・・」
「・・・・・・あ、あの・・・」
何を言うべきか分からずただ戸惑い続けるハヤテをよそに、ルカは心底安心したように
全身の力を抜いて、ハヤテに体を預けた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
ルカはハヤテの胸に顔をうずめたまま動こうとせず、ハヤテも、そんなルカにかける言葉を失って、しばしの間、二人の間を不自然な静寂がよぎる。
自分達二人だけが世界から切り離されてしまったかのように、辺りからは物音一つ聞こえない。寄り添った互いの体から、呼吸や、心臓の鼓動音が
やたらと耳に響いた。
人気のない夜道で、互いの体温だけが意識を支配する世界。永遠に続くかのように思われた時間の中、ふとハヤテの胸に顔をうずめていた
ルカが顔をあげ、ふぅ・・・と息を吐いたあと、ゆっくりとハヤテの目をみつめた。
「・・・ね、分かるでしょ?」
「・・・え?」
寂しそうに笑いながらじっと自分の目を見つめてくる彼女の表情に、ハヤテは何も考えられず、ただ黙ってじっと彼女の瞳を見つめ返してしまった。
「・・・私、ちゃんとここにいるよ・・・?」
彼女の言っている言葉の意味が分からず、ただうろたえるハヤテの姿をなんら気にした様子も無いまま、なおも自分の体をハヤテに
こすりつけるルカに、ハヤテは頭のどこかでまずいと思いながらも、彼女を振り払うことができなかった。
「今ハヤテくんのことを抱きしめてるのは、私なんだよ・・・?」
ハヤテには分からなかった。彼女がこんな行動に及ぶ理由も、彼女の言葉の意味も。
プロのアイドルが路上で男と抱き合うリスクを、彼女が理解していないはずもなく、
万一写真の一つでも撮られれば、明日から彼女は“水蓮寺ルカ”に戻れなくなることだってありうるのだ。
もし仮にここに集が・・・いや、誰か彼女の事務所の人間が一人でもいれば、すぐさま二人を引き剥がしにかかったろう。
そうして引き剥がしたあとに、顔面を蒼白にしながら彼女を問い正すに決まってる。
そんな、誰が見ても明らかに分かる危険を冒しているにも関わらず、今のルカからは、そんなリスクを考えている様子など微塵も感じられない。
ただただハヤテにすがりつき、言葉にできない何かを伝えるように、強く強く抱きしめるだけだった。
「ル、ルカさん・・・!」
ハヤテの呼びかける声にも、ルカは反応一つ示さない。
決して離さないとばかりにしがみついたその両腕からは、普段の彼女にはない、
どこか悲痛な思いが込められているようだった。
「離して・・・ください」
どうにかそう口にしてルカの肩に手を置くと、ルカは怯えたように身を震わせたあと、ますます強くハヤテの体にしがみついた。
「私・・・こんなに近くにいるんだよ?触れようと思えば、いつだって触れられる距離にいるんだよ・・・?」
震える声で、震える唇で、ゆっくりと言い聞かせるようにルカは言う。
彼女が何に怯えているのか、何を伝えようとしているのか、ハヤテには何一つとして分からない。
ルカの言葉を咀嚼しきれずに困惑するハヤテから顔を伏せて、ルカは再びハヤテの胸に顔をうずめる。
「・・・ルカさん・・・?」
そのまま動かなくなったルカに、不安に駆られて声をかけると、自分の胸の中から、か細く消え入りそうな声が聞こえた。
「手を伸ばしても届かないなんて・・・・・・そんな寂しいこといわないでよ・・・・・・」
体を震わせ、痛いくらいに抱きしめられながら叩きつけられたその言葉に・・・ハヤテはただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった・・・