<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


No.36943の一覧
[0] ソードアート・オンライン 奇跡なき世界[ドリアンマン](2014/02/02 21:08)
[1] [ドリアンマン](2014/02/02 21:10)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[36943] ソードアート・オンライン 奇跡なき世界
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef 次を表示する
Date: 2014/02/02 21:08

 鋼と鋼を撃ち合わす、重くも高く激しい音が、くぐもりながら広い空間に反響する。
 衝突のたびに弾ける火花が、暗い空間をまばゆく照らす。
 見上げるほどに天井の高い迷宮の玄室で、二人の剣士が戦っていた。

 片や殺意と闘志を漲らせ、黒銀二刀の構えから神速苛烈の連撃を繰り出す漆黒の剣士。
 対するは、堅固無類の防御でそれらを受け止め、氷のような冷静さで斬り返す紅衣の聖騎士。
 つい先程までは、仮にも仲間としてともに剣を振るっていた二人。
 それが今は、何としても互いを抹消せんと、剣士としての全てを懸けて斬り結んでいた。

 そして、その戦いを見守る者たちの存在。
 文字通り火花を散らす二人を囲むように散らばって、玄室には十数の人影が見て取れる。
 だが、彼らは全員が黒曜石の冷たい地面に倒れ伏していた。

 死んでいるわけではなかった。
 そもこの世界では、死者はただ虚空に砕け散るのみだ。戦いの中で命果てれば、あとには亡骸すらも残らない。
 だから、確かに彼らは生きていた。皆はっきりと意識もあった。
 だがそれだけだ。今の彼らは完全に自由を断たれている。指の一本ですらも、己の意思で動かすことはできなかった。

 そんな状況で目の前の戦い。
 それは鉄風雷火の壮絶な削り合い。交わされる剣戟は軌跡の残像すらも捉えきれず、あまりの迅さに連続する衝撃音は、あたかもひとつなぎの音楽のように鳴り響く。
 暴風怒濤にして精妙苛烈。凄まじいまでに卓越した二人の剣技には、歴戦の戦士たる彼らをして肌の粟立つ感覚を禁じ得ない。たとえ身体が動いても、本来なら剣士としてただ見惚れるばかりだっただろう。
 しかし、この戦いはただ撃ち合う二人のみならず、倒れ伏す彼ら、そしてこの世界そのものの運命すらも懸かった戦いだった。黒い剣士はただひとり、命を賭して怨敵を討とうとしているのだ。それを前にしながら剣を振るえず、ただ見守ることしかできない悔しさに彼らは歯噛みする。
 そうして、無念の思いに胸を焼きながら、ただ息を詰めていた。それだけしかできなかった。



 そんな力なき者たちのうちに、ひとり少女の姿があった。
 紅のラインと十字をあしらった白銀の鎧。栗色の髪の麗しき少女剣士。
 周囲と同じように倒れ伏しながら、あまりにも悲痛な顔で戦いを見つめている。
 まるでこの世の終わりを目にしているような瞳。この場の誰よりも切実で、糸が切れそうなほどに張り詰めた想い。
 それには確かな理由があった。

 今まさに死地にて戦う少年───二刀を振るう黒衣の剣士は、少女にとって特別な相手。彼女がその全霊を、魂を懸けて愛する相手なのだ。
 彼が避け得ぬ危機にあるのなら。逃れ得ぬ危地にてその助けとなれるのなら、少女は命を投げ出すことも躊躇わない。

 彼との出会いこそが、閉ざされていた彼女の世界を変えてくれた。
 人を愛する熱い気持ちが、凍てついた心を溶かしてくれた。
 彼の存在が、この恋こそが、彼女に生きる力をくれる。
 青い想いと笑わば笑え。今の彼女にとって、ただこの想いこそが全てなのだ。

 少女は歯を食い縛って力を篭める。
 生命すべてを振り絞る思いで。後の全てを捨て去る覚悟で。
 だがそれでも、それだけの想いをもってしてもなお、現実の事象は変わらなかった。
 今こそがその時だというのに。己の全てを懸けるべき時だというのに。
 システムに縛された身体は言うことをきかない。
 愛する人が命を懸けて戦う姿を、少女はただ見ていることしかできなかった。


 恐怖が。祈りが。焦燥が。様々な感情が、心に暴れて胸を灼く。
 歪みかけた視界はただ二人の闘いだけで占められ、実体のない身体だというのに、鼓動は早鐘のように鳴っていた。

 目にも止まらぬ嵐のような戦い。超人の域だとすら思える戦い。
 揺れる心、動かぬ身体をよそに、少女はその渦へと引き込まれていった。
 ただ一心に見ることしかできない今、視覚情報は高圧で圧縮され、意識は飛ぶように加速していく。
 神経細胞が猛烈な火花を散らし、白金の炎に幾度も目が眩んだ。

 そうして何合の剣閃が交わされただろうか。
 目にも止まらなかったはずの戦いは、今や彼女の目にはっきりと捉えられていた。
 背中合わせで戦っていた先程までと同じように、広がった意識は少年と同調していた。
 迅雷の如き二刀の閃きが、堅固な守りを崩そうという意図が、燃え立つ心が、まるで自分のものであるかのように感じられる。


 なおも続いていく剣戟。極限領域の速度にありながら精妙な虚実を入り交えた剣が、降り落ちる雷の如くに繰り出される。
 しかし、足を止めての連撃。あるいは死角に回り込んでの一閃。
 間合いを取っても距離を詰めても、攻撃はことごとくはね返された。

 連撃の合間に一瞬の遅滞。逃さずに挟まれた逆袈裟の斬り返しをなんとか弾く。
 攻撃を防げば防ぐほど、返しの一撃が力を増す神聖剣の特性。重突撃系スキル並のカウンターを受けて体勢が崩された。
 咄嗟に跳び離れるが、聖騎士の追撃は来ない。
 死闘の最中にあっても氷のように冷徹な瞳。十字盾を構える姿は一切揺るがず、こちらに絶対の隙が生まれるのを待っている。

 刹那の恐怖を抑え込み、前掛かりに足を踏みしめた。即座に飛び込んで剣を撃ち込む。
 たとえ不壊の城壁であろうとも、怯むことはできない。ひたすらに攻め抜いて貫き通すしか道はないのだ。


 引き延ばされた時間の中、いつ果てるともしれない戦い。
 だが、苛烈な戦いが続くうちに、無情にも天秤は傾いていく。
 見た目には、いまだ攻防は拮抗している。だが、心は確実に押し込まれていた。
 どれだけ攻め続けても、相手は永久氷壁の如くに揺るがない。

 ───自分を弄んでいるのではないか。
 ───いつでもこちらを殺すことができるのではないか。
 ───勝利することなど……決してできないのではないのか。

 そんな疑念が頭に浮かび、恐怖が心を侵蝕していく。
 熾烈な戦いの中、もはや傾きは止められなかった。
 圧力を増す恐怖と焦り。追い詰められた精神が、自殺的な決着を希求してしまう。

 そこからさらに幾度かの剣戟。
 そして、それはついに分水嶺を越えた。

 数歩を退いて距離を取る。
 迷いを振り切るように息を継ぐ。
 最上級ソードスキル発動のモーション。もう体勢は変えられなかった。
 裂帛の気合いとともに、構えた二刀から光が迸る───



「キリトくんッ!!」

 その瞬間、光に弾かれたように同調が途切れた。
 混乱と恐怖に押され、少女は張り裂けそうな声で少年の名を呼ぶ。

 だが、すでに遅かった。
 立ち戻った視点で仰ぎ見れば、二人の闘いは輝く流星のような光軌に彩られている。
 漆黒と白銀。二刀の斬撃は凄まじい迅さで宙を駆け、しかしそのことごとくを十字の盾に受け止められていた。
 締め付けられるような絶望の予感が、再び時の流れを引き延ばす。
 わずかに右手に力が戻っていた。祈るように震える手を伸ばし、剣はなお止まらない。
 連撃は既に二十を超えた。凍りついたような時間の中、二本の剣はあたかもカウントダウンを鳴らすかのように、揺るがぬ壁へと撃ち込まれていく。 
 二十五。二十六。そして、二十七撃目となる一閃が衝撃音を響かせたとき───

 逃れ得ぬ死の先触れのように、白銀の剣が砕け散った。


 鬼神の如き剣戟が途絶え、少年は無防備にその場で硬直する。
 敵する紅い騎士の唇が動いて───その剣が高く振りかぶられた。

 愛する者の窮地をすぐそばに見ながら、痺れた身体は動かせない。
 少年の瞳は静かだった。抗う意思を失くしたように、勁烈な光が消えていた。

 絶望に歪む視界の中で、禍々しい紅の光を曳き、斬撃がゆっくりと、黒い剣士に吸い込まれる。


 絶叫が、迸った。















 ソードアート・オンライン 奇跡なき世界















「まだだぁッ!!」

 絶望と狂乱の悲鳴を切り裂いて、腹底から絞り出すような怒声が上がった。
 決意を込めた言霊が、絶望の淵にあった皆の視線を集める。
 叫んだのは倒れ伏す野武士姿の青年。ギルド風林火山のリーダーである、カタナ使いのクラインだ。
 致死のダメージを受け、蒼い光となって砕け散ろうとする敗者を睨み付け、震える右手を必死に動かして腰の物入れを探っている。

「死なせねえ! こんなところで死なせねえぞ、馬鹿野郎ッ!!」

 そう叫んで、クラインは何かを掴み出した。握りしめたこぶしを宙に掲げる。

 こんなところで死んだりしたら、絶対に許さない。
 戦いの前、死に逝こうとする少年の背中に向かって、クラインは涙を流しながら叫んだ。
 二年前、お互いにこの世界で初めて出会い、投合した相手。運命のあの日、目の前の怨敵───茅場晶彦の狂気の宣告も、彼はこの少年とともに聞いたのだ。
 あの時、彼は仲間を守る道を選び、少年は一人で往く道を選んだ。

 それを後悔しているのは知っていた。それを言えないでいることを知っていた。
 そんな人付き合いに臆病で、時に危なっかしく放っておけない相手。
 敗れて散ろうとする今もなお、クラインが認めるこの世界で最高の剣士。
 あの日以来ずっと付かず離れずの関係であっても、大切な友であるつもりだった。

 最期に謝って死のうなんて許さない。
 共に生き残り、現実の世界へと帰るのだ。
 死なせない。死なせるわけにはいかない。そんなことは絶対に許さない。

 これは賭けだった。
 一か八か。怒り混じりの祈りを込めて、クラインはコマンドワードを唱える。
 そして、天まで裂けよと咆哮した。

「───キリトオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」





 最初は、何も起こらなかったように見えた。
 少年の身体は無情にも虚空に四散し、後に残った光も薄れて消えた。
 その名の残響が消え、黒曜石の闘技場に張り詰めた静寂が訪れる。
 そうして気がつけば、クラインの握り締めた拳から七色の光があふれだしていた。

 プリズム透過光のような虹色の光はみるみるうちに強くなり、空間を幻想的に照らし出す。
 見守る者たちが目を奪われる中、暴れる七彩は奔流となって絡み合い、渦を巻き、やがて中央へと集まっていった。
 そこは黒い剣士が砕け散った場所。凝集した光は揺らめく太陽のようになって宙空に浮かんでいた。
 強烈な光が瞳を焼き、何が起こったかをうかがうことはできない。しかし、全員が抱いた予感はもはや外れようもないほどに確かなものだった。
 はたして光は急速に明るさを落として消え去り、空間は元通りの暗さに戻る。
 急速に暗順応する視界が映したその場所には、紛れもなく一人の剣士のシルエットがあった。

 この世界にただひとつきりの神器、還魂の聖晶石。
 その虹色の輝きが、魂を込めた呼び声が、少年を死の暗黒から取り戻したのだ。

 クラインが吼えるような歓喜の表情を作る。
 剣士の少女───アスナは放心したような様子で涙を流していた。
 倒れ伏す全員が、その裡に抑えられない何かを感じていた。

 その上で、彼らは直後に息を呑む。
 死の淵から甦った少年───黒の剣士キリトが全力で地を蹴ったのだ。
 光の残影がいまだ見守る者たちの視界に残る中、左に大きく踏み込んでから弾丸のように右へ跳躍。その先には、光の奔流から距離を取っていた聖騎士の姿があった。
 さすがに戸惑っていたのか、まるで無防備なその様子。影法師は右手に残った黒剣を左脇から斬り払い、一直線にその首を狙う。
 敵はその場を動かなかった。斬撃が、剣と盾の護りをすり抜ける。
 だが───


 【Immortal Object】


 システムメッセージ。不可視の障壁。
 紫の閃光、衝撃音とともに、入るはずだった剣が跳ね返された。
 少年の顔がわずかに歪む。無防備だったのではない。もはや防ぐ必要すらなかったのだ。
 それでも彼は再び跳びすさって剣を構え───そこで膝から崩れ落ちた。
 周囲に倒れ伏す剣士達と同じ、強制的な麻痺。管理者権限によって動きを封じられたのだ。

 地面に這いつくばりながら、なおも瞳に戦意を湛えた少年を、聖騎士ヒースクリフ───茅場晶彦が見下ろしていた。




「───決闘は終わったよ、キリト君。約束通り、私は紅玉宮に下がらせてもらう」

 もはや他に立つ者のいなくなった玄室で、茅場は淡々とイベントの終了を告げた。
 右手にウインドウを操作して装備を解除し、迷宮の中ではあり得ない、平素の騎士服姿に戻る。
 絶対者との距離をその挙措に見せつけられて高揚した空気が沈んでいく中、茅場は再びキリトに視線を戻し、手の届かぬ場所から語りかけた。

「しかし……まさか、こうして二人ともが生き残ることになるとは思わなかったよ。まったく、本当に君は私の予想を覆してくれる。───だが、正直喜ばしい気持ちでもあるな。二刀流スキルは次の資格者に受け継がれるとはいえ、君がいなくなってしまっては、この世界もずいぶんつまらなくなってしまうだろうからね」

 わずかに愉しげな色が見える声。それは、どうやら本心からの言葉であるらしかった。
 かすかな微笑みらしきものすら、茅場はその面に浮かべている。

「キリト君、本当の決着は最上層でつけよう。クライン君の台詞ではないが、その時まではうっかり死んだりしないでくれたまえよ」

 キリトはそんな相手をまっすぐに見返していた。
 千載一遇の機会を逸した状況で、なおただひとり貫くような強い視線。その瞳には、もう恐怖の影も無力な諦念も窺えない。

「次は必ず俺が勝つ。今度こそ、お前を倒してこの世界を終わらせる。25層くらいすぐに抜いてやるから、首を洗って待っていろ」
「その意気だ。楽しみに待たせてもらうとしよう」

 突き刺すような宣告を、彼は嬉しげに受け取ったのだった。




 決別の言葉を交わしたところで、茅場は左手にウインドウを開いた。青く揺らめく窓が背後に現れる。
 回廊結晶のような管理者用の転移ゲートなのだろう。茅場はその窓をくぐろうと手を掛けて、そこで動きを止めた。

「ああ、そうだ。まだひとつ、言っておくべきことがあった」

 忘れ物に気がついたという表情でつぶやく。
 振り返ってキリトと、いまだ涙の止まらぬ少女に目をやった。

「キリト君、決闘の前に『自分が負けた時にはアスナ君を自殺させないように計らってくれ』と言っていたな」
「……言ったが、それがどうしたんだ」
「私は彼女がセルムブルグから出られないように設定すると約束したが……すまない、それだけでは不充分だった」

 そう言って茅場は頭を下げた。謝られた側は意図がつかめずに首を傾げる。周りもまた似たような空気だ。
 疑問に答えるように茅場が続ける。

「私は95層をクリアした時に正体を明かすつもりだったと言っただろう。残り5層といえばもうラストスパートだからね。世界の終末に合わせて、より緊張感を高めるために、その時点でこのアインクラッドから街区圏内でのあらゆるシステム的保護が消滅することになっていたのだ」
「圏内が消滅!?」
「そうだ。ところがさっきはさすがに予想外の展開で、そのトリガーが95層のクリアではなく、魔王の覚醒───要するに私が正体を明かすことだが、それが起こったときだということをうっかり失念していた。つまり、すでに現在、圏内保護は消滅しているというわけで、仮にアスナ君をセルムブルグに留めても、それだけでは彼女が自殺をしようとした場合止めることはできなかったというわけだ。その辺りはアインクラッドの管理AIであるカーディナルシステムの管轄なのでね。私にもそうそう手を出すことはできないのだよ。
 ちなみに犯罪防止コードの消滅により、圏内でのHP保護がなくなるのはもちろん、これまでシステム的に侵入不可能だった宿やギルドハウスなどの鍵を掛けたパーソナルスペースへも侵入が可能になる。現実と同じように、完全に安全と言える場所は一切なくなるというわけだ。もっともそれには鍵開けのスキルを使うなり、扉を破壊するなりする必要があるがね」

 誰かの上げた声に詳細な答えが返り、消沈し弛緩しかけていた空気が戦慄に引き締められた。
 現在でさえ、オレンジやレッドプレイヤーと称される犯罪者プレイヤーの被害者は多いのだ。安全な圏内が消滅などという事になれば、レベルの低いプレイヤーがどれだけ危険なことになるか。
 だが、おののく者たちをよそにして、茅場はキリトを見据えていた。やや迷ったような様子で話し出す。


「これは本来の流れでは知らせるつもりはなかったのだが……。キリト君、休暇中はアスナ君とともにはじまりの街へ行っていたようだが、あの街にあるダンジョンのことを知っているかね?」
「……盗み見でもしてたのか? 趣味が悪いぜ、茅場」
「致し方ない。君たち二人から目を離すなど、団長としてもGMとしてもできることではないよ。なに、簡単に動向をチェックしていただけだから、そう怒らないでくれたまえ。それで、どうかね?」

 プライベートの監視を仄めかす話に険悪な声が返ったが、絶対者は肩を竦めるだけだった。再度問われて、不承不承にキリトが答える。

「軍から話は聞いた。黒鉄宮の地下に現れたダンジョンのことだろう。というか、当然俺たちが潜ったことも知ってるんだろ?」
「うむ、話が早くて助かる。あれは50層クリア時にロックが解除される隠しダンジョンなのだが、実のところ、君たちが潜った時点ではまだ真の姿ではなかった。魔王覚醒とともに、その底に冥府へとつながる扉が開かれることになっていたのだ───」


 淡々とされる説明は、もはや戦慄を超えた最悪の話だった。

 キリトとアスナは確かに数日前、はじまりの街に陣取る軍のトラブルに巻き込まれ、その際に軍の幹部である女性、ユリエールの依頼を受けて件のダンジョンに潜っている。
 そのダンジョンは、ただでさえはじまりの街に口を開けているとは思えないような高レベルのものであったが、それはほんの序の口。最奥の扉が開かれると同時に、更に恐るべき冥府の魔物たちが無尽蔵に現れ、あげくに地上へとあふれ出すというのだ。
 その時には、すでにはじまりの街に圏内の保護は存在しない。いや、それどころか怪物たちの出現と同時にはじまりの街はダンジョン扱いとなり、外部との連絡はもちろん、全域で結晶の使用もできなくなってしまうという。
 そんな状況で街に怪物たちがあふれ出せば、間違いなく多大な犠牲が出ることになるだろう。
 いや、仮定の話などではない。それは、まさに今、現実に起ころうとしていることなのだ。


「───言った通り、本来はこのことを君たちに知らせるつもりはなかった。脱出や住人の救出作業などは、あくまでも軍の諸君に奮闘してもらうつもりだったのだ」
 茅場は真摯に、いっそ敬虔ですらある表情で理念を語る。
「この世界は、ゲームではあっても遊びではない。使命を持ち、命を懸けて戦う醍醐味を知らなければ、この世界を本当に生きているとは言えない。はじまりの街は軍のテリトリーであることだし、彼らにもそれを味わってもらいたかった───と言えば、君たちには理解してもらえないかな?」

 倒れる剣士達を見渡しての問い掛け。
 それはまさしく傲慢極まりない物言いだったが、日々最前線で剣を振るい、生死の戦いに鎬を削る彼らにとって、その理由は理解し得ないものとは言えなかった。
 確かに茅場の言葉通り、生死の境をくぐり抜けた先にのみ味わえる歓びはある。
 熾烈な戦いの果てに横たわる、虚脱感と裏腹の充実感。そこには間違いなく、彼らを深く酔わせるものがあった。
 だが、決してそれだけが真実なのではない。
 この世界は、現実を戯画化した世界だ。死者は虚空に砕けてその骸を残さず、その行く末を語らない。それでも二年の時を囚われたプレイヤーにとって、今やこの世界は限りなく『現実』に近付いている。その中で最前線を戦い抜いてきた彼らは、現実の大半の人間よりも遙かに死を身近に感じ、そして真摯に捉えてきただろう。
 命を拾う歓びは、命の重さを知っていてこそのもの。この場に目の前で仲間を失った経験のない者はいないのだ。背負ってきた想いに懸けて、神の戯れに同意はできなかった。
 無言の答えとなる視線を受けて、茅場はわずかに肩を竦めた。

「いずれにせよ、今の彼らでは完全に力不足だ。真っ先に襲われるのは黒鉄宮だし、逃げることすらできずに全滅してしまうかもしれん。……もしも君たちが助けに行くというのなら、なるべく急ぐことだと忠告しておこう」

 ───それでは、健闘を祈る。

 最後にそう言い残して、茅場晶彦は転移ゲートをくぐった。
 蒼い水面のような輝きも、溶けるように儚く消えていく。
 黒曜石の玄室は元通りに暗く冷たく、倒れ伏す剣士達だけが残されていた。













「バカッ! キリト君のバカッ!!」

 猛烈な怒りの声とともに、痛烈に頬を叩く音。
 続けてさらにもう一発。静寂を切り裂く音が響き渡った。

 茅場が玄室から去り、麻痺していた身体が唐突に自由になるや、アスナは飛び起きて恋人の元へと駆け寄っていた。
 跪いて倒れていた彼の胸ぐらを掴み上げ、渾身の想いを込めて頬を張る。

「……バカ……ッ! バカッ……、許さないんだ……から……」

 涙声だった。喉がつまって、それ以上言葉が出てこない。こぼれる涙でどうしようもなく視界が滲んだ。
 それでも、顔を間近ににらみつける。その黒い瞳をじ~っとにらみつける。

 生きて帰ってきてくれて嬉しい。今、この手でふれられることが嬉しい。
 だけど、自分を置いて一人でいこうとしたこと。最後の最後に命をあきらめたこと。
 それは決して許せなかった。怒りがふつふつと湧いていた。
 彼を失ったら、自分はもう生きてなどいけないというのに。

 胸に渦巻く感情を、視線を通して叩きつける。
 想いを込めて透すように。心の裡まで徹るほどに。
 涙の流れるままに圧力は高まり、少年は押されるように後ろに下がった。押し倒すぐらいのつもりで、黒い目を見つめたまま追い詰める。
 合わせた瞳がわずかに揺れ、しかし彼はそこで踏みとどまって、唇を噛みしめた。
 潮の目が変わるかのように、心の流れがふっと変わる。胸元を掴んでいた手が、包み込むようにして握られていた。力の抜けた細い指がほどかれて、前のめりに被さっていた身体が戻される。

「……ごめん、アスナ」

 真剣な声で、キリトが頭を下げた。そうして、今度は彼の方からまっすぐに見つめてくる。

「もう、絶対に約束は破らない。必ず生きてこのゲームをクリアして、現実世界に帰るんだ。俺は死なない。君も死なせない。ふたりで一緒に……、戦い抜こう」

 透き徹った意思を感じる瞳だった。
 真実の音を響かせる言葉だった。
 その芯には、決闘を前にしたときの鋭すぎるそれとは違う、折れないしなやかさが感じられた。

 繋いだままの手に感じる温かさ。電子の道を通じて、聴こえぬはずの鼓動までが伝わる気がする。
 何かが変わった、とアスナは思う。彼はもう、一人で戦い死に急いだりはしない。
 白銀の鎧の下で、胸がただ熱く震えた。

「約束だよ……」

 囁くようにつぶやいて、胸の前で握られていた手をほどく。そのままゆっくりと、相手の首筋に両手を添わす。
 愛しい想い、あるいはなにかそれ以上の想いとともに、アスナは唇を重ねていた。

 少し強張る恋人の身体。ひとときその温かさを楽しんで、少女はそっと身体をはなした。

「よしっ! じゃあ、この話はそれでおしまい! 許してあげる!」

 涙を拭いて、アスナは明るい声で言った。
 そうして、すこし苦い笑いでのつぶやき。

「今は、それどころじゃなかったしね……」

 キリトが頷き、アスナも一転表情を変えた。立ち上がり、率いる者の顔で周囲に振り向く。

「みんな、集まって!! 色々あって思うところはあるでしょうけど、とりあえずこれからどうするか考えないといけない! 一刻を争うわ、早く!!」





 血盟騎士団副団長の一喝は、固まっていた者たちの意識に火を入れた。

 最精鋭のメンバーで挑みながら、なお十四人もの死者を出したクォーターボスとの死闘。明らかになった、事実上彼ら全員のリーダーであった男の裏切り。凄絶な決闘。死者の復活。そして、結果起こったシステムの激変。
 これだけのことがわずかの間にあったのだ。みな心の振幅が大きすぎ、二人のラブシーンに至るまで半ば虚脱状態の面持ちであったが、緊急事態であることを思い出し、すぐに身を起こして集まってくる。
 ただその中で、ひとり不精髭のサムライが座ったままの少年に歩み寄り、見下ろしながら叱りつけた。


「死んでんじゃねーよ、バカ野郎!」

 怒りの文句は、喜びを土台にした混じり声。
 上下から互いに差し出した手が、乾いた音を立てて打ち鳴らされる。
 そのままクラインは手を引いて相手を立たせた。薄く笑みを浮かべる二人。

「……まだ持ってたんだな、あれ」
「ウチの連中はみんな生き残るのが得意だからな」
「俺には使わないんじゃなかったっけ?」
「アホォ、もともとお前ェが手に入れたもんじゃねえか。そんな茶々入れるより言うことがあんだろ」

 軽く睨み付けての言葉に、キリトは俯いて頭を掻いた。それから顔を上げ、ひとつ大きく息を継ぐ。

「……ありがとう、クライン。本当に助かった、命拾いした───文字通りの意味でさ。この借りは、今までの分と一緒に必ず返す。帰ってから、な」

 照れを隠すこともなく、キリトはまっすぐに言った。
 ゆっくりとした礼の言葉は、静かながらに熱く、確かなものだった。
 らしくないほどに真っ正直な誓いを受けてクラインは頷く。口の端をつり上げて嬉しそうに笑い、言葉を返そうする、が。

「クラインさん!」
「お、おうっ!?」

 それは横から飛んだ声に制された。
「ア、アスナ……」
 振り向けば、傍らの恋人は強烈な威厳を放っていた。ピシリと鞭のように響く声音にキリトがたじろぐ。アスナはそれを気にする素振りもなく、クラインに向かって続けた。
 
「その辺りの話も後々詳しく聞きたいところですけれど、とりあえずは後でお願いします。今はまず、はじまりの街の人達を助けに行かないといけません」
「あ、ああ……すまねえ、そうだった。だけどどうする、アスナさん? 助けに行くったって、あそこは軍の連中だけでも千人以上の大所帯だし、わかんねえことも多すぎて、とりあえず何すりゃいいのか……」

 友情劇の余韻も吹き飛ぶ毅然とした言葉に、クラインは慌てたように答える。
 ついさっきの一幕はなんだったのかと言いたくなるようなところだが、アスナはそんな余裕も与えなかった。クラインの言葉を受けて、まずは手早く今の状況をまとめ、ついで話をその対応策へと移していく。

 アスナを中心として半円に集まった剣士達。戦死と裏切りによって、この部屋への突入前からほぼ半分にまで数を減らし、その人数は十七人。彼らはこれから、無尽蔵の魔物に襲われているという黒鉄宮に突入しなければならない。その為の手掛かり足掛かりとして、まずは二人が潜った問題の迷宮───黒鉄宮の地下に存在するダンジョンについての問いが飛んだ。
 アスナが目配せをし、実際に戦ったキリトが応答し説明をする。
 宮殿裏手から入った下水道に開いた入り口。黒鉄宮への侵攻経路。迷宮の構造と規模。そして最後に、最も問題となる部分について。

「モンスターについては、とりあえず雑魚のレベルはそこそこ、大体60層クラスの感じだった。そいつらなら攻略組には問題にならないレベルだけど、最深部で遭遇した、死神みたいなボス級のヤツがやばい。俺にもステータスが見えなくて、多分90層クラス。……なんとか逃げ出したけど、もしも……もしも冥府とかからあれぐらいのクラス帯のモンスターが湧き出すっていうなら───」

 ざわ、と低いどよめきが起こって止んだ。
 『冥府』と『死神』などというあまりにも合致するキーワードが、その場にひどく不吉な予感を沸き立たせたのだ。
「……つまり厳しいってことか」
 つぶやくような感想に、キリトは苦い表情で言葉を詰まらせた。
 ますます不穏な空気が色濃くなったが、そこに落ち着いたバリトンの声が割って入る。

「待て待て、お前たち。不安なのはわかるが、ちょっと結論を出すのが早すぎるぞ」
 輪の外側から上がった声に、自然と皆の耳が集まった。
「まだ何もわかってないのに、勝手に悪く考えてどうする。大体さっきの茅場の話を思い出してみろ。二十層後のこととはいえ、奴は軍の連中に相手をさせるつもりだったと言ってたじゃないか。ならば俺たちで全く対応できないような相手が出てくるとは思えん」

 明快な論理で沈鬱な空気を払ったのは、褐色の肌をした巨漢。阿漕で有能な武器商人にして、練達の斧戦士でもある男、エギルだった。
 ごつい体つきの上にスキンヘッドの厳つい顔立ちで、ややもすると子供が泣いて逃げ出しかねないような風貌なのだが、人好きのする笑みと深みがあって良く通る声は、思いのほか人の心を掴む。加えて顔に似合わぬ聡明さと器の大きい人柄で、こういった場面では実に頼りがいのある男なのだ。

「とりあえずは確認してみないと始まらん。まずは何人か偵察を出すべきだ」
 過剰な不安を鎮めたエギルが、そう提案してこの場のリーダーに目をやった。
 偵察行動は至極真っ当な選択だ。この状況では、迅速正確な情報は何よりも価値がある。
 アスナが頷き、皆も同意して、次はその先遣隊に誰を送るかという話になった。何人かが立候補の声を上げたが、指揮官は首を横に振った。

「私とキリト君で行きます」

 またもざわめきが輪を伝わった。
 当然だろう。確かに偵察は重要だが、それでもこの状況で指揮を執るべき人間に抜けられてはたまらない。
 待ってくれとの声が上がるが、アスナにはそれを押す理由があった。凛とした視線で揺れる者たちを見据える。
 そうして、はじまりの街に知り合いがいるのだと告げた。


 軍が陣取るはじまりの街は、本来ここにいるような最前線の人間には縁遠い場所である。滅多に足を運ぶこともなく、土地勘もなければ知り合いもいない。軍以外のプレイヤーがどこに住んでいるのか、そもそも住人はどんな暮らしをしているのか。ほとんど何も知らないのだ。
 はじまりの街は広い。その面積は実に20平方キロ近くに及び、東京都の小さな区にも匹敵する。
 おそらく凶悪なモンスターが溢れる中、そんな街で点在する無力な住人数百人を救出、避難させようなど、充分な情報があっても困難を極める。まず最初に軍の人間を助けようというのは、真っ先に黒鉄宮が襲われると茅場に告げられたからというだけではなく、彼らから情報と協力を得る必要があるからでもあるのだ。
 だがそれは逆に言えば、情報さえあればそれなりの戦力を備えた軍よりも、戦う術のない人達を優先して助けるべき場合もあるということ。むしろ最初に黒鉄宮が襲われている間こそ、街の住人を安全に脱出させる好機であるとすら言えるだろう。


「東区の教会に、保護者のいない子供達をたくさん集めて生活している女性がいるんです。みんな十二、三才くらいの小さな子たちで。あの子達を死なせることは……絶対にできない! だからまず、私とキリト君で偵察を兼ねて助けに行きます」

 その好機を使うとアスナは断言する。有無を言わせぬままに後を続けた。

「それに、どのみちすぐには動けません。さっきクラインさんが言った通り、黒鉄宮にいる軍の人間は千人以上。救出には攻略組の総力を挙げる必要があります。私たちが先行している間に、皆さんはコリニアの街に戻ってとにかく人数を集めて下さい。ボス攻略の報告を待ってる人達がかなりいるはずですから、まず彼らに状況を説明した上で、それぞれのギルドメンバーはもちろん、連絡が取れる限りの攻略組と上層プレイヤーを片っ端から集めるんです」

 早回しで全員に向けて指示を飛ばし、しばらくは指揮官が抜けても問題ないと納得させた。
 一拍の間を置いて、彼女は一人の戦士に目を移す。


「シュミットさん」
「ああ」

 低い声で応えたのは、重装備の大柄な槍使いだった。精悍な顔つきをした男で、真剣な目で指揮官を見返している。
 白銀に青を差した鎧には、小さく竜のエンブレム。攻略組最大のギルドにして、アスナの血盟騎士団と最強の座を争うギルド、聖竜連合のメンバーである証であり、彼はその守備隊長を務める幹部の一人だった。
 彼個人とは、とある事件を通じて旧知の間柄にあるアスナだったが、そのギルド同士はいささか微妙な関係にある。というか、聖竜連合は身内意識と独立志向が強く、血盟騎士団のみならず他のギルドとは軋轢が多かった。ボス攻略などの共同作戦においても、毎回何人かのメンバーを派遣するばかりで、彼らの団長は会議に顔を出すこともほとんどなかったのだ。
 指図を受ける相手とは思えず、協力は求めづらかったが、それでもアスナはまっすぐに切り出した。

「血盟騎士団がこんなことになってしまって、こうして私が指揮をするなどおこがましいとは思います。従う義理などないでしょう。ですが、それでもあえて言います。救出作戦を成功させるには、聖竜連合の力が絶対に必要です。今だけは力を貸してほしいと。指揮下に入って協力してほしいと───どうかユラさんに伝えて下さい。なんとか彼女を説き伏せて下さい。お願いします!」

 胸を衝くような強い請願。
 シュミットは押し黙って相手を見つめている。
 重く短い沈黙の後、静かにゆっくりと口を開いた。

「……頭を上げてくれ、アスナさん。あんたには恩がある。恩人にそんな風に頼まれて、まさかいやだなんて言えるものか。約束するよ。すぐに団長に伝えて、必ず全員連れて駆けつける。安心してくれ」

 槍使いの真摯な答え。それは望外とも言える力強い誓いだった。
 アスナは弾かれたように顔を上げる。礼を言おうと口を開きかけたが、相手は一転、軽い態度でそれを制した。

「でもまあ、説き伏せたりする必要はないだろうけどな。うちの団長があんたらを嫌ってたのは、単にそっちの団長が嫌いだったからだ。目つきが気にくわないってな。そんなわけだから、こんなことになったのはまさかのことだったが、かえって協力しない理由はなくなった。あんたなら指揮官として申し分ないし……それにモンスターの大群相手に街で戦うなんてのは、うちにはまさにうってつけだ。団長は喜んで戦うだろうさ。なあ」
 シュミットはにっと笑って、後ろの仲間に目をやった。

「てか、むしろ一番乗りで出て行きそうっすね。姐さんノリノリなのが目に見えるッスよ」
「大規模戦闘大好きだかんなあ。ストレス解消とか言って」
「顔だけは仏頂面の気がしますけどねー」
「うひゃひゃひゃ、ありそうありそう」

 話を振られた団員達も、彼の言葉に同意して笑い合う。あっけらかんとしたその様子に、アスナやキリトを含めて何人もが目を丸くした。
 ひとしきり笑った後、シュミットは改めて言う。

「見ての通りだ、アスナさん。うちは間違っても参加を渋ったりはしない。今回のボス戦では、ウチのメンバーにも死者が出た。手向けをやらなきゃならないからな。思いっきり暴れて、聖竜連合が最強のギルドだってことを見せてやるさ」

 その言葉には、確かな自負と決意があった。かつての事件で恐怖に震えていた姿とは全く違う、豪気で闊達な顔だった。
 その意思を汲み、アスナは礼の言葉を呑み込んで表情を引き締める。
「……わかりました。期待させてもらいます」
「ああ」
 ただ簡潔に返し、シュミットもただ頷いて返すのだった。


 その後も、この場でするべきことが早足で詰められていく。
 クラインの提案で、複数人が生き残っていたギルドから抽出して偵察隊をもう一隊増やしたこと。
 状況の説明にあたって、伝説の男であった聖騎士の裏切りをどう伝えるか。特に団長に裏切られた血盟騎士団のメッセンジャーには、くれぐれも感情的にならず、感情的にさせないようにと念を押す。
 更に幾つかの必要事項を確認したところで、アスナが戦いに赴くべく号令を掛けた。

「みなさん。厳しい戦いになるでしょうが、覚悟はできてるでしょうから余計なことは言いません。死なないこと、死なせないこと。大事なことはいつもと同じです。じゃあ行きましょう! 作戦開始!!」
「オオオオオオオオオオッ!!」

 麗しき指揮官に誓い、冷たい空気を震わせて雄叫びがあがる。
 敗北を経て、厳しい戦いを前にしてなお、剣士達は頼もしく意気高かった。








 迷宮の暗がりから、一転明るい陽光の下へ。アスナたち偵察隊は、玄室の入り口からはじまりの街の東門前へと転移していた。
 時刻はすでに午後も遅くになりかけていたが、冬も近いのに風のそよぎはあたたかい。街の北面を囲む城壁や、門から覗ける広場の様子も、異変の兆候など感じられないのどかなものだった。
 だが、アスナとキリトは厳しい表情で街にいるはずの友人達に向けてメッセージを送る。

 結果は予期した通り。緊急のメッセージはやはり届くことなく、誰からも応えは返ってこない。同様にフレンドのマップ追跡も機能せず、クラインらが門から踏み込んで試した結果、結晶が無効化されていることも確かめられた。

「けっ。疑っちゃあいなかったけど、こりゃあやっぱり本当らしいな」
「そりゃ冗談を言うような奴じゃないだろうよ」
「わかってたことだわ。それよりここでできることはもうないし、急いで行動しましょう」

 茅場の言葉を裏付ける危機の証拠にクラインとキリトが悪態をつき、そこにアスナが声を重ねる。

「取り決め通り、私とキリト君、クラインさんが子供達を救出に。クルスさん達は街区中央、ゲート前広場までを強行偵察。戦闘はなるべく避けて、でももしはぐれたモンスターと遭遇したなら、ひと当てして探ってくれればなお良し。三十分以内をめどに、この東門前に再集合。いいですか?」

 キリトとクライン、そして血盟騎士団と聖竜連合の人員から選抜されたもう一つのチームに向けて作戦を確認。了解の頷きとともに、彼らは行動を開始した。


 城門をくぐり、その内側、キャラバンの馬車やテントが集まる広場を駆け抜け、建物の密集する路地に走り込む。最初の曲がり角まで疾走し、勢いを止めることなく跳躍した。
 この偵察チームの六人は、いずれも敏捷性に優れた攻略組トップクラスのアタッカー達だ。わざわざ地上で狭く入り組んだ路地を走り続ける必要はない。石造りの壁を蹴り、突き出しを蹴って、あっという間に周囲で一番高い屋根の上まで駆け上がる。
 そこで初めて、彼らは街の中央、黒鉄宮の威容を視界に捉えた。

「あれは……」

 視線を眇めてキリトがつぶやく。
 黒く聳える宮殿まではまだ何キロもの距離があったが、彼らには見えた。モスクのような宮殿の上部に、人間大かそれ以上の大きさらしき黒い影が数多く舞っているのが。
 あきらかにモンスター。それも機動力の高い空中型。厄介な相手、と空気が軋んだところにアスナが冷静に言った。

「少人数であれにターゲットされたら危険です。中央部の偵察は黒鉄宮に近付きすぎないように、なるべく南側から回って下さい」
「……わかってる。無理はしない」

 危険を恐れて足を止めている時間はない。
 返った言葉に頷いて、アスナはすぐさま屋根を蹴った。残る五人も躊躇うことなく走り出す。
 すぐに二つのチームは南と西へ進路を分けた。それぞれの目的地に向かって最短で屋根の上を跳び走り、あっという間に距離を離していく。

 白銀の少女騎士を追って風を切りながら、キリトはそれに負けない声を隣のサムライに振った。

「クライン、お前教会に顔を出すときは気をつけろよ。あんまり野武士づら丸出しだと、みんな怖がるかもしれないからな」
「はあ!? 何言ってんだ。俺たちゃこれから無理やり避難させようってんだぞ。お前ェこそ、その女顔少しは何とかするべきだろ。ガキ共に舐められたらどうすんだ」
「俺は尊敬されてるから大丈夫なんだよ!」
「よく言うぜ! 尊敬されてんのはどうせアスナさんの方だろ!」


 そんな軽口を叩き合いながら、教会までの距離はどんどん詰まっていく。
 途切れた屋根の道から飛び降り、色づいた木々の林を走り抜けて、彼らは三分とかからずに教会の前庭へと到着した。
 数日前にはバーベキューを行った広い庭を突っ切って、アスナが教会の扉を押し開ける。

「サーシャさん! アスナです! いらっしゃいますか、サーシャさん!!」

 切羽詰まった呼び声に、祭壇の奥から返事があった。眼鏡をかけた女性が驚いた顔で階段を下りてくる。

「アスナさん。キリトさんも。どうされたんですか?」
「話すと長くなるんですが、ちょっと大変なことになってしまったんです。今、子供たちはみんなここにいますか?」
「あ、はい。ちょうど遊びに行ってた子たちが帰ってきたところで、これからみんなでおやつにしようと」
「よかった……」

 サーシャの返答に、アスナは安堵の息をついた。見れば聞き知った声に誘われて、大勢の子供たちが階段を下りてきている。
 ただ、彼らは再訪した二人に声を掛けかねていた。キリトらのぴりぴりと緊張した様子に加えて、人相の悪い見知らぬ剣士がいることもあっただろう。

「あの、みなさん完全装備で一体どうしたんでしょうか。それに、その、そちらの方は……」

 子供たちの気持ちを代弁したようなサーシャの問い掛けに、「ああ、こいつは」とキリトがクラインに振り向く。
 そのクラインは、祭壇のそばの子供たちを見て表情を硬くしていた。想像以上に小さい姿に心を痛めたのだろうが、長身で不精髭の歴戦野武士が厳しい顔をしていると、どうにも近寄りがたい威圧感がある。
 キリトが目配せで合図をした。それで先程の軽口を思い出したのだろう。クラインは固まっていた表情をほぐし、笑ってサーシャに挨拶をする。
 その笑みは少々不器用なものだったが、どうやら人の良さは伝わったらしい。サーシャも子供たちも、安心したように笑顔を浮かべた。
 空気が緩んだところで、逆に表情を引き締めてアスナが言った。

「サーシャさん。急な話で申し訳ないですが、今すぐこの教会を引き払ってもらいます」
「……え?」

 ぽかんとする相手に対して、はじまりの街を襲う今の状況が伝えられる。
 圏内保護の消滅。溢れ出る凶悪なモンスターたち。
 命も危うい緊急事態だったが、突然の災厄を理解してもらうには少しの時間がかかった。
 彼らはこの二年間、多くの苦労はあったにせよ、少なくとも命の危険とは無縁に暮らしてきたのだ。まして子供たちは今の今まで外で普通に遊んでいて、言葉のみで焦眉の危機を実感することは難しい。
 それでもいくつかの証拠と、何よりもアスナとキリトへの信頼が物を言った。
 住み慣れた家を捨てて街を逃げ出すという困難な選択を、サーシャや子供たちは本当に少しの時間で呑み込んでくれたのだ。

 彼らの決断に感謝して、アスナは避難の準備を急がせる。
 もっともさしたる手間はかからなかった。現実と違って、大抵のものは普段から各自がアイテムストレージに携帯しているからだ。教会の部屋に保管していたアイテムもキリトの空きストレージにまとめて突っ込まれ、逃げ支度はすぐに完了した。




 教会を出発して十分あまり。
 二十人以上の子供たちを背後に守り、キリトは脱出行の先頭に立っていた。
 行きは空中を最短距離でショートカットしてきた彼らだが、帰りはまさかそうはいかない。地上の狭い路地を索敵しながら進むのは往路の何倍もの時間がかかったが、それもどうにか半ばを越えた。
 東門へと向かう大通りに踏み入って、キリトはひとつ息をつく。
 小さな命を背負う重みは想像以上で、ここまでの道行きがかなり神経を磨り減らしていたのだ。
 それでも見通しの良い場所まで辿り着いて、なんとか無事でいけそうだと安心しかける。

 その時だった。
 後方から、甲高い遠雷のような音が響いたのは。

 黒の剣士は即座に背後を振り向いた。
 天井を背景にした空に、一点の影を認める。
 一直線にこちらへと向かってくる黒い影。人ほどの大きさのある闇の猛禽。
 紛れもなく、黒鉄宮を襲っていた冥府のモンスターだった。


「ここで倒す!! アスナ、クライン、みんなを頼む!!」

 怒声を発し、ぐんぐんと近付いてくる凶鳥に向かって疾駆する。
 アスナとサーシャが、怯える子供たちを露店の陰にまとめるのが横目に見えた。クラインが刀を抜いて護りに入っている。
 キリトは通りを挟む建物の壁を蹴り、屋根の上へと駆け上がった。
 そうして上空の敵を凝視する。

 胴体が人ほどもある黒い巨鳥。しかし、その姿は何か異様に歪だった。
 鳥の形をしていながら、不自然な骨格、不自然な肉付き。黒い翼は闇色の炎のようで、羽ばたきとともに奇妙に揺らめいて形を変えていた。
 表示された種族名は 《Dark-vulture》
 だが、キリトの目にはそれ以上のステータスを読み取ることができなかった。やはり非常に高レベルのモンスターだ。

 しかしそれでも、いや、それだからこそ。手こずったりするわけにはいかない。
 リスクを考えて時間を掛ければ、背負った命が危険にさらされるのだ。

 空を進む敵の軌道は、キリトを無視して子供たちを狙っている。
 黒の剣士は決意とともに屋根の端を走り、飛び来る闇鷲に向かって跳躍した。


 振り上げた黒剣が空中で光を纏う。
 自由落下の速度を超えて、振り下ろした剣が加速する。
 片手剣高位ソードスキル 《フォーリングメテオ》
 片手剣最速である上空からの打ち下ろし技は、高いダメージとともに、強力なノックダウン効果を備えている。

 ───こいつで地面に叩き落として、一気に仕留める!!

 そう念じて跳び込んだ刹那、高速で風を切る闇鷲が唐突に軌道をねじ曲げた。
 不自然なほどの反応速度に総毛立つ。
 だが、反射速度ではキリトもまたこの世界に並ぶ者なき剣士だ。
 すれ違おうとする敵に剣の軌道を修正し、逃がすものかと渾身の斬撃を振り下ろす。
 翼の付け根、右の肩口に、輝く墜剣が叩き込まれた。

 交錯の瞬間、実体を斬り裂く感触が、剣を伝って確かに腕に響いた。
 だがしかし、同時に猛烈な違和感が怖気となってキリトの背を震わせる。

 ダメージを与えた感覚がない!

 落下する身体を捻って振り返れば、闇の鳥は剣撃をすり抜けたかのように、獲物を狙って飛び続けていた。
 そうして闇鷲は耳をつんざく怪鳥音を上げる。その大音声に、キリトは恐怖の感情を刻み込まれた。
 その声そのものにではない。その声が引き起こした光景を目にしてのことだ。
 敵意と悪意の叫びを受けて、恐慌に陥った子供が何人か、固まっていた露店の陰から逃げ出してしまったのだ。

 バラバラに逃げ走る子供たちに、アスナもクラインも咄嗟に動けない。
 闇鷲はか弱い命を貪ろうと、容赦なく空を突き進む。
 クラインが進路を阻もうと前に出るや、一転闇鷲は急上昇して上空に躍り出た。
 そこから再度急降下。逃げようとして転んだ女の子を爪に掛けようとする。

「───ミナちゃんッ!!」

 幼いその娘の名を呼んで、白銀の影が疾走する。
 闇色に輝く刃のような爪は、間一髪で覆い被さった少女剣士の背を、深々と切り裂いていた。


「アスナァァーーッッ!!」


 黒の剣士の絶叫が、石畳を震わせて風に散った───



次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.04842209815979