壱巻の四、斬棄て幽禅
「ひとまず距離は離したが……」
と、甚兵衛は後ろを振り返りながらぼやいた。木を切り倒した程度のこと、またいで通れば済む話。すぐにまた奴らは追いついてくるだろう。とすると、今のうちになんとかしておかねばならないことがある。
甚兵衛は、手荷物のように抱えた無垢を見下ろした。無垢もまた、こちらを見つめ返してくる。
「無垢坊」
「うん」
「さらば」
「うん?」
ぽいっ。
甚兵衛は、無垢を街道脇の崖下へ投げ捨てた。
「んきゃわあああああああ!?」
悲鳴を挙げて転がっていく無垢に向かって、甚兵衛はうやうやしく合掌する。
「なんまいだなんまいだ」
ま、死ぬことはあるまい。大した高さの崖でもないし、傾斜もそれほどきつくはない。そして、崖の下は下生えと杉の林に覆われていて、よほど注意して見なければ下に誰かが落ちているなど気づきもすまい。つまりはこれで、無垢を巻き込むことは避けられる。
と、丁度そのとき、再び追っ手の声が聞こえはじめた。
「やっべ。おい、しばらくじっとしてろよ、いいな!」
崖下に向かって声を掛けると、甚兵衛はわざと少し間をおいて、敵に自分の姿を見せてから、再び逃走をはじめた。それもまた、注意を自分の方に引きつけるためである。思惑通り、追っ手どもは他のものになど――とりわけ、街道脇の崖の下などには目もくれず、甚兵衛を追って行ってしまったのである。
だが、そんな甚兵衛の考えを知ってか知らずか。
「女の子に乱暴するとか、さいってー」
崖下でさかさまにひっくり返り、ぷうっと不機嫌に頬を膨らませる無垢であった。
*
どこかで鐘が鳴っている。
一ツ、二ツ……宵五ツ。
釣瓶落としに日は沈み、夜の帳が空を覆う。街道に横たわるのは吸い込まれそうなほど深い闇。追跡に疲れた大勢の男たちは、ついにその足を止めた。いずれも走りに走り、息を切らせ、額にはじっとりと汗を浮かべているありさまであった。
甚兵衛を追っていたあの一団である。彼らの追い求める獲物は、一体どこに行ってしまったのか。どこかで上手に身を隠したか。街道を一里半ほども走る執拗な追跡によってすら、彼らはまだ一つの成果も挙げられずにいた。
視界が夜の闇に閉ざされ、もはやこれ以上の追跡は不可能であろうか。重苦しい諦めと徒労感が、彼らの心にどっぷりと広がりはじめた――
その矢先。
突如、一団の頭が手を振り上げ、背後の手下どもを止まらせた。黒く蟠る地面。月光に仄白く浮かび上がる空気。前方の街道脇には密集する杉の林。何が、というのではない。頭は彼なりに腕の立つ男であり、少しばかり剣術の心得もあった。それゆえ感じ取ることができたのだろう。
近づいただけで臓腑を抉り取られそうなほどの、異様な気配。
即ち――殺気。
「何者だ。出てこい」
手下どもにざわめきが走る。
「よい、勘をしている、な」
何かが応えた。なんと無邪気な声であろう。悪意の一欠片もなく、それでいて狂気が肌にまとわりつくよう。ここまで走りに走り、乱れきっていた呼吸が、周囲を満たす緊迫の中で、不思議と静まっていく。
もぞり、と、闇の向こうで影が動いた。
その途端、殺気がぞわりと音を立て、闇を蝕み、闇に溶け込む。今や辺りの暗闇がまるごと全て敵の躰。まるで四方八方から躙り寄る脅威に、押し潰されるかのよう。汗が引く。手が震える。震える手が救いを求めて得物に伸びる。
闇に呑まれた一同の前に、敵は、その姿を現した。
子供のように嬉しさを隠さぬ顔。煌めく白刃。見事な色彩の着物を、無造作な着流しにして、その腰の左右にそれぞれ二本ずつ差し、背中には大太刀二本を十字に背負い、全部で六振りの刀を身につけている。そしてその目。まるで地獄の底から睨み上げる死人のごとき、腐り果て、だがぞっとするほど深く澄んだ瞳。
「なんだ、あのなりは……」
その異様ないでたちに、誰かが思わず呟いたものと見える。敵は、ああ、と声を挙げて己の姿を見遣り、
「刀か? 要るから差している。なにせ、刃はすぐに駄目になるのに」
壮絶に――笑う。
「たくさん、斬らねばならぬから、なあ――」
と。
闇が奔った。
いかほどの時も経ってはいない。刃の打ち合う音もほとんど聞こえはしなかった。なのに今、白骨を積み上げたような砂の上を、赤い血糊が染めていく。畳のように足下を埋めるのは十余名の亡骸。その中、ただ一人立ち続ける男が、返り血に濡れた指を折りながら、ぼそぼそと何事か呟いている。
「なな、や、この、とお……まあまあ、多い」
嬉しそうににたりと笑う。数え上げた屍の数に、満足して。
と、その後ろで呻き声がする。まだ生きているのが居たらしい。頭から血を流した男が、道ばたの枯れた雑草にしがみつくようにして、じわじわと身じろぎしている。彼はそちらを一瞥すると、無造作に寄っていった。血糊を草鞋で踏む度に、ぴちゃり、ぴちゃり、と気色の悪い音が響いた。
「聞いた、ことが、ある……」
男は、呻きながら呟いた。今際の際に、なぜこんなことを言わねばならなかったのか……おそらく、頭が混乱し、目の前の脅威を認識するので精一杯だったのだろう。荒ぶる反骨も、生への執着も、死にかけた頭からは消え去った。
彼が抱くのはただ一つ。
恐怖。
「六振りの刀を使い棄て、児戯のように人を斬る……まさか、お前が……!」
無慈悲に突き降ろされた刀の切っ先が、男の背を貫いた。
少し痙攣して、それっきり、動かなくなった侍を見下ろし、男は微笑む。そして誰にともなく、こう名乗ったのである。
「斬棄(て、幽禅(」