人には領分というものが存在する。
学者の尻を叩きスポーツに参加させて、嫌がらせ以上の意義があるだろうか。あるかも知れないが、それはきっと大したものではない。大半の人間は、こう考えるだろう。そこらで昼間から酒に飲まれている、肉体労働のおやじでも引っ張ってくればいい、と。もしくは、本当に役に立っているかどうかも分からない、駐屯所の中でふんぞり返っている騎士。彼らに、世間とはどういうものかを見せてやった方がいい。つまりは、わざわざ頭脳労働が専門の引きこもりを選ぶ必要は無かった。代わりはいくらでもいるのだ。
彼らに必要なのはペンであり、断じてバトンではない。必要なのは足を動かすことでは無く、腕と頭を動かすことだ。
鳥は空を飛ぶものであり、魚は水の中を泳ぐものであり、獣は陸を走るものである。獣に羽をつけて空を飛ばせたところで(まあ一部にそういう生物も存在するが)およそ、学術以外の意味など無い。そんな手間を取るくらいならば、最初から空を飛ぶ存在に任せればいいのだ。
要は、適材適所という事である。何も、不向きな事をさせる必要は無いのだ。人は得意なことだけをして、生きていけばいい。不得手な事を、わざわざ無理してまですることはないのだ。
(そうだろう?)
内心だけで、自問する。
当然、帰ってくる言葉は無い。同意を期待しないわけではなかったが、なんにしろ、声に出していない。出力しなければ、それは存在しないのと同じだ。
実際、同意されるにしても否定されるにしても。声に出して、誰かに聞かれるわけにはいかなかった。
ここにはそれこそ、聞き取る耳などいくらでもある。
(ましてやこの国は、そういう風にできてるんだから)
何度愚痴っただろう。親友その一とその二にさんざん愚痴り、それでも足りなくて、ベッドの上にある天井のシミに愚痴った。さらに近所に買い物に行って、噂話が好きなおばさんにも、さんざん愚痴を聞いてもらった。普段は疎ましく思うお喋りも、こういう時だけはありがたい。それが面白そうな噂だと思えば、かかしのように何時間でも聞いてくれるのだから。
ぐだぐだと、意味の無い事を考えながら。彼――クレイン・エンティーハスは視線を落とした。そこには、見慣れた手がある。ただし、持っているものだけは見慣れなかったが。
手のひらには、山のようにたこができている。それに全く似合わない、白い粉。
ため息が漏れた。今度は、身のうちに納めようがなく。
専門家とは、ど素人にはできないから専門家たりえるのだ。そもそも素人にできるならば、専門分野は存在しない。
餅は餅屋。やるべき事と言うのは、やるべき人間が請け負うべきだ。別分野の専門家に、門外漢の事をさせて喜ぶのは、権力者だけだ。クソッタレめ!――思い切りののしる。やはり、内心で。とてもむなしかった。
つまるところ。
鍛冶屋が握るものは、チョークではなく鎚であるべきだし、立つべき場所は炉の前であって、断じて黒板の前などではない。たとえ鍛冶にクレイン以上に腕がある者がいなくとも、教育という意味なら山ほどいる。そして、いなくてはならない。なにしろ、それが専門なのだから。
だから、自分はここでチョークを置いて、この教室――席は三割も埋まっていなく、非常に寂れている――から出て行ってしまってもいい。いや、むしろそれが自然である筈だ。
(とは言っても)
疲れに肩を落としながら、しかし滑り落ちそうだったチョークを握り直す。
実際、ここで本当にチョークを落とすことはできそうになかった。
それは、わざわざ自分の為に骨を折ってくれた友人の顔に、泥を塗る行為だ。友達にならば迷惑をかけていい、とクレインは思っている。ただし、その後の激憤が無くなるわけでは無い。普段は極めて理性的な反動か、一度本気で怒らせると……身震いをするほどに恐ろしいのだ。
改めて、教室を見る。生徒数は少ない、が、熱意は本物だ。誰も、瞳の中にぎらぎらしたものを抱えている。
(まあ、やるだけやるしか無いか。顔に泥を塗らん程度には)
どれだけ泣き言を言おうと、最初から選択肢はないのだ。肩ごと滑り落ちそうだった腕をなんとか支える。そして、チョークを腕ごと持ち上げて、黒板へたたきつけるように、文字を書き込んだ。