東野屋敷。
最早、慣れ親しみまでも感じるようになっていた。どこか心休まる場所を手に入れた気すらさせる。
屋敷へと戻った守道と陽炎は、自室へと向かうべく、廊下を進んでいた。長い通路の先に見知った顔を見つける。用があるのは自分達だということは一目で分かる。
「戻ったか。
何事もなかったか?」
腕を組み、何かを考えるかのように壁にもたれ掛っていた男、武は、その身を起こすように壁から離れた。
此方が心配だったのか、わざわざ出迎えに待っていたようだった。香奈枝とは既にわかれており、彼女は与えられた自室に居る。
「いえ、特に危害を加えられるようなことはありませんでした」
チラリと西森の屋敷での一件が頭を過るが、激情に駆られたのはその場でだけだ。
これが打ち合わせ通りの答えだった。香奈枝と今日の事は穏便に進んだという方向で口裏を合わせることにしていた。確かに、此れから何度か足を運んで事実を調査しようというのに、危害を加えられそうになったとあれば、無用な心配を招きかねない。守道自身も香奈枝の身の安全は心配ではあったが、本人が波風を立てるなと言うのに、話を大きくすることも憚られた。
その返答に、武の顔が緩む。心から安堵するように溜息をついた武だったが、直ぐにその表情は引き締まった。明らかに憎しみを湛えた顔だった。
「それならいいんだが…………十分に気を付けてくれ。
あいつら、何をしでかすか分かんねえからな」
何故、そこまで西森を嫌うのか?
並々ならぬ感情が其処に在るのは容易に見て取れる。と同時に、そう軽々と聞いてよい話でないのは彼の表情から明らかだ。
「ありがとうございます。
忠告、心に刻んでおきます」
詮索されたくない過去と言う物が人にはある。東野の話によれば、この町の人々は特にそういった方々が多い。武もその例外でないとすれば、易々と踏み込むべきではないだろう。一言の礼と、一つの返答。其れだけが守道の持ちうる返答だった。
◇
時を同じくして東野の屋敷。
襖の前に立った屋敷の主は、その部屋を貸し与えた女性に入室の許可をとっていた。
「あら、東野様?
どうかなさいましたでしょうか」
控えめな声で了承を得た了は、香奈枝の前へと進んでいた。
部屋の中でさよの淹れたお茶を飲みながら了を迎えた香奈枝は、はてと首を傾げた。その斜め後ろではさよが怪訝な表情を浮かべている。
備え付けられた机の香奈枝の対面にあたる場所で腰を下ろす。
「西森の事ですが………
できれば、武の前ではあまり話さないようにしてやってはくれないでしょうか」
控えめなトーンで、そう口にした。誰かに聞かれるのを恐れるような振る舞いだった。彼女たちには、一度伝えておかなければならないことだった。
「……分かりました、心に留めておきます。
ところで、何か理由でもあるのでしょうか?」
自分で表情が曇るのが分かる。果たして、自分の口からこの理由を話しても良い物だろうか?
僅かな迷いが生じる。
何故、非常にプライベートな問題であるのだ。
「実は、武は西町の生まれなのです。
彼らは武術の心得を持つ武を嫌っておりまして、そのせいで村を追い出されたのです」
この町には他の村の出身の者が多いとは聞いていたが、まさか隣町からの住人がいるとは思ってもみなかった。
しかし、考えれば難しい話ではない。自分の領地に自分を脅かす危険性のある者が存在するならば、事前に排除してしまえば良い。まして、武術にものを云わせて村を支配する一族ならば尚更だ。実に理に適った選択だろう。
だが。
だからこそ、香奈枝には疑問が残った。
「……では尚更、私どもの行動は彼にとって良い知らせなのでは?
彼は西森を恨んでいるのでしょう?」
「……そうかもしれませんね。
ですが、彼は復讐や報復は望んでいないと思います」
了は本心からそう口にしていた。武がそんなことを考えるとは到底思えなかった。
詳しくは聞けないまでも、以前の村での境遇は多少は話に聞いている。耳を塞ぎたくなるような仕打ちもあった。
だが、今の彼は前を見据えて歩んでいる。だからこそ、この屋敷で暮らし、自分の側近を任せている。
「本当にそうでしょうか?」
「ええ、間違いありません」
はっきりと言い放った。
瞬間、背筋に冷たい物を感じた。武者としての勘。
戦場で出会ったならば、思わず一歩後ろに跳び下がるような悪寒。
この感覚……。何処かで………。
ふいに思い出したのは、丁度この部屋。初めて彼女に会った時の事だった。恐ろしく冷たい何かをあの時も感じた。
目の前に座る女性に然したる変化はない。いつも通り、長く伸びた桃色の髪が見事なまでに一直線に流れている。
そんな香奈枝が口元を緩やかに釣り上げた様な気がした。
「分かりました。
………ねえ、東野さん。
少し話を変えても宜しいでしょうか?」
再度、身体を冷たい何かが駆け上がった。此れもやはり初めて香奈枝と会った時感じたものと同じだ。
「東野さんは、お父様を戦で亡くしているのですわよね。
ならば、何故、その時の相手へ復讐をなさらないのでしょうか?」
振るえるように駆け上がり、重力に逆らうかのように駆け上った血が急激に降りてゆくのを感じた。それほどまでに“その問い”は了を冷静にさせていた。
問われたのはこの数年で何度も考えた問だった。
彼女は知らない。この問いの答えが簡単な物でないことを。どれだけ僕が、その“彼”を憎んだかも。
父の死を知った時、悲しみよりも先に出た感情は恨みだった。何度も何度も彼らへの報復を考えた。父の無念、村人の悲しみ。
それを後押しする物はいくらでもあった。
必ず見つけ出して殺してやるつもりだった。見当もつかない相手だったが、この手で殺そうと心に決めた時期もあった。
だが……
「いえ、其の様な事をしても父は戻ってきません。
それに、それが果たされた処で、また、その一族が私に復讐を果たすため立ち上がるでしょう。
あとはそれの繰り返しです。その先には何もないとは思いませんか?」
そう。此れが僕の答え。この思いは連鎖してはいけない。
村人も家族も、父を思ったからこそ、復讐を唱える者は居なかった。彼がそんなことを望むはずがないと。
父が死んだのはつまらぬ政治の争いの一端だったと聞いている。互いがつまらぬ意地を張り合い。兵を退く時期を見誤り。最期には互いの軍がほぼ全滅するまで戦い続けた。
その兵も、圧力をかけて招集した武術者が殆どだった。事実、父もそんな利権の争いに興味などなかったのだ。そんな中で父も死んだのだ。悔しい思いは勿論この胸の内に在る。だが、其れまでだ。それ故に何かをしようなどとは思っていなかった。
否、思ってはいけない。
「……死んだ人間は戻らない」
ボソリと香奈枝が呟いた。聞き間違えではないかと思うほど小さな呟きだった。
一瞬、意味が分からず困惑するが、咀嚼すれば自分の考えと同じだ。
死人は戻らない。ならば、復讐など無意味だ。
「復讐は果たして、許されざることなのでしょうか?
殺した罪は死ぬことでしか償うことは出来ない。
殺したからには、殺されるしかないのではないでしょうか」
言葉とは裏腹にひどく落ち着いた声色だった。事実だけを告げるような、其れが当たり前であるかのような物言い。
そして自分の考えを真っ向から否定するものだった。
「だから人は殺す。殺さなければならない。残されたものが、殺すことでやっとゼロに戻る」
なにか呪文の類のようだった。忘れていた憎しみが、地の中、奥深くへと埋めて隠した憎しみが、固い地表を破って外に出ようとしていた。
此れ以上はいけない。
体中がそう悲鳴を上げていた。
「おい、西森のやつはどうだった!?」
その呪文は第三者の介入によって打ち切られた。許可をとるわけでもなければ、ノックの一つもない。開け放たれた先に立っていたのはもう一人の居候人。一条だった。
「あら、相変わらずですわね」
此方を向いて離さなかった香奈枝の瞳が、一条の方へとそれていった。
了は立ち上がると、襖の方へと向き直った。此れ以上彼女と一緒にいるのはまずいと、そう思った。
伝えるべきことは伝えた。目的は果たしたのだ。だが、この胸の内の暗く粘質な感情はなんだ?最愛の父。その死は乗り越えたはずだ。
そう自分に言い聞かせるようにして部屋を出ようと踏み出した。
自分が部屋の中に居たことに驚いたように、一条が申し訳なさそうな表情を作り、道を譲る。
その背中に、
「東野さん。先ほどの話。しっかりと考えてみてくださいね」
何を考えているのか分からない。そんな風な明るい声が掛けられた。
◇
夜。日が落ちた島塚村は冷え込んだ。香奈枝がこの村を訪れてから一週間が経とうとしていた。この日も食事をとった守道は陽炎と共に自室へと引き上げる途中だった。
縁側を通る際、ふと周りが明るいことに気付く。見上げると其処には満月があった。隣を歩く陽炎が同じように空を見上げる。香奈枝が来てからと言うもの、陽炎と二人きりという時間は殆どなかった。西森との話に関わってしまった以上、護衛として幾度か西森の屋敷まで出向いていた。結果は、白。だがそれが、限りなく淀んだ黒の上から、白いペンキをぶちまけた白であることは、誰から見ても明らかだった。其のことを西森は別段隠そうともせず。また、香奈枝も気づこうとはしなかった。
つまり形だけでは調査はほぼ終わりを迎えていた。
一息つくことが出来るタイミングだったからか。それとも満月が人を狂わせたのか。
陽炎は、ゆったりとその身を守道に預けた。程よい重みに守道もまた陽炎の腰へと手を伸ばした。
「守道様、この後は如何するおつもりでしょうか?」
この後。其れが意味するのは、西森の件が終わった後か。それとも自室へと帰った後か。
どうでも良いな。そんなことを思いながら、守道はその問いを聞いていた。そんな事よりも、すぐそばで感じる陽炎の熱い吐息に心を奪われていた。
“カタ”
何時もならば聞き逃していたかもしれない音だった。だが、熱に呆けそうになる頭にはその戸をあける音はしっかりと届いた。
脳内が急激に冷えるのを感じながら、そちらに目を向ける。そこは門。屋敷の門から一人の男が出て行く姿だった。
武殿………?
門を潜ったのは武だった。いつも通りに着物を着て。だがその行動は誰にも悟られぬようという警戒が滲み出ていた。
悪い予感がする。
視線を落とすと、同じように武に気付いていたのか、陽炎が此方の意を悟ったように頷いた。
後を追おう。そう思った時。
「守道さん、ちょっと良いですか?」
何処から現れたのだろうか。視界の外からかけられた声に振り返ると、一条が佇んでいた。西森との件については、よほど西森が気に入らなかったらしく、ことあるごとに、何かあれば自分に言ってくれと繰り返す彼女だったが、折り入って話があるとすれば何のことなのか見当がつかない。
ふと門を見ると、武の姿はもうなかった。
「……どういった御用件でしょう?」
向き直ってそう問うも、一条は暫く黙ったままだった。やがて、ぽつりと絞り出すように言った。
「守道さんは、武術の心得があるのですよね。剱冑の扱いについても。
実は……今、私は仲間を集めているのです。今回、島塚村に来たのもその為で。
西森に力を借りようとして……」
それで迷って東町に来てしまったというわけだった。
彼女が仲間を求めるその理由。守道には一つだけ心当たりがあった。そして、出来れば外れていてほしい心当たりだった。
「それは……景明殿を殺すためですか?」
一条の肩がピクリと揺れた。だが、次の瞬間には此方を見据え、深くうなずいていた。それは少女の表情では無く、決意を込めた武者の面構えだった。
答えは持ち合わせていなかった。代わりに、どうしてもこの因果からは逃れられぬという確信めいたものを感じた。殺すにせよ、見逃すにせよ。
彼を乗り越えなれば、自分に未来は無いのだと。一条から見えない位置で陽炎が、着物を掴んだ。心配そうな表情をくれる陽炎に大丈夫だと笑って見せた。
「もう少し、時間をいただけませんか?
彼との因縁もあります故、簡単には決められないのです」
本心からの言葉だった。だが、逃げの言葉ではなかった。むしろ逆。しっかりと向き合うことを一条と約束したつもりだった。
一条も、其の意思を汲み取ったかのように、もう一度深く頷くと、
“良い返答をお待ちしています”
と言葉を残し、彼女の部屋へと消えて行った。
守道も、陽炎へと手を差し出すと、同じように自室へと入っていった。
それを見計らったと様に、香奈枝が姿を現した。その後を追う様にさよが縁側に立つ。
二人の会話は全て聞いていた。一条の目的についてはなんとなく察していたし、兵が足りないとあれば、自分にもその懇願は向けられるとさえ考えていた。
「……ですが、そう考える時間は無いのですよ。
守道様……」
そう口元を釣り上げた。その視線の先は、西町の方へと向いていた。