夏が過ぎ去るのを感じさせるように、日中だというのにどこか肌寒い風が吹いていた。この山を歩くのも何度目の事だろうか。隣にはいつもの様に陽炎が歩いている。いつもと違う点はその逆隣りを二人の女性が共に歩いているという事だ。
「いやはや、守道様。
このようなことに御付合い頂き、何と感謝して良い物やら」
さよがそんなことを言う。もちろん目指すは西町が長。西森の屋敷。昨日の陽炎への一件で、少なからぬ怒りを抱いてはいるが、だからと言って断るのは気が引け、結局は付いて来てしまった。
おかげで香奈枝は、鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌だ。反対に陽炎は表にこそ出さぬが、少しばかりの不満を胸に溜めている。そんな表情を見せていた。
最近は色々な事が一度に起こりすぎた。其のことで一度心を閉ざしかけてしまっていた自分がいう事ではないのは重々承知ではあったが、御陰で陽炎との時間をなかなか取れていない。東野には申し訳ないが、この一件が終われば、暫くはゆっくりさせて貰おうと、そう考えていた。
が、とりあえずは目先の事だ。
「………今一度確認しますが、西森をいきなり捕らえるなどという事は無いのですね?」
何度も確認した今日の予定を確認した。香奈枝は当然という様に目を弓なりにした。聞けば、香奈枝も悪事を働いたからといって捕らえて罰を与えるのが仕事ではないらしい。あくまで事実の調査。そして、改善を促すこと。其れでも駄目な時の“処理”は他の者の担当で、彼女の担当すべきところではない。
いくらGHQ所属とはいえ、女性に其の様な事を担当させることは無いのだろう。
「今日の目的は守道様とのピクニックですから!」
………彼女は何時もの調子な様だ。また陽炎が無言の圧力を放つ。
……帰ったら、やはり陽炎との時間を増やそう。
さよもこの状況をただ愉しむように、微笑みを向けているだけだ。完全に二人のペースに乗せられている。
一体、俺の何処に其の様な扱いを受ける理由があるのだろうか?
女性から好意を向けられることなど、陽炎を除けば人生で経験したことが無かった。道場の主の家系として、尊敬の眼差しを受けることはあっても、熱の籠った視線など、向けてくる者は居なかった。
そんな物より、親戚からの、忌々しい物を見る視線の方に敏感になっていたことを、守道自身は自覚していない。御陰で、幾つかの女性の恋心に気付かなかったことも。
故に、守道にとってはある種、新鮮な感覚であり、また、陽炎が居ればこそ、迷惑な物であった。
思えば、香奈枝は出会った時からこんな様子だった。
昨日、西町から衣服を入れたいくつかの袋をぶら下げ帰った守道たちを、二人は待ち構えていた。
許可をとって玄関を潜ると、出迎えた女中の手伝いをやんわりと断り、自分たちに与えられた部屋へと足を向けていた。その途中。襖が静かに開く音がして、桃色の髪の女性が姿を現した。見覚えの無い女性だった。美しく伸びた髪に一瞬、目を奪われる。長く引いた一本の直線を思わせる姿。真っ直ぐで、ぶれることの無い印象。
彼女も突然の対面に驚いたようだが、すぐに女性らしい柔らかな笑みを浮かべた。そんな彼女からの自己紹介が守道を現実へと引き戻した。
「あら、初めまして。
今日からこの屋敷に泊めて頂きます、大鳥 香奈枝と申しますわ。
此方はさよ。私の侍従をしていただいています」
「え、ああ。
霧島 守道と申します。此方は陽炎。故在って、この御屋敷に居候させて頂いております」
「ええ、存じておりますわ」
え?と思った。
俺の事を知っているという言葉に、不可解を感じずにはいられない。
「綾弥さんから話を伺っておりますの」
そんな此方の疑問も察したような言葉に此方も納得するしかなかった。
じろじろと嘗め回すように全身を見られたと、瞳を覗き込まれる。
「あの……」
加速する動悸に思わず、声を上げた。彼女の切れ目の奥からは意図は読み取れない。
そうして、納得したように頷いた香奈枝は、にこりと微笑んだのだった。
なんでも、一条から話を聞いて、俺達に興味を持っていたそうだ。一条とも以前からの知り合いということで、昨日一日でも何度か二人で話しているのを見ていた。
尤も仲が良いようには見えなかったが。
………思い返してみても平凡な出会いしかしていないように思う。ならば何故?と言う問いの答えを、守道は持ち合わせてはいなかった。
考え事をしたせいで沈黙があったようだ。風の音と、それに揺れる木々の音。少しの動物たちの声。其れがこの森の音だった。
相変わらず、変わること無く足音を刻む三人の女性に少しの居心地の悪さを感じた。
だからかもしれない。
少し考えれば、こんな問いは飲み込んでいただろう。何か話さなくては。という思いの元、一条という名前から連想される、一人の男。
「そういえば、最近、武帝と呼ばれる集団が世の中を騒がしているそうですが、GHQの対応はどうなるのですか?」
ピクリと陽炎が反応した。此方を見たのは、俺の様子を窺ったというより、俺を心配しての事だろう。そんな彼女に大丈夫だと目配せしてやれない程に、焦りが胸の内を占めていた。
言って気付く。最近の流行の殺人鬼の話をするのとは訳が違う。守道自身、彼には好意と恨み。そのどちらもを抱いており、また、どちらともを捨てきれずにいる。
故に、それを聞いてどうするのだ?
どうなって欲しいのかという答えは、守道の中に無かった。
「あら、景明様の事を御存じなのですね」
だから、景明という名前が、すんなりと彼女の口から出たことに驚きを感じた。慌てて彼女の横顔を確認するが、相変わらず愉しそうに前だけを見つめ、視線は此方を向いてはいない。
その笑顔の向こうの表情の読めなさに冷や汗を感じる。
「………いえ、其の様な事は無いのですが」
「旅の途中で少し耳に致しましたので」
詰まりかける言葉を、代わりに陽炎が続けてくれた。
寸での所で、表面に出さぬように平静を装う。声が上ずっているのに気付いたのは陽炎だけだろう。
情けないな、全く………
その言葉に納得したように香奈枝が頷いた。なんとか話題を変えなければ。
ここでGHQである彼女に景明や村正と共に生活していたことについて言うのは気が引けた。彼女たちの出方が分からない以上、余計な情報を与えるのは回避するべき事態だ。
「そうですわね……。
まだ、そう大きな規模にはなっておりませんので、GHQとしては今のところは何も………
このような島国の事、上は此方の兵を使って、些事だと片づけるつもりなのでしょう」
それを聞いて、一つ安堵の息を漏らす。すぐさま、彼らと戦争が起きることは避けているようだった。
だが、もしそうなったら。世界と彼らとで戦争が起これば、俺は果たして、どちらにつくのだろうか?
彼らに死んでは欲しくない。だが、この気持ちがまだ景明が父と兄を殺した者だという事実が認められないからではないかという疑念が払えなかった。
答えは出ていそうで、決めることなど、出来なかった。
◇
西町のはずれ。農民たちの家とは、少し隔てた場所に、その屋敷はあった。
4人1列に並び、無言で通された廊下を歩く。縁側に沿った廊下に出ても、景色は決して良い物ではない。小高い場所に建ってはいても、その姿が確認しにくいように工夫がなされている。山を背にした造りも、敵を考慮してのことだろう。
通された先には襖。それを、先頭を歩いていた香奈枝がゆっくりと開けた。守道が後に次ぐ。
決して豪華とは言えない部屋。豪壮というより、寧ろ、武術を学んだ者が好む印象。一面の畳の先に、一本の刀が唯一無二の存在感を放ちながら飾られている。
ちらりと見えたのは、中に座り込む一つの影。
薄暗い部屋の中で、男がにやりと笑った。
「これはこれは。GHQの御一行ですか
こんな辺鄙な村までご苦労なことです」
馬鹿にしたような声色。豪勢。大雑把。そんな印象を受ける挨拶だ。
気を抜けば飲まれそうになるほどの威圧感。微笑んではいるものの、対峙すると感じる圧迫感。
そう口にした男は、また、言葉通りの人間だった。歳は40といったところか。六波羅の着物を着こなし、長く伸びた髭が顎を覆う様に茂っている。彫が深い顔立ちで、額には二本の皺が横に奔っていた。
「労い、感謝いたしますわ。
私は大鳥 香奈枝。彼女は侍従のさよで御座います。
彼らはこの度、お供をお願い致しました守道様と陽炎さんです」
香奈枝が手早く自己紹介を済ませた。
その挨拶に西森は一つ頷く。
「それで?そのGHQさんがどういったご用件で?」
「村人への高い税金が話題になっておりますの。
心当たりは御座いませんか?」
挑発的とも取れる西森の姿勢にも躊躇いなく香奈枝がそう返した。それが気に入らなかったのか、一瞬、西森の表情が曇る。しかし、直ぐに両手を広げ、ヒラヒラと振って見せた。
「いやあ、うちはちゃんと決められた税を課しているつもりですがね」
何の根拠を示すこともなく、彼はそう言った。
守道は黙って見て居た。が、その言葉に思わず自身の顔が強張るのを感じた。恩を受けた村の農民たちの事を思い出すと、手に僅かに力が籠った。
「………そうですか。では、また日を改めてお邪魔すると思います」
だが、香奈枝はあっさりとそう言った。深く追求することも、糾弾することもなく座りもしなかったその場で身を翻す。あっけにとられたのは守道と陽炎。そして、西森だった。
「おいおい、良いのかい?」
「私にも事実は分かりませんもの。
今日は挨拶に伺っただけですので」
そう言って、にこりと微笑む。そんな彼女をじっと見た西森は、立ち上がると、飾られた刀へと足を進めた。
「あんた、GHQってんだ。少しくらい武術の嗜みは在るだろう?
せっかくだ、少しは手合せしないか?」
その日本刀を手に取ると手首で軽く振り回して見せる。しなやかに回る刃先が空を斬る高い音を発した。
「いいえ、私は調査が専門ですので。
生憎、箸よりも重い物を持ったことが御座いませんの」
首だけで振り返りながら香奈枝はそう言った。それに対する西森の反応は、言葉ではなかった。
綺麗に弧を描いた刃先が頂点を通り越し下へと潜る。
その瞬間。西森はその手首を鋭く返し、刃を手放した。
逸早く気付いた守道が陽炎をその刃が迫り来るだろう範囲から手を引き遠ざける。が、その刃の行く末は、間違いなく香奈枝のもと。
まずい、と感じたその瞬間。香奈枝の髪を僅かに揺らし、刃は耳元を通り抜けた。
「あら、レディに向かって随分ですわね」
その西森に向かっても、香奈枝は相変わらずといった調子でそう言った。ここまで来ると、守道も黙っていられなかった。陽炎を背に一歩踏み出す。それを押し留めたのもまた、香奈枝の一言だった。
「大丈夫ですわ、守道様。彼は、私に当てる気なんて御座いませんでしたから」
ほう、と息をついたのは西森だった。一瞬鋭く目を細めた後、納得したとでもいう様に笑い出す。
「俺のところにどんな女を寄越したかと思ったが、すまんな、思い違いだったようだ
どうだ?最近、ウチも仲間を戦で何人か失ってな。今日の晩餐でも一緒に取らぬか?
持て成しをしよう」
「……いえ。東町の方で泊めて頂く約束をした方が御座いますので。
せっかくですが、またの機会にでも」
そう言って香奈枝が襖に向き直った。守道も一歩踏み出した足を戻す。
本人がそういうのならば、引き下がるよりほかない。西森を睨みつけたまま香奈枝を追って振り返った。
「おい、そこの兄ちゃん」
西森だった。振り返った先で、西森がにやりと笑った。
「良い眼するじゃねえか。
機会があれば手合せしたいもんだ」
「……そのような事態にならぬことを願っております」
努めて冷静に。努めて礼儀正しく。
深々と礼をした守道は部屋を出た。
握った拳は紅く変色していた。
◇
海上特有の波風を剱冑の装甲越しに感じた。傾きかけた陽が海面を緋色に染めている。視界に映るのは只管に海。この海の果てがこの度の目的地だった。
ただ一人、武者の男は黙々と其処を目指す。聞こえるのは合当理が吹かす音。この世界に在るのはそれだけだった。
「………この先に何が在るんだ?」
もう何度もした問いを剱冑に投げかけた。勿論、それに対する答えに期待などしてはいない。
<<ごめんなさい、私の口からは言えないの。
其れが許されたのは海の果て。そこに流れた我らが同胞だけ。
でも、貴方にはそれを知る権利がある。忠道の代わりに私が出来るのは導くことだけ>>
紅の機体から返答が返ってくる。それは何度目の問いかけでも同じものだった。
息をつき正面を見据えると速度を上げた。怪我―――火傷の跡が疼いたが、それも気になる事ではない。この先に我ら一族の秘密がある。
「焔、直に日も落ちる。其れまでには到着するぞ」
<<……諒解>>
短いやり取りの後、再び騎行に集中した。見据えたその先、水平線の遥か彼方に小さな島が姿を見せていた。