三度貫いた敵機は右肩から先と二つに別れ、自由落下を続けている。
右腕から鈍い痛みが駆け上がった。惨状を見る事すらも躊躇われたが、意を決して右腕に視線を向けた。辛うじて繋がっているものの、骨に到達しようかというほどに肉が抉れている。一瞬吐き気を覚えるが、次いで訪れた眩暈がそれを掻き消した。痛みと同時に意識が遠のいてゆく。先ほどの様な絶望からの感覚ではなく、安堵によるものだった。先ほどの突きの際の騎行が嘘のように体は重くなり、合当理を吹かしているのがやっとだ。今はひどく眠い。肉体の消耗。陰義の使用。とうに限界は超えている。
<<守道様………>>
陽炎が心配そうな声をあげた。金打音。機械質なその声にも確かな気遣いの色を感じた。其の身に纏う陽炎を感覚する。冷たい鉄から確かな暖かさを感じた。陽炎に抱かれている。そう錯覚する程に。
再び意識が遠のく。達成感と安心感。白く明るい光が身の内を満たす。二つの暖かな感情が胸の内に溢れだし、重力に任せるように機体を地上に向けた。
熱が脳の内をゆったりと上がっていく。思考が頭の頂点を通り越して抜けていく。気持ちよさすら感じるそんな感覚の中、誰でもない、自分自身の声を聴いた。
“人を………殺した。”
途端に血の気が引いた。体を満たしていた心地よさは波にさらわれたかのように消え失せ、代わりに視界がはっきりと開いた。胸の内のその感情は次第に体中を汚染し、収まることの無い震えをもたらす。触覚を含む感覚が麻痺してゆくのを感じた。
今、自分は自分の都合で人を殺めた。兄の為でも父の為でもなく、自分の意思で。そうだ、自分は今まで人を殺したことが無かったのだ。影での仕事では何度かこの手を血で染めている。だが血で染まったのは手だけだった。父や兄の所為にして逃げていたのだ。
寒い。とにかく寒気がした。命を奪うという事の重さに身が押しつぶされそうだった。気付けば身を丸めていた。自身の身体を抱いていた。
怖い。人を殺めた自分と、先ほどまで戦っていた彼ら。一体何が違うのだろうか。己の満足の為に人を殺す行為にはたして善悪など決めつけられるのだろうか。村人を守るなどという言い訳をして、人を殺すことに正義は在るのだろうか。
景明の姿が脳裏に浮かぶ。正義は存在しない。武を為し、人を殺める者。其の全てが悪鬼である。ならば俺は………悪鬼に他ならない。
半ば崩れ落ちるように地上に降りた。自分の足で立てる気がしない。膝をつき、地面に手を置いた。はっきりとする意識とは裏腹に、周りの視界は霞み始め、村人の群れがそこにいることはぼんやりとしか分からない。その代わりに三領の剱冑が鮮明に目に映った。自分が先ほど殺めた竜騎兵だった。一領は眉間から上を抉られ、両の目がありえない程に遠ざかっている。一領は心臓を貫かれ、池程の血だまりを作る。そして、足元に先ほど自分で切断した肩から先の片腕を見つけた。
眩暈がした。胃の中から生暖かい物が込み上げた。必死でそれを押さえつける。口の端から、溢れ出た液体が顎へと伝った。思いきりぶちまけたかった。内臓ごとぶちまければ、自分の中の黒い感情は、このうねりは一緒に消え失せてくれないだろうか。痛みは無い。もう感じない。その代わりにひどく気持ちが悪い。体の中をミキサーでかき混ぜられているようだった。
ふ、とした瞬間だった。
目の前でよろめきながら進むものがあった。ぼやけた視界の中でそれを確認する。何度も目を細め、焦点を其れに合わせた。
それは…………………竜騎兵だった。
瞬間、全ての感覚が繋がった。外れていた体中の接続が回復する。痛みは甦り、身体の感覚は元に戻る。それと同時に村人の悲鳴を聞いた。武者の雄叫びを聞いた。右腕を穿たれてなお、その竜騎兵は立っていた。
<<あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!>>
苦悶とも怒りとも取れる雄叫び。左腕に両刃造の刃を手にし、剥がれた兜の下からは血走った目が覗いている。此方には気付いていないのか。それとも、もう認識できないのか。村人たちの群れに向けて進む。逃げ惑う村人。女子供も構わず、逃げ出す人々。人々に押された一人の女性がその場で転げた。
竜騎兵が笑った。
頭の中を警鐘が鳴り響く。ギンギン五月蠅い程に喧しく体を急かす。残る全ての力を使って合当理に灯を入れた。感覚のない右手に代わり、左手に刃を握りなおす。
「おおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
気付けば叫んでいた。刃を前に突出し、只突進した。それ以上の方策が思いつかなかった。幸い、敵機は此方に気付いていない。
今ならまだ………間に合う!!!!!
“人を………殺した。”
再度、耳を打ったのは自分の声だった。ピタリと突進が止まった。壁に押し当たった感覚がした。手足が震え、前に進まなかった。切っ先はわなわなと震えだし、白沙耶が手をすり抜けた。
「……あっ………」
漏れるように声が出た。呼吸を忘れた。竜騎兵は刃を振り上げている。女性は腰を抜かしたのか立ち上がれない。竜騎兵は一層笑みを浮かべ、血走った目が見開かれる。
そして、刃が振り下ろされた。
刹那、女性の姿が消えた。否、女性を担ぎ、その場を逃れた者がいた。体を抱え、身をころがし、女性を守って見せた彼は素早く立ち上がると竜騎兵と正対した。しかしその眼は、竜騎兵では無く其れ越しに此方を見据えていた。
「守道殿、自身の命を賭してでも、この方を守りたいですか?
貴方にその覚悟がありますか?」
景明だった。女性をその身に隠すように立ち、竜騎兵に正対する一方で、その視線は間違いなく此方を射抜いていた。逃げ惑う民。阿鼻叫喚の渦の中にあって、彼の声は別次元から届くもののように鮮明に聞こえた。
まるで悪魔との契約だった。
咄嗟の問いに、一瞬の躊躇いもなく答えた。
「ああ、この命に代えてでも!!!!」
これ以上、人の死を見たくなかった。救える命を救いたかった。それ以上の思考は無かった。
気付けば、村正が景明の隣に立っていた。その眼は明らかな悲しみをたたえている。世界から音が消えた気がした。世界が暗転した。代わりに悪寒がした。なにかとてつもなく悪いことが起こることを察した。先ほどまでの寒気とはまるで比にならないほどに震えがした。二人から目が離せなかった。
景明はもう此方を見ていない。竜騎兵を見据えていた。温かみのあるいつもの目ではなかった。底冷えするように冷たい目。それでいて何かに歓喜する目。
先ほどの竜騎兵のようだった。
女性を殺し損ねた竜騎兵が再び雄叫びを上げた。怒りに任せ、その刃を握りなおしている。何故かその雄叫びは耳に入らなかった。そんなものよりもはっきりとした、呪いの詩が聞こえた。
「鬼に逢うては鬼を斬る。
仏に逢うては仏を斬る。
――――――剱冑の理ここに在り」
村正はその美貌を無骨な紅い蜘蛛へと変えた。ひどく美しい光景だった。その身が砕け、景明の周りを漂う。そして、吸い寄せられるように、纏わりついていた紅の鎧がその身に纏われた。
一瞬。刃が空を斬る音がした。其れで終わりだった。其れが全てだった。装甲が崩れる音が遅れてやってきた。
右腕と頭を無くした竜騎兵だったモノが地面に横たわっていた。
「あっ……あっ……」
口から情けない呻きが漏れた。その姿を見間違う筈も無かった。兄と父を落とした武者。憎むべき敵。しかし彼は友好を深めた者。思考が上手くまとまらない。口から洩れる言葉は意味を成さぬ呻きばかりだった。
景明は首を撥ねた刃を鞘に納めると、此方に向かって歩きだした。
<<守道殿、昨晩の問いに答えましょう。
俺は悪鬼。武を為すもの。
天下に善悪相殺の理を布く者。
悪意を以て敵を殺したならば、善意を以て同数の味方を殺すべし。
これこそが武の在り方であり、我が布く理なり。
故に“守道”。貴様の命を以て善悪相殺を完遂しよう>>
此方に向く足取りは一片の躊躇もない。対して此方の足は動いてくれようとはしない。
確かな憎しみがあった。主と定めた兄を殺されたのだ。
確かな友情があった。短い間とはいえ共に過ごしたのだ。
そして、確かな確信があった。この男には勝てないと。
武術での話ではない。自ら正義の答えを導き、武のなんたるかを悟り、はっきりとした意思を以て此方を見据える景明をこんな自分が倒せると思えない。迷いの混じる刃は決して彼に届かない。
恐怖が身を強張らせ、目が此れでもかというほどに見開かれた。次第に呼吸は荒くなり、彼の姿だけを両目が捉え続けた。陽炎が何かを叫んでいるが、何を言っているのか聞き取れなかった。彼の歩く度に軋む装甲の音と姿だけが世界の全てだった。
「止まれ、景明殿!!!!!!!!」
そんな世界に第三者が介入してきた。
――――遠藤だった。
その声にハッとなり、状況を確認する。景明と自分との距離はまだ随分とあり、その間を割っているように、遠藤が姿を見せた。
「守道殿、逃げなさい。この方角に真っ直ぐ飛べば、貴方の元いた村に戻れます」
遠藤が此方に背を向けたまま、右手を真っ直ぐに掲げる。其の手には何の得物も持たれてはいない。否、いくら遠藤が強者としても、あらゆる得物が剱冑の前では無力。
<<これはこれは、遠藤殿。
申し訳ないが、俺は後ろの守道に用があります故。
其処を退いて戴きたいのですが>>
「はて、恩着せがましい爺と罵って戴いて構いませんが、儂は景明殿に宿と飯の恩が在る筈ですが?」
<<其れ故に殺したくないと申しているのです。
さあ、其処を退いてください>>
口調こそ丁寧なものの、明らかに見下した物言いだった。景明と遠藤。お互いの間を明確な敵意が交差していた。
<<無茶です、遠藤殿!!!!
相手は剱冑です!!!>>
僅かに残った理性がそう叫んだ。
「喧しいわ、小童が!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
儂は逃げろと命令しておるのだ!!!!!!!!
お前たちを守るのが我が運命“さだめ”!!!!!!!!」
遠藤とは思えぬ物言いだった。気圧されるような響きが其処に在った。言葉に詰まる。体は今すぐにでも逃げ出そうとしていた。小さなプライドが口に出させた言葉だった。其れを否定された。
ほら、遠藤殿もこう言っているだろう。
自分の中で甘言が反響する。もう逃げ出せば良いじゃないかと。一方で其れを言い訳にする自分を戒める自分が居た。
最期の勇気と気力を以て立ち上がった。遠藤の隣に立つ。そして、村正を見た。
瞬間、我を失った。ぼんやり見ていた先ほどとは違う。圧倒的な存在感。肌に感じるほどの威圧感。其処に在るのは一領の剱冑ではなく、最早なにか巨大な別物だった。
「分かったろうに。
お主に景明殿の相手はまだ早い。
今逃げることを恥と思いなさるな。
次の機会に勝てば良い。其れまでに自分の答えを探し出すのですよ」
先程とは打って変わった優しげな声だった。肩を一つ叩かれた。にこりと微笑まれる。皺の寄った深い笑みだった。決壊したように涙が溢れた。
そして、我を忘れたかのように背を向けると、一目散にその場を逃げ出した。
後ろに気配を感覚する。遠藤の気配が離れていった。
自分を罵倒した。自分を蔑んだ。知り得る単語全てを使って自分を貶めた。
それでも真っ直ぐ飛んだ。今できる最大の速度で、この島を飛び立った。
<<して、遠藤殿。
真逆、御身一つでこの村正の相手をしたとして、時間稼ぎになるなどと甘い夢を抱いておりますまい>>
背を向けて飛び立った金色の機体を眺めている背中にそう声を掛けられた。その言葉に、視線を戻した。優しげに揺らいでいた瞳が細められた。
「若造が、生きがるなよ」
おどけた様な言いざまは普段の遠藤通りだったが、目は鋭く景明を見据えていた。
景明の目には老木の様に映った。
音を立てて、木々が揺れた。そして、風を切るようにして姿を現したものがあった。
――――――青い狐の姿をした剱冑だった。
<<よお、御堂。久しいじゃねえか! ?>>
「ふっ。申し訳ないですが、再び装甲することが必要とされましたので御呼び立てさせて戴きました」
大男を思わせる、低い声だった。遠藤の隣に並んだ狐は、先ほどまで遠藤がしていたように、たった今飛び去った金色の機体の行方を目で追った。
<<遂に神代に魂を宿したか………>>
「彼らを逃がすため、御手をお借りしたいのですが」
<<ふん。露払いの一族を守るのは我らの運命“さだめ”でもある。聞くまでも無かろう。
そんな事より御堂。老いて、腰抜けになってやしないだろうな……?>>
「其れこそ愚問。但し、敵機も相当な手練れ。全力で参りましょうぞ」
仕手と剱冑。二対四つの瞳が敵を捕らえた。景明は最早何も口にしない。ただ黙って鞘に手をかけた。それは合図。戦闘を、殺し合いを始めようという申し入れ。
呼応するように遠藤の口から装甲の口上が放たれた。絡み合った因果の一つが解けた。
「我、鎧なり! ! 我、鋼なり! ! 我、汝を敵より護る者なり! ! !
其の眼前に屍は無く、其の道に残りしは聖者のみである! ! ! ! !」
其の身に纏うは青の剱冑。双筒の合当理に灯が灯る。腰の鞘から刀を抜き放ち、地上で睨み合う。景明がジワリと身を屈めるのに呼応して、遠藤は空へと駆け上がった。
<<この炎道 文(えんどう ふみ)、纏う剱冑は二代目焔!!!!!!
其の名に懸けて貴様を討とう、景明殿!!!!!!!!!!!!!!!!!!!>>