※この作品は、小説家になろう様にも投稿させて頂いております。
序章 ゆめうつつ
さらさらと、沢の音。
霧のなか、ひとり歩く。
手を伸ばせば、指先も定かでない。
おまけに足元は石だらけ。まるで、話に聞く三途の川のよう。
怖くて、不気味な景色。
行き道も帰り道もわからず、それでも歩く。
その先に、ふいに人影が生じた。
驚きの声をかろうじて飲み込み、一歩、前へ。
目と鼻の先。濃い霧の中、そこまで近寄って初めて、姿があらわになった。
少女だ。
年頃は七、八歳。
白装束で、目を見張るような冴えた黒髪の少女。
「なにをしているの?」
尋ねると、少女は不思議そうに首を傾けた。
吸い込まれそうな深みを持つ、黒い瞳。顔の造作は、あどけないがはっきりと美しい。
「なぜ、こんなところにきたの?」
少女が、逆に問い返してきた。
とっさに答えかねていると、少女はまた、口を開く。
「もうかえりなさい。ここは、こわいところよ」
少女が踵を返す。
世界が、また白で覆われる。
沢の音までが、遠ざかっていく。
天に向かって引き揚げられるような感覚を覚え、そこでようやく気づいた。
――ああ、これは、夢なんだ。
第壱話 不思議の郷
はっと目を覚ます。
バスの中、居眠りをしていたのだと気づいて、とっさに外を見る。
窓から見えるのは、田舎の田園風景。一面青々とした田んぼが広がっており、おまけのように民家がぽつぽつと見える。
バスの中に目を転じる。
車内に他の乗客の姿は見えない。
居るのは自分と運転手の二人だけ。マンツーマンだ。
居眠りする前には、まだ十人ちかい乗客が居た。どうやらけっこうな時間寝ていたらしい。
などと考えていると、唐突にバスが減速を始めた。
『川上原ぁー。川上原ぁー。終点です』
運転手のアナウンス。
降車予定の場所である。
シート周りには、私物が広がっている。
「すみません! 降ります!」
運転手に声をかけながら、あわてて荷物をまとめる。
それから料金を払い、もう一度運転手に頭を下げてから、とっくに停車していたバスから飛び降りた。
その、鼻先。
女の子の驚いた顔があった。
バスの降車口の真正面に立っていたのに気づかず、いまにもキスしそうな至近距離に迫ってしまったのだ。
「す、すみません!」
あわててつんのめり、それから頭を下げる。
その真上から、鈴を転がすような声が降ってきた。
「サトリちゃん?」
困惑したような、少女の声。
その、呼び方に、思わず頭を上げた。
きゃ、と、少女が声を上げたが、構わず彼女の顔を見つめる。
白のワンピースに、日除けだろう。麦わら帽をかぶっている。年のころは十六、七。目を見張るような冴えた黒髪に、優しく整った顔立ち。
間違いない。面影がある。なによりこの俺、青峰佐鳥をサトリちゃんなどと、尻がむずがゆくなるような名で呼ぶ人間は、この世では一人しかいない。
「雛、か?」
白沢雛(。
子供の頃、父の田舎であるこの場所に来るたび一緒に遊んだ、いとこの少女だ。
記憶にある姿より、はるかに成長している。とはいえ、俺と同い年、今年十九になることを思えば、いくぶん童顔と言えるかもしれない。
そんなことを考えながら、彼女の顔をまじまじと見つめていると、少女が恥ずかしそうに身じろぎした。
「そ、そうだけど……サトリちゃん。あんまりじろじろ見ないでよう。恥ずかしいよ」
顔を赤らめる少女。
悪い、と言いながら、俺は手を差し出した。
「あんまり美人になってて驚いたんだ。最後に会ったのが中一の夏だから……ちょうど六年ぶりか?」
「び、美人……ふぇ」
ほほを朱に染め、照れながら、雛は手を握り返してくる。
その、俺の手が。いきなり。
ぽろりともげた。
「ええっ!? あ、う、あうううあ!?」
見事にパニックを起こす雛。
手の中に残った俺の右手をお手玉しながら、右往左往。
もちろん人の手など簡単にもげるはずがない。よくできた作り物だ。本物は長袖のシャツの中。
「落ち着け。これ見ろ、これ」
びっくりするほど純粋な反応に、苦笑しながらネタばらし。
長袖から本当の手を出して見せる。
さらに悲鳴が上がった。
「てっ!? 手が生えてきたようっ!?」
なんだこの反応、かわいすぎる。
記憶の中の、小学生の頃の雛そのままだ。
こんな彼女が見られただけでも、暑い中、わざわざ長袖を着こんできた甲斐があったというものだ。
それからしばらく。
ようやく落ち着いた雛は、やっと俺のいたずらに気づいて、ジト目を向けてきた。
「まったく、サトリちゃん。電話で話して、大人っぽくなっちゃったな、とか思ってたのに、そういういたずらっ子なとこだけ変わってないんだから」
「悪い。俺も、あんまり久しぶりだったからさ。緊張ほぐすのに、ちょうどいいかと思って」
実際、いまのやり取りで完全に以前の二人に戻った感がある。
六年間も会っていなかったとは思えないくらい、彼女に壁を感じない。
「じゃあ雛。しばらく世話になるけど、よろしく」
今度は本物の手を出して、握手を乞う。
雛は、警戒混じりに手を伸ばしてきて、そっと手を合わせてきた
白い。それに、冷たい手だ。
夏の暑さの中、不思議なほど冷えた手に心地よさを感じながら、俺は雛の手をしっかりと握りしめた。
「うん。こっちこそ、町の変な風習押しつけちゃってごめんね? 来てくれて、ありがとう」
言いながら、彼女は微笑む。
その笑顔が、記憶の中にある雛よりずいぶんと大人びて見えて、すこし、どきりとした。
◆
化粧町(という名の町がある。
某県にある、山間の小さな町だ。
周囲をすべて山に囲まれ、外に通じる道はただ一本。
中央線すらない細い舗装道路は、町の中心、川上原(までしか届いておらず、他の道はすべて未舗装。
そんな閉ざされた田舎町だ。
奇妙な風習の一つや二つあってもおかしくない。
それこそが。白沢雛が「奇妙な」と形容する、その風習こそが、俺がこの化粧町に呼ばれた理由だった。
化粧町の人間は町の内と外を強烈に意識する。
外への出入り口である峠をさかい峠と呼ぶほどだ。もちろん“さかい”は“境”つまり境界の意だろう。
内は安全で、外は穢れている。
だから、外に出た化粧町の人間は、穢れを払う必要がある。
そのための儀式が、“禊の儀”。外部に出た人間が定められた年齢の時に行う、穢れ払いの儀式だ。
以上、すべて雛からの受け売りである。
「――でも、びっくりしたよ。雛から俺の携帯に、いきなり連絡が入ってきたときは」
まばらな民家の間を通すように、細く伸びた未舗装の道。
じりじりと照りつける夏の日差しの下、肩を並べて歩きながら、俺は雛に話しかけた。
「ごめんね、いきなり」
「いいよ。別に」
軽く手を振り、ふと付け足す。
「いや、むしろ嬉しかったな。なつかしい声が聞けて。なにしろ、六年ぶりだったからな」
「ごめんね。連絡できなくて。どこへ連絡したらいいかわからなくて」
「それはこっちもだよ。親父やお袋が事故で死んで、お袋のじいちゃんの世話になってたんだけど……なにしろ画家で根なし草だったからな。年のわりにあっちこっちに渡り歩いて、目まぐるしいったら」
そのうえ、絵を描くのに邪魔だからと携帯も持たない。
俺にはやさしい、いい祖父なのだが、気づかいとか、人づき合いとかそういったものが苦手な人なのだ。
「ほんとにね。お父さんも怒ってた。小さい子連れまわすくらいなら、家で預かるのにって」
「まあ、白沢のじいちゃんが早くに亡くなってたからな。叔父の家に放り込むくらいなら、わしが孫の面倒をみるって聞かなかったからなあ」
「心配したよ? 連絡取ろうと思っても、足跡もつかめないし。サトリちゃんが大学に進学して一人暮らしするようになって、初めて連絡先がわかったんだから」
本当に、よく突きとめてくれたものだと思う。
祖父が白沢の家への連絡先など知るはずもなし、俺の方からもまったく連絡が取れなくなっていたのだ。
「でも、ありがとうな。俺を探してくれて」
「ふぇ?」
声をかけると、雛がきょとんと首をかしげた。
そのしぐさは、ひどく幼いものに見える。
「おかげで、またこの町に来れた。俺、じいちゃんは定住してないし、小さいころ住んでた家は借家で、もう別の人が住んでるしで、ここくらいなんだよ。ちゃんと故郷って呼べるのって」
感謝の念を込めて、雛の肩に手を置く。
雛は、すこしほほを染めて、口元を綻ばせる。
「サトリちゃん……って、ふぇーっ!? また手がっ!?」
ぽん、とまた俺の手が取れたのを見て、雛がまた悲鳴を上げた。
この歳でその純粋さはどうなんだろう。田舎育ちだからなのだろうか。
――ほんと、変わらない。かわいいなあ。
心の中でつぶやきながら、雛に笑いかける。
空は青々として曇る様子はなく、田では青々とした稲穂が天に向かい伸びている。
なつかしい故郷の田舎道を、いとこの少女と歩きながら、なんとなく、この山野に向けてつぶやいた。
「ただいま。化粧町」
と、横で聞いていた雛が、急に前へ走り出る。
くるりと振り返った彼女は、田舎道の真ん中に立つと、出迎えるように礼をし、言った。
「おかえり、サトリちゃん」
日の光に溶けるようなその笑顔は。
俺の心臓を、驚くほど強く打った。