「あり、がとう。翔太くん」
翔太の言葉を受けて浮かんだ涙を拭いながら、すずかは微笑んだ。翔太の決意を感じて思わず流れた温かい涙だった。嬉しかった。これで大事な人を失わずに済む。
「でも」
それは失わないだけ。
そばにいてくれるのだろう。守ってもくれるのだろう。でもそこにはハッキリとした境界線が見えた。
片膝をついた翔太の姿勢がそれを何より物語っている。姫に使える騎士のように、腰を落として、位を落として、すずかのことを上位者のように見上げている。
「そんな上下関係は、いやだよ」
「え?」
人は一つのものを手に入れたら、その次のものを欲する。そばにいる事が叶ったのなら、対等な関係も取り戻したい。翔太は犯した罪に縛られたがっているが、すずかはそんな後ろ向きな理由でいて欲しくない。
そもそも現状では翔太の方が危険は多い。空を飛ぶのが得意なのに、身の守りが薄い。攻撃手段も使いきりの小説の能力だけで、それもほとんどが強力すぎる所為で使いどころが難しい。
だからそんな不安定な状況の翔太に素直に守られる事を良しとするだけの、夢見るか弱い女の子じゃない事を教えてあげるのだ。
「翔太くんが私を守ると言うのなら、私も翔太くんを守る」
そう言ってすずかも片膝をついて翔太と目の高さを合わせる。
翔太は慌てたように視線を泳がせ、手をぱたぱたと振る。
「いや、でも、俺はすずかを傷つけたんだし、守られる資格なんか――」
ぱしっ、と持ち前の動体視力で翔太の手首を掴む。
「え?」
そのままもう片方の手で肘も掴み、翔太の前腕を自分の口元に引き寄せる。
「私が望むのは、上も下もない対等な関係だよ? でも翔太くんが私を傷つけたせいでそれができないというのなら、今度は私が翔太くんを傷つける」
翔太が加害者で、すずかが被害者。その構図を変えられないなら、すずかも加害者になり、翔太も被害者になればいい。どちらも加害者かつ被害者になれば対等だ、とすずかは言う。
「えぇっ!?」
『いや、その理論はどうかと……』
とんでも理論に、ここまで経緯を見守っていたスピネルも思わず口をはさむ。
でもそんなことは聞こえないというように、すずかは口を開いて翔太の腕に噛みついた。
「いつっ」
「ん……」
こくん、こくんと、喉を鳴らすすずかをみて、翔太はこれが吸血行為であることに気付く。傷口が熱く、少しずつ血が失われていく感覚がした。
「いや、でも、この程度でアレと相殺なんて」
「ん…………」
翔太の言葉を無視して、また喉を鳴らす。
「……」
「ん………………」
こくん、こくん、こくん
「…………」
「んん……………………」
こくん、こくん、ごくん
「…………え、っと」
「んんん…………………………」
ごくん、ごくん、ごくん
「ちょ、待、っ!?」
「んんんんっ!」
ごっくん、と大きく飲み込んで、犬歯を抜く。
「うぅ、なんか、目眩が……」
「ん、れろ、んぅ。ふう」
最後に傷口を舐めて塞ぎ、どこか妖艶という言葉が似合いそうな頬笑みを浮かべるすずかの様子にも、翔太は気付くことなく頭をふらふらとさせる。
「ご、ごめんなさい。人から直接吸うのは初めて―― あ、厳密に言えば二回目だけど、その、加減がわからなくて……」
「あ、うん、だいじょぶ、だいじょぶ~」
貧血で青くなった顔で、引きつりながら苦笑いを浮かべる翔太。
そんな状態の翔太を支えてソファーに座らせながら、すずかはここまでした理由を口にする。
「その、でもこんな状態だと私は守れないよね?」
指先は冷たく震え、支えられなければ立ち上がる事すらままならない。これでは確かに守るどころか魔法すらまともに使う事ができない。
「えぇー……」
確かに反論もできないが、オブラートに包んでもえげつないと感じるやり口に、思わず不満を漏らしてジト目を向ける翔太。よく見るとすずかの肌がつやつやとしているような気もする。
『……ひょっとして、計算づくですか?』
「こ、ここまでやるつもりはなかったんだけど」
我が主ながら末恐ろしい、と呟くスピネルから目線を逸らしながら、すずかは翔太の対面のソファーに座り直す。否定はしなかった。
「確かにきついけど、だけどやっぱりこれだけで相殺できるようなもんじゃないだろ……」
動かす事すら億劫になった身体をソファーに深く沈ませながら、翔太は力なく呟いた。
「うん。たしかに"これだけ"なら釣り合わないと思う。でも、"これからも"ならどうかな?」
「……あーー、そゆこと」
少しばかり考えて、なんとなくすずかの言いたい事が予想できたのか、翔太は先ほど噛みつかれた腕を見つめる。
「……私は、吸血行為をすることが本当はいやなの。普通の人と違うんだって突きつけられる気がして。でも、私達夜の一族はそれをしないと身体を維持できない。吸血を拒み続ければいずれ衰弱してしまう……。それを防ぐために、今までは病院とかから輸血用の血を分けてもらっていたの」
それだって本当はいやだったけど、と小さく呟くすずか。
「でも人の手を経た血だと、あまり効率がよくないらしくて……。わかりやすく対比すると直接吸血した場合だと1ですむものが、輸血用のものだと5も必要になってくるの」
「そりゃ、全然違うな」
すずかは血を吸うという行為自体を忌避しているが、夜の一族である以上それは避けられない。でも輸血用のもので身体の維持に必要な血を得ようとすれば、その回数も量も増えてしまう。だが、直接の吸血の場合は、その量が少なくなる上に、その行為を文字通り受け入れてもらっているという事実が、目の前にある。どちらの心理的負担が少ないかは明白だ。
翔太はすずかを守ると誓った。それは身体的な物だけじゃなく、心も含まれる。
目を閉じて少しの間黙考した翔太は、身体を起こして声に力を込める。
「……それなら俺は、すずかを心理的負担から守るために、これからも俺から血を吸って欲しいと頼む」
翔太の言葉に嬉しそうにふわりと微笑んで、小さくうなずく。そしてすずかも背筋を伸ばして応えた。
「でもそうすると翔太くんは貧血になるよね? さすがに今日ほどにはならないように自重するけど……。でも、そんな状態じゃまともに戦えないだろうから、今度は私が翔太くんを守りたい」
「辞退は?」
「受け入れません」
ちょっぴり胸を張って言い切る。
その答えに翔太は片手で額を押さえて、再びソファーに体を沈める。
「はー、ホント敵わないな。……すずかには一生勝てる気がしねーよ」
その翔太の呟きと共に少し前まで部屋を包んでいた張りつめた空気は、もうすっかりどこかに霧散してしまっていた。
『……私個人としては、この無茶苦茶な論理展開に異議を唱えたいところですが』
翔太のすずかの間で昨日の件について一応の決着がつき、二人とも落ち着いた表情で机に残されていたもうすっかり冷めたお茶で喉を潤していると、スピネルがどこかお硬い口調で喋り出した。
『マスターも貴方もそれで良いというのなら私に否やはありません。それでは、時についてどう対応するか、という話を進めてもよろしいですか? お二人ともその件をすっかりと忘れているようなので』
「「あ」」
その指摘に翔太もすずかも図星を指された表情を浮かべる。
『どうします? こんな時間ですし、特に貴方は貧血気味で辛いのであれば朝まで休憩するのも一つの案ですが?』
未だに顔色が悪い翔太を見やってスピネルが提案する。
「……いや、しんどいのは事実だけど、時の影響下でも記憶の継承ができる条件がわからない事には安心できない。白鳥姉の記憶が消えてたことからリンカーコアを持ってるだけが条件じゃないんだよな?」
翔太はその提案を断って、このまま話を続ける事を選んだ。
もしまた記憶がリセットされて、再び吸血殺しを使ってしまうような事態は絶対に避けたいからだ。
「確か、銀色の魔力光を持ってる人じゃないとダメなんだよね?」
『ええ、その通りです』
すずかは少し前のスピネルとの会話を思い出し、スピネルはそれを肯定する。
「いや、でも俺の魔力光は透明のハズだし…… ほら」
そう言って翔太は自分の手首に飛行魔法のフィンを作り出す。透けていてわかりにくいいつもの魔力光だった。
『そういえば、貴方の魔力光は攻撃を受けた相手と同じ色に染まるという妙な特性があったのではありませんか?』
「あ、そういえば……」
先日のやり取りを思い出す。白鳥の指示でユーノの魔力弾を受けた後、翔太の魔力光がユーノと同じ翡翠に染まっていた。
「確かに、"昨日"最後に翔太くんに魔法を当てたのは私だったと思う」
「ああ、あの影から影への転移攻撃な」
『それで銀色の魔力光になり、記憶を継承出来た……と? 見た目の色だけの変化かと思っていましたが、魔力の性質そのものが変わるとはにわかには信じられませんね……』
魔法と出会って日が短く、事があまり理解できない翔太とすずかとは違い、その異質さを理解したスピネルは頭を悩ませる。
『そもそも時間が巻き戻った零時の時点で肉体的に死を迎えていたはずなのに……』
「あー、リンカーコアは身体じゃなくて魂に宿るものだからじゃないか? ほら、霊とかがポルターガイストを起こす時とか魔法使ってたし」
「……霊?」
翔太がしれっと、訳知り顔で"霊"と口にした事にすずかは首をかしげる。しかも"魔法使ってた"とか言いきっている辺り、推測とかじゃなさそうな気配がする。
「え、と、その、翔太くんって、ひょっとして、見えるの? というか、幽霊って、本当に、いるの?」
おっかなびっくり、しかも否定して欲しそうな感じで翔太に聞いてみるすずか。
「うん」
さらっと認めた。
「…………」
知りたくなかった事実を教えられてどんな表情を浮かべていいか迷っているすずかを見て、翔太は苦笑いを浮かべる。
「えーと、多分うちの秘密ってのもそっち方面だと思う」
退魔師とかそんな感じじゃなかろうか、と呟いた。姉や兄が見えない何かと会話をしている場面は結構目にするし、翔太自身も波長が合えば見る事ができる。ただ、波長が合わなければそういうものが見えない程度の力しかもたないから、家の事を教えてもらえないのだろうと推測している。
『今はそんなことはどうでもいいです。それよりも貴方のその魔力光変換がどの程度のものなのか試す必要があります。マスター、彼に一撃お願いします』
「あ、うん」
「ちょ、いきなりっ!? って、痛ーっ!?」
すずかにとって衝撃的な事を聞かされて気が逸れていたせいか、スピネルに乞われるがままに躊躇をする間もなく生成した魔力スフィアを翔太にぶつけた。
「ご、ごめんなさい」
「い、いや、必要ならいいんだけど……。あ、やっぱり銀色になってる」
すこんとぶつかった右肩をさすりながらもう一度魔力光を確認すると、やっぱりすずかと同じ魔力光になっていた。
『そして私を手にとって、封印解除と唱えてください』
「え、俺に出来るの?」
『それができるかどうかの実験です』
「やってみようよ、翔太くん」
そういって月の鍵を翔太に手渡すすずか。
それを手に半信半疑な感じで口を開いた。
「封印解除! っとホントにできた!?」
手のひらサイズだった鍵の形状から、先端部分に満月を模した銀色の大きな飾りが付いている長い青い杖に変化していた。
『この様子ではクロウカードも使用できそうですね…… どうやら本質的に魔力の質が変化しているようです』
「こ、これで俺もカードキャプター?」
『お断りします』
「即答っ!?」
ひゅんと小さな魔力の残滓を残して鍵のモードに戻ったスピネルは、そのまますずかの手元に戻った。
『私のマスターはあくまで月村すずか嬢ですので』
「ふふ、ありがとう。スピネル」
「うん。わかってた。 んと、あとは……」
とりあえず翔太が時の影響下で記憶を引き告げた理由はわかった。もし今日中に時を封印する事ができなかった場合でもなんとかなる事がわかった時点で気が抜けたのか、翔太の瞼が重くなった。
『深夜三時…… 年齢的にきつい時間帯ですし、精神疲労に貧血も。そろそろ限界でしょう。重要なことは確認できたのですから、話の続きは朝になってからでいいですね?』
「あぁ…… うん。……ごめん、もう、無理…… ん…… すぅ……」
スピネルの言葉が合図となったのか、翔太はそのままソファーに身を預けて寝息を立て出した。
その安心したような穏やかな寝顔を、痺れを切らした忍が突撃してくるまで、すずかは静かに微笑みながら見守っていたのだった。