「――――っっぁ!!?」
隙間からさす月の光だけが頼りの薄暗い部屋の中で、すずかは目を覚ました。
身に纏う薄い青のネグリジェは、全身に浮かんだ汗の所為で体にぴったりと張り付いてしまっている。
「っは、っは、っは」
がたがたと震えて言う事を聞かない体で、なんとか上体を起きあがらせる。胸に手を置いて落ち着こうとするが、息は荒いままでなかなか治まる気配がない。
目を閉じて深呼吸をしょうとしてみても、息を吸い込む前に瞼の裏にアノ光景が浮かんでくる。
「う……」
口元を押さえて、わきあがってきた吐き気を抑え込む。
(あれは、夢なの……?)
顔の前に持ってきた手を見つめる。グー、パーと繰り返し、ちゃんと感覚もあることを確認する。
だが、消えない。指先から灰になっていったあの感覚が。
消えない。熱を失っていくあの感覚が。
消えない。命が消えていくあの感覚が。
「あぁぁ、ああ……」
自分の身体をどれだけ強く抱きしめても震えが止まらない。歯の根もガチガチとなって全然かみ合わない。
怖い、怖い。認識してしまうのが怖い。
「誰か、たすけて……」
『マスター』
「……あ」
思わず口をついた助けを乞う声に応えたのは、落ち着いた声のスピネルだった。ベッド脇のサイドテーブルにあるミニクッションの上に置かれた銀色の鍵がきらりと光る。
「スピ、ネル……?」
(さて、見かねて声をかけてしまいましたが、どうしましょうか)
放っておけば身のうちから来る恐怖で崩れ落ちてしまいそうだったので声をかけてしまったが、スピネルは内心で嘆息する。
すずかを苛んでいるその記憶。夢か事実かわからない状況でもこの取り乱し様。スピネルが真実を告げてしまえば、よりすずかを傷つけてしまうことになるのは明白だ。
さりとて話さないわけにはいかないし、例えここでごまかしたにせよ、いずれわかること。最悪悲劇を繰り返す可能性もあるのでそこは絶対に回避しなければならない。
となると話すしかないということになる。
月村すずかは確かに一度灰になって命を失った事を。
今もどこかで潜んでいる時のおかげでなかった事になったとはいえ、平静で受け入れられるはずもないそのことを、自分の口からマスターに伝えなければならない事が気が重いスピネル。
(ですがまあ、感情の矛先を少々逸らすくらいならできるでしょう)
すずかが灰になったその後に起こった、衝撃的ないくつもの出来事を思い浮かべるスピネル。
対してすずかはといえば、声かけてから黙り込んだスピネルを見て、もしもあれが夢ならば―むしろそう思っていたい―随分恥ずかしいところを見られたのでは? と気付き、誤魔化すように言い訳の言葉を口にしようとする。
「わ、わたし怖い夢みて、ふ、ふふ、おか、おかしいよね」
だが、その回らない舌が、アレが夢でなかったと自覚していることを表わしていた。
その様子を見たスピネルは、この小さなマスターをこのまま不安に怯えさせるのは可哀想だと判断し、たとえ受け入れがたい事でも事実を正しく伝えて現状を認識してもらうべきだと腹をくくった。……実体のないスピネルには腹などないのだが、そこは気にしない。
『マスターが恐怖しているその記憶は、残念ながら夢ではありません』
「っ…………」
黙り込むすずか。やはりわかっていたのだろう。
「…………だ、だったら、なん、で、今、生きて……」
当然の疑問だろう。死んだ記憶があるのに、それが夢でないとスピネルは言う。だが、今すずかは生きている。
『簡潔に言ってしまうと、クロウカードの仕業です。いえ、この場合は"おかげ"と言うべきでしょうか』
スピネルは、すずかを最も傷つけるであろう死については言及を避け、"何故そんな現象が起きたか"を説明する。
『時のカード。通常の能力は魔力に応じて時を止めることができます。ですが今回の状況は特殊能力の方が作用しています。
その特殊能力とは、午前零時限定で、時を二十四時間巻き戻す事が出来る、というものです』
「…………すごい、能力だね。それは何か失敗した時に便利かも」
その能力の凄さに驚いたというのもあるが、気を紛らわせるためという意味合いの方が強い感じで喋るすずか。
『いいえ。時の力はそんな簡単なものではありません。その能力を使う場合は、"今日この日に時を戻す"と決めて、前日の午前零時から魔力を貯め続けることで、ようやく翌午前零時に二十四時間巻き戻せるだけの能力が発揮できるようになるのです。突発的に使えるような能力ではありません』
「……それじゃ、今回はたまたま時が"今日この日に時を戻す"と決めてた日だったんだね」
スピネルの説明を聞けば、そう思い至るのは当然の事だ。だが、今回起こった事はその斜め上をいっていた。
『…………いえ、本来なら先ほど言った通りの手順を踏まなければ発動できない能力であったはずなのですが、今回は必要な儀式を行っていないと思います。
時はその能力を使うときは、街の大きな時計にとり憑くのですが、その時に例えば鐘を鳴らすとか、周囲になんらかの信号を発します。ですが今回はそれがなかった。本来であれば、今日この日に、時を戻すことなどできなかったはずなのです』
「そ、それじゃ、一体、なんで……」
時が時を巻き戻さなければ、すずかの死は確定していた。間接的にそう言われたすずかは再び恐怖に身を引き攣らせる。
『それについては、既に推測を立てていますが…… 聞きますか? 色々とショッキングな出来事の連続ですよ?』
「…………うん、聞きたい」
すずかとしては自分が死ぬという出来事以上にショッキングな出来事など早々ないと思っていたが、事実は想像の斜め上どころか大気圏を突破してあまりあるほどに吹っ飛んでいるものだった。
スピネルは淡々と、すずかが認識できなくなって以降の事を話し始める。
『まず、暴走したファリンが翔太を殺しました』
「…………………………………………………………え?」
初っ端からこれである。
『ファリンは貴女方"夜の一族"の長い寿命の間、共に生き、守るために作られた自動人形だそうですね。今ではその製法は失われたと"昨日"忍から聞きましたが、立派に失われた過去の遺産を名乗れる代物ですね』
すずかがスピネルの言葉の意味を理解できずに自失している間も、スピネルの口は止まらない。
『忍はマスターが魔法に関わっていると知ってから、強力な防衛プログラムを組んでファリンにインストールしていたそうです。外で行動する分には自主性に任せることにしたそうですが、敷地内については自分が守ってあげようとか思ったらしいです。
強力と言うべきか、凶暴と言うべきか。とにかくその防衛プログラムに突き動かされたファリンが、文字通り見敵必殺してしまいました』
「そ……そんなはずないっ! あの優しいファリンがそんな、そんなことするはずない!」
ようやく自分を取り戻したのか、スピネルに向かって声を荒げるすずか。
『そうですね。ファリン自身もそんな自分が許せなかったようで、意思とプログラムの狭間でオーバーヒートを起こして、翔太の後を追うように機能停止してしまいました』
「……………………………え?」
機能停止。人間に例えて言えば脳死に近い状態になった。
『そんなあまりの事態にアリサとなのはは昏倒。ユーノは茫然自失ですね。どんな論理展開がされたのか、ひたすら"僕のせいだ"と繰り返していましたけど』
加速度的に被害が広がっていく。
『忍が事態を察知したのがその数分後。忍も大きく取り乱して、どうにか宥めるのにノエルも恭也も苦労をしていました。忍が落ち着いた後、唯一平静を保っていた私とケルベロスが忍達に経緯を説明しました。ファリンやノエルの身体の件はその時の話の流れで聞きました』
「………………」
事態の推移についていくのに必死なすずかは、黙って聞くことしかできていない。
『失意の中、忍は雀宮に連絡を入れます。冷静ならもう少し言い様もあったのでしょうが、憔悴していた忍が"私が翔太を殺した"と言ってしまいました。
そこで暴走したのが雀宮家の長女。名前は確かツルギと呼ばれていたでしょうか? どうやら彼女は翔太の事をかなり溺愛していたようで、間もなく月村邸に刀を持って乗り込んできました』
姉の危機と聞いて、すずかは青ざめる。
『半狂乱になった彼女は忍に襲いかかりました。当然ノエルと恭也は忍を守るために戦いましたが、事情が事情なだけに全力が揮えないこちらと、感情のまま刀を振るう彼女。
結果、ノエルは破壊され、恭也も瀕死の重傷を負います』
言葉にすれば一行で収まるが、実際はかなり凄惨な光景だった。ノエルは四肢を切断され内部機構は剥き出しにして倒れ、恭也は右腕を失い、体中に負った傷から血を流していた。
『遅れてやってきた雀宮の家族がギリギリで彼女を取り押さえたので、忍の身体は無事でした。……心の方は無事とはとても言えませんでしたが、ね』
「……っ」
すずかはもう言葉にならなかった。瞳から落ちる涙をぬぐうこともない。
『そんな中、昏倒から目を覚ましたのがアリサとなのは。気を失った時以上の酷い惨状に二人とも平静を失い、最後には"願いが叶う"と言われているジュエルシードに縋りました。
ですが、当然のことながら願いは叶わず、起きたのは魔力の暴走だけ。ジュエルシードから発せられた魔力は、街一つを飲み込み、飽和寸前のところまでいきました。あと数秒で街が灰燼に帰するところだったのですが、そこで午前零時を迎え、時が街に満ちた魔力を使って時を戻した、というわけです』
以上です。とスピネルが話を締めくくってもすずかは呆然とするだけだった。
『落ち着きましたか? マスター』
「…………ん」
スピネルが語った事実から、すずかは心は大荒れ状態だったが、しかしそれはやがて大波から小波へと至り、今は細波あたりに落ち着いたようだった。
「でも、本当にそんなことが……?」
ようやくまともに受け答えが出来るようななったすずかが、先ほどまでスピネルが語った"昨日"の事について詳細を聞きたがった。自身の死も衝撃的な事実だが、それ以外の出来事のおかげで、心に与えるインパクトがやや薄くなっている。
『ええ。嘘偽りも誇張もしていません。私もあそこまでの事態が起こるとは思いもしませんでした』
すずかの死から端を発した、悲劇の連鎖。終いにはジュエルシードの魔力暴走を引き起こし、海鳴が消えてなくなりそうなところまで被害が広がっていったというのだ。バタフライエフェクトもビックリの因果律だ。こんなこと予想できるはずもない。
『ですが、そのおかげで時が特殊能力を発動させるだけの魔力が得られたのです。時としても望外の出来事だったでしょうね』
「どういう、こと?」
スピネルの言葉にすずかは首をかしげる。
『私もケルベロスもマスターに言っていませんでしたが、クロウカードが事件を起こすのは、己が主に正しいかどうかを選定するための試練なのです。
中には主になる者に興味がなくて、好き勝手に遊びまわるカードもいるので一概に当てはまるわけではありませんが』
スピネルは小さく息をついて続ける。
『時はおそらく今回の主と相まみえる事を期待していたのでしょう。
ですがマスターは死んでしまった。本来であれば時は事前準備を行っていなかったので時を戻せないはずでした』
スピネルはここで初めてすずかに対して"死"という言葉を使った。今なら受け止められるという判断だ。すずかも大きな動揺は見せない。
『ですが、アリサとなのはがジュエルシードを暴走させたおかげで、時を戻すのに必要なだけの魔力が満ちた。そんな偶然の上に今がなり立っているというわけです』
「時間を戻すのに暴走したジュエルシードの魔力が必要だったということは、今回はもう時間が戻らないということ?」
『いえ、おそらくですが、時は今回の午前零時から魔力を貯めているはずです。かのカードであれば、一度動き出した以上は封印するまで活動し続けるでしょう。ですから、何もしなければ明日の午前零時に再び時が戻ります』
ここでスピネルは一旦息をついて、次の言葉の語気を強めた。
『同じ事が繰り返される可能性もありますから、その保険だろうと思います』
すずかはその言葉に疑問を覚える。
「何故? 魔法が使える人は時が時を戻しても記憶を継続できるのではないの?」
自分が覚えているためそう思うすずか。
『いえ、時の影響下にあって、記憶を保持できるのは月の魔力、つまりは銀色の魔力光の者だけです。翔太はマスターを死に追いやった事も、自分が殺されたことも一切覚えてはいないでしょう』
「そう、なんだ」
それを聞いてどこか安堵の表情を浮かべるすずか。
スピネルはそれを見て少しもやもやした気分になった。安堵したということは翔太が辛い記憶を保持していないことを喜んだということだ。悲劇の引き金を引いた翔太が全てを忘れ、被害者だけが覚えているこの状況。スピネルの内心としてはあまり気分のいいものではない。
だがそれを言ってもどうにもならないのでスピネルは話を続けることにする。
『ですから、同じ事を繰り返す可能性があります。マスターの正体を知らない彼は、いつ吸血殺しを使用するかわかりません』
「そうかも、しれないね」
吸血殺しと聞いて再び身を震わせるすずか。
『マスターがやらなければならない事は二つ。これから先、万が一にも翔太が吸血殺しを使う事が無いように、自身の一族の秘密を打ち明ける事、そして時を封印する事、です』
「…………うん」
すずかは少しだけ暗い表情を浮かべる。月村家が"夜の一族"という秘密を抱えているという事をいつか話さないとならない日が来るとは思っていたが、こんな唐突に来るとは思っていなかったからだ。
受け入れてくれるかどうか自体はあまり心配していない。すでに魔法だとか異世界だとかいった話もごく自然に受け入れている友人たちだ。翔太に至っては古くから付き合いの家系であり、受け入れられない心配はないと言っていい。
それでも万が一の事があるので二の足を踏んでいたが、今の状況ではそうもいっていられなくなった。
「…………うん、話すよ。みんなに」
『大丈夫です。受け入れてくれますよ』
淡々とではあるものの、励ますようなスピネルの言葉に強くうなずくすずか。
『それでは今は一旦休みましょう。どう切りだすかはまた朝になって――「すずかちゃーん、起きてますかー?」――おや?』
「ファリン?」
話を終わらせて休みを促そうとしたスピネルだったが、扉から顔だけを覗かせて部屋の様子を伺うファリンに、すずかとともに首をひねる。
「あ、やっぱり起きてました? 話し声が聞こえてましたから、もしかしたらと思って声をかけてよかったです」
ニコニコと笑顔を浮かべて入室するファリン。
「こんな時間に、どうしたの?」
時計は午前一時をさしている。基本夜型かつ、色々自由のきく大学生である忍なら普通に起きているが、だからと言って訪問するような時間ではない。
すずかの当然の疑問にファリンが答える。
「はい、こんな時間なんですが、白鳥さんと翔太さんがいらっしゃいまして、今忍お嬢様とお話をされています。とても深刻な感じで、しかもすずかちゃんに関係がある話とのことなので、起きているなら呼んでくるように申し付けられました」
「翔太くん、が?」
『記憶は保持できていないはずなのになぜ以前と違う行動を……?』
二人で顔を見合わせて疑問符を浮かべる。片方はふよふよ浮いている銀色の鍵なので見た目はシュールである。
「行かれますか?」
「うん、行く。でも着替えるから少し待ってもらってもいいかな?」
「はい、部屋着をご用意しますね。……それにしても、翔太さん私を見てビクってしていたのは一体何だったんでしょうか?」
ファリンの疑問にこの場で答えられる者はいなかった。